かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

追加版 渡辺松男の一首鑑賞  40

2015年04月24日 | 短歌一首鑑賞
 
渡辺松男研究2(13年5月)【橋として】『寒気氾濫』(1997年)20頁
      参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:鈴木 良明
      司会と記録:鹿取 未放

      ◆(後日意見)を追加しました。

40 秋の雲うっすらと浮き〈沈黙〉の縁(へり)に牡牛(おうし)は立ちつづけたり

     (レポート)
 秋の雲がうっすらと浮き、何と長閑な草原の風景か、と思って読むと、とんでもない。沈黙が生の力となって充満し、同じく生の力である牡牛をその縁に追いやり、立ちっぱなしにさせていたのである。たぶん、牛は時々啼くこともあり、草を食み反芻することもあり、その辺をうろつくこともあり、沈黙との関係でいえば、沈黙を出入りする存在であるから、当然、その「縁」に位置づけることになるだろう。(鈴木)


      (意見)
★これはニーチェですね。生あるものは自らの力を発揮しようとする、そういう世界観をニーチェ
 は持っている。月や太陽は引力とか遠心力によって均衡している。それに仏教的な考えを抱き合
 わせてイメージしていくと分かりやすい。(鈴木)
★すごく魅力的な歌なんだけど、私は解釈しづらかった。この強調された〈沈黙〉というのはどこ
 にあるんですか。(鹿取)
★作者が眼前の風景を目にしたときに何の音もしなかった。〈沈黙〉が支配している。そこにたま
 たま牛がいて作者が見たときにはたたずんでいるだけ。そういう場面に接したとき、風景の力と
 いうものを感じたのではないか。(鈴木)
★縁、っていうのは面白いですね。この間鑑賞したところではお父さんの背中が沈黙だったんだけ
 ど。ここでは風景そのものが沈黙していて、その縁に牛がいる。〈沈黙〉の縁というとらえ方が
 とても美しくて哲学的。私は秋の雲がうっすらと浮く風景の中で〈われ〉が沈黙していて、はる
 か向こうに立っている牡牛がずっと〈われ〉の視野に在り続けているって解釈していたんだけど、
 風景そのものが沈黙しているってとらえ方の方が大きくて魅力的ですね。(鹿取)
★沈黙に力があるっていうのがすごい解釈だなあ。沈黙の支配力というのは確かに感じることがあ
 る。(崎尾)
★耳の痛くなるような沈黙がありますね。それは空の思想に通じる。(鈴木)

         ◆(後日意見)(2015年4月)
 この歌を解釈するポイントは渡辺氏の作家態度です、自然物に対する親和感です。ここでは牡牛が主体なのです。人間の沈黙ではなく、牡牛の沈黙です。私たち人間が勝手に、牡牛の外界を、そこに草が生えている、鳥が飛んでいる、木がある、静かな風景だと、動物や草や木を分類したり区別したり、意味や価値を与えてしまって言葉化しますが、牡牛からみれば、のっぺらぼうの言葉以前の、沈黙した世界なのです。牡牛は、環境を変化させ移動して華々しく文明社会を築いたヒトと違って、生物存在の末端である縁(へり)でひっそりと変化なく、まるで太古の昔からじっと立ち続けたかのような存在である。牡牛を取り囲む外の世界は人間にとっては草原と名付けるべきものだが、与えられた生の営みを続ける牡牛にとっては関わりのない世界、言葉以前の世界、沈黙の世界である。同じく悠久の昔から変わりない秋の浮雲が、牡牛の存在を圧倒的なものとしている。(石井)