渡辺松男研究2(13年5月)【橋として】『寒気氾濫』(1997年)22頁
参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:鈴木 良明
司会と記録:鹿取 未放
◆印の(後日意見)を追加しました。
45 神でさえ弛んでおればぶよぶよのつぶしてみたき満月のぼる
(レポート)
バブル経済崩壊後の日本は、依然としてバブルの余韻から立ち直れない時期がしばし続いた。この時期の、いわば爛熟してただれたような日本の社会やその精神状態をぶよぶよの満月に見立てているように思う。すべてを統べることのできる神でさえ気を弛めておればこのありさまであると仮構しているが、神の居ない人間界ならなおさらであるとの思いだろう。その鬼灯のようなぶよぶよの満月をつぶしてみたい、との思いはリアルであり、現状に対する作者の率直な気持ちが顕われている。(鈴木)
(意見)
★ニーチェは「神は死んだ」って言ったそうですが、そうは言えないので「弛んで」と言ったので
はないか。(慧子)
★私は「神でさえ」は「つぶしてみたき」に掛かると思っていた。だから「弛んで」いるのは満月
の方。(鹿取)
★えっ、つぶしてみたいの主語は私ですよね?(慧子)
★神でさえ弛んでいるのだから、満月もぶよぶよになって昇ってきたということ?そんな満月を〈わ
れ〉がつぶしてみたいと思っている?「神でさえ」というところが分からない。「神は死んだ」
は、ニーチェは人間がいろいろ介入して神を殺したんだ、と言っているのよね。だからまだ神が
死んだことを知らない人間どもがどうのこうのとニーチェは批判している。(鹿取)
★余談だけど、月のおかげで地球の海は蒸発しないですんで、海のおかげで地球の生命は芽生えて
進化して来たわけだから、われわれは月にはものすごく恩恵を被っているんだけどね。(鹿取)
★バブルとか念頭におくと次の歌にも繋がっていって分かりやすいんじゃないか。(鈴木)
(後日意見)(2015年4月)
鈴木、慧子両氏の考えは「神でさえも弛んでいる」だから「ぶよぶよの満月」がのぼり、〈われ〉はそれをつぶしてみたくなる、という解釈のようだ。鈴木氏は更に「ぶよぶよの満月」をバブル経済崩壊後の日本の精神状態に見たてているという。『寒気氾濫』は1997年刊なので時期的にはバブル崩壊後ととれなくもないが、後から考えるとこの結びつけはやや強引ではないか。
私は弛んでぶよぶよしている満月がのぼった、そんな満月を見ると神でさえもつぶしてみたくなるのではないかと解釈したが、あまり自信はない。そこで歌の前後を見れば少しヒントが得られるのではないかと「かりん」掲載の90年から97年の号を遡って探してみたが掲載歌は見つけられなかった。〈ポケットベルに拘束されるわれの目に鬱々として巨大春月〉(「かりん」91年7月号)があったが、掲載歌とはかなり感覚が違う。この巨大春月の歌は『寒気氾濫』には掲載されていない。
『ツァラツストラ』でいえば神が死んだというあたりよりも「けがされない認識について」辺りが関連がありそうだ。この章では膨れて身籠もっているかのような月が昇ってくる。この月は何ものも産み出さない「偽善者」の例えとして使われている。(鹿取)
◆(後日意見)(2015年4月)
後日意見で鹿取氏が述べておられる通り、月は「偽善者」の例えとして使われています。以下、その内容を発展させた意見です。
人々によって権威をはく奪されてしまった神、そんな神ですら、情熱や創造性の象徴である太陽になろうと、懐妊したように振る舞い、大きく登る月は偽善的で潰したいものだろう。神はそれまで支配していたキリスト教的道徳観とともに、ニーチェによって否定された。「月」は『ツァラトゥストラ』によれば、「無垢な認識」「観照」ということばで規定されているもので、ひたすら客観性や公正を狙う近代の認識方法の寓意である、そしてその精神的態度を、ただ臆病な目で、大地を撫でまわす淫欲家と呼んでいる。権威のない神と、「無垢な認識」であり、客観性を信奉する月と比べて、まだ精神的なよりどころとして残っている神の方が、月をつぶせるぐらいの存在感があるのである。(石井)