かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

馬場あき子の外国詠272(中国)

2014年08月23日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の旅の歌【飛天の道】『飛天の道』(2000年刊)173頁
                    参加者:曽我亮子、F・H、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                    レポーター:渡部 慧子
                     司会とまとめ:鹿取 未放

212 馬乳子葡萄(まなえず)は飛天の嬰児(あかご)やしなひて蜻蛉(あきつ)にまじるその子かなしむ

      (まとめ)(2010年5月)
 この歌を読むと、211番〈ぽんと咲く蓮の花より生れたる童子よろこびて水に跳ねゐつ〉の歌の童子はこの飛天の嬰児だったのかもしれない。「馬乳子葡萄」は馬の乳のような形をした葡萄という意味の命名で、天山北路のオアシスあたりで栽培され、とても美味らしい。「まなえず」という音はいかにも赤ん坊の食べ物にふさわしくやさしい響きをもっている。「馬乳子」と「嬰児」はいわば縁語の関係になっているのだ。そのおいしい葡萄によって飛天の嬰児はすくすくと育ち、今や蜻蛉に混じって楽しそうに空を飛び回っているのだろう。壁画の中に、大人の飛天とともに嬰児の飛天や蜻蛉、馬乳子葡萄も描かれていたのだろうか。(鹿取)


          (レポート)(2010年5月)
 「馬乳子葡萄」を調べていたが、西域が原産である葡萄の類〈馬乳子〉(まなえず)なるものにゆきあたった。しかし片や葡萄、片や「飛天の嬰児やしなひて蜻蛉にまじるその子かなしむ」とあるように、人間としか考えられないのだが、次のような意味の〈マナ〉があることに留意したい。〈未開社会の宗教における非人格的、神秘的超自然力であり、人間・霊魂・動植物・無生物にこもって力を発揮する。〉(小学館 国語事典)このような観念を、同音である馬乳に託し人称化し、作者の想像力により「馬乳子葡萄」さんを存在させたと推測する。そしてその名の高い栄養価によって「飛天の嬰児」を「やしなひて」おり、嬰児は「蜻蛉にまじるその子」であり、空を飛んで蜻蛉とともに遊んでいるのであろう。結句「かなしむ」とは「愛しむ」であり、「哀しむ」であろう。幼い者をいとおしむ作者の心が重ねられている。(慧子)
 

      (発言)(2010年5月)
★「馬乳子葡萄」は人間の名前ではなくて、ぶどうです。葡萄はその栄養によって赤ん坊を養う訳
 で、全然おかしくないんじゃないの。(藤本)

馬場あき子の外国詠271(中国)

2014年08月22日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の旅の歌【飛天の道】『飛天の道』(2000年刊)172頁
                    参加者:曽我亮子、F・H、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                    レポーター:渡部 慧子
                      司会とまとめ:鹿取 未放


211 ぽんと咲く蓮の花より生れたる童子よろこびて水に跳ねゐつ

      (まとめ)(2010年5月)
 莫高窟の壁画の中にこういう童子の絵もあるのだろう。蓮はぽんと音をたてて開くとよく言われるが、蓮から生まれた童子が喜んで水に跳ねている楽しい図である。あるいは西方浄土の蓮の池に極楽往生をして誕生した童子がいて、それを祝う飛天が描かれている絵かもしれない。「よろこびて」の字余りになる「て」に含蓄がある。(鹿取)


          (レポート)(2010年5月)
 詞書きや題をともなっていないが、蓮華蔵世界の一事象、童子誕生絵図を見ての一首であろう。はちすの咲く音を聞きにゆくという巷の話もあるところから初句、二句はうなずける。三句から五句の鑑賞の前に、釈迦誕生説話を紹介したい。それは生まれてただちに歩き、天上天下唯我独尊とつぶやき、天を指したというものだ。これにちなんで、掲出歌の「童子」は「蓮の花より生れたる」や、すなわち「よろこびて水に跳ねゐつ」と理解したい。清浄な世界の象徴「蓮」から生まれ、煩悩に汚染されない仏性としての童子誕生図とは、これの世に生まれいづる全てを祝福する象徴図であろう。そう感受された作者の言葉「よろこびて」が輝いており、「水に跳ねゐつ」も童子に愛情をこめた物言いだ。(慧子)


      (発言)(2010年5月)
★お釈迦様は蓮の花からは生まれていないし、「天上天下唯我独尊」の話は紹介されなくても誰で
 も知っています。それから「童子誕生絵図」が莫高窟にあるんですか。 (藤本)

馬場あき子の外国詠270(中国)

2014年08月21日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の旅の歌【飛天の道】『飛天の道』(2000年刊)172頁
                        参加者:曽我亮子、F・H、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                         レポーター:渡部 慧子
                          司会とまとめ:鹿取 未放


210 ある飛天みれば髭ある美男なり空なるほかの棲みどころなき

      (まとめ)(2010年5月)
 莫高窟であまたの飛天の絵を眺めていると、女性だけではなく髭のある美男の飛天がいた。絵に描かれて空を飛ぶ飛天には空の他には棲むところはないのだ、そう気づいてこの美男の飛天にあわれを覚えたのだ。(鹿取)


          (レポート)(2010年5月)
 飛天と言えば天女を想像しがちだが、そうでもないようだ。たとえば薬師寺東塔水煙の飛天に両性があると、会津八一は『自注鹿鳴集』にことわり、「すゐえん の あまつ をとめ が ころもで の ひま にも すめる あき の そら かな」の一首を残している。掲出歌の天空を遊行しているらしい「髭ある美男」を「なり」と断定するのは差し支えもないが、「空なるほかの棲みどころなき」としているのは唐突な感じがする。何故導き出されたのか。思えば作者にはぎりぎりのところに生きる男性(雄ごころ)へ、まなざしを向けた作品がある。美男のかんばせに若い宗教者の悲痛な覚悟をみたのかもしれない。(慧子)

     (発言)(2010年5月)
★慧子さん、会津八一の歌は、男性の飛天を詠んでいるわけではないですね。そうすると「飛天
  に両性がある」というのは詞書きか、別の部分に書いてあるのかしら?馬場の歌の「空なるほか
 の棲みどころなき」は、素直な接続だと思いますが。(鹿取)

ありえーへん!残念なサンダル

2014年08月20日 | 日記


      完全に剥がれた左がわ             踵部分が剥がれた右がわ

ブログを公私に分割しようと検討しているが、今のブログを継続している事だけでも不思議なくらいこういうことは苦手な分野、いっこうに作業がはかどらない。

 ところで、昨日、買い物に出かけてありえーへんハプニングに見舞われた。
夕方、素足で履けそうなサンダルをつっかけて自宅から5~6分のスーパーに出かけた。何だか歩きにくい。そのうちにパコパコと妙な音がする。見ると左の靴底(といっても厚底だが)が剥がれかけている。ツッカケサンダルでも買って、履いて帰るしかないかと、とりあえずスーパーに入った。しかし、スリッパはあるが、土の上を歩けそうなツッカケサンダルは無い。

 踵から先について足を引きずるとどうにか歩けそうだ。何とか家まで持たせようと買い物もそこそこに店を出た。しばらく歩いていると何だか右側もおかしい。公園のベンチにたどりついて見ると、右側は踵の部分が縦に割れかけている。自宅まであと3分くらい、とにかく両足を引きずりながら歩き出した。しかし、あと1分くらいまで来た時、左側の底は完全に剥がれ落ちて、表の薄い皮いちまいになった。右もいっそ同じになればよいのに、こちらは踵部分だけが剥がれ落ちた。仕方がない、左足はペタンコ、右足は前に比重をかけてそーと歩いてやっと自宅にたどりついた。

 その間、お店で、道で、通りがかりの人が怪訝そうに、あるいは可笑しそうに私の足元を見ていたのはいうまでもない。せめて、出かけたのが近所のスーパーでよかった。

 このサンダル、考えたら履くのは2度目。買ったのは2年くらい前で、たまたま寄ったリサイクル屋さん。その時少しヒールの高いパンプスを履いていて足が擦れて痛かった。それで深くも考えずこれを買って履き替えて帰ったのだ。厚底なので娘に履かせようとしたが履かず、それっきり仕舞い込んでいたのだ。先日見つけて、もう履かないから捨てようと思って玄関に出していたのを、素足に履けそうと考えたのが浅はかだった。うーん、ありえーへん!

馬場あき子の外国詠269(中国)

2014年08月20日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の旅の歌【飛天の道】『飛天の道』(2000年刊)171頁
                        参加者:曽我亮子、F・H、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                         レポーター:渡部 慧子
                          司会とまとめ:鹿取 未放


209 無限連続飛天は空を泳ぎゐて回遊魚の青き悲彩漂ふ

      (まとめ)(2010年5月)
 莫高窟の飛天図を眺めていると、あまりにもたくさんの飛天が描かれているので無限に連続しているように見える。そしてそれが海を泳ぎ回る魚の青い悲しげな彩りの漂いのように感じられる。映像でしか見たことのない飛天の青が印象深い絵に悲しみをみた。(鹿取)

          (レポート)(2010年5月)
 「無限連続」は独立句。この大胆な破調と初句に珍しい表記は、作者がかつて見せた手法だが、多用を避けていて新鮮である。さらに一首全体を統一する力をもっているはずだ。
 さて作者の旅は、天山北路・敦煌の莫高窟内の飛天図を見ているらしい。飛天とは仏教伝達の願いを込めて空想されたものだが、キリスト教の天使と違って翼を持たず、ひれや風に身をゆだねている。生きとし生けるものは等価値の命を生きているという東洋的思想にある作者であろう。「飛天は空を泳ぎゐて」とは、比喩ながら「飛天」と「回遊魚」を近い存在と見ている。そしてそれらに一瞬の生を生きている私達も含めて「無限連続」にあるすべての感覚的色調を「青き悲彩」と言っていないだろうか。かくして存在すれば、生命活動すれば、それが「漂ふ」のである。また、よく据わっている結句は「漂ふ」という言葉のゆえか、初句の力のゆえか、「無限連続」へ帰って行く感があり、一首に小宇宙が見える。(慧子)


渡辺松男の一首鑑賞 120

2014年08月19日 | 短歌一首鑑賞

【夢解き師】『寒気氾濫』(1997年)67頁
                      参加者:泉真帆、鈴木良明(紙上参加)、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
                       レポーター:渡部 慧子
                      司会と記録:鹿取 未放


153 われの目をふかぶかと覗きこみてきし夢解き師の目潤みていたり

      (レポート)(2014年8月)
 夢をよくみる作者は「夢解き」をたのむことが多くあったのだろう。「覗きこみてきし」の「きし」を距離の移動ではなく、経験を含んだ時間経過と解した。夢解きの為に大切な心の窓なる目はふかぶかと覗きこまれてきたのだ。その見る側の夢解き師の目が潤んでいるという、なぜなのか。私達の夢も目覚めている時もそれは全て生の連続であって夢解き師などと名乗って生の一部分である夢を解くことのおこがましさをこの場で思い至ったのか。残念ながらこの先をつづれない。
  (慧子)


        (紙上意見)(2014年月)
 「夢解き師」(夢の吉凶を判じ解く人)は、夢占いよりも信頼できそうであるが、われの目を覗き「見る人」は、同時にわれに「見られる人」であり、その目が潤んでいた、とわれに見破られてしまったところが、可笑しい。(鈴木)


          (発言)(2014年月)      
★慧子さん、つづれないのは何故ですか?(鹿取)
★わからないからです。(慧子)
★手相見とか占い師というのは街角でよく見かけますが、夢解き師というのはリアルに存在するも
 のですか?(鹿取)
★フロイトの夢判断とかなら高校時代夢中で読みましたけど。夢解き師というのが現実世界では浮
 かばないのでこの歌は何か幻想的な感じがする。(鹿取)
★夢解き師は〈われ〉であるか、もう一人の〈われ〉であるか、あるいは神のようなものなのか、
 現実の世界で自分を起こしてくれた奥さんとか娘さんとかも考えられる。フロイトなのかとも思
 ったのですけれど。ユーモアよりも奥深いものを感じました。潤んでいたというのは、お互いの
 心の行き来を感じます。(真帆)
★夢解き師は依頼したのだと思う。その夢解き師の目が潤んでいたということは、夢解き師として
 の資格がないと思う。(曽我)
★私は目が潤んでいたというところにエロチックなものを感じます。男同士のエロスのような。フ
 ロイトの夢判断だと全てエロスに行き着くんですけど。真帆さんがいうような対象と自分が入れ
 替わるような、主格がわからなくなるような訳のわからなさも感じるのですが。(鹿取)
★こう考えると実も蓋もないけど、夢を見ている自分を起こして夢を解放してくれた人、自分を起
 こしてくれた奥さんの目がエロチックに潤んでいたとか。(真帆)
★いやー、まあ、それは違うでしょうね。(鹿取)


      (まとめ)(2014年月)
 会の場では思いつかなかったが、夢解き師は作者が掛かっている精神科の医師ではないか。こんな不思議な夢を見たと訴えていると医師は「われの目をふかぶかと覗きこみてき」たのだ。潤んでいたのは夢を解き明かそうとして懸命になっているからか。または性的な興味を抱いたからか。(鹿取) 

名刺を作ってみた

2014年08月18日 | 日記






 名刺が切れたので、いろいろ作ってみた。(写真は、わざとぼかしてあります。)


 今週末、「塔」の大会に座談会を聴きに出かけるので使ってみたいが、人見知りの強い私のこと、せいぜい2~3枚使えればいいところだろうか。


 ところで、かりん鎌倉支部の研究報告を載せる目的でブログを始めて1年余り、支部の活動報告と私的なことがらは分けた方がいいだろうとずっと考えている。私的なことがらは全て外してFBに直接書き込むか、全く別のブログを作るか。


 もっとも分類も境界線が難しい。いちばんすっきりするのは、支部の活動報告以外の歌の鑑賞等も全て別枠にすることなのだが。思案中である。


渡辺松男の一首鑑賞 119

2014年08月18日 | 短歌一首鑑賞

【夢解き師】『寒気氾濫』(1997年)65頁
                      参加者:泉真帆、鈴木良明(紙上参加)、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
                       レポーター:渡部 慧子
                      司会と記録:鹿取 未放

152 首をもぎとらるるごとき突風にもうれつに椎の老樹が匂う

      (レポート)(2014年8月)
 「突風」の苛烈を前に進めない、体を曲げるなどとそのときのようすを言うことがあるが、「首をもぎとらるる」とは身体的で新鮮である。一方椎の花時は独特な匂いを放ち、それにからめたられてしまいそうな感じさえする。掲出歌は椎と突風の二物の衝撃を「もうれつに」「匂う」として老樹の気骨とも言うべきもので、つなぎ納得させられる。(慧子)

             
    (紙上意見)(2014年月)
 歌全般にわたり表現の強さが際立っており、これが作者の持ち味である。150番の「凭れかかられてみるみる石化」やこの歌の「首をもぎとらるるごとき突風」「もうれつ」のような激しい言葉に、本邦雄の表現の痕跡をみることができるだろう。(鈴木)


(発言)(2014年月)
★本邦雄の『日本人靈歌』の中の有名な〈突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼〉
をまず思いました。前の石化してゆく歌も含めて本への返歌かオマージュなのかなあと。「老
 樹が匂う」って本のことなのかなと、ちょっと計算してみたら77歳ぐらいだから。「もうれ
 つに」の所からは抵抗感や反発への意志を感じました。反戦歌とも体制に対する反発とか組み込
 まれていくものへの反発とかを感じます。(真帆)
★本へのオマージュという見方はすばらしいと思います。本歌取りするってことは、そもそもオ
 マージュなんですものね。77歳の本は確かに老樹で、それでいて強烈な言葉の匂いを放って
 いた、私も吸い寄せられた一人だからよく分かります。(鹿取)

◆今回も本邦雄の「邦」の正字が出せていません。申し訳ありません。

やっとアサガオが咲いた

2014年08月17日 | 日記
        

 今や私の背丈よりも伸びたアサガオにやっと花が咲いた。
先週の大雨の後、小さな花芽を発見したが、昨日根元近くに咲いたのは破れ傘のように裂けていた。今朝も根元近い一輪は破れ傘だが、上の方に何とか形をなした三輪が開いていた。


 背丈の低い方が、微妙な色合いで咲き続けている。

      

 ところで、京都市在住の方の着物ブログに、お精霊さんへのお供物は蕗の葉に乗せるのが決まりだが、自宅の庭のヤツデの葉が我が家流、と書いていらした。私の田舎(綾部)では自宅の仏壇には半紙、お墓には大きな桐の葉を敷いている。これもどの地域まで桐の葉なのか、うちの近辺だけの習わしなのか、調べたことがない。来週帰省予定で、このお盆に帰らなかったせいか、お墓参りをしている夢を見てしまった。

渡辺松男の一首鑑賞 118

2014年08月17日 | 短歌一首鑑賞

【夢解き師】『寒気氾濫』(1997年)66頁
            参加者:泉真帆、鈴木良明(紙上参加)、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
              レポーター:渡部 慧子
             司会と記録:鹿取 未放


151 桐の花咲きしずもれるしたに来てどうすればわれは宙に浮くのか

(レポート)(2014年8月)
 「桐の花」の下。それは咲きしずもれる状態。そこに来た作者は「宙に浮く」てだてを思っている。咲きしずもれるという呪縛めいた空気感からのがれたいのか、あるいは高い桐の花の薄紫への思慕があるのか。思うにどちらでもなくてもっと他のこころもちかもしれない。こう思うのは「宙」という措辞によるのだろう。紫煙や高嶺の花などから想像される状態を越えたところに作者の思いはあろう。(慧子)


  (紙上意見)(2014年月)      
 本歌集は、1997年に上梓されているから、オウム真理教事件(1980年代末~1990年中期)の頃の時代も映しているだろう。主犯者麻原の空中浮揚が話題になっていたが、この歌も、それが背景にあっての歌だろう。桐の花の咲きしずもれる下で、宙に浮くことを揶揄しつつ、束縛から離れて自由になるとは、どのようなことかを考えている。(鈴木)


      (発言)(2014年月)      
★咲きしずもれるとあるので花はたわわに咲いているのだと思う。その下に来たときとても幻想的
 になったのだろうと。作者は自分も浮いてみたいと真剣に思ったのではないかと。あの花のとこ
 ろに行って実の中に同化していくことができないかと。(真帆)
★落ち着いた静かな所に来て、どうしたら桐の花に近づけるのかなと、希望でしょうか?(曽我)
★麻原のことは全然思い浮かべませんでした。私は白秋の歌を思い浮かべてしまいました。〈手に
 とれば桐の反射の薄青き新聞紙こそ泣かまほしけれ『桐の花』〉これは非常に繊細な歌で掲出歌
 とは直接関係ないですね。咲きしずもれるというと、やはり満開で、辺りには誰もいなくて、そ
 の下で静かに瞑想している、どうしたら宙に浮くのかと考えて。浮くことだけが目的で、例えば
 花に近づく為にとか死者に同化する為にとかは考えなくて。(鹿取)