かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

馬場あき子の外国詠276(中国)

2014年08月27日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の旅の歌【李将軍の杏】『飛天の道』(2000年刊)175頁
               参加者:Y・I、T・K、曽我亮子、T・H、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                レポーター:T・H
                 司会とまとめ:鹿取 未放

*219~222番歌の李広についての記述は、本史氏の小説『飛将軍李広』や Wikipediaの記事等を参照した。ちなみに、本史氏は  本邦雄の御子息である。
     
216 鳴沙山を静かに上る秋の月砂のみを照らし来しおそろしさもつ

      (まとめ)(2010年6月)
 厳密に言えば、もちろん月は地球全てを照らしているのであるが、そして砂漠にもオアシスがあり、建物もあるのであるが、鳴沙山のふもとに立つ旅行者の気分としては「砂のみを照らし来し」という感じなのだろう。戦争の絶え間ない荒涼とした沙漠の月をうたった漢詩も古来作られているが、この歌、もっと殺伐としている。大自然の深淵にコミットした精神が感じたおそろしさなのだろう。

     
      (レポート)(2010年6月)
 鳴沙山は、莫高窟がある背後の砂山である。時は秋。先生はそこからしずかに上がってくる大きな月をご覧になって、「砂のみを照らし来しおそろしさもつ」と言われる。なぜ「砂のみを照らし来し」月は「おそろしさ」をもつのであろうか。
 鳴沙山は全山細かい砂でできていて、その砂は、止まるところを知らず、四六時中、さらさらと莫高窟に降り注いでいるそうだ。「鳴沙山を静かに上」ってきた月は、莫高窟をも隈無く照らしていたであろうに…先生は「砂のみを照らし来し」月と言われる。そしてそれが「おそろしさもつ」とは、どういうことなのだろうか。天体はこの地球に生命をもたらすものである筈。しかし今、この敦煌で見る秋の月は、植物一つ無い砂山である鳴沙山を照らしてきた。そこには命は感じられない。そこに「おそろしさもつ」の意味があるのか。(T・H)


      (発言)(2010年6月)
★恐怖ではなく、畏敬の念を伴った恐ろしさ。(T・H)
★孤独に耐える強さをもった月(曽我)

コメント   この記事についてブログを書く
« 馬場あき子の外国詠275(... | トップ | 塔60周年記念全国大会公開... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

短歌一首鑑賞」カテゴリの最新記事