かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男『寒気氾濫』の鑑賞② レポート

2013年06月11日 | 短歌の鑑賞
 ○かりん鎌倉支部でのレポートと記録の順で載せています。

 ○歌の作者や引用している方々に極力失礼のないよう発言しているつもりですが、
  もし失礼がありましたらご指摘下さい。

 ○記録者である私とは違う意見も載せています。また会員の意見が常に一致する訳ではない
  ので、各論を並列して載せています。

 ○お読み下さった方の忌憚のない御批評をお待ちしています。


   渡辺松男研究  2(13年2月)『寒気氾濫』(1997年)地下に還せり
                                           報告 鈴木良明
9   八月をふつふつと黴毒(ばいどく)のフリードリヒ・ニーチェひげ濃かりけり
 ニーチェの肖像写真には彼の思想の一端を垣間見ることができる。ニーチェは強度の近視のため、絵画など視覚に訴えるタイプの芸術には関心を欠いていたが、自分自身を被写体にした肖像写真には大層興味を示した。写真がまだ安価とはいえない時代に、髭をはやし始めた大学時代以降、様々なポーズで頻繁に写真を撮っている。髭の濃さは半端ではなく、鬱蒼として暑苦しい攻撃的な口鬚。髪も眉も口髭も生来やわらかく明るい褐色であり、肉体も繊細でしなやかで女性的な容姿なのに、本質を過剰に埋め合わせるような鬚である。八月という季節もその過剰な髭にふさわしい。作者は、ニーチェの相矛盾した過剰な面に共鳴し、自己に重ね合わせて、第一歌集の冒頭歌として配置したのではないか。なお、ニーチェの精神錯乱と進行生の麻痺の原因については、二十世紀前半までは黴毒説が有力だったが、これが原因だとほとんどが三年以内に死亡しており、ニーチェは十一年後に死亡したので、現在は支持されていない。

10 筋肉の時代が消えたわけでなくジャッキを上げる弟の腕
11 トラックを多汗実行型と笑みなみなみと給油なしたる男
12 おみなには吃る弟がトラックの巨きさとなりきりて飛ばすよ
13 嬬恋のキャベツを運ぶトラックが光芒のなかを過ぎてゆきたり
 作者は、あとがきに書いているように、自然との関わりを大事にする一方で、社会との関わり、特に社会を下支えして働いてくれている人々に対する思いを大事にしている。この四首は、家族の「弟」に関連づけて詠んでいるが、実在の弟を詠んでいるというよりは、肉体労働が精彩を放っていた時代に働く人の姿を「弟」に重ねて(あるいは「弟」の名で)詠んだものだろう。そのほうが、作者の実感をリアルなものとして歌に乗せやすいし、読者もその生の実感をリアルに受け止められるからである。筋肉の時代―遠い古代の時代だけでなく、日本においても戦後復興の象徴として、肉体がものを言い、ダンプカーなどの大型トラックが盛んに行き交う時代が確かにあったのである。「ジャッキを上げる弟の腕」「多汗実行型」「なみなみと給油」「トラックの巨きさとなりきりて飛ばす」「トラックが光芒のなかを過ぎて」などの言葉から当時の状況がリアルに浮かんでくる。しかし、作者は単にそのような出来事の回想を歌にしたいと思っているのではない。肉体とは何か(精神とはなにか)、この問いが根本にあるのである。そのために、これらの歌からは眩しいほどの肉体の輝きが感じられる。ニーチェは「わたしはまったく身体であって、それ以外のなにものでもない。身体はひとつの大いなる理性である。精神は小さな理性であり、身体の道具である。」(ツァラトゥストラ)と言っている。

14 土屋文明さえも知らざる大方のひとりなる父鉄工に生く
15 もはや死語となりておれども税吏への父の口癖「われわれ庶民」
  この二首は、前四首と同じように、家族の「父」に関連づけて、民衆(庶民)の姿を詠んでおり、自らも庶民の子であることの表出でもある。ニーチェは、牧師の長男として生まれ、当時の上層階級に属するため、「私は高められているがゆえに下方を見下ろす」(ツァラトゥストラ)という視線が常にあるが、作者のはあくまでも対等な視線である。「土屋文明さえも知らざる」は、父たちへの侮蔑ではなく、より大事な実業の「鉄工に生く」という自負なのである。その反面、民衆は、「われわれ庶民」という言い方で、何かにつけ群れをなし、それに甘んじる心(ニーチェが嫌った)を併せ持っているのである。
    
16 そうだそのように怒りて上げてみよ見てみたかった象の足裏
 象の大きな体を見ていると、その過剰な重力の重さに日々耐えながら一生を終えるように思えてくる。飛ぶことのできない人間も同じように重力に拘束されており、人間に対するメッセージでもある。重力に耐えているのではなく、内からの生の力にしたがい、あらがって足を上げてみよ、というのである。ニーチェは「高等な人間について」のなかで、「そなたたちの心を高めよ、わたしの兄弟たちよ、高く!もっと高く! そして願わくは足のことも忘れるな! そなたたちの足をも上げよ、そなたら良い舞踏者たちよ」と呼びかけている。しかし、象に対しては「幸福のなかにあっても鈍重な動物たちがいるものだ、生まれながらにして足の不格好な動物たちがいるものだ、逆立ちしようと骨折するゾウのように」とにべもない。これに対して、作者は、「見てみたかった象の足裏」と、象に対してもエールをおくる。ニーチェを肯いながらも、決してニーチェのように上から目線にならないところが、作者らしいのである。

17 十月のまぶしきなかへひとすじのああ気持ちよき犀の放尿
 たぶん作者が自らの山歩きなどで体験した感覚を詠んだものだろう。野外でひとり、一〇月のまぶしき光に向かって誰にも気兼ねなく放尿する快感。男ならではのものかもしれないが、体の大きな「犀」の放尿とすることで、その爽快感が高まるばかりでなく、孤独の象徴としての「犀」の独り生くよろこびを、作者自身の実感に重ね合わせて詠んでいる。ちなみにニーチェは脱ヨーロッパの視点から、竜や象など東洋的な動物を比喩として用いているが、孤独の象徴としての犀もそのひとつ。

18 重力をあざ笑いつつ大股でツァラトゥストラは深山に消えた
 ツァラトゥストラ(ニーチェのこと)は「重力」に逆らって山頂をめざす。そして最高の山頂に立つ者は、すべての悲劇と悲劇的厳粛を嘲笑するのである。ツァラトゥストラは、山で孤独な生活を送りつつ悟ったことを、山を降りて民衆に説く。4部構成の『ツァラトゥストラ』は、このようにして、山と里とを往復しつつ思想を深めて民衆に説く構成になっている。作者は、子供の頃から山に入り、長じてからも山歩きをしている。ツァラトゥストラに自らの姿を重ね合わせて詠んでいるのだろう。

〈参考:ニーチェの略歴〉
・1844年   ―プロイセンに牧師の長男として誕生(父は5歳のとき逝去)
・69(25歳)― バーゼル大学員外教授(翌年正教授昇任したが、79年健康不良で退職)
         翌年7月、普仏戦争開始。従軍の義務がないのに看護兵として従軍。
         赤痢などに感染し、半年以上に及ぶ療養。これを契機に以後健康不良。
・80(36歳)―89(44歳)まで 養生にふさわしい場所を求めて漂白、著書多数
・89(44歳)―発狂(以後十一年間 廃人)  1900(55歳)―肺炎で死去

 

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