dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

ダンス・フィルム・ヴァリエーション/Kプログラム:アヴァンギャルド・ニューヨーク

2009-09-29 | ダンスとか
渋谷・イメージフォーラム。
▼『パラファンゴ Parafango』(キャロル・アーミテージ、監督/チャールズ・アトラス、1984年)
▼『めまい Vertige』(キャロル・アーミテージ、1980年)
▼『アンディ・ウォーホルのエクスプローディング・プラスティック・インエヴィタブル Andy Warhol's Exploding Plastic Inevitable』(出演/ニコ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、1967年)
『パラファンゴ』はNY時代のアーミテージのパンク・バレエ。マイケル・クラークや、フィリップ・ドゥクフレ(!)がダンサーとして出演している。超激しくて楽しいのではあるが、激しさから来る動きの崩れ具合というのはもっともっと開発の余地があるんではないかと思いながら見ていた。あと、あからさまにカニンガムの動きが入っている部分が結構あった。映像作品としては、無関係なシーンが入り乱れる典型的に「ポストモダン」な感じのもの。『めまい』はアーミテージとギタリストのセッション。アンディ・ウォーホルのが素晴らしかった。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのライヴ会場の様子を極端なコマ落としで見せるもので、照明がチカチカしているために一コマ(一瞬)ごとに光の加減や色彩がドラスティックに変わる。特に人の顔をアップにしているところなどはウォーホルのあのシルヴァースクリーンを連想させ、ああウォーホルって普通の意味で「良い」のかもと初めて思えたような気がした。
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Junko Okuda 『骨の記憶 -第1章-』

2009-09-29 | ダンスとか
銀座小劇場。
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TOKYO京劇フェスティバル2009/中国国家京劇院 「水滸伝『三打祝家荘』」

2009-09-29 | ダンスとか
池袋・東京芸術劇場(中ホール)。
子供の頃に学校の行事で見させられ、とにかく音が騒々しいので苦手意識が植え込まれてしまっていた京劇を初めて自発的に見に行く。大半を占める会話劇の部分はひたすらわかりやすいが説明的なばかりではなく、衣装の一部としてあらぬところからぶら下がっていたり突っ立っていたりする様々なデヴァイスが細かな身振りを大胆に増幅し、また思い切り様式化された役者の動きも面白く見られた。立ち回りのシーンは戦闘の形を借りていつつも複数の身体がシンフォニックに展開しては小気味良く収束する。
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ダンス・フィルム・ヴァリエーション/Jプログラム:ジャズ・イン・ザ・ボールルーム

2009-09-28 | ダンスとか
渋谷・イメージフォーラム。
▼『ジャミン・ザ・ブルース Jammin' the Blues』(監督/ジョン・ミリ、出演/レスター・ヤング、ハリー・エディソン、マーロウ・モリス、シドニー・カーレット、イリノイ・ジャケット、バーニー・ケッセル、ジョー・ジョーンズ、マリー・ブライアント、ジョン・シモンズ、アーチー・サベージ他、1944年)
▼『ストーミー・ウェザー Stormy Weather』(ニコラス・ブラザーズ、監督/アンドルー・L・ストーン、1943年、抜粋)
▼『ハーレムは天国だ Harlem is Heaven』(ビル・ボージャングル・ロビンソン、監督/アーウィン・フランクリン、1932年、抜粋)
▼『ラプソディー・イン・ブラック・アンド・ブルー A Rhapsody in Black and Blue』(ルイ・アームストロング、監督/オーブリー・スコット、1932年)
▼『ブラック・アンド・タン・ファンタジー Black and Tan Fantasy』(デューク・エリントン、フレディ・ワシントン、ホール・ジョンソン合唱団、コットン・クラブ・オーケストラ、監督/ダドリー・マーフィー、1929年)
まず『ジャミン・ザ・ブルース』。ダンスよりもジャズメンたちのセッションが主ではあるが、こんなカッコいい映画があったのかと感動。真黒い背景に絶妙な照明で身体と楽器と紫煙が浮かび上がり、アングルと構図が次々と鋭角的に切り替わる。10分ほどの短編ながら強烈な世界観を感じる独特の映像表現。ニコラス・ブラザーズはアクロバティックなタップで、様々な段差を利用してダンサーおよびカメラが激しく上下移動したり、奥行きが活用されたりする辺り、アステアが激賞する所以かなと思った。それよりビル・ボージャングル・ロビンソン。左右に五段ずつの階段が付いた山型のオブジェ(どこへも通じてはいない階段、いわば純粋階段)を昇ったり降りたりしながらタップを踏むところを、真横からミディアムショットで映していたりするのがすごく面白い。なぜタップに階段が必要なのか?それは足が昇り・降りしようとする際、重力と筋力のバランスの変化、そしてもちろん「上下」に加え「前後」の足の移動が入ることで必然的にステップの「拍」が変化し、リズムに幅が生まれるからだ。さらにいえば昇りと降りでは重力の関係からリズム構造にも違いが出る。人間の筋肉のはたらきと、他ならぬ「音楽」とが、こんなにも生き生きと地続きになれて、しかもそれがこうも歴然と目に見えるというその事実に驚喜する。『黒と茶の幻想』は、エリントンの演奏で踊る踊り子がなぜか舞台袖で具合が悪くなって、一応踊ろうとするけどダメで、エリントンの部屋に担ぎ込まれ、ベッドの周りでバンドが『幻想』を演奏する祝祭的なムードに包まれながらそのまま昇天してしまう異様な筋書。病める舞姫。最後の『スピリット・ムーブス The Spirit Moves』はDVDで出てるやつなのでパスした。
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Dance Triennale Tokyo 2009

2009-09-28 | ダンスとか
青山円形劇場。
▼フランク・ミケレッティ/クビライ・カン・アンヴェスティガシオン 『Espaco contratempo』
Frank Micheletti/Kubilai Khan Investigations, Espaco contratempo
このグループを見るのは三度目。2004年に見た『Mecanica popular』のように、政治的なテーマを感じさせる面があり、だから今回も「共鳴の地図を描く(Draw a map of resonance)」というプログラムノートの書き出しから、どんな「空間」が展開するのだろうと期待した。でも見ている間ずっとタイトルを Espaco contemporaneo だと勘違いしていた。単なる共時性ではなく、偶発的で予測不能なことが起きる空間という意味なのだろう。エレクトリックギター奏者が中央にいて、ダンサーは男性二人。初めにミケレッティが床から伸びた糸をギターの弦を通して空中に張り渡し、それを弾いて音を出した時、「空間」をすごく感じさせられた。けれどもその後はすごく普通の即興セッションになった。これを contratempo というのは、いかにも簡単なことのように思えた。
▼キム・ヒジン/モム・カンパニー 『Memory Cell』
Hee-jin Kim / MOM.Compagnie, Memory Cell
振付・出演/キム・ヒジン、リュドヴィック・ギャルヴァン(Ludvic Galvan)
長身の女性と、中肉中背の男性のデュオ。端正に作られたヌーヴェル的な動きで一方が他方を追いかけたり、ちょっとドラマっぽくなったりする。女性はしっかり踊れるが、男性が……こういう時、日本だったら「キャラ」という方向へ行くわけだけど。たとえ同じ振りを踊って差異が明白になっても、滅多なことでは身体的条件を「個性」などとはいわないのがヨーロッパの保守本流だと思った。ヨーロッパで、小さいダンサーもいるグループ、例えばローザスやピナ・バウシュにしても、「踊れない」ことを売りにする人はいなくて、むしろいかに身体的条件をカバー(または克服)するかという方向にエネルギーを注ぐ。
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小川水素:Homage to [a] Life 2009 『Stand!』

2009-09-28 | ダンスとか
NEO COLLECTION 2009

日暮里・d-倉庫、公開ゲネ。
RAFTでやっていたこのシリーズはずっと気になっていて、いつも日程が合わずに見逃していた。今回「公開ゲネ」という設えのおかげでようやく見れた。全面的に無音。タイトルの通りに、五人の出演者がずっと立ち続けていて、やがてポロポロと位置を変えたり、その移動する動きがより連続的な動きになっていったりする。あるいは壁に寄り掛かった姿勢のキープと、変化。さらにはボールをパスし合う行為など。あからさまにジャドソン的な作業なのだけど、真面目すぎて、見ている側としては好奇心が持続せず忍耐モードになる。ジャドソンの人たちっていうのはもっと「遊び心」というか、ふざけてしょうもないことをやってるんだというメンタリティがあり、わざわざ見に集まって来る観客たちにもキャンプ趣味というものがあって、小さいことに関心を集中させたり退屈を楽しんだりする一種の「気分」が共有されていたんじゃないかと思う。遊びの感覚というのは突発的なひらめきや逸脱をもたらしてくれるものだと思うし、観客の視線との相乗効果(共犯関係)が最もよく発揮される局面でもあるに違いないが、それを捨てるとなると、残るはガチの知性で勝負ということになる。そしてガチの知性は、だいぶ終盤に近づいた頃、一人のダンサーが舞台上を一定速度で歩き回り、それを脇からもう一人がずっと追尾して行って、さらに追尾する人が二人三人と増えて行くシーンではっきりと輝いていたように思う。追尾する側が最終的に五人に達すると、舞台空間の制約から、大きくうねる集団によって一人目のダンサーが動ける範囲が狭められる。「運動」は、雪だるま式に肥大したために、もはや最初の頃のようには自由ではない。導いていた側(リーダー)が、追随する集団(フォロワー)によって逆に行動を規定されるようになり、ひいては集団の中に呑み込まれて、誰が主導権を握っているのかすら見えなくなっていった。即物的な現象というよりは少し演出が加えられているようにも思えたが、これを見ながら、「組織論」「集団論」というのは振付家の重要な仕事であり得るんだと気付かされ興奮を覚えた。この領域、いま誰もやってないんじゃないかと思う。
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ダンス・フィルム・ヴァリエーション/Iプログラム:伝説のスターダンサーたち

2009-09-27 | ダンスとか
渋谷・イメージフォーラム。
▼「カルメン・アマヤ・フォーエバー」(編集/シネマテーク・ドゥ・ラ・ダンス、1998年)
『フアン・シモンの娘 La Hija de Juan Simon』(1935年)
『Oのマリア Maria de la O』(1936年)
『ファンダンゴの魔術師 El Embrujo del Fandango』(1941年)
『ジプシーのダンス Danzas Gitanas, Original Gypsy Dances』(1941年)
『SEE MY LAWYER』(1945年)
『夜の音楽 Musica en la Noche』(1955年)
『FOLLOW THE BOYS』(1944年)
『DANZAS GITANAS』(1941年)
『LOS TARANTOS』(1963年)
▼「ジョセフィン・ベーカー:1926年−1939年のアーカイブ」(編集/シネマテーク・ドゥ・ラ・ダンス、1998年)
『トムソン・ジャズ・オーケストラとのバナナのダンス』(1926年)
『Les Hallucinations d'un pompier』(1927年)
『プランテーション』(1927年)
『ジョセフィン・ベーカー』(1926年)
『Ring de Coliseum』(1931年)
『裸の女王 Zouzou』(監督/マルク・アレグレ、1934年)
『サン=ラザル駅の公演』(1936年)
『タムタム姫 Princesse Tam Tam』(監督/エドモン・T・グレヴィル、1935年)
▼「サミア・ガマル エジプトのオリエンタル・ダンス」(編集/シネマテーク・ドゥ・ラ・ダンス、1998年)
いかにも「シネマテーク」という感じのプログラムで狂喜。まずカルメン・アマヤを初めて見る。力強く高速で叩き出されるサパテアードはほとんどタップみたいな細かさで、いわゆるフラメンコのイメージとは相当違う。上体や腕も複雑に動くしカスタネットもすごいグルーヴ。とても一度に全部を受け止め切れない。晩年の映画の中の踊りに至ってはもう壮絶なテンションで全身が「噴火」している。ジョセフィン・ベイカーもこうしてじっくり見るのは初めて。迫力のある体でコメディをやるので愉快ではあるものの、単に踊り手として見てしまうと、まあ別に、という感じ。サミア・ガマルは50年代のエジプトのコメディ映画やミュージカル映画からの抜粋集。オリエンタルダンスというのはベリーダンスともまた違うみたいで、水平方向に胴を揺することはなくひたすら体をくねらせているのだが、あまり印象に残らなかった。どの映画でも同じ笑顔を常にキープしていて、典型的な「セックスシンボル」の風情。
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Dance Triennale Tokyo 2009

2009-09-27 | ダンスとか
▼エステル・サラモン 『Dance #1/Driftworks』
Eszter Salamon, Dance #1/Driftworks

表参道・スパイラルホール。
ハンガリー出身でドイツで活動している振付家。女性によるデュオ。昼の神村&手塚に続いて「状態」系というか、見るのに特殊な集中力を要するパフォーマンス。疲れる…。床にうつぶせになった状態から、それぞれが小さな律動を体に起こしながら、姿勢や互いの関係を変化させていくのが前半。後半は二人ともが声を出してイライラしながら動き回る。原則や原理(これはどういうパフォーマンスなのかというコンセプトあるいはルール)がなかなか見えず、それをあれこれ推測し続けて時間がどんどん経ってしまうのはちょっと空しい。むしろそれをわかってしまった上で、楽しんだり味わったりということがしたい。とはいえ全部終わってしまっても一貫した何かを把握するのは難しかった。プログラムノートには「表現というものが、登場人物やその心理状態の再現=表象よりもむしろ内的でフィジカルな構成の作業から生じてくる」と書かれていたけど、二人のパフォーマンスは、少なくともぼくの目には「フィジカル」であると同時に多分に「文化的」「歴史的」にも条件づけられているように見えた。限定詞なしのフィジカルな「身体」一般、あるいは代理表象や言語活動(象徴界)から切り離された感覚的経験の束みたいなものをそれ自体として掘り下げていくということが、本当に可能なんだろうか(動物や狂気などといったフラットな状態に陥る以外に)、ということを考えた。むしろ、そうしようとすること自体、ものすごく観念的な(言語活動と深く関わった)作業であらざるを得ないんじゃないか。
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実験ユニット 『毛穴の高気圧』

2009-09-27 | ダンスとか
吉祥寺・Art Center Ongoing。
出演/神村恵、手塚夏子
イスに座って向かい合い、ゴチャッとモノが置かれたテーブルを挟んで、雑談。目が悪いことについて。同じようなことを何度も、台本なしでしゃべるうちに、体が「余計な」動きをし始める。ストレスとフローがせめぎ合ってヘンな方向に不安定なエネルギーが出力されてしまう、という具合だろうか。体の状態はどんどん変わる。つい話している方に目がいってしまうので、途中から、聞いている方に注目するように意識してみた。話している時の体、聞いている時の体、あと、考えている時の体。モノをさわったり動かしたりするのなどが互いにキューになっているのだと後から聞いた。タイマーが鳴るやいなや神村が走って逃げ出し、手塚がそれを取り押さえようとする解体社みたいなシーンの緊迫度はすごかった。その後は裏に引っ込んでしまった神村からの指示に従って手塚が動く。神村が出て来て、録音した声に従って自分もやる。そしてまた最初と同じような話をしながら、上り階段と下り階段に分かれて互いに遠ざかっていく。
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ダンス・フィルム・ヴァリエーション/Hプログラム:ドイツ表現主義舞踊とダンス・リーブル

2009-09-26 | ダンスとか
渋谷・イメージフォーラム。
▼「ドイツ表現主義舞踊」(編集/シネマテーク・ドゥ・ラ・ダンス、2000年)
『魔女の踊り Danse de la sorciere』(マリー・ヴィグマン、1929年)
『セレナータ Serenata』(グレート・パルッカ、1937年)
『墓標 Totenmal』(マリー・ヴィグマン、1929年)
『永遠の輪 Eternal Circle』(ハラルド・クロイツベルグ、1952年)
『パントマイムのダンス Tanzerische Pantominen』(ヴァレスカ・ゲルト、1925年)
『不安 Angoisse』(ドーレ・ホイヤー、1963年)
『L'Amour』(ドーレ・ホイヤー、1963年)
『ダンス・スタディー Tanzstudie』(ドーレ・ホイヤー)
▼「ダンス・リーブル」(編集/シネマテーク・ドゥ・ラ・ダンス、エリザベス・シュワルツ、2000年)
『クロノフォトグラフィー Chronophotographies』(エチエンヌ=ジュール・マレー、1890年)
『カップ・ダンティーブのマーガレット・モリス Margaret Morris au Cap d'Antibes』(1936年)
『音楽的瞬間 Moment musical』(監督/ジョージ・R・バスビー、振付/ロイ・フラー、1934年)
『子供たちの練習 Exercices d'enfants』(マーガレット・モリス、1936年)
『ボール遊び Ballspiel』(イサドラ・ダンカン、1971年)
『海の踊り子たち Les Danseuses de la mer』(監督/ジャン・パンルヴェ、1960年)
『ロシアのアーカイブ Archives russes』(出演/エレン・ラバネック学校、アンサンブル・ダンカン、スポーツ協会「Sokol」、1913-1935年)
『イサドラ・ダンカンのダンス Isadora Duncan dansant』
『力と美への道:近代体育についての映画 Le Chemin vers la force et la beaute』(監督/ヴィルヘルム・プラーガー、出演/レニ・リーフェンシュタール、ジャック・デンプシー、ジョニー・ヴァイスミュラー、1925年)
『運動とダンス Exercices et danses』(監督/マッジ・アトキンソン、再構成/アニタ・ヘイワース、フロッソ・フィスター)
『バッハの大パッサカリア La Grande passacaille de Bach』(ジャニーヌ・ソラーヌ、1948年)
『イレーヌ・ポパールの学校 L'Ecole d'Irene Popard』(1936年)
『ウォーター・スタディー Water Study』(イサドラ・ダンカン)
『ロサリア・フラーデックのダンス Danses de Rosalia Chladek』(1925-1953年)
『さよならそしてありがとう Abschied und Dank/Au revoir et merci』(マリー・ヴィグマン、1942年)
『タンゴ Tango』(リサ・ダンカン、ジョルジュ・ポミエ、1932年)
『セレナータ Serenata,』(グレット・パルッカ、1937年)
『青い夜 Soir Bleu』(ビルギット・オーケソン、1965年)
ドイツに関しては特に印象が変わるようなことはないがひたすら見る、とにかく見る。「ダンス・リーブル」=フリーダンスはフラーやダンカン以降を緩やかにまとめたもの。マレーのクロノフォトグラフィーは連続写真(パラパラ漫画のような)なのにフィルム→ヴィデオ→DVD→スクリーンという複雑な回路を通して見ているこの状況自体が面白いし、『海の踊り子たち』はヒトデの生態を映したものだったりして、何だか見ているうちにだんだん「ダンス=動き」を見るということの根源にふれているような気にさせられる不思議なアンソロジーだった。児童舞踊とか、素朴極まりないドイツの踊り、そして有名なダンカンの映像のあの非情なまでの短さ(画面奥に向かってわずか二三歩ステップを踏んだ後、両手を拡げて斜め手前にターンして来たかと思うとすぐに木の幹に隠れてしまい、再び似たようなシークエンスが繰り返された後は、もう踊り終わって観客に向かってお辞儀をしている)、こういうものを続けて見ていると、どうしたって取り戻すことはできない過去の時間の遠さを感じると同時に、これらの動きにその時代の人々はいったい何を見て、何を感じていたんだろうということを思った。つまり時代に応じてダンスというものが担う漠然とした象徴性というものがあると思う。それは何よりも見る人の知覚を左右しているし、そもそもそのダンス自体が既にその象徴性の働きのもとに踊られているに違いない。例えばダンスが「速度」の象徴であるような時代。あるいはダンスが「秩序」の象徴であるような時代。「一回性」「生命」「時間」「線」「共同体」「力」「美」「エロティシズム」「情動」「荒々しさ」「自然」等々。「男性」ないし「女性」がダンスの中心を占めることもあれば、「大人」ないし「子供」であったりもする。一見何も語らないダンスほどイデオロギー的な場所はないと思う。
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Dance Triennale Tokyo 2009

2009-09-26 | ダンスとか
青山円形劇場。
「トライアル×4」
▼木野彩子 『IchI』
縦方向に隙間のある黒い木の板塀で囲まれた空間を中心とした男女デュオ。舞台下手ではヴァイオリン、チェロ、パーカッションの演奏がある。塀の感じが何となく「江戸」ないし「京都」を連想させたがそういう要素は別にない。男がメインで、隠れたところから女にいじられる。
▼今津雅晴 『still life』
裸足で、両手にダンスシューズをはめ、たくさんの靴に囲まれた畳の上でバレエっぽい足の動きの稽古をするところなど、足をめぐる「異文化」性のようなテーマが見えた。こういうのは緻密にリサーチしたら絶対面白いと思う。
▼キム・ジェドク 『Darkness PoomBa』
Kim Jae-duk, Darkness PoomBa
先月ソウルに行った時に非公開のショーイングで見た彼の『Joker's Blues』がやたらと面白かったため、今回密かに期待していた。明らかに今までの韓国のダンスとは違う。ダンサーは男5、女2で、語彙は基本的にアカデミックなのだが振付はあくまで泥臭くてワイルド。男も女も無頼な雰囲気を漂わせ高い身体能力を発揮しつつ全力で踊りまくる。さらに客席内に立てられたスタンドマイクでパンソリが歌われ、途中から舞台上でギター、ベース、ドラムスの演奏が始まるとパンソリとロックが融合し、ジェドク自身も客席で歌い、ハーモニカを吹き、兵隊か囚人のようなカーキの衣装の男二人組が金属の食器を持って客席通路で踊り倒す。全方位的に盛り上がるハングリーでアウトローな空気が文句なく格好いい。「プムバ」とは乞食(放浪芸人?)のことをいうようだが、韓国の伝統文化の表層を借りてくるのではなく精神というかニュアンスをすくい取ってそこに現代的なリアリティに通じるものを見出している。ちなみにジェドクはLDP(Laboratory Dance Project)という男だけのグループのメンバー。他の振付家の作品も面白いのだが、アカデミックなダンスとポピュラー文化を軽快につないでしまう発想の自由さには彼独特のものがあるように思う。
▼浜口彩子 『15秒』
7人のグループ作品。15秒とは限らないが、「追憶」「To the sky」といったような小テーマの超短編作品が連続する。舞台下手の額縁(寄席の「めくり」のような)とアナウンスで、その都度最初にテーマが宣言されるため、どうしても見る側の姿勢が「絵解き」みたいになってしまうのは明らかに損をしていると思った。「絵解き」をする時の人の目の焦点深度は恐ろしく浅い。記号性ばかり求めて、ディテールを見ない。すると短い時間の中にテーマが「圧縮」されているというより単に持続性というものが放棄されているようにしか感じられなくなってしまう。
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ダンス・フィルム・ヴァリエーション/Gプログラム:ポストモダンダンス

2009-09-25 | ダンスとか
渋谷・イメージフォーラム。
▼『トリオA Trio A』(イヴォンヌ・レイナー、1978年、抜粋)
▼『持続するプロジェクトの繰り返し/日々変更 Continuous Project/Altered Daily』(イヴォンヌ・レイナー、1969年)
▼『フットルールス Footrules』(ダグラス・ダン、1980年、抜粋)
▼『教皇と一緒の観客 An Audience With the Pope』(デヴィッド・ゴードン、1980年、抜粋)
▼『ザ・マター The Matter』(デヴィッド・ゴードン、1980年、抜粋)
▼『少女教育 Education of the Girlchild』(メレディス・モンク、1980年、抜粋)
▼『ドルメン・ミュージックのコンポジション Dolmen Music』(メレディス・モンク、1980年)
▼『16 Millimeter Earrings』(メレディス・モンク、監督/ロバート・ウィザース、1986年)
▼『レペティション Répétitions』(ルシンダ・チャイルズ、1980年)
▼『KATEMA』(ルシンダ・チャイルズ、1978年)
▼『Accumulation With Talking plus Watermotor』(トリシャ・ブラウン、監督/ジョナサン・デミ、1986年)
▼『舞台裏にて:M.G.のための映画版 Shot Backstage-For M.G.:The Film』(トリシャ・ブラウン、1998年)
いきなり『トリオA』が途中でぶった切られ、そのまま Continuous Project/Altered Daily の69年版(日本語題の「繰り返し」は「リハーサル」の誤訳)に突入。かなり急拵えな編集がされているようだ。その後のは全部見たことないやつだと思って期待していたら、ダンの『フットルース』からチャイルズの『レペティション』までは1980年のTV番組 Making Dances: Seven Post-modern Choreographers から抜き出したものだった。マーシャ・シーゲルが脚本を書いていたりするのだが、話の最中でもどんどん切って行く……次のチャイルズのソロはヨーロッパでの上演らしく、初めて見た。斜めの線を行ったり来たりするミニマルな振付だが、方向感覚がやたら不安定で、さらに靴が大きいのかドタドタしているのが奇妙だった。いわゆるチャイルズの幾何学志向とは違う面を見るべきなのだろうか、こういうところはもっと補足情報がほしい。目玉は最後だが日本語題は誤訳というか意味不明。For M.G.:The Movie というのがもともとの振付作品のタイトルで(M.G.はミシェル・ギィ。ギィは1973年にブラウンをフランスに招いた文化大臣、この作品の公演直前に急逝したためこのタイトルになった)、映画のようにフレーム内への人物の出入りということをテーマにした作品であって、だからあえて舞台袖から撮影してみたわけなのだろう。とはいえ、正直フツーの(お父さんが撮った運動会みたいな)ホームヴィデオにしか見えない。記録ではなくて作品としてどういうコンセプトがあるのか? それにしてもこの上映会、余程の予備知識がないとさっぱりワケがわからないだろう。もっとしっかり作品を撮ったものを流してほしかった。
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勅使川原三郎 『鏡と音楽』

2009-09-25 | ダンスとか
初台・新国立劇場(中劇場)。
回転するプロペラの影で照明が辺り一面を駆け巡る冒頭。続く勅使川原ソロはマイムの成分が濃く、これを見ていて勅使川原の振付の全般的な特徴の一部が理解できた気がした。例えば腕がいきなり硬くなったり柔らかくなったりするとか、体が引き攣って部分的に動かなくなってしまい、何度かグイグイ押し込んでいるうちに突破できたりとか、そういう「感じ」を勅使川原はすごくうまく作り出すわけだが、そういう「感じ」というのは見る者が受け取る印象なのであって、ダンサー自身の身体的な経験の問題では必ずしもない。「いきなり硬くなった」ように観客が感じる時、ダンサーはただいきなり硬直させているわけではなく、関節や筋肉のアーティキュレーションを変化させる際にもっと複雑なプロセスを踏んでいる。つまり、ダンサーの経験と観客の経験は同じでなくていいというイリュージョニズムの考え方が勅使川原の中に(少なくとも一方の極として)ある。これとダンサーの個人的で主観的な体感とのバランスの取り方が多様に考えられているところに勅使川原の振付の振り幅があると思う。それにしても今回の作品は構成が実に緩く、ノイズとバロック音楽(およびメシアン少々)の二面が交互に来る(鏡と音楽?)だけで、ひたすらインスタレーション的な「画」と、ダンスを見ることになるのだが、とりわけ前半はダンサーが踊りまくっており、いうまでもなく佐東利穂子も踊りまくっているので、これで十分と思えた。冒頭の勅使川原ソロから、一人おいて佐東のソロが始まり、以後もほとんど出っ放しで踊る。信じられないスピードで手がビュンビュン飛び交っているのだが、重要なのはもちろん足で、止まることのない移動と不安定に揺すられる体の質量こそがエンジンとなり、腕の駆動力ともなっている。絶え間なく動き続け、着地した瞬間にはもう次に飛び出していく方向を足が探っている。2000年に『ラジパケ』で見たあの子ヤギの動き(初めて書いた『バレエ』誌の公演評でもフィーチャーした)を思い出してしまった。両足が低空をヒョイヒョイ跳んでいく動きは他のダンサーたちもやるのだが、向きを変えるのには一定の時間がかかるものだし、勅使川原などは重心が低めなので上体や腕を動かしている間にしばしば足が止まる。ところが佐東は滅多なことでは止まらない。足が床に接している時間が圧倒的に少ない。高い重心を活かしながら、いとも簡単に次から次に足を動かし続け、たまに空間移動が止む時すら足は高速で低空スライドしている。この身体の軽さと、大きく、虫の翅のように使う腕は、相補的に機能している。見ていると、ほとんど飛びそうで、あまりのことに思わず顔がニヤけてしまう。
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Dance Triennale Tokyo 2009

2009-09-24 | ダンスとか
▼カンパニー・ミシェル・ノワレ 『Chambre blanche』
Compagnie Michele Noiret, Chambre blanche

表参道・スパイラルホール。
ベルギーのグループ。白いカーテンに囲まれた空間に、同じ髪型と衣装の女性が一人ずつ入れ替わりで入って来る。その度に「同じ」であることの印象が積み重なって行き、やがてデュオになって、ユニゾンとかズレとかを見せていく序盤、「同じ人が複数いる」という不思議な感覚が生まれてちょっと面白かった。ホンモノとニセモノがいてもう誰がホンモノだかわからなくなっているような。その後カルテットのシーンが続くと徐々に単なる「集団」にしか見えなくなってしまうのだが、それだけに余計さっきの妙な感覚はレアで面白かったと感じる。とはいえそのことと動きの内容とは必ずしも強いつながりがない(バレエ・ベースの懐かしいヌーヴェル的な振付だが、どんな動きでやってもあの感覚を作り出すことはできそうに思える)。いいかえれば振付自体が作品の主役になってはいない。したがって中盤以降は「画」的に構成された場面の連続というか、形而上的なフンイキの演出でゴリゴリと押していくことになる(黒田育世とデヴィッド・リンチが溶け合った感じのテイスト)。それはさておき21時開演というのは思いのほか良かった。映画でいえばレイトショーの時間帯で、感覚が実に「夜」的な冴え方をしているし雰囲気も良い。
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Dance Triennale Tokyo 2009

2009-09-24 | ダンスとか
▼ヤスミン・ゴデール 『Singular Sensation』
Yasmeen Godder, Singular Sensation

青山円形劇場。
面白かった。今までに見た『i feel funny today』(2000年初演)、『Strawberry Cream and Gunpowder』(2004年初演)がピンと来なかったので正直侮っていた。おそらく技術的にはそれほど違っていないと思うけど(今作の初演は2008年)、何か特定のところに焦点を結ばないように構成されているためか、ひたすら作品の「話法」を楽しみながら見てしまった。脱力したジャンクな動きで、日常動作的なモティーフが脈絡なく組み立てられているのだが(矢内原美邦とマリー・シュイナールを思い出させる)、何よりも五人のダンサーがヘンな表情をしっかり付けているのが大きい。表情があると、意味不明な動きも一応何らかの「行為」であるかのように見える(意味ないしヴェクトル(sens)の気配が生まれる)。そういう意味不明な「行為」のやり取り、離合集散の中に、アクションとリアクションの関係や、そしてとりわけ「反復」や「模倣」が起こっているのが見えてくる。関係ないはずの二人があるタイミングで同じ動きをしてしまった後、その動きが各々にとって違う展開をもたらしたりする。すると、個々人の「物語」はもうグシャグシャに崩壊してしまっているのだが、その代わり何か目に見えない、等身大でない「物語」(出来事)が個々人の身体を横断して駆け抜けているように思えてくる。個人がその意味を捉え切れないような「力」の流れがいくつもあって、それが身体を横断しているがために動きを引き裂き、たまさかシンクロさせたり、時には繋ぎ合わせて一つの大きな塊にすることもある。そういう磁場のようなものをゴデールは幾何学的秩序抜きで緻密に作り上げ、踊っている。「ポストモダン表現主義」といういい加減なワードを思いついた。
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