dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

第15回ガーディアン・ガーデン演劇フェスティバル/クリウィムバアニー 『贅沢ラム』

2008-04-27 | ダンスとか
吉祥寺シアター、夜。
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捩子ぴじん 『タッチ』

2008-04-27 | ダンスとか
沼部・いずるば。
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オトギノマキコ+ジョン(犬) 『チワワのゆうれい』

2008-04-26 | ダンスとか
渋谷・Gallery Le Deco1F。
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グルーポ・コルポ

2008-04-25 | ダンスとか
Grupo Corpo

渋谷・オーチャードホール。
▼ホドリゴ・ペデルネイラス 『パラベロ』
Rodrigo Pederneiras, Parabelo
▼ホドリゴ・ペデルネイラス 『オンコト』
Rodrigo Pederneiras, Onqoto
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DIRECT CONTACT VOL.1

2008-04-24 | ダンスとか
月島・TEMPORARY CONTEMPORARY。
▼神村恵 『ソロ+アルファ』

(室内楽コンサート・シリーズ・レトロスペクティヴ 2006~2008(作曲/杉本拓、大蔵雅彦、宇波拓)を断念する)
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アーツ・コンペティション in コア石響 vol.26

2008-04-21 | ダンスとか
四谷・コア石響。
▼小川水素 『!)小川水素用語集 2~腰を落とす~』

(伊藤虹 『踊るあほう』、飯原道代 『(タイトルなし)』、no shoes 『街角  君想フ故ニ僕アリ』、荒木志水 『シンドウトオン』は見れず)
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トヨタ コレオグラフィーアワード2008 セカンドステージ(ファイナリスト公開選考会)

2008-04-19 | ダンスとか
森下スタジオ(Cスタジオ)。
一次審査の会議の際、このアワードが掲げている「ジャンルやキャリアを越えたオリジナリティ」というのは「あらゆるジャンルに目配りして満遍なく正当に評価せよ」などという意味ではなくて、要するに「全てのジャンルを越えろ」という意味なんじゃないか、少なくともぼくはトヨタアワードがそういう場であって欲しいと思うし、創設時(2001年)の段階では「コンテンポラリーダンス」ってそういう思いや期待を集めていたのに、今ではもう「コンテンポラリーダンス」っていう新しいジャンルができていて、そこへ向けてものを作っている人が多過ぎる状態なわけで、ならばますますトヨタアワードはそういう人たちから遁走しなくちゃいけないんではないか、と持論を述べさせてもらったことがあった。そして「コンテンポラリーダンス」の「ジャンル化」に対して警戒心の感じられない表現に対しては時間の許す限り抗戦し、反対に何か新しいこと異質なことにトライしている「マイナー」な表現者たちを多少強引にでもとにかく擁護した。しかしこの二次審査では、討議や弁論の機会はもはやなくなり、単純な投票制になった。言葉が封じられた以上は投票という形式を偽装して「発言」するしかないので、律儀な採点など一切せず戦術的に立ち回ることにし、推したいと思う人に満点、それ以外の人には最低点、また推したいと思うけれども自分が推さなくても堅いだろうと思う人にも最低点を投じたが、結果、満点を入れた五人(組)のうちファイナリストに選ばれたのは一人(組)だけだった。

▼山賀ざくろ・泉太郎 『天使の誘惑』
▼古家優里・長内裕美・梶本はるか・三浦舞子・三輪亜希子 『てまえ悶絶』
▼ボヴェ太郎 『implication -風景として響きあう空間と身体-』
▼栄華 『もっと真面目に生きなさい』
▼明神慈 『夜奏』
▼磯島未来・加藤若菜・須加めぐみ 『子羊たちの夕焼けボート』
▼川崎歩 『ためいけ』
▼きたまり 『サカリバ007』
▼不動まゆう 『マリアの子』
▼石田陽介 『壁』
▼KENTARO!! 『泣くな、東京で待て』
▼神村恵 『斜めむき』
▼ストウキミコ・外山晴菜 『たまごが先か、にわとりが先か』
▼鈴木ユキオ 『沈黙とはかりあえるほどに』
▼北村成美 『うたげうた』
▼得居幸 『Bring Me a PPPeach. (もももってきてちょうだい2)』

とにかく川崎歩『ためいけ』に衝撃を受けた。数年前「ミネラル」というグループで「ラボ20」に出演した時に全く違う作品を見ているけれども、今回もきわめて独創的なパフォーマンス。南河内という「場所」を素材にするコンセプトも、手法も、ジャンル化した「コンテンポラリーダンス」なんかからは絶対出てこない自由さと、新鮮なモチヴェーションを感じさせた。風景を描写するブルージーな歌(「改札降りて左側」とか、実際は知らない土地でもリアルに伝わる。「安藤忠雄」(狭山池博物館)とか)、多様なイメージが錯綜する衣装や身振り、五人がダラッと並んだりウロウロしたりしている空間の広がり方。フリーフォームなのに成立している、このありようこそ、アートの条件じゃないかと思う。正直、ヴィデオで見た時は半信半疑のまま期待したいという気持ちだったが、見られて本当に良かった(今やもう本選では見られないわけだし)。
磯島未来・加藤若菜・須加めぐみ(ピンク)と神村恵はどうにも不完全燃焼で、やろうとしていることの本来の奥行きが見えて来なくて残念だった。ヴィデオでしか見ていない審査員の票は厳しかったんじゃないか。特にピンクは3月のアゴラで格段に重要な存在になったと思っていた矢先で、惜しかった。神村恵は全体を短く圧縮した構成で、次へ行くテンポが速い。見ている方としても、場面ごとに体が一定のモードにズブズブとはまっていくプロセスの時間経過がないとついていけない。
KENTARO!! も、この作品は照明効果の比重が大きく、今回はそれが丸ごと省かれている上に、音楽や言葉との絡みの面でもトリッキーな部分があまり見られなかったのだけれども、そういう部分はヴィデオでも十分わかるので、舞台を初めて見る審査員に対して特段不利ではなかっただろう。彼の作品は、考え抜いた結果としてやっていることはわかるのだけれども、もう少し仕掛けてきてくれてもいいのになと思う。
栄華のグループ作品は「北朝鮮」ネタと思しきパロディで、行進やマスゲーム、演説、歌などが様々に展開。こういう意味性の強い「表象」系のパフォーマンスが猛烈なアレルギー的拒否反応に遭うことは想像に難くないけれども、それこそバットシェヴァのパフォーマンスの政治性すら柔らかく骨抜きにされるこの国の風土の貧しさと同根なのだということを声高に訴えたい。その点むしろ、これが東京で上演されることは、例えばNYで上演されることなどに比べればよほど大きな意味がある。確かにもっとひねる余地はいくらでもあるが、しかし終盤の唐突なスローモーションの部分などはどうだろう。なぜいきなり女たちはエロく、あるいはまた暴力的に絡み合い始めるのか。スカートの中に顔を突っ込んだり、脹脛をガブッとやったりするのか。それまでのわかりやすすぎる意味の持続があったからこそ、意味の回路が派手に壊れた。この先が見たかった。
山賀ざくろ・泉太郎は、ヴィデオで見て、「よくわからないが何か気になる」という印象だったが、実際見てもあまり変わらなかった。山賀のダンス、泉のドローイング、および両者が仮想的に交わる場所としてのスクリーンの三点が等価に並んでいて中心がない、何とも落ち着かない感じが、素通りできないポイントか。しかし、舞台上では等価かつ無関係な関係にある二人とは別に、どうしても第三の作者の存在が感じられてしまう辺りが、舞台上で起こっていることと直に向き合いづらく感じる理由のような気がする。とにかくよくわからない。
得居幸は、2007年アゴラ公演(応募ヴィデオ)よりもはるかに「ダンス」で、2003年くらいにヤミーがたくさん作っていたアイディア満載の小品群を髣髴とさせた。生き生きした、落ち着かない体がひしめき合っている。良いけど、この良さって、良いのだろうか、という疑問を発してくれたらと思う。
鈴木ユキオは、長丁場も終盤に来て誰もが疲れ切っているところへ強烈な一撃を見舞ってきて、上演の強度としては群を抜いていた。特に鈴木ユキオと安次嶺菜緒のパフォーマンスは鬼気迫り、野犬みたいに凶暴だった。しかも編集が凄くて、元の作品を大胆にリミックスし、形式ではなくテイストだけをわかりやすく見せていた。もっとも、あえていうなら、月島の本公演の時のギリギリ追い込むような否定形のパワーはほとんど見られなくて、むしろ素直に「ダンス」してしまっている印象も受け、「コンペ」という場での現実的な判断なのだなあということは思った。

ファイナリスト=
・きたまり
・北村成美
・KENTARO!!
・鈴木ユキオ
・得居幸
・山賀ざくろ・泉太郎

このショーイングを見た上で、もしぼくが一人で選出したならば(実際に満点を投票した五人(組)とは多少ズレる)。

・磯島未来・加藤若菜・須加めぐみ
・栄華
・神村恵
・川崎歩
・KENTARO!!
・鈴木ユキオ
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『接吻』('06、万田邦敏監督)

2008-04-14 | ダンスとか
渋谷・ユーロスペース2。
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「MOTコレクション ポップ道 1960s-2000s」展

2008-04-13 | ダンスとか
木場・東京都現代美術館。
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「MOTアニュアル2008 解きほぐすとき」展

2008-04-13 | ダンスとか
木場・東京都現代美術館。
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「川俣正〔通路〕」展

2008-04-13 | ダンスとか
木場・東京都現代美術館。
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ギグメンタ2008-美学校1969年の現在-展/「一過性であるがゆえに」(一日目)

2008-04-05 | ダンスとか
大京町・アートコンプレックス・センター、昼。
町田久美(美術家)× 室伏鴻(舞踏家)
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勅使川原三郎 『空気のダンス デッサンから飛び立った少年少女』

2008-04-04 | ダンスとか
初台・新国立劇場(小劇場)。
十代半ばから後半ぐらいの出演者13人に振付けられた作品。若いとはいっても体はそれなりに出来上がっていて、いわゆるフツーの「少年少女たち」ではない。勅使川原流の振付を精一杯踊って、多種多様なブレを見せているのだが、しかしやはり大人が子供をしっかり教育して、こんなによく出来ましたという「おゆうぎ」の類としか思えなかった。将来それぞれが一人前の踊り手になっていけばいいとは思うけれども、これが新国立劇場でお金を取って見せるべきものなのか、そして何より振付家にとってこういう仕事の意味がどこにあるのか。見ながら思い出したのはエイコ&コマがカンボジアの絵画学校の子供たちと作った『Cambodian Stories』(2006年)で、これは子供に背伸びをさせるのではなく、ありのままの脆い身体に声を与え、それを聞くとでもいったような作品だった。ダンサーでも何でもない子供たちの圧倒的な弱さの前に、振付家=大人の優位はあっけなく崩れ、別の価値の地平が開けてしまう。それに対して勅使川原の作業はおそらくあまりにも古典的な規律・訓練(ディシプリン)で、自身のコピーを作る以外に、他者の身体に未知の何かを見ようとする姿勢をほとんど感じない。だから勅使川原が、アーティストとして、この作品を作る意味がわからなかった。
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