dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

山田うん 『テンテコマイ』

2004-01-31 | ダンスとか
三軒茶屋・シアタートラム。
舞台を客席側へ張り出して広々とした空間を作り、下手に巨大なクッションのようなオブジェ。音響も含め簡素な設えだが、ダンスがそれを活かし切るには至らず。振りを作ることへのこだわりは感じるけれども、構成にメリハリがなく散漫、コンディション的にも、体の表面に膜が張って輪郭が曖昧になっているような、迫力に欠ける踊りだった。唯一面白かったのは笛を吹いて音を出しながら体を動かすシーンで、VACAを連想させるのだけれども、単に「音と動きが一致している」とかそんなことじゃなく、音と動きが息や力みを介して絡み合ったまま一つの体の中から出てくるのを見ることで、体の構造の奥行きとか複雑さとかを想像させるところが面白い。即興でやっているようにも見えるのだが、笛を落としてからほぼ同じ振りをもう一度反復するので、ここも振付だったことがわかる。こうやって、客席の受けをとってもすぐ身を翻してストイシズムを見せつける。山田うんの仕事はどこかいつも「自虐的」な感じがしてしまう。そしてそれがすごく女性的に思えたりする。終盤でドスンドスンと粘土の塊が降ってくる、その攻撃的なものへの傾きが、彼女のワーカホリックな仕事ぶりと重なって見える。少なくとも自由気儘な表現者の振舞い方ではなく、観客としてそれにどう反応してよいのかわからない。
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黒田亜樹ピアノリサイタル

2004-01-28 | ダンスとか
上野・東京文化会館(小ホール)。
バッハ=ブラームスによる左手のためのシャコンヌ、シェーンベルク(シュトイアーマン編曲)の室内交響曲1番、ムソルグスキー『展覧会の絵』、アンコールは十八番のピアソラ(黒田編)『オブリヴィオン』。やはり圧巻はシェーンベルク。鼻歌できるほど(うそ)好きな曲だがピアノ版は初めて聴いた。15人分のパートが鷲づかみにされて鍵盤の上にいっぺんにドカッと叩きつけられたような、凄まじい編曲。安定感のあるドラマティックな演奏だったが、個人的にはもう少しアクが強い方が好みかもしれない。しかしそれにしてもピアノに両手両足でガッと食らいついて、闘っているのを見るのは面白い。
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クビライ・カン・アンヴェスティガシオン 『メカニカ ポプラール』

2004-01-24 | ダンスとか
横浜・ランドマークホール。
色んなジャンルのアーティストが集まったフランスのカンパニー。振付家はフランク・ミケレッティ Frank Micheletti という人で、ダンサーは女性三人、男性三人(+純ミュージシャン一人)。ステージ奥にDJブースが二つあって、ターンテーブルとリズムマシンとベースで結構イイ感じの音を出す。テクスト・リーディングも少しあるがシアトリカルな部分は少なめで、むしろソロやトリオなど絶え間なく踊りまくり。運動量はものすごい。コンタクト系の動きにカポエラやマーシャル・アーツ的なフレーズが入って、重力や遠心力の自然な流れの中にアクロバティックなアクセントを散りばめた、意外性に富む振付。視覚的フォルムに縛られない自由でカジュアルなノリが生まれていて、気持ちいい踊りだった。作品コンセプトとしては典型的な左寄りのカウンターカルチャーで、おそらくフランスでは流行の路線なのだろうが、この種の政治青年的オシャレ感覚は日本のダンスには皆無だから、新鮮味があって楽しく見られた。去年のザインブルムといい一昨年のアリアス・カンパニーといい、横浜ダンスコレクションのバニョレ出場者シリーズはなかなか悪くない。大当たりも出ないが、全くのハズレもない。
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人体の不思議展

2004-01-22 | ダンスとか
有楽町・東京国際フォーラム。
ずっと前に布施英利の本か何かで聞いたことのあるプラスティネーション人体標本展示。96年にもやっていた。今回はプラストミック標本と書いてあって、プラスティネーションとどう違うのかは不明。横方向に分解、とか、縦方向に分解、とか、四分の一だけカパッと開いてる、とか、どう考えても作った人は遊んでいて、しかも合体ロボットとかのそれと同種の想像力を存分に発揮しているようだ。ガンダムが上下に分かれてコアファイターが出てくるみたいな感じ。それにしても混雑していて、しかも列がなかなか進まない。美術館でこんなに長い間、食い入るように絵を眺めている人はあまり見かけないが、ここではみんないつまでも見ているし、展示ケースの周りを取り囲んでバーゲン会場みたいになっている。
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「ワラッテイイトモ、」展

2004-01-22 | ダンスとか
早稲田・アップリンク・ギャラリー。
K.K.作「ワラッテイイトモ、」をやっと見た。番組オープニングのロケ・カメラに作者が映っているところをスローで何度も見せる辺りで、現実と虚像の境目が見えなくなって一瞬クラッと来た。自分がどっち側にいるのかわからない(というかその「自分」ってこの自分なのか画面に映ってる作者K.K.のことなのかもよくわからないのだが)、あるいはむしろどっち側にいるとかそういう区分が成り立たない、もっと絶望的に平板で不毛でどうでもいい真空に投げ出されて見当識を失っちゃうような瞬間があった。けれども全体としてみると手法もアイディアも新鮮味がないし、言うほど面白いものではないと思う。批評のトレンドに棹差しているというよりは、単に追従しているように見える。先に平凡な解答があって、それにもやをかけて見せているだけ、というか。実力のある作家ならもっともっと突っ込んでいける素材のような気がする。
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ラボ20 #16

2004-01-18 | ダンスとか
横浜・STスポット、昼。
今回のキュレーターは、ディーン・モスと余越保子。モスはかの有名なNYの実験的ライヴスペース「キッチン」のキュレーターで、こういう人がラボのキュレーションにあたるというのは(あまり喧伝されなかったが)実はかなり画期的なことだと思う。今回は1組10分~15分で7組を一度に見られる公演形態になった。
▼ミネラル 『業業ちわわ』
京都の男性二人組、背の高いギターの人とダンスの人。意味不明な動きとか歌とかを不条理かつスカスカにコラージュしていくこの手のパターンはもう目新しくないが、その緩さにはあざとい計算の跡が不思議なほど見受けられない。ちょっと惹かれる。
▼川名千秋 『すべての時間はからだの中』
ソロダンス。空間内を移動することに対して慎重な構えを見せているけれども、何かもっと観客の意識が思わず引き込まれるような仕掛けがほしい。
▼廣井陽子 『つむぐ からだ』
この人は前にセッションハウスで二回見ているが、今までで一番いい。余計なものが削ぎ落とされた結果残ったと思しきシンプルな緊縛もの。自由と不自由の境目にもっと探求の余地がありそう。ラストの照明の非常に長いフェードアウトが印象に残る。
▼得居幸 『湿った地図』
松山の yummy dance のメンバーによる初ソロ。パフォーマンスっぽい小ネタと、ちゃんとした振りを組み合わせているのと、そのモティーフの数が多いのがヤミーらしいところ。デュオやトリオの時のように、情報過多+超高速で押し切っているわけではないのに、あまり印象がまとまらない。「ワケわからない」系のピースを作るのに慣れて、巧くなりすぎてしまっているのかもしれない。
▼おまゆみ 『ダレニモササゲナイ―my blood fountain―』
大阪のインスタレーション/パフォーマンスの作家。大量の赤い紙テープに埋もれて幼児退行的に振舞ったり、電球を持って中へ入ったりする。ヴィジュアル的には面白いが、舞台作品として成立させんがために本当は要らない要素をあれこれ持ち込んでしまっているような気がした。紙テープの中から出てこないまま引っ張ってくれたら、と期待していたがさすがに無理だった。
▼木村美那子 『Cする~』
前回のラボに続いて二度目の登板。ちょっと得居幸のとカブりそうな構造で、ネタを詰め込みすぎてはいないけれども、やはり一個一個の必然性の演出と全体テーマの打ち出しが弱いように思った。もっと身体レヴェルでのギリギリ感がほしい(賢くならずに)。
▼大橋可也&ダンサーズ 『あなたがここにいてほしい』
実質的には月曜に見たフルスケール版の後半部分を檻なしでやったわけだが、圧倒的に狙いのクリアな快作になった。二人の距離の近さと、左右に等分されたマルチスクリーンのような空間構成のおかげで、身をよじってひしゃげていくミウミウと、次第にやる気マンマンになっていく大橋のコントラストがくっきり出て、さらにそれをガスカンクの音が煽りまくる。何もかも素晴らしい。また見たい。
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JCDN国際クリエイティブレジデンシープロジェクト・アジア編

2004-01-16 | ダンスとか
麻布 die pratze。
▼ムギヨノ・カシド&砂連尾理 『to-gether』
▼ダニエル・ユン&北村成美 『inter mission』
前者は小さなちゃぶ台を使い、後者は白い衣装を合わせた、ラフスケッチのようなデュオ。ムギヨノ・カシドにはおそらくインドネシア舞踊に由来するものと思われる極度に柔らかい関節の動きが、ダニエル・ユンには京劇の動きが散見された。どちらかというとユン&北村の組の方が、とりあえずコミュニケーションが取れているという印象があったが、いずれにしてもダンサー同士の交流があくまで第一で、いわゆる「観客」は蚊帳の外、という雰囲気の公演だった。しかし国際交流プロジェクトの内容を説明したり、滞在期間中の様子をヴィデオでレポートしたりするその段取りは、明らかに、観客に対して「作品」の受容ではなく創作のプロセス自体にコミットする(あるいは少なくともそれをそれとして見守ることを楽しむ)よう求めている。作品とその鑑賞ではなく、創造、実践、活動、行為に重点が置かれるあたり、いかにもダンス的な発想だと思う。問題は、モノ=作品(opera)なき活動(opera)をいかに定義していくかだろう。
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大橋可也&ダンサーズ 『あなたがここにいてほしい』

2004-01-12 | ダンスとか
天王洲アイル・スフィアメックス。
去年枇杷系スタジオでやったやつのような演劇性は弱まり、スペクタクルに回帰。バニョレ予選に出た時のに似たテイストの、爆音+ストロボ+スモーク+絶叫+テクスト・リーディングだった(ダンサーが全裸じゃなく下着を着けていたのは思想上の変節?)。スタート前の、横に寝たダンサーたちのヘンな「待ち」状態とか、爆音がカットインして絶叫が続く冒頭とか、大橋の実に頼りない冷静さとか、自分で肛門に指をねじ込んでのた打ち回る人々のバカさ加減とかが独特の「間」を立ち上げているのだけど、ヨーロッパ風のハイアートからどんな感じで距離を取りたいのか、あるいは取りたくないのかがイマイチよくわからなかった。走り回る男と女にしたって、疲れるのが少し早すぎる気がしたし。興味深かったのは、上手に吊るされた檻の中の女が、パンと水を急いで口に突っ込んで、全部下に出しちゃうというシーン。「監禁された人間」というのは「食事を与えられない(あるいは空腹を満たされない)存在」として表象されるのが一般的だと思うが、この女は必ずしもそうではなく、むしろ過食症とか拒食症とかのイメージを喚起し、すると「檻」も字義通りの「檻」から比喩としての「檻」へと存在のレヴェルがズレていく。もしこういう強い意味作用を狙っているのなら、もっと前の方に持ってくるべきとも思う。檻の中の女のエネルギーが大橋の体内に転送され、大橋が徐々に走り出すというのが長いラストシーン。運動や身体レヴェルでの内容の密度は高くないのだが、音がイイから(ガスカンクおよび音響の仕事が素晴らしい)、ついボーッと受け身で流しつつ音に浸ってしまった。「あなたが」というより「バンドがここにいてほしい」感じだ。いやそれより本当に足りないのはダンスで、普通ならここで気を取り直して後半戦に突入、となるところなのだが、何とそのまま終了した。わずか30分強。そんなんで満足なのかなー。「無駄がない」といえばそうなのかも知れないが、それにしては緩急のメリハリと、マックス値が低すぎる。
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ランコントル・コレグラフィック~(二日目)

2004-01-11 | ダンスとか
▼岡登志子 『ECHO』
アンサンブル・ゾネはこのコンペ久々の登場、三度目。去年の11月にやったやつを何とフルサイズ(55分)で上演した。ぼくはファンだから歓迎だが、大方の観客は退屈したようで、近くに座っていた審査員も寝ていた。寝たら審査なんかできないんだけど。トヨタの時と比べるとはるかにゾネ本来の風合いが出ていたが、稽古不足なのか、振りが十分体に落とし込めていなくて踊りのクオリティは全体に低かった。それとやはりぼくとしては、ゾネはシアターXの空間と切り離せない。タッパが低く、客席が平らで、舞台が少し高く、音響的にも密閉感が強いあのハコでは、ダンサーたちが自分の目線の延長上にある水平面に並んで動き回り、肉感が浮き出る。あの感じが案外重要なのかもしれない。こういうコンペというのは「どこのハコに持っていっても(ある程度)再現可能な作品」という無根拠な観念(イデオロギー)の上に成り立っている。今回良かったのは岡のソロ、特に二度目のソロの部分はまさに渾身の踊りで、ハングリーな剥き出しの野心、鬼気迫るものさえ感じた。それと終盤近くにある、女性陣三人のユニゾン。腕で両肩を抱き、内股の摺り足で右右、左左とバックしていく。右、左、右、左ではなく、右右、左左というささやかなハズしのリズムがたまらない。しかしそれにしても、スッとさりげなくデュオまたはトリオのユニゾンが始まるだけでどうしてこんなにゾクゾクさせられるのだろう。視線を真っ直ぐに、顔を動かさず、体の向きだけを幾何学的に細かく操作して面を強調する動きとか。しかし本音をいえば、この人の振付の真価は「フォルクヴァンク系」というフレームの中で相対化されるべきなのだろうとは思う。
▼伊藤郁女 『a person』
キム・ミヤと組んだデュオ新作。ドゥクフレ「IRIS」をきっかけにしたコンビだが、伊藤郁女はいい相方を見つけたと思う。二人とも同じような、締まった筋肉質の体だが、それでいて動きの質感はずいぶん違う。コントラストをもっと巧く出せば面白くなりそうだと思った。作品のアイディアはドゥクフレのパクリ+ありがちな分身ネタでつまらないが、キム・ミヤの安定感のあるソロがまず目を引いた。宙をひっかくようなダイナミックな上体の動き。伊藤はこんな振付も作れるのかと最初は期待したが、本人のソロになってしまうと、ムチのように足を振り上げるいつもの動きといつものリズムだった。ソウルっぽいヴォーカルの選曲がカッコいい。
▼康本雅子 『脱心講座 昆虫編』
この作品を見るのは三回目。大好きな作品なのだが、今回は後半に余計なシーンがたくさん追加されていた。ヴィデオだけで終わってしまえばいいのに結局生身の本人の出番が大幅に付け足されて、しかもそれが、展開として必然性がないどころか、非常にいい加減というか、どうでもいいような内容でがっかり。実際サンバがかかった辺りでぼくはちょっと泣いてしまったのだが、そこからもう一ひねりアイロニーの折り目を重ねてくれるならまだしも、ただゴチャゴチャしているだけで締まりのない作品だった。今回面白かったポイントは、三浦宏之の足を船のオールに見立てるシーンに昆虫のモチーフが混ざり込んでいたこと。想像力の中で船と昆虫が一緒くたになっている。ついでにロボットとかヴィデオデッキとかも一緒くたになってクローネンバーグみたいになったら面白い。曲げた膝にピンジャックを差すのとか、黒いバッグの先端から康本の両手両足が見えているところとか、エロの形象は横溢している。
<結果>寝ていた審査員少なくとも一名を含む「ナショナル協議員」による「ナショナル協議員賞」は伊藤郁女と康本雅子が受賞した。前回の黒田育世と矢内原美邦と比べると小粒感は否めないが、そんなことより、今回のこのラインナップの幅からするともう少し判断基準を鮮明に打ちだすべきではないのかなと思う。ぼくなら岩淵多喜子と小浜正寛の間で悩む。伊藤と康本はこの中間に入る。つまりどっちつかずの中途半端なところが選ばれているように感じた。
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ランコントル・コレグラフィック~(一日目)

2004-01-10 | ダンスとか
~・アンテルナショナル・ドゥ・セーヌ・サン・ドニ ヨコハマプラットフォーム。横浜赤レンガ倉庫1号館ホール。
今年のランコントル、これは何が凄いかというと、幅が凄い。ルーデンスとボクデスが同列に並ぶなんて、これはダンス史の快挙だといわざるを得ない(ボクデス(という敗北主義)の快挙という意味でもなければ、ルーデンス(というアカデミズム)の快挙という意味でももちろんない)。
▼高野美和子 『匿名トリップ』
伊東歌織、河村篤則と高野によるアノニマスなトリオ。先月の「ネクスト・ネクスト4」よりも、ムードが濃厚で面白く見られた。この暗くて湿ったテイスト。この人は、江戸川乱歩の『人間椅子』をモチーフにした『佳子の部屋』という作品を記録映像で見たことがあり、それは結構面白いと思ったのだが、今回はあれを思い出した。ただいかんせん、空間もムーヴメントも衣装もアイディアも決め手を欠き、主題へと鮮やかに収斂していかない。本人の年齢不祥なヴィジュアルといい、コマ落とししたような奇怪な人形振りや機械的動作の反復といい、何かしでかしてくれそうで、まだ何もしでかしてくれてはいない。特に河村の女装というアイディアなんかは面白くなりそうなのに、どこに着地させようとしているのかよくわからずに見ていた。舞台上手で三人が足を交差させたスキップでグルグル回る場面などは、河村のもつれる足が辛うじて主張する部分。白い足が闇に浮かぶ。伊東と高野のデュオ・ヴァージョンをセッションハウスで見たときは、アノニマスな衣装は現われず、初めから二人の関係が見えやすくなっていた。『佳子の部屋』やこのデュオ・ヴァージョンに通じる演劇的な表現からあえて離れようと試行錯誤しているのか。
▼岩淵多喜子 『Be (完成版)』
前回(一昨年)ダンサーの怪我で棄権を余儀なくされたからリヴェンジという意味もあったのだろう。本当によくできた作品だし、何度見てもそれなりに面白い。太田ゆかりが声を上げて何度も倒れ、それを大塚啓一が支える、というシーンなど、あまり見覚えのないシーンがずいぶん目に付いた。互いに肩をつき合わせて前進してくるラストはちょっとミスか。二人の組み合う角度が浅すぎて、バランスが悪くなり、歩幅が大きくなって駆け込むように性急に終わってしまったような気がした。
▼岡本真理子 『ききみみ塔』
今日はこの人だけが新作を持ってきた。今年から大胆にも上演時間の制限がなくなったそうで、45分もある。例によってあまり踊りらしい踊りはしないで、小さなオブジェとかコントラバスと絡んだりするのだが、ぼくには「表現」というより「感受性の押し売り」に感じられる。面白かったのは片足だけ靴を履いて無理矢理タップを踏む場面。片脚しかない人のように見えた。
▼小浜正寛 『BOKUDEX』
6つのネタからなる。(1)「壁男」は、個人的に一番面白いと思っている瞬間、すなわちあの、縦長の映像が横長にチェンジするのに合わせて壁をガッと横に倒す動きが見られなかったのが残念至極。(2)「Watch-man」、(3)「ゲラー・ダンス」。(4)「なにかが道をやってくる」は、とにかくデタラメな思い付きとか連想とかを言葉と体を使ってハイテンションで持続させるというもので、「痛々しさ」を表現に変える趣向。前に『ラボ20』で見た武田信吾のような「オモシロ若者」的技巧の冴えがあるわけでもなく、徹底的に痛々しいのだが、そこへ何かセンチメンタルなオケがかぶさってくる。少なくとも「あぁこんなもの絶対に肯定したくない」という葛藤を呼び起こされたことは確かで、毒性は高い。(5)「shortcake」(映像作品)はその悲壮感の流れを引きずりつつ上映された。案の定、魅力は半減してしまった。(6)「蟹ダンサー多喜二」。何がスリリングかというと、蟹の脚がいつ千切れるか、というこの一点に尽きる。一種の持ち物とはいえ、扇子などと違って多関節の物体(しかも動物の死体)だから、その水気の多い弛緩した筋肉群は、およそ身体化などされず、制御不可能なままに留まり続ける。だから脚が千切れ飛ぶ瞬間は、観客の眼にはほとんど見えない(本人には蟹の関節が緩んでいくのが少し分かるかもしれない)。折角だからもう少し盛大に千切れてもらいたかった。
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シベリア少女鉄道 『ウォッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』

2004-01-08 | ダンスとか
下北沢・駅前劇場、昼。
「コメディアン」というものはしばしば、芸を過剰にエスカレートさせて、「笑い」という効果の次元をはるか遠くまで超えて行ってしまう。シベ少の場合、以前はちょっと長めの「オチ」だと思われていたものがますます長くなって、もはや「オチ」としての機能を果さなくなっている。「オチ」は本来瞬間的に作用するものだが、延々と持続するこれはもう一種の不条理なゲーム以外の何ものでもなく、その代わりゲームの内部で果てしない悪ノリが可能になっている。切れ目のない連続的な逸脱プロセスには笑いというリアクションを差し挟む余地はない。ただ舞台とともにどんどんバカになっていくことを余儀なくされる自分を諦めるしかない。
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