dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

横浜ダンスコレクションR/横浜ソロ×デュオ<Competition>+群舞部門(一日目)

2005-01-27 | ダンスとか
横浜赤レンガ倉庫1号館ホール。
▼大橋可也 『Sister Chainsaw』
出演/ミウミウ、川本裕子、堅田知里、島田明日香。さらに舞台奥でスカンクが演奏。中央やや上手寄りに川本・堅田・ミウミウが並んで立って痙攣、そこへ下手手前から島田が這いつくばってにじり寄っていくのが長い冒頭部分。赤や白、青のビッチな(というか「お水」な)感じのワンピースをそれぞれ着ていて、痙攣状態から間歇的にカクンと脱力が起こり、その動きが各々異なった振付になっている。島田がこの三人の列に突入してしばらくすると全員バラけ、以後は走り回ったり痙攣したり、立ち止まって体をねじらせたり、突っ伏して動かなくなったり、しかしその間も島田はずっと元気に走り回って、時々ギャグめいた動きをして見せたり(「シェー!」とか、ギャルっぽいピースとか、酔っ払いがやる敬礼みたいなのとか)、というのが大まかな構成。「Sister」というのは一応チェーホフを踏まえているはずなのだが、当パンにはそういうことも書かれていなくて、ナラティヴな解釈をしても良いし、しなくても別に良いというスタンスなのだろう(それより気になるのは「Chainsaw」の方なのだが)。ミラーボールに少しだけ光を当ててストロボみたいにチカチカさせたり、ビートのあるポップな曲がかかったり、客電が操作されたり、と色々なことをやっているのだが、全体に空間の構成が散漫でダンサーが自分の居場所にしっかり立てていない(あるいは単に体や動きが弱い)という印象もあり、結果的に様々な演出上の変化が変化として浮き立たなかった。最後列から見たのだが、もう少し近くだったら違う見え方をしたかもしれない。25分。
▼浜口彩子 『5/6,200,000,000物語』
出演/MILLA、楠美奈生、都築智子、浜口彩子。この人は前にラボ20でソロを見たことがあるが、グループ作品は初めて。シンプルな白い衣装を付けた4人がワーッと入ってきて、斜め一直線に列をなしてうつ伏せに倒れ、すぐに仰け反るように四肢を浮かせて飛行機みたいなポーズになる。この素朴なつかみにうならされてしまった。走る→倒れる→飛ぶという運動とイメージの展開の仕方、特に倒れる動きと仰け反る(飛ぶ)動きのコントラストがいい。ままならぬ必然としての重力に委ねられた動きの線が、それに抗おうとする動きの線によってわずかながらに巻き戻される。動き自体が意味性をはらんでいて、すごく知的な文体だと思う。タイトルは世界人口62億人の中の5人(作曲の堀越功を含む)ということで、いくつかのソロがあったりデュオがあったり、色々な組合せでシーンが作られている。音楽はピアノや空港ロビーのざわめきなど。木佐貫系の人なので、それっぽいフォルム重視の振付ではあるのだが、個々の動きはあまり論理的にはできていなくて、少々ぎこちない。基本的な語彙からヴァリエーションを作り出しているように表面上は見えるけれども、体と対話する中から出てきたというより、頭で考えた形を使って体に無理な(不自然な)動きをさせてしまっている部分が多い。しかし空間の使い方にはセンスがあるなあと思った。動きの質や、運動量、密度などの異なる複数の群の配置によってフラットな舞台を幾何学的に分節し、変形させて、多様な空間を作り出している。遠く離れたところで思いがけないシンクロが起きていたり、下手手前でパラパラ(!)をやっているソロと上手奥の三人の関係が入れ代わる部分なども面白い。ただここでもやはり、場面の流れ(個々の場面の構造ではなく、構造の変化の構造)自体にはあまり論理性がなく、どちらかというと曖昧かつ雑然と推移していくのが気になった。アカデミックなスタイルを無手勝流でやっている、というのが全体的な印象。27分。
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横浜ダンスコレクションR 受賞者公演/山田うん 『ワン◆ピース』

2005-01-22 | ダンスとか
横浜赤レンガ倉庫1号館ホール。
再演となるとどうしても前との比較をしてしまうが、上演としてはやはり先月の方が良かった。特に前半、緊張感が伝わって来なくて、全体に構成の面白さが感じられず、ミスばかり目についてしまう。遅すぎる、早すぎる、トチってる、位置が曖昧。その代わりソロの部分の印象が強く、特に前回と同じく伊藤知奈美(髪を後ろで結んでいる)の、右足をガッ、ガ、と1.5回(?)踏み込んだりするすばしこくエッジの立った踊りが良い。前に見て記憶に残っている、ジャンプせずにいきなり脚をスコンと抜いて胴を下まで落とし片脚を前に伸ばして止まるダイナミックな動き(JB?)が出ないなあと思っていたのだが、後で確認したらやっていたらしく、やはり集中できてなくて見逃したようだ。好きな作品なので身を乗り出して喰らいつくように見ようとしても、終始うまくつかまれない、届かない感じだった。ロッカーの天井に色が付いていると聞いたのでまた最後列で見たのだが、スフィアメックスよりも客席に傾斜があり、上から見下ろす形になった。踊りの弱さはこの距離によるものなのか、あるいはテクニカルとの意思疎通が不十分だったのか、そもそも自主公演と比べてモティヴェーションが違うということなのか、結局のところ理由はよくわからない。要するにその全部なのかもしれない。
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ラボ5~20 #17

2005-01-22 | ダンスとか
横浜・STスポット、ゲネ。キュレーター/伊藤キム。
▼ピンク 『ぷわって突いたり くりって刺したり』
黒沢美香&ダンサーズの若手三人組、須加めぐみ、加藤若菜、磯島未来。下手側の奥の壁のくぼみにハマッて並んでゆっくりポーズを動かしていったり、シンクロしたりするのが前半。ディスコっぽいソウルがチラッと入ってすぐ消えたりする。後半はそこから飛び出し、カットアップしたSMAPでドタバタやる。三人とも体操着にハチマキをして「体操」をパロディにしている感じ。それにしても動きのねじくり方、止め方、視線の流し方、間の取り方/ハズし方、音の選び方等々、何から何まで黒沢美香であり、床に寝て互いに絡んだりすることでそれを崩そうとしているのはわかるが、まだ批判的距離を確保するまでには至ってない。20分。
▼ホナガヨウコ 『アニメカ』
散乱したマンガ本を拾ってそこに描かれてあるものを体で真似る、ということをやっているようではあるのだが、画との対応関係を客席から見ることはできないので、ただもうワケわからない奇矯なポーズとか動き、セリフなどが断片的に唐突に飛び出してくるのをひたすら見る感じになる。ビートのある音楽が時々止まって、そこにピッタリ入るタイミングで「ウワァッ!」とか「まだだよ」とかいった文脈なしのセリフが発せられ、これによって一見デタラメに動いているようでも実は音楽を完璧に聞いているのだということがわかり、体と音楽が一つの平面にカパッとはまる。音にノるというのとは違い、かといって音と体が並行しつつ「等価」に流れているのとも違う。表現としては正直よくわからなかったが、気になるという点では今日一番気になったのがこれ。11分。
▼捩子ぴじん 『呪い』
私見によれば大駱駝艦の中でも一際志の高いダンサーだと思っていたが、退団してしまったのだろうか。光りそうなぐらい明るい緑色で全身を塗り、顔だけ白で、白いフリルのような布を腰の辺りに付けて真横向きに立つ。色からして宇宙人みたいだが、本当に地球の生き物とは違う組成をもっているかのような、異様な佇まい。鎌首を前後に動かしたりしていて、しばらくすると静かに、しかし速く客席の方を振り返る。これを何度もやる。一部のお客がとにかくバカ受けしていて、ぼくもニュートラルには見られなかったが、それはそれで良し。笑いのツボというやつは一度ハマるともうそれこそ「箸が転がってもおかしい」という、どんな小さな変化にも反応し、変化がなければないでそのことにまた反応してしまい、止まらなくなるもので、それがまた人にも感染する。シリアスというかホラーっぽいノイズがずっと流れていて、暗い照明で、恐怖を狙っているのか笑いを狙っているのかわからない辺りは見事というべきだろうと思う(大体タイトルが素晴らしい)。動きとしては前半の歩き回る部分が凄かった。数歩歩いては向きを変えるのだが、向きを変えるまでの間に一度も同じステップがない。歩行に反復が含まれていないのだ。いってみれば7拍子で歩いて、次は9拍子、次は17拍子、次は5拍子、という具合。角度やスピード、力の配分、着地点、重心などがガンガン変化してギクシャク進む。適当な「千鳥足」とかではない。コントロールが利いている。後半にも歩行シーンがあり、あれが出るかと思ったが出なかった。舞台中央のスポットに立って上に伸び上がりながら白目を剥き続ける時間が長い。全体ではやや冗長で、緊張感がもたなかった。「舞踏」だが、その活用の仕方に方法論的な意識の萌芽を感じる。20分。
▼AMM 『それぞれの探し物』
大人から子供まで総勢16人(本当の小学生が出ている)、振付・演出・構成/北島宏子。サラリーマンとか女子高生とか主婦とか色んな格好をした人たちが登場する、公民館とかでよくやっていそうなミュージカルとか創作劇の類ではあるのだが、単なる「平和平等」を描くのではなく、それぞれに個性があり諍いもあり、と「多様性」を描写している点はなかなかに同時代的であると思う。しかし集団における多様性は、個々人においては「他者との緊張関係」として解釈され引き受けられねばならないのに、ここでやられていることは結局ありがちなマスゲームや、ミュージカルの幕間劇みたいなものでしかない。つまり世界観は同時代的でも、表現はそれに追いついていない。ディレクターにおける「多様の統一」が行われてしまっている。19分。
▼PORT+PORTAIL 『あ。』
まず下手の床にコントラバスが置かれ、男(河崎純)と女(Kim Miya)がそれを挟んで座り、ビールを飲みながら交互に弦を弾いていく。その行為が「会話」のアナロジーになっている。いや少なくとも何らかの情報を交換しているわけだから、これは一種の会話であるだろう。このシーンが終わると Kim Miya は踊り、河崎純は演奏をする。とにかくコンセプトが見えず、仲が良さそうだということだけが見える。最後にいきなりキスして終わる。13分。
▼Benny Moss 『NK』
垣内友香里(振付)、根岸由希。黒いストッキングをかぶった女が正座して下手奥に座っているのを見た瞬間フィジカルシアター?と思ったがプロフィールを見ると案の定、錬肉工房からストアハウスカンパニーという経歴である。上手手前にもう一人同じ格好の白ヴァージョンの人がいて、この二人が互いに関係を変化させながら感情を発露していく(NとK、根岸と垣内)。叫んだり泣いたり叩いたり、立場が逆転したり、感情が入れ替わったりする。ダンスは言葉を使わずに表現しなければならないから…なんていう言い方がよくされるが、どうして「言葉を使わずに」とわざわざ断らねばならないのかと思う。ダンスが、そのままで、ダンスであるというだけではなぜダメなのか。この人たちにも、「言葉を使わない」という「消極的」な条件に寄りかかろうとする浅さを感じてしまう。ダンスということに、あるいは身体表現ということに積極的な性質を見ず、ただ言葉や意味によっては決定されない両義的で不安定で反転可能な関係なるものを、その程度のことでしかないものを、再現=表象的に演じている。貧しい。20分。
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MOMIX 『オーパス・カクタス』

2005-01-21 | ダンスとか
有楽町・東京国際フォーラム(ホールC)。
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Tuesday Cool Night no.6

2005-01-18 | ダンスとか
神楽坂・セッションハウス。
Katie Duck×勝部ちこ×野口雅子×Ab Baars(cl,sax)×河合拓始(p)
ダックはアムステルダムの Magpie Music Dance Company という即興グループのディレクターで、野口はそのメンバー、バースも交流があるとのことで、じゃあその「マグパイ」なるものを見てみようと思って出かけた。ダンサーとミュージシャンがほぼ対等な関係で絡むコンセプトのようで、役割分担は見られない。バースは訥々としたクールな音を出していたのだがわりとすぐにいなくなってしまった。初めて見るダックは中年の落ち着きだがこれといった特色はつかめず。即興の中で起こる出来事につい色々な感情で色付けをしながら見て、それが自分の今のムードであるということだなと確認したりしつつ、手前にいる誰かと奥の方にいる誰かの腕が同じ形をしているとか、前半で河合のイスを野口が奪ってしまって以降、イスをめぐる確執めいたものが人々の無意識の中に(たぶん計画されていたのではないと思う)沈殿して、後半で同じドラマが再び大規模に反復されることになるなど、いわゆる「予期せぬ出来事」、つまり、計画されていなかった成り行きであるにもかかわらずあたかも計画されていたかのように、演じる者や見る者の悟性に訴える「形」が生まれてしまうという、よくある種類のことを眺めていたりした。河合のグルーヴィなリゲティみたいな演奏がとにかくかっこよかったが、結局この人のイスが奪われて陸にあげられた魚みたいになってしまっている辺りが視覚造形的にも最も面白かった。それにしてもこの21:40開演という珍しい時間帯、音楽のライヴだったら少しもヘンではないのだが、どうしてダンスは音楽のようにもっと痛快にラフにヒップになり切ることができないのだろうか。そもそも音楽とダンスは何が違うのかということを考える際に、音楽は音を出しさえすればそれは「音」であり曲がりなりにも「音楽」であることができるのに、ダンスは体を動かしてみてもそれが「ダンス」になるとは限らず、つまり一生懸命何かを「出力」しているはずなのに何も起こらないということが往々にしてある、という風に今まで考えたりしていた。音はある種容易に「出す」ことができる。そしてダンスの場合、「出力」(いつダンスなのか)が曖昧である。しかしこれだけでは不十分だった。本当に決定的なのは、ダンスは「出力しない」ことができないということではないのか。そこに体があれば、いつもダラダラダラダラと何か「出て」しまっている。ダンスは黙るということができない。だからかえって、有意味な何かをクッキリ明瞭に「出す」のが難しい。ハケたらハケたで、ハケ方が何かニュアンスを持ってしまうし、「ハケた」という事実を空っぽの舞台が語ってしまう。いわばこのオン/オフのメリハリのなさが、例えば「朝まで」とか「休憩の後、第二部」とか「アンコール」とかいう類の盛り上がり、熱狂を遠ざけてしまうのに違いない。単なる生活、単なる生、単なる生における様々な悦びとの差の曖昧さ。でもこれが即興ではなくて振付だったら、もう少し話は違うのだろう。「曲」があれば、メリハリが出る。とはいえ音楽ならば即興だろうが何だろうが問題ないわけだから、やはり音楽とダンスの質的な差異がここに突き止められたことは確かだといえる。
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MOMIX 『パッション』

2005-01-18 | ダンスとか
有楽町・東京国際フォーラム(ホールC)。
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ダンスがみたい! 新人シリーズ3(Dグループ)

2005-01-12 | ダンスとか
神楽坂die pratze。
▼きこり文庫 『エプロンかけて、町をゆこう ~たぶん私達に出来ないことは、何もないと思うよ~』
▼神村恵 『something soft & pink』
▼レモン組 『もがき絵詞「若子快庵」』
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TAP DOGS

2005-01-11 | ダンスとか
有楽町・東京国際フォーラム(ホールC)。
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大樹近作集2

2005-01-10 | ダンスとか
神楽坂・セッションハウス、昼。
松本大樹振付による三作品。時間を計り忘れてしまったが、多分30分/5分/30分ぐらいだったと思う。
▼『7区』
ダンサー4人(若松智子、奥田純子、JOU、大塚啓一)が舞台左右に常に待機しつつ、どんどん組み合わせを変えながら純粋な動きのシークエンスをつないでいく。音楽の付け方、必要最小限にしか変化しない照明など演出効果も含め、あらゆるもののタイミングがこちらの裏をかくよう計算して作り込まれている。思わぬところで反復やユニゾンが起こったり、ズレていったり、戻ってきたり。今自分が見ているものがすぐに予想外の仕方で切り替わってしまうのだということを絶えず想像せずにはいられないのに、予測することはまず無理、ということから来る浮き足立つようなテンションがずっと持続する。ヴォキャブラリー自体も、バレエを基礎にしたヨーロッパ的なものでありながら動線がよく練られていて、意外性をもっている。ベタベタな動きはほとんど出てこない。なかなか巧いなあとは思うのだが、しかし同時に、日本のこういう場でこの路線を地道にやっていくのもしんどいなあとも思ってしまう。ところで奥田純子という人はたぶん初めて見るのだが、ヘンだ。体は利くのに、遅れたり、ユニゾンで形が崩れて全然違うものになっていたりする。リズム感がヘンなのだろうか?よくわからない。謎。謎に興味を惹かれる。大塚啓一は、何となく顔が笑っていて、無機質な雰囲気にはあまりハマらない気がする。
▼『PIPE#1(トリ)』
直角に曲がったボイラー管の断片のようなものを松本大樹がかぶってオタオタするという小品。これは意味がよくわからない。
▼『PIPE#2(リコーダー)/Final Home』
奥田純子のみ上手奥のイスにずっと座っていて、残りの4人が体を使った山手線ゲームみたいなことをしていたりする。全員がリコーダーを吹く場面もある。終盤で大量のイスが運び込まれ、斜め奥へ向けてズラッと配置される。やはり日本っぽくない、まあ一言でいえばラバンセンターっぽい空間の使い方。照明は蛍光灯が主。
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地点 『雌鶏の中のナイフ』

2005-01-07 | ダンスとか
小竹向原・アトリエ春風舎。
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