こまばアゴラ劇場、夜。
得居幸が五人を振付けたということだが、『kNewman』の時とあまり印象は変わらず、そこは良くも悪くも意外だった。ダンスというより、支離滅裂な「遊び」のようなシーンが45分間続くのだが、正直、途中で見るのを放棄してしまった。彼女らが変わったわけではなく、ぼくが変わったのであって、その点は悪いが、どうしてこんなにブリッ子してオッサン受けを狙うの?という素朴な疑問がわく。あるいは百歩譲って、マンガチックなキャラを多彩に演じることでコミカルなリズムを作り出すことを、方法なりスタイルなりとして本当に自覚してやっているか?という疑問。この点は、自分自身、スルーしてきた。そういうことは非本質的だという風に考えてきた。しかし明らかに、彼女らは演じている。そしてそれがあまりにも平面的に造形されたキャラなので、見る側にもはっきり意識される。だから演じる対象と、演じる主体との間には距離があることもわかる。にもかかわらず彼女らは、あたかもそんなものは無いかのように演じ通そうとする。これにシラけない人は、多かれ少なかれ萌えることになるだろうが、これは趣味の問題ではなく、イデオロギー的な問題だ。なぜ彼女らはかくも自己をわかりやすい、単純なものへと造形するのか?そしてそれを欲しがる人々の欲望はいかにして構成されているのか?もし yummydance がこのようなダンスをスタイルや方法として自覚的に選択し、行っているのなら、こうした問題を意識し、クリティカルな検討を行わざるを得ないはずだ。それをやっているダンスと、やっていないダンスとははっきり区別しなければならないと思う。ちなみに個人的に yummydance で最も注目していたのは純粋に技術的な側面で、2002年の「踊りに行くぜ!!」で見た戒田・合田・三好の『Locker Room』の、高密度で支離滅裂につながっていく動きと関係の濁流みたいなものがいまだに忘れられない。