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ダンスとか。

ダンス・フィルム・ヴァリエーション/Jプログラム:ジャズ・イン・ザ・ボールルーム

2009-09-28 | ダンスとか
渋谷・イメージフォーラム。
▼『ジャミン・ザ・ブルース Jammin' the Blues』(監督/ジョン・ミリ、出演/レスター・ヤング、ハリー・エディソン、マーロウ・モリス、シドニー・カーレット、イリノイ・ジャケット、バーニー・ケッセル、ジョー・ジョーンズ、マリー・ブライアント、ジョン・シモンズ、アーチー・サベージ他、1944年)
▼『ストーミー・ウェザー Stormy Weather』(ニコラス・ブラザーズ、監督/アンドルー・L・ストーン、1943年、抜粋)
▼『ハーレムは天国だ Harlem is Heaven』(ビル・ボージャングル・ロビンソン、監督/アーウィン・フランクリン、1932年、抜粋)
▼『ラプソディー・イン・ブラック・アンド・ブルー A Rhapsody in Black and Blue』(ルイ・アームストロング、監督/オーブリー・スコット、1932年)
▼『ブラック・アンド・タン・ファンタジー Black and Tan Fantasy』(デューク・エリントン、フレディ・ワシントン、ホール・ジョンソン合唱団、コットン・クラブ・オーケストラ、監督/ダドリー・マーフィー、1929年)
まず『ジャミン・ザ・ブルース』。ダンスよりもジャズメンたちのセッションが主ではあるが、こんなカッコいい映画があったのかと感動。真黒い背景に絶妙な照明で身体と楽器と紫煙が浮かび上がり、アングルと構図が次々と鋭角的に切り替わる。10分ほどの短編ながら強烈な世界観を感じる独特の映像表現。ニコラス・ブラザーズはアクロバティックなタップで、様々な段差を利用してダンサーおよびカメラが激しく上下移動したり、奥行きが活用されたりする辺り、アステアが激賞する所以かなと思った。それよりビル・ボージャングル・ロビンソン。左右に五段ずつの階段が付いた山型のオブジェ(どこへも通じてはいない階段、いわば純粋階段)を昇ったり降りたりしながらタップを踏むところを、真横からミディアムショットで映していたりするのがすごく面白い。なぜタップに階段が必要なのか?それは足が昇り・降りしようとする際、重力と筋力のバランスの変化、そしてもちろん「上下」に加え「前後」の足の移動が入ることで必然的にステップの「拍」が変化し、リズムに幅が生まれるからだ。さらにいえば昇りと降りでは重力の関係からリズム構造にも違いが出る。人間の筋肉のはたらきと、他ならぬ「音楽」とが、こんなにも生き生きと地続きになれて、しかもそれがこうも歴然と目に見えるというその事実に驚喜する。『黒と茶の幻想』は、エリントンの演奏で踊る踊り子がなぜか舞台袖で具合が悪くなって、一応踊ろうとするけどダメで、エリントンの部屋に担ぎ込まれ、ベッドの周りでバンドが『幻想』を演奏する祝祭的なムードに包まれながらそのまま昇天してしまう異様な筋書。病める舞姫。最後の『スピリット・ムーブス The Spirit Moves』はDVDで出てるやつなのでパスした。
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Dance Triennale Tokyo 2009

2009-09-28 | ダンスとか
青山円形劇場。
▼フランク・ミケレッティ/クビライ・カン・アンヴェスティガシオン 『Espaco contratempo』
Frank Micheletti/Kubilai Khan Investigations, Espaco contratempo
このグループを見るのは三度目。2004年に見た『Mecanica popular』のように、政治的なテーマを感じさせる面があり、だから今回も「共鳴の地図を描く(Draw a map of resonance)」というプログラムノートの書き出しから、どんな「空間」が展開するのだろうと期待した。でも見ている間ずっとタイトルを Espaco contemporaneo だと勘違いしていた。単なる共時性ではなく、偶発的で予測不能なことが起きる空間という意味なのだろう。エレクトリックギター奏者が中央にいて、ダンサーは男性二人。初めにミケレッティが床から伸びた糸をギターの弦を通して空中に張り渡し、それを弾いて音を出した時、「空間」をすごく感じさせられた。けれどもその後はすごく普通の即興セッションになった。これを contratempo というのは、いかにも簡単なことのように思えた。
▼キム・ヒジン/モム・カンパニー 『Memory Cell』
Hee-jin Kim / MOM.Compagnie, Memory Cell
振付・出演/キム・ヒジン、リュドヴィック・ギャルヴァン(Ludvic Galvan)
長身の女性と、中肉中背の男性のデュオ。端正に作られたヌーヴェル的な動きで一方が他方を追いかけたり、ちょっとドラマっぽくなったりする。女性はしっかり踊れるが、男性が……こういう時、日本だったら「キャラ」という方向へ行くわけだけど。たとえ同じ振りを踊って差異が明白になっても、滅多なことでは身体的条件を「個性」などとはいわないのがヨーロッパの保守本流だと思った。ヨーロッパで、小さいダンサーもいるグループ、例えばローザスやピナ・バウシュにしても、「踊れない」ことを売りにする人はいなくて、むしろいかに身体的条件をカバー(または克服)するかという方向にエネルギーを注ぐ。
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小川水素:Homage to [a] Life 2009 『Stand!』

2009-09-28 | ダンスとか
NEO COLLECTION 2009

日暮里・d-倉庫、公開ゲネ。
RAFTでやっていたこのシリーズはずっと気になっていて、いつも日程が合わずに見逃していた。今回「公開ゲネ」という設えのおかげでようやく見れた。全面的に無音。タイトルの通りに、五人の出演者がずっと立ち続けていて、やがてポロポロと位置を変えたり、その移動する動きがより連続的な動きになっていったりする。あるいは壁に寄り掛かった姿勢のキープと、変化。さらにはボールをパスし合う行為など。あからさまにジャドソン的な作業なのだけど、真面目すぎて、見ている側としては好奇心が持続せず忍耐モードになる。ジャドソンの人たちっていうのはもっと「遊び心」というか、ふざけてしょうもないことをやってるんだというメンタリティがあり、わざわざ見に集まって来る観客たちにもキャンプ趣味というものがあって、小さいことに関心を集中させたり退屈を楽しんだりする一種の「気分」が共有されていたんじゃないかと思う。遊びの感覚というのは突発的なひらめきや逸脱をもたらしてくれるものだと思うし、観客の視線との相乗効果(共犯関係)が最もよく発揮される局面でもあるに違いないが、それを捨てるとなると、残るはガチの知性で勝負ということになる。そしてガチの知性は、だいぶ終盤に近づいた頃、一人のダンサーが舞台上を一定速度で歩き回り、それを脇からもう一人がずっと追尾して行って、さらに追尾する人が二人三人と増えて行くシーンではっきりと輝いていたように思う。追尾する側が最終的に五人に達すると、舞台空間の制約から、大きくうねる集団によって一人目のダンサーが動ける範囲が狭められる。「運動」は、雪だるま式に肥大したために、もはや最初の頃のようには自由ではない。導いていた側(リーダー)が、追随する集団(フォロワー)によって逆に行動を規定されるようになり、ひいては集団の中に呑み込まれて、誰が主導権を握っているのかすら見えなくなっていった。即物的な現象というよりは少し演出が加えられているようにも思えたが、これを見ながら、「組織論」「集団論」というのは振付家の重要な仕事であり得るんだと気付かされ興奮を覚えた。この領域、いま誰もやってないんじゃないかと思う。
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