dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

アルディッティSQ+ケージ+白井剛 「アパートメントハウス1776」

2006-08-31 | ダンスとか
千駄ヶ谷・津田ホール。
▼ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第13番
▼細川俊夫:花の妖精 ―弦楽四重奏のための
▼西村朗:弦楽四重奏曲第2番「光の波」
▼ケージ:44のハーモニー ~アパートメントハウス1776より

(→『音楽舞踊新聞』にてレヴュー)
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大橋可也&ダンサーズ 『明晰さは目の前の一点に過ぎない。』

2006-08-27 | ダンスとか
吉祥寺シアター、昼。
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ひびきみか 『カミーユ・クローデル』

2006-08-26 | ダンスとか
代々木・ダンスギャラリー響。
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セレノグラフィカ

2006-08-26 | ダンスとか
三軒茶屋・シアタートラム。
▼『それをすると』
▼『終わらない段落』
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Yoshiko Chuma 『A Page Out of Order』

2006-08-20 | ダンスとか
浅草・アサヒアートスクエア。
(→『音楽舞踊新聞』にてレヴュー)
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ダンスがみたい!8/ピンク 『We Love Pink! ~夏休み~』

2006-08-19 | ダンスとか
神楽坂 die pratze、夜。
去年3月のトラム以降見ていなかったが、ラボの時に感じた黒沢テイスト(間の外し方、仏頂面)は割と稀薄になっていた。とはいえ中盤で出てくる虫取り網の扱い方などは、わざと実際の長さよりも短い(あるいは長い)イメージで振り回すことによって物を半コントロールの状態に置き、黒沢風の幼児的な乱暴さを見事に醸し出している。思い切り突き出した網の先端が何にも届かずにあえなく墜落しそのまま荒々しく床を引っ掻いたり、思わぬタイミングで先端がスッポ抜けて飛んで行ったり、見ているだけで自分の体が無造作に千切られて散乱するような感覚に襲われる。他方また、観客を正面切って無視するポーズ、わざとブスッとしてみせる黒沢的な感じは全体に漂っているのだけれども、しかしそうやって切った啖呵を60分以上も支え抜く力量(傲慢さ)は彼女らにはなくて、むしろその一生懸命ツッパッている健気さが同情を誘い、後に、やっぱりイライラさせられた。体操着からワンピースになってからの後半は、無音でスカした間を長引かせたりするのだが、全く成立していない。勢いやワンアイディアで20分ならともかく、無手勝流で60分はやはり難しいのだろう。しかし冒頭から前半までに限っていえば、かなり面白かったのである。ラボで見た『ぷわって突いたり くりって刺したり』同様、体操着のスポ根ネタで、今回は正面奥の壁の隙間で必死に腿上げをやったり、ジョギングしたり跳ね回ったりして体力をひたすら消耗してみせる。本当にこの程度の体力なのかという疑念もよぎりはしたが、とりあえず「疲労」を主題化したことによって、ラボの時よりもずっと深まりそうな気がした。もちろん「疲労」だけなら、ヤン・ファーブルがずっと前に『劇的狂気の力』でやっているし、最近では黒田育世と金森穣がやっている。しかし須加めぐみが反復横跳びを、ヘロヘロになりながらなおも(むしろ一層)リズミカルに持続しているのを見た時、「ダンスは疲労を超越する」という事実を目の当たりにして興奮したのだった。これは鍛えられた金森の肉体が疲労とともに崇高な輝きを獲得して行ったのとは違い、単に緩やかな「死」というか、「生」からの滑落に他ならない「疲労」の下り坂さえもダンスは冗長に引き伸ばし、さらにはその死の中で生のテンションを高め、それによってますます死を加速度的に手繰り寄せてしまうということなのである。この下り坂のスピード感が、須加めぐみのダンスだった。健康や体力の増進のための効果的なルーティーンが、より「楽」なフォルムへとずり落ちていく時、その「楽」というのは体力を最も消費しない効率的な反復という意味では必ずしもなく、文字通り「楽しい」反復という意味だ。つまりドリルの労苦が、リズムの快楽に座を明け渡す、そこでは生=ダンス=死なのである。ともかくこういう風にして体操とダンスが境を接しつつ、互いに鎬を削るということに注意を喚起し得ただけでも、この日本女子体育大学出身の三人組が体操服を着てダンスをやっていることの意味は大きい。なぜなら「体育」は、「演劇」や「音楽」と並んで、しばしばダンスが寄生して(されて)きたジャンルの一つなのであり、今日の日本こそは1920年代のドイツからギムナスティークの伝統を受け継ぐ特異な場所であるからだ。日本女子体育大学でダンスをやっていなければ、体操着で踊るダンスを作ろうなどということは考えない。だからピンクには、今後もこの「体育」の主題、ひいては日本の近代化という歴史的主題への批評を展開していってもらいたい。彼女らには実体験があるはずだ。ダンスが体育であり、体育がダンスであった「大学ダンス」の日々、その日本的歴史的経験を舞台において批評してもらいたい(疲労とリズムについていえば、中井正一を参照しないわけにはいかない)。またそれが、彼女らが(知らないフリをしつつ)仄めかしている「ブルセラ」および「コスプレ」の主題ともリンクすれば、日本の富国強兵の底流をなしてきたエロス(性)とその逸脱、つまりは高度経済成長とバブル崩壊を経た身体の産業化の過程に、一つの歴史観を提示することもでき、完璧である。
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Dance Theatre LUDENS ショートピース公演

2006-08-19 | ダンスとか
中野富士見町・plan B、昼。
▼太田ゆかり 『Portrait』
スカーフで髪を覆い、大きなサングラス、ワンピース。イスを使いつつ、部屋でゴロゴロしているようなフロアの動きが多いが、それでいて外界からの視線に対して身を守っているようでもある。音楽はボーイソプラノ。やがてサングラスやスカーフを外し、後半は空間を大きく使ったアスレティックな動きになる。音楽もノイズ的なクールで無機質なものに。プログラムに書かれた「自分で見つける自分。他人が見つける自分。」という文に照らせば、前半と後半はそういうコンセプトで分けられているようだ。自分の体を弄んだり、イスの下をくぐったりする前半では、無邪気に体を動かす楽しみと、人の視線への羞恥とが些か説明的に示され、後半は抽象的な自律空間の中で客観的なフォルムが展開される。しかし振付コンセプトに比べると踊りはコントラストが弱い。だらしなく動く場面は几帳面過ぎ、シャープに動く場面はルーズ過ぎる(体と空間を幾何学的に関連付けながら、伸ばした腕で斜線を作っているのに指先まで意識がいっていない、など)。そこに何か意図があるのかどうか。15分。
▼伊豆牧子 『inout.』
作品として見たら全くダメだが、踊りとしては最高であった。振付の素材はどれもどこかで見たようなものばかりで、しかもあまり論理的に構築されていないので全くスムースな流れを生まず、踊りにくそうに見えるのだが、むしろ振りなどは踊るための適当な言い訳に過ぎないのではないかと思うくらい丁寧に、スリリングに踊る。粘っこく、自分の速度で。行き過ぎそうになったらスピードを緩め、渡りにくい細い道に来たらやっぱりスピードを緩め、見かけを装わず、覚えたての振りをじっくりトレースするような密度の高い動きだけがずっと続く。見ている側としても、振りなんか別に何でもいいと思わせる、こういう踊りにごく稀にぶつかる。音楽はアンビエントっぽいものが流れていて、途中で上手奥のイスが置かれた狭い空間へ移動し、ラジカセをいじるとダウンビートのロックっぽい音楽に変わる。開けた空間と「個室」風の場所、「in」「out」の構成は太田の作品と近い。17分。
▼有吉睦子 『a requi M』
京都で活動していた人で、前に作品をヴィデオで見たことがあり、ずっと気になっていたのだが、やはり水準が非常に高くずっしり手応えがあった。前半は無音。足をスッと持ち上げて後ろに流しながら体を波打たせる、とても変わった動きの反復の後、白い菊の花を耳の上にかけ、するとその耳の反対側をこちらに向けて横に移動、腕の振りやターンなども片側に偏る。何度も花をかけかえ、右なら右、左なら左へと執拗にこだわりながらヒラヒラと向きを変える。中盤は舞台中央手前でイスに座った姿勢での手踊り、長い腕を活用して緩急や質感を絶妙に変化させる。背景に菊の花びらが散る映像が映し出され、風鈴の音や、蝉の声、遠くにピアノの音など。後半は再び立ち、冒頭のモチーフをやや脱力して繰り返したり、菊の花をいくつも飛ばしたり。全編通してどこも強く、説得力がある。何となくやってみた、という段階で留まっている部分がない。かといってリクツで固めているわけでもない。洋の東西を問わず「葬送」の行為が孕んでいる奇妙な晴れやかさ、あれは何なのだろうということを考えた。個への関心の集中とその解放、つまり共同体への開かれ、というようなイメージが、有吉の身体から立ち昇って来る気がした。18分。
▼梶原暁子 『Petite Danse』
白いワンピースでこの人もまたイスをもって現れる。トイピアノ、後半はミュゼット。何というか、様式化された動きや定型のイメージを実に律儀に繰り返す作品である。古風な「フランス」(フランス人形?)のステレオタイプが(それにしてもタイトルの冠詞はあまり略さないと思うのだが)、平然と手際よく展開されていくこの圧倒的な「善意」は、確かにルーデンスの作品の中にもしばしば見られる。こちらの顔色も窺わずに押し付けられてくる笑顔…。「古典主義」の精神が、この至ってウェルメイドな仕上げを可能にしている。古典ないし古典主義的作品とは、誰か特定の個人の産物という域を越え、作った者もそれを享受する者も等しく同じ集団の中で匿名化することができる、そういう調和の状態を志向する性質のものだ。つまりそれは何か大きな存在に身を委ねて安心している。この作品の場合それは「フランス」なのだが、それがそのままで誰にでも通じる(通じるべき)と思っているかに見えるところが、見る者の顔を引きつらせるのだろう。子供扱いされて教育されているような気分にさえなる。先生は自分を疑わない。むしろ生徒の方が自己を疑うように、仕向けようとする。17分。
▼岩淵多喜子 『Moment』
昨年発表されたルーデンスの『Moments』の一部をソロに作り変えたもの、とのことだが『Moments』は未見。子供の声がしていて、岩淵は缶をいくつか並べ、おもむろにその一つを床に突き立てて動かすと粉で太い線ができる。その線を引いていきながら自分の体の一部をなぞり、そこから姿勢を展開してさらに線を延長していき、また体をなぞっては姿勢を動かしていく。体の動きを「軌跡」に置き換えるアイディアはよく見かけるが、こんなに面白くやっているのは初めて見た。床の平面(二次元)と体の立体(三次元)とが、決して交わらずに接点を保ち、各々の過程を進行させていく。床の上の線では簡単に進めるところが、体では真っ直ぐ進めなかったり、体は跨ぎ越せるところが、線は迂回しなければならなかったりして、しかもこの両者が互いに干渉する。床上に伸びていく線が身体のもう一つの部位ででもあるかのような、不思議な感覚に襲われた。中盤以降は無音で、珍しく即興になる。線をどんどんかき消して、再び粉を集めて垂直に落として新たな線を作って見せたりもするのだが、もう少し冒頭部分をじっくり見て、空間感覚を研ぎ澄ませてから、他の諸々を見たいと思った。19分。
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ダンス白州2006/タチアーナ・グリンデンコ(vl) &ウラジーミル・マルティノフ(p) コンサート

2006-08-16 | ダンスとか
白州・森の舞台。
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ダンス白州2006/伊藤菜起 『ひとりまい』

2006-08-16 | ダンスとか
白州・中山舞庭。
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ダンス白州2006/「ダンス・白州 ――青天井の踊り場・27の独舞――」(第六日)

2006-08-16 | ダンスとか
白州・水の舞台。
▼ブダイ・エニク
Buday Eniko
▼マリア・ベルナデッサ
Maria Bernadetha
▼アンナ・ガラフィーヴァ
Anna Garafeeva
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