dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

Alvin Ailey American Dance Theater

2005-12-29 | ダンスとか
NY, New York City Center.
▼Judith Jamison with Robert Battle and Rennie Harris, Love Stories
▼Ulysses Dove, Episodes
▼Alvin Ailey, Revelations
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Egon Schiele

2005-12-24 | ダンスとか
NY, Neue Galerie.
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Caden Manson/Big Art Group

2005-12-21 | ダンスとか
Caden Manson/Big Art Group, House of No More

NY, Dance Theater Workshop.
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Radio City Christmas Spectacular

2005-12-19 | ダンスとか
NY, Radio City Music Hall, 夜。
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Armitage Gone! Dance

2005-12-17 | ダンスとか
Armitage Gone! Dance, in this dream that dogs me

NY, The Duke on 42nd Street.
ここしばらくずっとイタリアやフランスで活動してきたキャロル・アーミテージが2004年のジョイス・シアターでの新作を経てNYに帰還し、新しいカンパニーを立ち上げたということはそれなりにニュースになっている。男性3、女性2の衣装は青いレオタードで(終盤近くに赤いレオタードの男性2、女性3が加わる)、背景にデヴィッド・サーレによる折れ曲がったボイラー管のような銀のオブジェ、舞台上部ギャラリーにミュージシャン(チェロ、サンプラー、ギター、パーカッション)。途中でチェリストは舞台に降りて来る場面がある。クラシックが強いベースになっていて、そこから発展させた線的な動きをできるだけ夾雑物抜きに見せる方向性の割にはダンサーがあまりに貧弱で説得力がなく、序盤は眠かったが、大柄な William Isaac とのデュオにおける Megumi Eda が良くて目が覚めた。空間感覚が明晰であり、振付が含んでいる動きのダイナミズムを自分のものにしていて曖昧なところがない。バランシン、カニンガムとある種の王道を経てきたアーミテージの振付をとらえる語彙が自分には不足していて歯痒いが、Isaac のサポートを得て横へ伸び上がりながら体を思い切り開いて宙に放り上げられた片足の、重力で落ちて来る膝を再び素早く蹴り上げるなどといった細部にも、コントロールされた生命力が満ち満ちていて迫力がある。ただ言われたからやっている、というような気の抜けた踊りとこういう踊りの違いはどこから来るのか。与えられた形と無形の生命力がしっかり激しく衝突するその緊張感が、踊りを充実させるのだと思う。「矛盾」が激しければ激しいほど、形への愛憎がひたすら単なる「強度」として現れてくる。ダメな踊りは、体の持っている力を形に容易く従属させてしまっていて、しかもそれによって形の持っている力とも正面から出会えないままになっている、という気がする。Eda はこのデュオの部分が一番良かった。他にもう一人、非常に小柄な男性 Leonides D. Arpon は、小回りが利く体で機敏に、そして少し前に出た首とともに目線で方向を素早く見定めつつ、ダンシーに(強度とともに)動いていて印象に残った。Arpon の踊りは Eda と比べると一見「ラフ」に見えるが、振付を真面目に取りすぎずラフにこなしているというわけではなく、徹底して真面目に受け取った上で、それからの逸脱衝動と闘っている。はっきり目に見えるほどのものではないが、動きにいちいち過剰な表情が付いている。歌でいえば、調子が出て来た時にこぶしを回したり、アドリブでリズムやメロディーをいじったりするようなもので、事実、顔はよく笑っていたように思う。要するに顔は振り付けられていなかったのだろう。そういう、穴があればそこから何かが溢れ出すような踊りっぷりも、踊りとしてのあり方だと思う。62分。
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Compagnie Marie Chouinard

2005-12-16 | ダンスとか
NY, The Joyce Theater.
Etude No.1
Chorale
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John Jasperse Company

2005-12-15 | ダンスとか
John Jasperse Company, Prone

NY, The Kitchen.

→『音楽舞踊新聞』にてレヴュー
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Wally Cardona Quartet

2005-12-13 | ダンスとか
Wally Cardona Quartet, Everywhere

2005 Next Wave Festival.
NY, Brooklyn Academy of Music, Harvey Theater.

→『音楽舞踊新聞』にてレヴュー
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Cores Collaboration 2005

2005-12-11 | ダンスとか
NY, The Puffin Room.
Ayako Kurakake/a-core-dance arts による企画。
▼Ofelia Loret de Mola, Excerpts from Mexican Flavors in American Cuisine
10月の Reverb Festival でマヤ文明のダンスをやっていた振付家。今回もやはりメキシコネタで、前半は女性が巨大な布を背景に、後半は男性がスペイン語(「花!」とか「夜!」とか)を呟きながら、しかし取り立てて変わったところのなさそうなコミカルな踊りをする。
▼Nelly van Bommel, Pongas Triste
この人の作品も Reverb Festival で見たが、今回のトリオはとにかく力みながら、息を吸い込む音を掛け声代わりにして揃えるユニゾンで、急激に動き出しすぐに止める(静止状態から一気に加速してピタッと止める)振付にはこれといって引っかかるところがなかった。というより、こんなに互いに近くにいるのに、呼吸ではなく呼吸音をきっかけにしたり音楽の唐突な変化に半ばせっ突かれながら動かねばならないということが悲し過ぎる気もした。食卓を囲んでいるのに皆で黙ってTVを見ているみたいな。
▼Masumi Kishimoto, Sleepy Time
自作自演のソロ。電車の吊革につかまって立ったまま眠ってしまうとか、起きてもすぐ眠ってしまうとか、ありえないタイミングでいきなり眠ってしまうという風にして、制御可能と制御不能のあわいをコミカルに見せる。あの経験をダンスにしようという着想には共感するけれども、それをマイムで処理してしまうやり方には共感しない。そういえば日本のダンスではあれだけよく見かけるマイムをこっちではあまり目にしないが、改めて考えてみると、徹底して記号表現とその操作に終始するマイムは普通に考えられているよりもダンスから遠いものだと思う。無意識のうちに体がガクンと落ちるあの瞬間を、振付を呼び水にしながらライヴで引き起こすというより、マイムはただ観客の隙をつき、目を欺くために「唐突さ」を演出する。予備動作を見せないで一気に崩れ落ち、そして極端に素早くリカヴァリーする、など。
▼Naomi Luppescu, Precise Mistake
10月に Dumbo Festival で見たのと同じ作品だが、内容は思っていたより複雑というか混沌としていた。四人の中でペアを組み替えながら、ドタバタと絡んだり、幾何学的なフォーメーションを作ったりして、秩序と無秩序の間を行き来する。
▼Ayako Kurakake, Lay Over
ダンサーは Nohemi Bamiuso。NYでは、たとえソロでも振付家が自分で踊るのではなくダンサーに振り付けることが多い。身体と振付の間の距離感が、日本とはかなり違う。正面向きに立って頭を後ろに仰け反らせ、肩から向こうが見えない状態でしばらくそうしている。そこから踊りっぽく移動して下手側にある椅子に座るのだが、その瞬間にパッと醒めてしまった。見慣れたものをまた見た、という感覚を意識した。その後も高い体勢のバレエとモダンの踊りが続き、最後はまた冒頭の姿勢に戻って終わる。しかしこの仰け反りはなぜ魅力的なのか。予期せぬ出来事が起こると思わせる何かが、その姿勢の不安定さの中にあるのだ。ただ立っているのでも倒れるのでもない、未決の状態でグラグラしている。鳩尾の辺りから奥へ向かうなだらかな傾斜の先に、ズルッといきなり知らないところへ滑り落ちてしまいそうな不安がいつまでもそこにある。単純であり、たったのワンフレーズなのだが、これはダンス的といえる。他の部分は不安を抱くまでもなくすんなり了解してしまえて、目が表面を上滑りしてしまった。在るものと見えているものが過不足なく一致しているように思える時、そこには運動を感じない。ところが仰け反りはもっともっと見るようにと煽ってくる。目が先へ先へ追い立てられるように感じる。
▼Kana Sato, Unravel (work in progress)
下手側にカリグラファー Junior Aoki、上手側から布が垂れていてそれを男性ダンサー Dai Jian が広げていくと、その下を潜って Kana Sato が中央に現れる。Dai Jian がその衣装に筆で何かを書き付けていき、Kana Sato は揺らめきながら日本語で言葉を呟く。以降は、床上の布に文字を書き続ける男、下手であまり動かないが時々何かを書いている男と、中央で波に揺すられるようにうねりながら旋回する女、という三副対の状態になる。くねる文字の曲線が全体のモティーフだということは一応了解されるが、三人の身体が舞台上でどういう関係を結んでいるのかはわからなかったので、結局踊りだけを見ていた。しかしこれは一見、文字ではない人間が文字を演じようとするダンスのように思えるけれども、タイトル(「ほぐれる」)からすると決してそうではない。むしろ文字を書く筆先から遊離してしまった身体は、文字の体系から切り離されてしまった線なのであり、それがあてどもなく宙をさまよいながらどこまでも解体していくという、要するに規則を喪失してなお動くという、そういう「理念的」なダンスなのだ。ならば(漠然とした「自由」のイメージを踊ろうとするのではなく)そのダンスがどこまでダンスであり続けられるか、あるいはもうそれをダンスとは呼べなくなってしまうか、そういうギリギリの限界と格闘するところに「振付家」のフィールドがあるはずだと思う。
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Pascal Rambert / Side One Posthume Theatre

2005-12-10 | ダンスとか
Pascal Rambert / Side One Posthume Theatre, Paradis (unfolding time)

NY, Dance Theater Workshop.
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Shen Wei Dance Arts

2005-12-09 | ダンスとか
NY, Concert Hall, The Performing Arts Center, Purchase College, State University of New York.
The Rite of Spring
シェン・ウェイは2003年にアメリカン・ダンス・フェスティヴァルで『春の祭典』初演と『Behind Resonance』を見たのが最初で、その後の新作がどんな風になっているのかが知りたかったのだが、ここでもまた『春の祭典』だった。久しぶりに見て、あれっと思ったのは、ダンスが音楽に対して非常にリテラルに付いていること。前回見た時は音楽の構造ではなくて、あくまでも響きの質感のレヴェルで共鳴しつつ並行関係を保っているように見えたのだが、今回はまるで楽譜の視覚化で、単音のメロディを律儀になぞるソロのダンサーがいたり、音楽とダンスのスピードが一致させられていたりして、少々深みを欠いていた(後で聞いた話では、この作品でダンサーが音楽から距離を保つには意識的な努力が必要で、上演を多く繰り返していく上でそこが課題になるのだという)。しかし改めて見ても凄いムーヴメントだと思う。四肢や胴を様々な螺旋形で展開する動きはもちろんだが(カンフーに由来するとのこと)、主要なパートを踊る中国系の女性ダンサーの、フロアでの動きが圧巻だった。どういうわけか前回見た時の記憶には残っていないのだが、人形振りのように関節を硬直させて色んな方向へリズミカルに折り畳む、その線の多様さ、複雑さには、体の動きという有限な既知の素材から未知のものが生まれてくるという芸術の不思議を強烈に感じさせられた。ちなみにこの日は開始後15分くらいのウェイのソロの部分で火災報知器が鳴り、上演が一時中断されてしまった。観客は全員建物の外に出され、しばらくしてから戻ったのだが、冒頭からではなく途中から再開された。
Folding
ウェイの中国時代の作品で、広東モダン・ダンス・カンパニーによって2000年に初演された。背景にウェイ自身の手になる巨大な絵画がかけられ、ポツンポツンと魚が泳いでいる。ダンサーは赤いスカート状の衣装と、後頭部が膨らんだ奇妙な肌色のかつらを付けている。動きは終始遅く、身をくねらせながら列をなして舞台上を移動する。これは背景画の魚を模倣しているらしく、腰を曲げて前屈みになったダンサーと直立したダンサーが結合しているのは、魚を対で描く中国絵画の慣習に基づくとのこと。音楽は前半がチベット仏教の声明で、煌びやかにしてグロテスク、後半はタヴナーの何ともいえずチープな、それでいて威圧的な曲。『Behind Resonance』と同じくインスタレーション的な性質の強い作品のようで、視聴覚的にはともかく、ダンスとしてはあまり見るところがないように思う。
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Sasha Waltz & Guests

2005-12-08 | ダンスとか
Sasha Waltz & Guests, Impromptus

2005 Next Wave Festival.
NY, Brooklyn Academy of Music, Howard Gilman Opera House.
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Flow

2005-12-03 | ダンスとか
Movement Research Festival 2005: Open Source
NY, St.Mark's Church in-the-Bowery.
Curator koosil-ja, Parcipating Artists Jonah Bokaer, Corey Carver, Milka Djordjevich, Chris Ferris, Anne Gough, Hilary Maia Grubb, Caryn Heilman, Christine Kaaloa, Abigail Levine, Daniel Linehan, Andrea Liu, Clarinda Mac Low, Naoko Morita, Dean Moss, Yves Musard, Nanako Nakajima, Akiko "Bo" Nishijima, Margaret Paek, Regina M. Rocke, Marcia Rubin, Akiko Sasamoto, Marcy Schlissel, Rebecca Serrell, Claudia de Serpa, Storme Sundberg, Stephanie Tack, Sandy Tillett, Kate Valk, Todd Williams, and Melanie Maar, with Jessica Feldman (sound).
即興。デュオで3分、そこに別の二人が加わり3分、最初の二人が抜けて3分、また別の二人が入って3分、というのが90分間続く(組み合わせは開演30分前にくじ引きで決定)。この3分毎の規則的な切断というのが、全体が小気味よく運ぶポイントでもあるのだが、とにかく面白かった。前半は、即興慣れした感じの(良くも悪くもだが)動けるダンサーが続いて見応えがあり、後半はどちらかというとネタ持参のヘンな人が多くなってきて何が起こるかわからない雰囲気だった。一つには、ここのところカチカチに作り込まれたダンスばかり見ているせいで「即興」自体が新鮮に感じた、というのがある。しかし事実、即興が巧い人が多かった。巧い人は止まらないというか、固着しない。「目的もなく動く」ことがとりあえずダンスの基本的な性格だとすれば、「動くために目的を作る」ことがダンスの起点になる他はない。漠然と開けた可能性に制限を加えるという形で、まず動きのルール(法)を立てなければ動けない。しかしポイントは、それを維持しようとはしないところだ。多人数での即興は「動くこと」と「見ること」から成っている。「目」は自他の「動き」を解釈し、批評し、誤読する。それによって「動き」自体が別の方向へ、別の仕方で、という風に「動く」。つまりどんどん変化する動きは、ただ次から次へと移ろっているのではなくて、反省を介して累乗されていっているのだ。こういう中に巻き込まれると、自分の目の動きもまたどんどんダンス的になっていく。視線が居付かない。あっちも見て、こんな風に見て、と思いきやこんな風にも見ちゃったりして、という感覚はまさにダンスだと思う。視線だけじゃなく頭脳もフルに踊りまくる。
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Works in Progress

2005-12-01 | ダンスとか
NY, Dance New Amsterdam.
▼Camille Suggs, Hidden
ビョークと親子の話し声を使ったソロ。
▼Shalini Kumar, Cocteau Variations
ケイト・ブッシュで踊るソロ。
▼Keiko Abe, it will go straight through his head
男2女2。バラバラになったり揃ったり、隅っこで寝ていたり一人だけコミカルに動き回っていたり、というような複雑な構成を、無音でやっているところが興味深かった。剥き出しになった一人一人の息遣いが、それぞれの動きをつなぎ合わせるための不安定な蝶番になり、その不安定さが動きを生々しくしている。ただし、生々しいことがそのまま「ダンス的」なのではない。ただ生きていることと、踊っていることとは別なのだ。ダンスが生を過剰なものにする行為なのだとすれば、ダンスが(音楽への紋切型のアプローチを排除することで)多少「生々しい」ものになったといっても、ダンサーではない人々の単なる生を興奮させはしない。しかし、既にある「ダンス」なるものを起点に日常へ接近・回帰するのではなく、日常の単なる生を過剰化した結果生まれた「ダンス」には、誰もが興奮するだろう。
▼Eunju Chung, Sunshine after the Rain
とてつもなく長い四肢をもったダンサー。叙情的な音楽のソロ。
▼Mare Hieronimus, dreamrunner
10月に Dumbo Festival で見たのと同じ作品。機械や水の音などからなるノイズと暗いスポットの中で、自分の動きに批評を積み重ねていくようなソロ。斜め後を向いて立ち、振り向きかかった首を斜めにわずかに動かした冒頭の一瞬に震えが来た。前回よりも即興性が薄れて段取り的に感じたが、それよりも、弛緩した状態からいきなり鋭く速く動いたり、ダイナミクスが増して、だいぶ違う種類の踊りに見えた。
▼Zoe Scheiber, Moving w/o Volition
ダンサー5。ライヒの Different Trains を使ってズレたり揃ったりする。
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