dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

ダンスがみたい!6/杉田丈作 『ガルガンチュワ頌 ――臀ニ魂ハ在ルカ』

2004-07-31 | ダンスとか
神楽坂die pratze。
初めて見た。演劇から天使館へ入り、現在は舞踏石研究所を名乗っている。壁に黒いラシャ紙が貼られ、桟敷席がなく、床に照明機材が置かれていないおかげで、何だかこのハコらしからぬスッキリした空間。黒いレオタードにワンピースと被り物、背中に黒い羽根をつけたカラスのような格好の杉田が、片手に丸い大きな鏡を持って、キャスター付きのイスで滑って現われる。移動のスムースさが空間の質感によく調和して、まずは周到な作品構成を予感させた。上から吊るされたワイヤーに鏡を取り付けると、床のすぐ上の高さでそれがゆっくり回転し続ける。杉田はイスで滑りながら、あるいは上手奥のオレンジのスポットライトに照らされながら、何をするということもなく時間を費やし、このシチュエーション自体を観客に噛み締めさせる。不定形なリズムを刻むノイズ音楽が神経を逆撫で。こういう「何をするということもなく」という時に、ダンサーが実際何をしているのかはなかなか好奇心をそそられるところだ。見ている自分が退屈し、イライラし、眠くなったりしている間に、当のダンサーにおいては一体どんな動機が身振りを支配しているのか。これは観客にとっては結局、不可知の領域となってしまわざるをえない部分である。このシーンが終わると、被り物を外して顔を出し、羽も取って黒いワンピースで踊る。短く小さなストロークが散発的に打ち出されて、それが驚くほど正確に、彫り深くクリアにキメられていく。左の膝を曲げて全身を平行四辺形に崩しつつ、右の肘を折って肩をクルッと回すとか。さらに姿勢の変化が速く、曖昧なところがないので緊張度が異様に高い。瞬きしている間に一つの動きが始まって終わってしまっていたりするのだ。さらに奥で着替えて自衛隊みたいな格好になる。踊るというより、這いつくばったり、単に動き回り、両足のポケットから二本のハサミを取り出して両手で構えたりする。そのハサミを自分の首筋や舌に押し付け、金属と絡み合おうとする部分が何ともエロティックだったが、この人は何事につけ淡白すぎるというか、ここぞという部分に執着することをあえて放棄する傾向が感じられる。作品全体は、暗転し奥で着替えることによって独立したシーンをいくつかつなげた構成。音楽はバロック中心のクラシックと、ドイツのキャバレー・ソングがほぼ交互に流れる。作業着姿になって脚立を立て、大きな壁面に緑と白でアクション・ペインティング。次は白のシャツと紺のパンツに灰色のベレー帽に着替えて少し踊る。着替えている間に色々なことを喋るのだが、それが意識的に支離滅裂を装っていたり、内輪受けを狙ったりしているので、次第に興が醒めてしまった。「ブルトンが…」「ブレヒトが…」とか言ってみたりする辺りにも何かを感じてしまう。冒頭の活人画的シーンや、アクション・ペインティングなども考え合わせると、要するに「自分自身」ではなく「自分の好きなもの」を(懐古趣味的に?)人に見せたいといういささか子供じみた欲求が強すぎるように思われるのだ。最後はなぜかラクダのシャツとモモヒキになって、やや激しい手踊りなども出る。笠井叡のようにヒラヒラ、バサバサしているのだが、フォルムが強く、全てが骨太で正確である。無駄を削ぎ落として冗長に流れないのはクールなのだが、抑制があまりに過剰で、物足りない後味を残した。唐突に終わって腹三分目。もっと見たかった。
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ダンスがみたい!6/石井満隆 『Hic et Nunc ~今ここで、この場で~』

2004-07-30 | ダンスとか
麻布die pratze。
土方演出『舞踏ジュネ』などで知られる舞踏家。初めて見た。上手奥にミュージシャン二人。アルト・サックスとトランペットのバッキー、ダルブッカ(中東の陶器の太鼓)の有田帆太。初めは無音、赤フンドシの上から手ぬぐいを腰巻きにし、乾いた白粉をまだらに塗った石井が客席後方から現われ、均質な青緑の照明が作る広々と抜けのいい空間の中へ入っていく。足がアン・ドゥオールで開いているのが意外だ。重心はやや低めをキープしているが、足を擦ったり粘らせたりという仕方で重さや緩慢さを演出してはいないし、ジグザグした異形の身体を見せようとすることもなく、むしろ頻繁に踵を浮かせてドゥミ・ポワントで立ち、体を伸び上がらせる。かと思うと内股になったり脚が細くもつれたりもする。ところがいずれにしても胴は常に硬いままほとんど動かず無表情であって、その結果上半身が重々しく下半身が弱々しいという奇妙なアンバランスになる。腰が上体を支えきれていない印象を与える。それでいて、軽く閃かせては形を作る腕の筋肉は絶えず過剰な緊張を見せ、肩は引きつるように強張っており、目や口は時折慎ましやかなタイミングで大きく開かれて、漠然と何事かを伝えようとしているように見える。概略このような状態で空間内を終始動き回り続ける踊りだった。インパクトは強くないのに、非常にいびつな体である。途中で一箇所だけフロアに付く場面があったが、基本的に上下の動きに乏しく、動きの質感が一定で、またこちらの目を煽ってくるような緊迫した瞬間も特にない。とはいえ動きが独自の内的法則を持っているようには見え、ぼくはそこに何があるのかが見たくて意識をフォーカスさせようと努力していた。運動を構成するパラメーターとその変化の幅がおそろしく限定されているから、ある意味ミニマリズムともいえる。ところが予想外にもバッキーの演奏が発作的にしてきわめて攻撃的な種類のもので、唐突に鋭く張り上げられる高音や、熱狂的で自己陶酔的な速い即興がこちらの集中力を妨げるばかりか、石井本人から動きのイニシアティヴを奪ってしまうことも多かった。さすがにビクンッと驚きこそしないが、リズムやきっかけに関する両者の間のヒエラルヒーは明白で、どうしてこんな組合せが選ばれているのか釈然とはしなかった。照明が非常に丁寧に拵えられていて空間に変化を付けるのだが、主役が不在という印象は拭えない。中盤で一度舞台奥の階段を上って石井はハケる。バッキーと有田のプレイがしばらくあってから、再び現れた石井はやや力が脱けて快活さを帯びていたが、しばらくするとまた元の質感に戻って、ひとしきり動き、50分ほどで終わった。「今ここ」なるものが、いかに「かけがえのない」ものであり、そしてそれゆえに、いかに「ありふれた」ものにすぎないかを考えざるをえなかった。
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中野成樹(POOL-5)+フランケンズ 『ホーム・アンド・アウェー ~アメリカの短編を2つ~』

2004-07-28 | ダンスとか
横浜・STスポット。
▼『楽しく小さな家族旅行(あるいはちょっとした夢の話)』
▼『ちょっとした夢の話(それはきっと旅先のルール)』
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ダンスがみたい!6/イオアンナ・ガラゴーニ

2004-07-25 | ダンスとか
作品タイトル『The Rose was Sick and Smiling Died;』。神楽坂die pratze。
空間を縦にして、階段状の客席の一部も舞台として使用。正面の壁には実物大ぐらいの人体彫刻がいくつも設置され、床の上にはミイラのようになったダンサーたちが数名。彼女らが動いてオペ室を回り、階段客席の上からゴロゴロゴロゴロと転がって落ち続ける(出演者のクレジットは総勢13人)。壁にはジェノサイドにまつわる映像(特に第一次大戦後のバルカン半島における)が映され、中央の空間ではガラゴーニの即興ソロが行われる。暴れるか、叫ぶか、泣くか、何かをじっとこらえるポーズを取るか、といったようなもので、一言でいえば「ヒステリー」的。単に駄々をこねて関心を引こうとする子供のようだ。深みの感じられないテーマ、またその表現の仕方があまりに逐語的で、およそコミュニケートすることができなかった。
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笠井叡×荻野目慶子 『サロメ』

2004-07-25 | ダンスとか
表参道・スパイラルホール。
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吾妻橋ダンスクロッシング

2004-07-24 | ダンスとか
浅草・アサヒスクエアA、夜。
▼APE 『one day, I woke up Dance Crossing Version パート1』
▼康本雅子 『茶番ですよ、』
▼たかぎまゆ 『いさわ JR中野駅南口にある絶品の豆大福を売る店のこと』
▼ボクデス 河童次郎の『早く帰りたい』
▼身体表現サークル 『範ちゃんへ?』
▼風間るり子
▼ニブロール 『チョコレート』
▼APE 『one day, I woke up Dance Crossing Version パート2』
▼たかぎまゆ 『男の人生応援します』
▼康本雅子 『メロドラ飯事』
▼身体表現サークル 『育ちゃんへ』
▼KATHY 『KATHY in Azumabashi』
▼ボクデス 『蟹ダンサー多喜二』
→『ダンスワーク』56号「2004年ダンスの総括」にてレヴュー
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ダンスがみたい!6/黒沢美香&ダンサーズ 『ダンス☆ショー』

2004-07-19 | ダンスとか
麻布die pratze。
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指輪ホテル 『リア』

2004-07-19 | ダンスとか
原宿・EX'REALM。
細い通路を通ってまず狭い小部屋に入ると、紙芝居とマイムによって『リア』の筋が一通り語られる。しかる後メインの客席に移動するとそこは、土が敷き詰められ、どぎつい色の遊具が据えられた児童公園の廃墟のような空間。ストーリーは観客の頭にインストール済みであり、また設定上はすでに父殺しも完了しているので、ここから先もう物語らしきものは展開しない。いやその展開しない時間そのものが提示されるというべきか。リアの娘たち7人は、ウェディングドレスを着たり、女子高生になったり、主婦になってみたりするのだが、基本的にやっていることは変わらず常に子供のまま。玩具を奪い合い、ふざけ合って、じゃれているうちに本気のケンカが始まったりする。友達と敵の境目も曖昧だし、自分と相手の体の区別も大してリアルじゃないので、ただエネルギーの続く限り、行き当たりばったりに泥塗れになり血塗れになってひたすら遊びまくる。「子供から大人へ」という成長の物語が機能停止した後は、相手の拳をどうかわし、倒れる体をどう支えるか、右か左か前か後か、そんなレヴェルの短い「物語」しか残されていないから、この舞台はもはや「お芝居」=フィクションではなく本物のフィジカルな即興セッションにならざるをえない。衝動と感覚、反射的な感情の交錯。大まかな段取りこそあれ、動きの形を作り込むことはしていない。おそらく体と体の相性を時間をかけて擦り合わせていく中でお互いの間合いや呼吸を把握し、高い緊張関係の中にありながら調和と不調和の中間状態に戯れることを可能にしているのだと思う。人の体の最もナマな部分が限りなくナマのまま舞台に乗っていて、しかもそれが、見ている自分の現在に跳ね返ってくる。自分だって先の見通しもなく、理想も描けず、大体こんな感じで日々生きているんじゃないか。そう思い当たるや否や、7人の集団セッションの熱に煽られるこの興奮の経験自体が、興奮する自分の体への批評性をはらんでしまうという甚だアクロバティックな事態が生じる。見かけの自由とは裏腹に、まさにどん詰まりの21世紀。
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Dance Seed 2004 ―わたくしの森羅万象―(第三日・夜)

2004-07-18 | ダンスとか
千駄木・ブリックワン。
▼国枝昌人 『bystand』
五月に見た時とやっていることは基本的に変わらない。ただ前回はひたすら好き勝手に動きまくっているだけだったのが、今回は観客の視線に応えようという意識からか、挑みかかるような視線やポーズが加わり、ややナルシスティックに見えた。いずれにせよ、踊ることと、見ることとが、切り離された別々のこととして考えられているのではないか?と思いながら見ていた。舞台手前で仰向けになり両手両足を浮かしている状態の時に、次の神村がドドッと走り込んできて、奥で同じポーズを取り、交代。Dance Seed ではこうやってつなぎを工夫している。
▼神村恵 『もう無理、もう無理?』
四つん這いになり頭を床にこすりつけながら長々と前進してきて、上手側にたどり着くと立ち上がり、片足になって、走っているような横向きのポーズを取る。そのままギリギリと関節を締め上げていく。宙に浮いた足の膝、前後に折り曲げられた両腕の肘がギュウギュウ締まって、立っている方の足が揺らぐ。もうこの時点で何だかさっぱりわからない奇妙なノリが始まっていて、目が釘付けだった。バランスを取ろうとしているようでいて、それほど本気にも見えず、しかし粘りはやけにある。そして粘った挙句、クライマックスらしきものもなしに何となくやめてしまうのだ。どこまで計算しているのかつかめない、真偽定かならぬ無頓着ぶりが見る者を緊張させる。また舞台奥へ行き、妙な動きで壁伝いに移動。踊りらしい踊りも入って、身体能力が高いことは見えるのだが、主となるのは「振り」というより「貧乏揺すり」のようなダンスだ。床に寝て、震えていると、無音だったところへサティのワルツが流れ出す。いきなり足で壁を蹴ってすっ飛ぶ。それをニ、三回やる。パッと見はただ部屋でゴロゴロしているみたいなのだが、髪に隠れた半開きの眼でもって確実に観客を意識している。唐突な動きで見事にスキを突いてくるし、注意を引きつけたと思うと黙って軽くいなしてしまう。起きて立ち上がり、観客に後ろを向け脱力したままヨタヨタと千鳥足でボックスを踏む。再び無音。踏み間違えたり足がもつれたりしていて、そこに本気と冗談、演技とはぐらかしがメチャクチャに交錯している。こんな単純な行為の中にこんなややこしいことが行われている、その事実に驚いていると一瞬笑い声が聞こえた。後ろ向きで、ヨタヨタドタドタとステップを踏みながらこの人は笑ったのだ。気を抜いていたらつい出てしまった、というような。それまではこちらも半笑いで見ていたのに、神村本人が笑った時むしろ逆に背筋が寒くなった。「ワケがわからない」という意味で途轍もなく面白いのだが、しかし何せ「わからない」だけに少し怖くさえある。
▼新井英夫×早川るみ子 『a piece of paper』
初めて見る二人。まず新井が新聞紙をフワフワと腕に載せて現われる。裾の広い黒のパンツだが、動き出してみるとやはりKARASの動きだった。少しぐらい隠したらどうかとも思うのだが、こうして見ると勅使川原三郎の、動きの様式の堅牢さと、影響力の強さとを実感してしまう。ぼくの知る限りフォロワーは男性ばかりだ。女性でKARAS丸出しの人は見たことがない。途中から早川が現われて、新聞紙を千切って、カーテンの裏に隠れる。フロアでは新井が動き回っていて、時々カーテンの裏で動く早川の足が隙間からのぞいたりする。早川は終わり近くになってからちょっとだけ表に出て踊り、再びカーテンに隠れて、裏側から風がブワッと吹くと同時にどこかへ消え失せる(カーテンの裏に戸口がある)。二人の関係のコンセプトがもう少しクリアーに見たかったと思う。
▼譱戝大輔 『満曜日(みちようび)』
この人も初めて見る。というか名字が難しすぎて読めない。白のワイシャツに、下はベージュのパンツ一丁。桟敷の客の眼の前でしゃがみ込んだり、客席の方を無言で覗き込んだりして、おもむろに鼻をほじり始める。アイヌの民謡とともにそれが延々とエスカレートしていく。鼻血が出ないだろうかと心配になる。しゃがんだまま尻を突き出して、桟敷の客を嫌がらせたりする。鼻からこぼれてしまったらしい何か「大事なもの」を、客にも一緒に探すよう促すと、舞台にたくさんの客が這い回るという実に馬鹿馬鹿しい状況が見事に生まれた。体が密集している中で、ざわざわと動きの波が起こってきて、照明が落ちた闇の中で皆が床をバンバン叩き出す。ちょっとした恐怖と動揺に対して、人々はヤケクソ気味にリアクションを返し、それが波状に連鎖していく。ヤバい集団ヒステリー一歩手前なスリルを垣間見た。最後はソウルがかかり出演者も全員出て踊った。
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モナコ公国モンテカルロ・バレエ/ジャン=クリストフ・マイヨー 『ロミオとジュリエット』

2004-07-18 | ダンスとか
渋谷・オーチャードホール。
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アダム・ブロノフスキー 『VIVISECTION VISION:動物からの反射』

2004-07-17 | ダンスとか
湯島・カンバス。
解体社に数年前から参加しているオーストラリア出身のパフォーマーが、自ら構成・演出も手がけたソロ作品。客席の眼の前に十字型にワイヤーが張られており、照明が入ると青い毛の着ぐるみのようなものを着たブロノフスキーが立っている。顔の部分にはハニワみたいな土色の面。そのままゆっくりゆっくりと移動して、一周し、おもむろに顔の部分を取ると、水泳の帽子のような白いヴィニールで顔の大半が覆われ、口の部分だけが見える状態。前歯の片方でそのヴィニールの端を引っ掛けていて、歯がズラッと見え、さらに何か黒い物体をくわえ込んでいる。フランシス・ベーコンか、ギーガーのエイリアンのようだ。ここで一気に照明が明るくなり、客電まで付く。ブロノフスキーはワイヤーの辺りまで出てきて、観客を無言で威嚇するかのようにねめつける(実際は、おそらく目はほとんど見えてないだろう)。客電が付いたおかげで非常に生々しく、グロテスクだ。凄惨ですらある。ここで暗転が入り、空間の奥まったところが赤い照明で照らされる。そこにある扉から、着ぐるみを脱いで上半身裸のブロノフスキーが再び現われる。呆然としたような目が強く、緊張感がある。手にはさっきのヴィニールなのか、水が入っているらしい袋を提げて、ゆっくり少しだけ歩き、片手で顔や胸の辺りを何度も平手打ちする。床に水の袋を降ろし、今度は大きな鏡の板を取り出して舞台中央に置き、その上に横たわったり、反り返ったりする。作品を通じて音はごく控え目で、時折思い出したように、何かノイズのようなものやサウンドスケープ的なものが微かに聞こえてくる程度。この辺りの佇まいや動きは、衣装がなくシンプルなだけにやや薄く感じた。単に自分が疲れていたせいもあるかもしれないが、基本的には「時間をかけて移動する」とか「動かずにいる」というコマンドを実行しているだけのように思える。解体社は舞踏やダンスではないわけだが、ではしかしこの引き延ばされた時間をどうやって見せるものにしていくのか、というのが今一つよくわからないところだ。昔からいるメンバーが持つあの緊張感というのは、舞踏とは少し違う。内側への集中というより、様々な種類の、単なる力みだったりする。ブロノフスキーや、比較的新しいメンバーは基本的にそれをやらない。では何をするのかといったときに、実に「拠り所がない」感じがして、結局何も結実しないのだ。そこで、緊張感がないというのはとりあえず措くとして、ではその緊張感って何のための緊張感なのだろう(だったのだろう)、と考える。身も蓋もないのを承知で率直に答えてみるなら、戦争とか監禁とか難民とか、そういうおどろおどろしい「雰囲気」を演出するためのアイテムだったのではないか。そして一時期の解体社は、その扱うテーマのおどろおどろしさとは裏腹に、大変な「美学的」強度を達成してしまった。しかし今にしてみれば、パフォーマンスの「美学的」強度の抗いがたい魅力を糊塗し、エクスキューズを与えるためにこそ、戦争とか監禁とか難民とかいっていたのではないかとすら思える。だから解体社において、「美学的」強度とPC的強度(?)はかなり自堕落に相互依存していたといってしまうべきなのではないか。この構造を「解体」し、新しく再構築しないと、なかなか展開は出てこない気がする。鏡のシーンが終わると、ブロノフスキーは舞台奥に下がり、長い時間をかけて右腕を上に伸ばし続ける。そしてさっきの水袋を梁に吊るし、その真下に尖った針を立てる。いつ割れるのかと思わせておいて、自分は隅っこにしゃがみ込み、観客に背を向けたままハンマーを使って何か作業を始める。その間ヴィデオが映し出され、するとさっき客電が付いていた時の客席、つまり自分たちが映っている。あの口に挟まれていた黒い物体は小型カメラだったのだ。ブロノフスキーはずっと何かを準備しているようでいて、映像が終わると、ほどなくしてそのまま照明も落ちる。1時間ほどのパフォーマンスだった。水の袋は最後まで宙吊りのまま。こういうスカし方といい、出だしのシーンのグロテスクさといい、清水信臣の演出とはずいぶん違っているが、テイストはあくまで解体社のそれである。グループの路線をメンバーが個人的に解釈してみせるという、個と集団のこの関係のあり方はちょっと面白いと思う。
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Dance Seed 2004 ―わたくしの森羅万象―(第二日・昼)

2004-07-17 | ダンスとか
千駄木・ブリックワン。
▼亀田欣昌 『歴史の層の下で』
舞台奥の壁板を外して駆け込んできて、「兄さん、兄さん」などと叫びながら大騒ぎする。客席の下に潜ったりもする。70年代のアングラってこういうものだったのかな、だとしたら今の時代に生まれて良かった、などと思っていたら、リアルにちょっと強めの地震が起きて、彼の暴れっぷりに応答する格好になったから、やはり今日この日に生きていて正解であった。後半は踊りっぽいことをするのだが、基本的には好きな音楽で暴れたいだけであるように見えた。しかし高いテンションを維持しようとする中で、いかにも「するに事欠いて」という風情でジャンベを三、四回叩いてみたりする行為の不毛さには何とも憎めないものがあり、笑ってしまう。キャラで生きる生き方。いずれにせよ「ダンス」に出会うということは同時に「人」に出会うことでもあるということを再認識させられた。表現行為というものは何でもそうかもしれないが、ダンス、わけてもソロの場合はこのことを強く感じる。こんな「ダンス」を見てしまった、というより、こんな「人」を見てしまったという驚き、あるいは、こんな人が自分の知らないどこかに住んでいたのかと目を開かされる思いを味わう。
▼水島悠子 『(匿名)日常に埋もれたいぞ、時々の私 もったいないものなどないのだ 今を全部使ってしまえ』
この次の出演者二人が舞台奥左右に分かれ、本人は手前のイスの上に立った状態で、尾崎豊がかかり、それぞれに踊るというイントロ。下手側にいた沙羅(小林愛子)が妙に気になる。左右にリズムを取っているだけなんだけど、絶妙に脱力していて、いい踊りになっていた。二人がハケて水島のソロ。色とりどりのファスナーがたくさんついた衣装をいじったり被ったりしつつ、即興で大小の振りを出していく。微妙に懐かしいダンス☆マンの歌。形のはっきりした反復と、曖昧な流れの部分とが混在しているのだが、ぼくには彼女が何をやろうとしているのかがうまくつかめずに終わった。
▼沙羅―小林愛子 『Katharsis』
デュオかと思ったら一人の人。初めて見たが、刺激的な踊りで、興奮しながら引き込まれて見ていた。まず白い布にくるまって床にうずくまり、布を引きずりつつ手前から斜めに進んでくる。ゴソゴソやって布から出ると、後は声明みたいなのとかカノンとか、長く伸びるタイプの音楽で最後まで踊り続ける。何の変哲もない段取りで、振り全般に目新しいところがあるわけでもないのだが、おそらく体の質感が実に独特で、そこに目が奪われてしまうのだと思う。低めの姿勢で小さな動きを地味に出していた序盤では「体が澄み切っている」という印象を受けたが、次第に姿勢が高くなり、速く大きな動きが織り交ぜられてくるとともに、澄み切っているのではなくむしろ逆だという印象に変わった。水と油のように、互いに溶け合わない複数の液体が体の中に満ち満ちており、しかしそれらが整然と層をなし、少しでも揺れるとゴチャゴチャになってしまうのを、どのようにしてか、きれいに層が分離して積み重なった状態を崩さずに動いている……こんな風に比喩でしか表現できないが、要するに長い時間を経る中で体の中に堆積しているものに、無理に抗っていないことが感じられるのだ。バレエをやっていることは明らかだが、体の形がいびつで、そこが味になっている。味になっているというか、きっと自分の体とうまく対話することに成功しているというべきなのだろう。伸びやかな曲線を大きく描いても、腕をムチのように宙へ跳ね上げてみても、必ずどこかに歪みが孕まれて、単純な意味で「パーフェクト」には決まらない。特に腰はほとんど常にやや折り曲げられているし、膝も伸び切らず、真っ直ぐ立てば肩がすくめられていたりする。体型なのか癖なのか、はたまた意図してやっているのかは正直今回だけではよくわからなかったが、にもかかわらずコントロールは正確で、デリカシーにも富み、濁りというものがない。この人の体を離れることのできない踊り、こういう踊りにとってはライヴ性さえ出れば作品としての完成度なんかもはやどうでもいいことで、開拓すべき点があるとすればむしろ振りだろう。この人の踊り子としての資質を全開にさせる振付語彙というものが、あるに違いない。「ダンサー」より「踊り子」と呼びたくなるのは、名前が源氏名みたいだから。
▼福田純子 『シンク・アバウト・レジスタンス』
ずっと見ている人だが、今までで一番良かった。いくつかのパートに分かれていて、それが大まかには前半と後半に分かれていると思う。前半ではビートのある音楽(ポリス『Message In A Bottle』)を使うのだが、ビートを曖昧にかわしつつ、がに股に腰を落として足で床を払ったり軽く蹴り上げたりする。それにつられるように振り回される腕。この曲で、奥の壁につく辺りまでが、この人では見たことのない踊りだった。表向きの形ではなく、体の内側を聴きそこから動機を得て一つ一つのストロークが出ている(ビートをハズそうとしてハズしているのではなく、ビートとは違うところに動きへの衝動を駆り立てる動機を見出している)。しかもそれと同時に形が曖昧にならないところが不思議で、面白い。内側へ探りを入れるアンテナと、外側から自分を捉えるアンテナが、何ともいえない微妙なバランスをとっていて、そこがスリリングだった。しかし中盤以降はやや内容を詰め込みすぎて、失速した感がある。まず壁についた辺りからビートの動きが解放され始める。ビートに乗りながら、次第に音との距離の意識が消えていく。ポリスが終わると、次にレクイエムがかかる。動きは大きくなり、形の肥大と反比例して密度が低下する。暗転の後ははっぴいえんどがかかり、やがてはっぴいえんどとレクイエムがシャッフルされて、照明も激しく明滅し、混乱(のイメージ)を煽る。演出効果としての「混乱」はあくまで単なるイメージだが、ダンスの展開を追っていたこちらの頭は本当に混乱させられた。前半の主題が後半でどう扱われていたのか、よくわからなくなってしまった。
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ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団 『バンドネオン』

2004-07-15 | ダンスとか
新宿文化センター(大ホール)。
大きくコの字型にくぼんだ室内セットによる薄暗いカフェ・バー、イスとテーブル、壁にかけられた巨大なボクサーの写真、で何となくヴィデオで見た『カフェ・ミュラー』のようなのをイメージしていたが、不条理コントみたいな要素がかなり多かった。ただしダンスらしいダンスもごくわずかで、その代わりダンスらしくないダンスがたくさん見られる。F・スエルスが「マリアと聞いて何を連想しますか」と聞いて回る冒頭シーンの、男性たちの動きは美しかった。何となく所在なさげに、上着を脱いだり着たりしながら歩き回ったりイスに腰掛けたりするのだが、その上着のスルッスルッという滑り具合と、男たちの物静かな佇まいとが絶妙にシンクロしている。あるいは、総勢19人ものダンサーたちが舞台上手のドアからドドーッと入場してきて、下手壁沿いのイスに次々着席していくところ。まるで重力の向きが90度ズレて、右から左へと人が落下していくように見え、しかもその中から一人が立ち上がって舞台中央に出てきて、仰向けになって赤ん坊のように泣き喚く、それを残りの人々はじっと見ている(見上げている)。大人のまま生まれ落ちてきて、宇宙に浮かぶ赤子を眺める。さらには、いくつものカップルが互いの肩をはだけて、わずかに肌を接触させるシーン。その控え目さが、全員を脇役であるかのように見せ、個々の身体ではなく空間全体を細かく震えさせる。こういうところだけでもやはりバウシュは凄いと思う。どうしてこんな発想が出てくるのか。なぜかはしゃいだH・ピコンが皆にブラヴォーと讃えられながら一人でグラン・ジュテを連続していたら、それが伝染したかのように突然全員がピョンピョン跳ね始める、という無邪気きわまりないシーンもいい。これは例によって最後の方で変奏される。L・フェルスターが男性ダンサーを誘って、サッカーの試合で小競り合いになった時の様々なテクニックを披露し、皆の喝采を受けたと思いきや、なぜか何もしていないピコンがその喝采を横取りしてしまうというもの。理屈を超えたナンセンスを作り出すことにかけては、バウシュの右に出るものはいないかもしれない。しかし印象に残るシーンを次々思い起こしてみると、それ以上に印象の薄いシーンも沢山あったことに思い至る。2時間半もやっていればいくつか当たりが出て当然という気さえしてくる。ナンセンスというのは要するに「意味」を外れていればいいわけで、しかもそれは意味内容を欠いているということじゃなく、適切なコードを受信者側が持っていないような振舞いであるということだ。そのような条件を満たしさえすれば、ナンセンスはとりあえずそのようなものとしての意味(意味ならざる意味)を持つことができる。観客側に解釈コードがなければ、どうにかしてそれに対応せざるを得ないから、発信者側にも受信者側にも属さない第三の意味がそこでひねり出されたり、出されなかったりし、それが面白かったり、どうということもなかったりする。これがバウシュの2時間半ではないかと思う。テーマがタンゴであることは明らかだったが、そこにバレエへの揶揄が横溢していることは意外だった。もちろん全体は「タンゴ抜きで踊るタンゴ」とでもいうべき作品で、男女がペアで踊るシーンは主に三つある。二人とも床に尻をついて足を投げ出したまま体を揺する。男性が女性を逆向きに肩車する(顔の前に乗せる)。女性の股間に男性が手を入れて片腕で持ち上げ、宙に浮いたままの女性がやがて全身で男性にしがみついていく。いずれの場合も、足からステップが奪われている。こうやって様式としてのタンゴを一旦空洞化しつつ、他方でバレエが皮肉られる。アン・ドゥオールを強制されるシーンが出てきたり、なぜか一人でバー・レッスンしている男がいたり、グラン・バットマンを振り子みたいに反復する群舞があったり、D・メルシーがチュチュを付けて情けないプリエをカーテンコールまで続けていたりする。バレエを「強制されるダンス」の象徴として置き、それを反射板としつつ、「エロティックなダンス」としてのタンゴを、特定のステップや様式ではなくイデア=「タンゴの精神」(?)として表象して見せているようだ。しかし問題は、そこに何のリアリティがあるかということだろう。こんな表象の図式は、予め用意され、妥当な解読を待っている記号体系にすぎない。全くの印象でしかないが舞台に緊張感がひどく欠けていたことは確かで(特に複数のモティーフが同時に重ね合わされるところ、典型的には、皆がふざけて大騒ぎしている背後で女が絶叫している、などのシーンは、矛盾したアンビヴァレントな感情をもっと強烈に引き起こすべく意図されているはずなのだ)、ルーティン化すればするほど弱まっていくだろう「情念」の水準よりも、ルーティン化すればするほど強度を高めていく可能性のある「ダンスらしくないダンス」の水準の方に、今回は惹かれた。おそらくエロスということに関して、バウシュがもっているジェンダー観や、セクシュアリティ観がもう古いのではないかと思う。あるいは「性」を中心化して間身体的な「力」学という主題に取り組もうとする姿勢自体が時代遅れなのかもしれない。その意味では近作にダンス(特にソロ)が増えているのは考えあってのことなのかも、という気がする。
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エルヴェ・ロブ 『失われた地平線』

2004-07-11 | ダンスとか
水戸芸術館ACM劇場。
カンパニー名はないみたいだが、フランス国立ル・アーヴル振付センターの芸術監督としてダンサーともども来日。ロブの作品は初めて見たが、振付はバレエとモダン・ダンスをベースにしたいわゆるヌーヴェル・ダンスまたはダンス・コンタンポレーヌ。ロブを含む8人のダンサーは上手いけれども、ほとんど関節単位しか使わない振りのヴォキャブラリーが何とも物足りなく感じた。70分ほどの長さで、シーンや音楽など全てが波のように、ある一定の幅の中で滑らかに変化したり元に戻ったりする構成。最初は園芸店のカートと植木鉢、イスなど演劇的なモティーフも出てくるが、それは単なるとっかかりでしかなく、終始具体的な意味のようなものは見当たらなかった。鳥の声や、街の音、微かな音楽(プロコフィエフのヴァイオリン・ソナタ1番の第1楽章の終わりの方の一部だけ、とか)が織り合わされた環境音楽のようなものに、色鮮やかな照明、そして病院などにあるような折り畳み式の可動スクリーン、そこへヴィデオ映像が映される。シンプルな道具立てで空間を絶え間なく変化させていく手際の良さは堪能できた。特に終盤、何枚ものスクリーンで空間を区切って、ダンサーをあちこちに配置し、何箇所かに置かれたヴィデオカメラでライヴ映像を映し出し、さらに別の映像も重ねて、位置関係やスケール、方向や時間の感覚までがシャッフルされてしまうところなどは面白い。ここを見たとき、タイトルの意味がわかった。原題 Des horizons perdus は人が何かを認識する際の拠り所、規準として誰もがもっている様々な「地平」が失われるという経験のことをいっているのに違いないから、「失われた地平線」という訳はあまり適切ではないだろう。少なくとも「地平“線”」ではない。どうもしっくりくる直訳が思い当たらないが、もっとピンとくるタイトルがついていたらより楽しめたかもしれない。
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ラッキー・ビンゴ・プロジェクト3

2004-07-10 | ダンスとか
神楽坂・セッションハウス。
▼松田空 『穴ダラケノアナタダケニ粗ダラケノ間カラ』
▼坂田有妃子・寺田未来 『そるそら』
▼古舘なつこ 『あかいみ』
▼武田信吾 『チェレンコフ光』
▼丹羽洋子 『熱音』
▼荒木志水 『まどろんだ海』
▼浅沼尚子 『流れる』
▼川越 Natalia 彩子 『水仙姫』
▼根岸由季 『リンダリンダ』
▼オレンジチョコレート(佐々木さやか・山崎麻衣子・渡辺久美子) 『道草ガイダンス』
▼BACИ舞踊団(鷲野礼奈・松本武士) 『モモコとすじお』
▼坂本典弘 『華やぐ またはつま先で立ち続ける為の習作』
▼市川るり子 『ノラ』
▼船木雅子 『Gift』
▼神村恵・林亜沙子 『前夜祭』
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