dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

ヤン・ファーブル 『主役の男が女である時』

2006-06-30 | ダンスとか
Jan Fabre, Quando l'uomo principale e una donna

与野本町・彩の国さいたま芸術劇場(大ホール)。

(→『音楽舞踊新聞』にてレヴュー)
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ネザーランド・ダンス・シアターI

2006-06-29 | ダンスとか
新宿文化センター(大ホール)。
▼イリ・キリアン 『トス・オブ・ア・ダイス』
Jiri Kylian, Toss of a Dice
30分。
▼ポール・ライトフット/ソル・レオン 『サイニング・オフ』
Lightfoot Leon, Signing Off
20分。
▼ヨハン・インガー 『ウォーキング・マッド』
Johan Inger, Walking Mad
30分。

(→『音楽舞踊新聞』にてレヴュー)
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モモンガ・コンプレックス 『他力ジェンヌ。』

2006-06-24 | ダンスとか
桜美林大学町田キャンパス新体育館、夜。
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『立つ女』

2006-06-24 | ダンスとか
東五反田・アトリエヘリコプター、昼。
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武内靖彦 『重力の都 遷都計画1』

2006-06-18 | ダンスとか
野方・スタジオ サイプレス。
入り組んだ住宅街の中を進んだところにある、個人宅の一部を改造したスタジオが会場。20人しか入れない「秘演」といわれると理屈抜きに見たくなってしまう。真っ暗闇に舞台奥上方からスッと光が差し込むと、上半身が日本海軍のような制服に制帽、下半身がロマンティック・チュチュのような生地を何枚も重ねたスカート、という格好の武内が座り込んでうつむいていた。武内の舞踏は前に麻布die pratzeで一度見たことがあって、その時にもこの衣装が使われていたような気がするが、そのミスマッチ感は今回強烈に主張していた。帽子を目深に被って動かない堅牢な彫刻じみた体が、徐々に大きくなってくる地鳴りのような音にただ身を晒しているその緊張感で、視線が一点に集中させられ、意味の上でズレた上半身と下半身との、そのズレをひたすら見つめることになる。つい意味を求めてしまうけれども、ただじっとしていて何も展開してくれないから、手がかりは与えられないままだ。「ズレている」、その事実をただ見つめて、収まりのつかない、居心地の悪さに耐え続ける。と同時に、動かない武内は、動かない(身を静止状態に留め置く)という動きによって、光と漸増する音と活発に戯れているように感じられもした。戯れているとはいっても複雑な駆け引きなどがあるわけではなく、むしろ環境の中で環境とともに颯爽と歩んでいる、光と音の波に乗っているといったような感触に、どこか、子供が何かになり切っている時のような(「ごっこ遊び」のような)興奮を味わわせてくれるものがあった。そのまま一通り時間が過ぎて、溶暗する。また明かりが入ると、力を込めて震えたり、舞台手前にグッと迫り出して来たりもする。しかしどうも、武内は空間をつかんでいないような気がした。つまり視覚的な配置にせよ、観客の体との位置関係にせよ、何が行われているのか見ていてもよくわからない。武内が自分のすぐ傍にいても、自分との間に関係があるのかないのか、どう絡んでいいのか見当を付けられないのだ。壁に寄って、そこに映った影をなでる場面があり、その手つきや目はエロティックなのだが、それをこちらに見せているのかどうか、やはりわからない。わからないなりに、それでもそのつもりで見ようかなと思うと、すぐ止めてしまう。ただ、前回見た時にはとにかく終始「動かない」という印象が強く残ったので、それに比べると舞台中央で激しく身を宙に躍らせるなどといった動きが意外に思えた。そしてそうした比較的激しい動きにおいて武内が見せる「不完全さ」「闇雲さ」にだんだんと意識の焦点が絞られていった。つまり武内は、決して若い踊り手ではないのに、ほとんど何の技術的な裏付けとも関わりなく、単に高めた衝動でもって動こうとしているようなのである。何かをイメージしたり、腹筋を中心に力んだり、バランスを崩したまま跳んだりする。それは非常に素朴な行為に思えたが、そうした素朴な行為をこのようにやれるというところにむしろ、手軽にそれらしい形を得ようとしてしまう若いダンサーにはない種類の思い切りを感じた。46分。
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水上アートバス「ダンスパフォーマンス!」/白井剛

2006-06-17 | ダンスとか
浅草~日の出桟橋・水上バス。
二年ぶりの恒例企画、往路は最初から最後まで追いかけながら見る。まず白井は一階船室の席に腰かけて、他の乗客にすっかり溶け込んでいた。紺のブレザーに白いシャツ、破れたジーンズで、長めの髪で顔を覆い、その上から銀色のサングラスをかけている。この微妙過ぎる(微妙にリアル過ぎる)「ヘンな人」の姿で、銀色のヘリウム風船を取り出してそれを弄びながら二階デッキへ上がり、客席通路を行き来して、ところどころで震えたり床を這ったり、船の後部に脚をかけて遠くを見つめ、三点倒立をしたりしたのだが、終始不思議なほど存在感が稀薄で、辺りの空気はほとんど動かない。白井のあまりにも普通な外見と、あまりにもつかみ所のないパフォーマンスのためか、乗客の視線は一度そっちへ動いてもすぐに戻ってしまい、ますますパフォーマンスは孤立してくる。白井らしいセンシティヴな(感受性豊かな)動きではある。しかし例えばこれが伊藤キムであれば、まずとにかく他人を刺激して、そのリアクションから遊戯的な関係に入るのだろうが、白井にはそういう「芸人」のメンタリティがほとんどない(終盤近く、白井は通りかかった子供の背中をこっそり指で突付いて、そうしたら子供は振り返って立ち止まり、しばらく白井の方を見ていた。何かもっと期待しているようだったが、それ切り何もなかったので、やがて子供は行ってしまった)。何かのネタを演じるのではない仕方で、日常の感覚を強く、増幅しようとするスタンスの難しさ、ジレンマを感じるが、観客と関わろうとしていながら関われていない踊りはやはり見ていて辛い。あからさまに関わる気がない踊りなら別だが、内向性と外向性のバランスをなかなかつかめずにいる感じがこのパフォーマンスの「弱さ」だったように思う。そしてそういう弱さは反転して、乗客の方に無用な「強さ」(権力)を与えてしまいもする。その場にいることが申し訳ないような、そんな気持ちにさせられてしまう。往路に限り観光ガイドがテープではなく、女性が通路に立ってマイクで行っていて、彼女は目の前で逆立ちしたりする白井を見て一人で何度も吹き出し、その度にアナウンスが中断して、それで乗客の間にも何か特別なことが起こっているという和らいだ雰囲気が生まれたのだが、少なくともぼくには何が可笑しいのか理解できなかった。むしろ彼女の笑いは、白井の「弱さ」によって強制されてしまう自分の「強さ」、いわば立場としての暴力性を打ち消すために、白井のパフォーマンスに観客の注意を促して両者の関係を救済しようとする努力であるように聞こえ、いたたまれなかった。帰路はあえて客席の一箇所に座ったまま、何も知らない乗客のようにしてみる。ずっと人と話していたので、見ることのできた時間のうちさらに部分的にしか見ていないが、これだけ距離をおいて眺めると、時折り目を向けた時に白井がやっている行為はほとんど暇をもてあまして退屈した幼児の振る舞いに近い。しかし白井はどう見ても幼児ではない。かといって芸人っぽくもない。常識の枠から外れてはいるが、どうにもコミュニケートできそうになく、関係が切れているから、何となく不安になる。この不安感を「スリル」に変えることができるのは、遊戯の精神(遊び心)だろうと思う。
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ガラシ×ク・ナウカ 『ムネモシュネの贈りもの ~「記憶」をめぐる物語』

2006-06-15 | ダンスとか
下北沢・ザ・スズナリ。
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室伏鴻 『quick silver』

2006-06-11 | ダンスとか
Ko & Edge Co.「Experimental Body」vol.III 『quick silver』
麻布 die pratze。
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Noism06 『sense - datum』

2006-06-10 | ダンスとか
つくばカピオホール。

(→『音楽舞踊新聞』にてレヴュー)
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ジャン=バティスト・アンドレ 『モジュール#』

2006-06-09 | ダンスとか
Jean-Baptiste Andre, Modules #

横浜・BankART 1929 Yokohama(1929ホール)。
▼『Se Voir』
▼『dis moi ce que tu vois, je te dirai...』
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池田亮司

2006-06-08 | ダンスとか
有楽町・東京国際フォーラム(ホールC)。
▼『C4I』
▼『datamatics[prototype]』
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舞踊作家協会「伝統と創造」/クラシック音楽で踊る ダンス・ダンス・ダンス

2006-06-01 | ダンスとか
住吉・ティアラこうとう(小ホール)。
▼江原朋子 『書を捨てよ、町へ…についての研究』
▼古市昌子 『優しい場所―その2―』
▼高瀬多佳子 『昼さがりの子守歌』
▼種子島有紀子 『霞む空』
▼和田敦子 『明日、また朝のトーストを』
▼高野尚美 『健気な者たちへ』
▼野々村明子 『バランス』
▼フィナーレ
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