dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

岩名雅記 『他界より眺めてあらば静かなる的となるべき夕暮れの水』

2004-03-28 | ダンスとか
明大前・キッド・アイラック・アート・ホール。
何年か前に神楽坂die pratzeで初めて見て、それ以来もう一度見てみたいと思っていたフランス在住の舞踏家。とにかく動かない。運動を抑止しているという緊張感も漲らせず、単に動かない。移動距離といえば、上手奥から舞台中央へ出てきて、また下がっていく程度。この人のところだけ時間が止まっていて、こちらは時間に押し流され、どんどん遠のいていくような気分だった。もし会場の外から聞こえてくる街のノイズがなかったら、岩名の時間にもっと付いていくことができただろうか。時折思い出したように加えられるアクセントといえば爪先立ちになってその体勢をこらえてみせるという行為なのだが、それでさえ、限界状態にさほど長く留まるわけでもなくあっさりとくずおれてしまって、もちろんカタルシスなど生まない。何とも手応えのない舞台だった。
コメント

発条ト・インフォーマル ショーイング

2004-03-28 | ダンスとか
森下スタジオ(Cスタジオ)。
今回は有料(500円)で完全に公開の形式。カジュアルな空間で、気負わない実験を行ってみせるコンセプトは良いと思う。
▼森下真樹ソロダンス新作(試作)
下手に四角い枠を作り、周囲にヤカンだのコップだの、拡声器だのをズラッと並べ、その中で踊る。何もかもがすぐ手の届くところにある、この上なく合理的(=怠惰)な引きこもり的環境に身を置きつつその一切を非合理(=デタラメ、ゆえに勤勉で活発)な仕方で使用する。急須のお茶をわざわざペットボトルに注いで、また戻したり、背中に手を回して注いでこぼしたり。無音なので道具や物の質感があまりにもエロティックに浮き出し、何やら落ち着かない気持ちにさせられる。ここはなかなかオルタナティヴな快楽に満ちている。ところが次第に身振りが大きくなると森下の「いかにもダンス向き」の長い四肢が機能し始め、単に無意味だった行為の数々が大袈裟に潤色されて何かのパロディめいてくる。するとそれは直ちに、「ダンスのパロディ」として制度化されている類のいわゆる「コンテンポラリーダンス」にあっけなく回収されてしまうのだ。やがて動きが沸点に達したかのごとく、枠を出て走り出し、また戻って終わる。悪意の矛先がもっと研ぎ澄まされれば面白い作品になりそうな気がした。
▼笹嶋麻由ソロダンス新作(試作)
この人の作品は初めて見た。フュージョン・ジャズを小さな音量で流したままにし、ソファの上や、フロアの中央でささやかな振りを踊る。まだちょっとコメントのしようがない。
▼白井剛ソロダンス
事前には知らされていなかった白井ソロ。いきなりバック転で入ってくるそのスポーティーさにまず当惑させられるが、以後はプリンスその他数曲を次々かけて淡々と踊っていく。音楽のカウントを忠実に拾っているため明快でありながら、他方ではクリアな形やダイナミクスを周到に取り除いてあるためきわめて曖昧なダンスにも見える、という精密な振付。「粗い素材を正確に組む」といえば、ニブロールや、例えばミュージック・コンクレートおよびエレクトロニカ系のダンス音楽、あるいは大竹伸朗のようなコラージュにも通じるところがあるが、動きの線の細さ(繊細さ)ゆえか、「粗さ」と「正確さ」が二重になったまま知覚されるような独特のテクスチャーが生まれている。
▼粟津裕介ソロライブ新作 『五重奏』(試作)
3枚のヴィデオ・スクリーンと生身、計4人の粟津によるパフォーマンス(記憶は確かだと思うが、ヴィデオがドラムス1、ギター1、ベース1、生身の粟津がヴォーカル+ギターで「五重奏」)。まさに初期の発条トを髣髴とさせる、ヴィデオとライヴを入り組ませたトリッキーな作品だが、今回はそれがダンスではなく音楽演奏のパフォーマンスとして作られている。音楽とダンスの関係というテーマは、一連の粟津作品(『Swingin' steve』('01)、北村明子との『dovetail』('01)、同じく『スクランブル・スイート』('03))に連なるものだが、ここまで完全にダンスらしいダンスが抜けて、それでもなお「振付」的な発想で舞台作品が作れるというところが刺激的だった。ループによる反復やズレ、虚像と実体、などといった視覚的モティーフがそっくりそのまま活きている。これをダンスと呼ばない理由はないとすれば、最も素朴なダンスとはすなわち楽器を演奏することなのではないか、楽器をマスターしさえすればその人はダンサーなのではないか、と思えてくる。
コメント

大駱駝艦 『海印の馬』

2004-03-24 | ダンスとか
三軒茶屋・世田谷パブリックシアター。
80年に初演、日本では95年以来ということだが、ぼくは初めて見た。戦国時代のようなモチーフに「昭和」とか「アジア」とか「(ユーロ風の)退廃」とかも入ってくるイメージ世界は流石に濃い。イイ感じの不気味なフォルムをした白い生き物たち(布団を被ったまま上体を前に倒して歩いている)が、バッと一斉にピンクのワンピースの少女に早替りすると、舞台奥から同じ格好の麿赤兒が内股で縄跳びみたいにピョンピョン跳ねてきて(ショック)、さらにその後金色の鎧を着けた武士みたいなのにおカマを掘られる(再びショックそして脱力)。笑った。しかし今さらなのだが、ダンサーが弱い。特に男性の水準は圧倒的に低い。もちろん必ずしもダンス性ばかりにこだわった舞台ではなく、イメージによる演劇という側面が強いのではあるが、それにしたって黙劇のようなシーンが長時間もたないのはダンサーの質によるだろう。そして誰でもすぐ気が付く通り、集団の動きを「掛け声」で合わせていて、そのこと自体はひとまず措くとしても、ダンサーたちがその掛け声に本気で依存してしまっているように見えるのは問題だ。きっかけが来るまで各自与えられた振りをこなしつつも実際にはほとんど「待ち」の体勢になっていたりする。他人の「掛け声」でいつ寸断されるかもわからない状態で踊りに集中するのは確かに難しいだろうが、もう少し呼吸で合わせたりできないのだろうか。多くのファンは「もうこれが大駱駝艦なんだからこれはこれでいいんだ」と思ってるのかもしれないが、ぼくには賛同しがたい。黒塗りの男性6~7人の長い群舞シーンにおける捩子ぴじん(最前列下手側)を見ればいい。体自体に独特の魅力がある若林淳と、驚くほど柔らかくしなやかに動きまくる麿を別にすれば、この日のベストダンサー。体は細かく割れているし、シーンのニュアンスを咀嚼した上で思い切り頭からダンスに突っ込んでいる。他のダンサーはみんな次のきっかけまでの時間を適当に埋めてやり過ごしているだけに見えても、この人だけは段取りを自分なりに消化し切っているのか、高いテンションで動きに集中して、見応えのある踊りを見せていた。つまり段取りに縛られるか否かは、まったくダンサー個々人の意識の問題にすぎないのだ。全員が(せめて)この水準にまで行っていれば、20人超の群舞にしても、号令に従って動く体操のようにはならないんではないか。
コメント

ベケット・ライブ vol.5 『あしおと』

2004-03-24 | ダンスとか
下北沢・「劇」小劇場、昼・プレヴュー。
ベケットが76年に書き、自ら初演の演出も手がけた戯曲で、女が9歩ずつ歩いては折り返し、歩いては折り返ししながら、闇の中の声(女の母親らしい)と対話ならざる対話のようなことをするというもの。演出・美術/阿部初美、出演/鈴木理江子、井出みな子。舞台には下から蛍光灯で光る4枚のパネルがあって、ここを女(鈴木)が歩く。女はすでに初老で、大きな灰色の布をすっぽり被るような衣装で足元まで隠れている。もちろん「足音」が重要なのだが、スタートと同時に興醒めだったのが鈴木の歩き方だった。やや腰を曲げつつ、爪先は浮かせるのだが踵で床を擦って歩く。衣装といい、明らかに能を匂わせている。「足音」といったら少なくとも摺り足はないだろうと思うのだが、非常に硬質で人工的な音が、几帳面なリズムで発せられる。ああ文学なのだな、苦手だな、というところでまず引いてしまった。そういえばこの劇場(初めて行った)もすごく綺麗だし、なんか「清潔さ」と「余計なものを削ぎ落としたシンプルさ」と「(本質志向的な)観念性」が渾然一体となっている、こういうジャンル。表面がツルツルに磨き上げられているので、こちらから身体的な接触を試みてもことごとくはじかれてしまう。発声や対話も極度にストイックな性質のもので、それと足音との絡みなどというところへ関心はなかなか向かわず、気を張って見ていただけに余計シームレスに睡魔と闘い始めてしまっていた。すぐに立ち直ったと思うが、女とその母親らしき人の声との対話だったセリフを今度は女が一人で喋っていて、人物の境界が曖昧になったりしていた。ダメだ。よくわからなかった。
コメント

濱谷由美子 CRUSTACEA 構成 『オオサカヤネン』

2004-03-23 | ダンスとか
青山円形劇場。
「大阪発」のダンス、音楽、映像などを集めたショー。東京に来て「大阪発」を謳うのはヨーロッパなどへ行って「日本発」と言いたくなるのと同じなわけだが、その方が表現者として腹が据わる(開き直る)というところはあるかもしれない。ダンスはCRUSTACEA呆然リセット清水啓司、音楽が33佐伯誠之助と、あとイワイフミという人のアニメーションが合間合間に上映された。このアニメはサインペンで書かれているのにもかかわらず、ショット構成とカメラワークが緻密に洗練されているのが面白かった。しかし全体としては、周囲をグルッと囲んだ客席が盛り上がらず、ビミョーすぎる空気漂う二時間であった。演芸をナメすぎ。せめて饒舌なMCか、もっと後から後から畳み掛けるような構成が欲しいところだが、だいたい「何でもあり」的なショーなのにクラブとかでなくこんな猥雑さのカケラもない青山円形劇場なんかでやっているのが理解できない。暴力温泉芸者のヘタレなところを増幅したような「変態即興テクノ漫談家」佐伯誠之助は「こどもの城」内で放送禁止用語を連発、挙句にMCで「佐伯誠之助・イン・青山ファッキン円形劇場」と言い放っていた。ウケた。ところでCRUSTACEA濱谷由美子の相方である椙本雅子がすごく良かった。自分たちのパート(フロアをグルグル走りながら色んな振りをやる)はさて置き、33の脇で踊るときとか、あとエンディングの河内音頭とか、最高だった。自分だけじゃなく、人を煽るタイプの踊り方。見てるだけで元気が出る。
コメント

『DIAMOND NIGHTS』 Bプロ

2004-03-21 | ダンスとか
副題「いじくりまわしてとうとうこわしてしまうまでも─1987年~2000年黒沢美香ダンスの変容─」。王子神谷・シアター・バビロンの流れのほとりにて。
▼『クロソフスキー/アクタイオーンの水浴を覗くディアーナ』
▼『ロマンチックナイト』
少し開演が押してから、おもむろに下手側のカーテンがガサガサ動いて、隙間から黒沢美香が入ってくる。真珠や白いレースのバロックかつデカダンな衣装に、顔は黒い布でグルグル巻き。コツコツと音を立ててゆっくり歩くだけでたちまち場の緊張感が上昇し始める。一度この潮の流れのようなものができてしまえばもう大体OKだ。見る側の神経は尖り、活性化した感覚器官が勝手に脳の中枢に大量の情報をどんどん送ってくるようになる。普段より多くのものが見え、多くの音が聞こえ、多くのイメージがわく。芸術作品における情報の総体は作品の側に予め含まれていて、情報量の多い作品ほど観客の経験の密度と濃度は増す、という考え方は一般的だと思うが、ことライヴに関する限りこれは十分妥当ではない。振りや動きを緻密にすることばかりでなく、観客の集中力が高まるよう操作し、見る側がそこに多くを見るように仕向けるというのもアーティストの技術の一部だからだ。いや結局一つのことなのかもしれない。照明とか音響の効果というと、まるで在りもしないものを在るかのように見せる演出=インチキと思われてしまいかねないが、そうではない。そろそろと歩く黒沢の体は、空間全体に広がっている諸々の情報、すなわち光と音と温度と湿度とさらには空調ノイズや床の硬さをも包括的に感知し、処理して、それを再び身体感覚として空間全体に投げ返し放射する。ここにはまずダンサーとスタッフワークのセッションがあり、そしてさらに、環境に対する黒沢の身体のレゾナンスの度合が、観客のそれを左右するということが起きているだろう。黒沢はこの点において最強なのだと思う。『アクタイオーン』は一昨年に一度見ていて、もっとオブジェ的な作品だったように記憶していたのだが、今回は動きまくりだった。ノイズ+弦の音楽にしなやかに反応しながら、きわめて小さな可変域(振り幅)をもつ数個のパラメーターに分解できそうな短い反復パッセージを次々に繰り出していき、時折り唐突にうつ伏せに倒れて流れを切断する。徐々に踊りの熱が高まり、動きが阿修羅の舞のような複雑な線のひしめき合いにまでなってきた。こんな激越な黒沢ダンスを見たのは、ぼくは初めてかもしれない。途中で顔の布をパッと剥ぎ取る。髪が広がって、目が生きてくる。華々しい。眩しすぎる。もはや黒沢はどの瞬間のどの部位からでも、何らかのパッセージを開始することができる状態であり、腰と膝を結んだ線を選ぼうが、目線の先にある指と肘を結んだ線を選ぼうが自由自在に思われた。先月のフォーサイスのガッカリが報われた。ノイズと弦の音量が上がってくる。普通ならテンションは右肩上がりに上昇していきそうなものだが、この日は途中から音がだんだん耳に障るようになってきた。ちょっとうるさすぎる。黒沢はどうだったのかわからないが、こちらの集中力は萎びてしまった。やがて『アクタイオーン』は終わり、下手奥で着替え始める。着替えながらも、ノリがあまり変わらない。それはノリノリで着替えているという意味ではなくて、今日の踊りは最初からこのような脱力具合だったという意味だ。「着替える」という「パフォーマンス」ではなく、あくまでも「ダンス」に見える。髪をアップにして、白いワンピースと黒い手袋、ピンクのマフラーを装着して『ロマンチックナイト』が始まる。同じく一昨年に見たときと印象がかなり違っている。昭和歌謡やラテン音楽を取り混ぜて使うのは同じだが、その1秒もない前のめりな曲間を強引にまたいで過剰な余裕をカマしてみせるふてぶてしさ=暴力性が希薄で、優しいといえば優しいのだが、ぼくにはヌルく感じられた。実際爆笑は誘発されず、音楽を乗りこなし乗り越えるというよりはそれに生真面目に応戦するところで満足しているように思えた。中盤辺りで靴と手袋とマフラーを床に置いて、何かの箱を出してくる。中には長細い箱入りのチョコが入っていて、それをぶっきらぼうに客席へ投げる。桟敷の客の足元にビタン!と叩きつけられるのを笑っていたらぼくの方へも飛んできた。隣の人との間が詰まっているから素早く腕を引っ張り出すこともできず、顔の右の辺りに命中して思わずイテッと言ってしまい、ぼくも黒沢美香も大笑い。その後まだしばらく黒い扇子を持って踊りが続いたのだが、すっかり取り乱してしまいなかなか冷静には見られなかった。それでもやはり物足りない踊りだったような気はする。特に前半のアレを見てしまった後では。
コメント

アガペーズ 『かれが夜になった!』

2004-03-18 | ダンスとか
与野本町・彩の国さいたま芸術劇場(小ホール)。
初めて見るグループ(旗揚げ公演ではないようだ)。立派なホールを使った自主公演には期待したのだが、学芸会だった。仲良しで盛り上がるのは勝手だけど見る人の身にも少しはなってもらいたいと思う。中途半端な「ラボ」みたいなのが数珠繋ぎになった90分は苦痛であった。構想/高橋吾兵、出演/高橋吾兵、銀谷拓巳、大倉摩矢子、山下健太。大倉以外はどういう人たちなのかよく知らないが、高橋と銀谷は決して動けない人ではなさそう。大倉の出番はあまり多くなかった。ソロパートではよりによってクラフトワークをかけ、緩慢に立ち上がりつつ体を揺らしてリズムを刻むという複合技と、さらに体を大きく開いた動きを少しだけ見せた。本来あれだけの繊細かつパワフルな踊りができる人なんだから、きっとフツーにノリノリで踊りまくっても相当いいダンスになるに違いない。もっと大倉の踊りが見たい。
コメント

「Living Together is Easy」展

2004-03-16 | ダンスとか
水戸芸術館現代美術ギャラリー。
日本とオーストラリアの合同企画展。もとみやかをる、中村哲也、篠田太郎、束芋、高嶺格、山口晃、フィオナ・ホール、ローズマリー・ラング、サミュエル・ナマンジャー、スーザン・ノリー、デヴィッド・ロチェスキー、リッキー・スワロウ。数が控え目なのでじっくり見られるとはいえ、絞った割にはちょっとお話にならないようなのもずいぶん入ってるし、劇的に斬新なものもなかったが、「好き」な作品がいくつか見つかった。「好き」というのは要するにずっと「見ていたい」ということであり、お金があれば「欲しい」ということかもしれない。映像系のノリー『Passenger』、ロチェスキー『Weekender』は、オーソドックスな映像言語をアーティスティックに増幅した穏健だがクレヴァーな作品。ラングの写真作品『大地の速度』は自然の景観の中にわざと古臭い花柄デザインの絨毯を敷きつめたもの。特に森林の地面に絨毯を敷いて、苔むした岩や落ち葉とそれが「調和」する手前で寸止めしたような絶妙きわまりないコントラストを作っている二点には心を打たれた。

しかし実は今回一番面白かったのが、企画展の脇でやっている「クリテリオム」という別枠シリーズ(若手作家の新作を紹介)の森本絵利。A4サイズのチラシをハサミで細かく細かく(0.75ミリ四方の正方形に)刻んでいくというもので、そのプロセスを撮影した映像と、シャクシャクいう音、刻まれた紙片などが展示してある。「京都市立芸大絵画科の卒業作品に『ハサミで紙を切る』という行為を提出しなければならなかった苦渋の思いが……」なんていうチープな解説が必要なほどの、一種の「限界芸術」で、あるいは「アウトサイダー・アート」だの、草間彌生とかできやよいとかとも一緒にして良いだろう偏執行為であり、ストイックゆえにトランシーな単純作業の持続と、切り刻まれることでチラシとしての意味内容を失い単なる微小な色面に還元された夥しい量の紙片が素朴な恍惚を誘う。無用な職人技という以上の高度な技量も「作家」としてのイデーも見当たらず、「やってしまった」そのさまが凄まじい。ただそれだけ。こういうものに出会わせてくれるこのギャラリーは、美術館というよりむしろ博物館、それどころか「驚異の部屋 Wunderkammer」であって、啓蒙や教養とはほど遠く、また著しく反人間主義的であるけれども、確かに市民生活に貢献しているなあと思う。もちろんこの人に次回作とか期待してはいけないのだろう。それは美術館(=「アート」)の発想。
コメント

ARICA 『ミシン』

2004-03-15 | ダンスとか
西麻布・Super Deluxe。
前作『Parachute Woman』があちこちで話題になっていたので見てみた。タイトルは違うが、これも前作の発展形ということらしい。演出・美術/藤田康城、音楽・演奏/猿山修、出演/安藤朋子。あの『反写真論』の倉石信乃がテクストを担当している。コの字型の客席に細長い台が突き出し、正面にはミシン台が置かれ、それを囲むようにイントレが組まれて巨大なパラシュートが吊り下がる。「縫う」とか「アイロンをかける」といったような機械的な作業・労働をモティーフにしつつ、そこから小さく、時に大きく逸脱する安藤のアクションと、テクスト、映像、猿山のコントラバスが組み合わされる。行為の具象的な再現と抽象的なイメージへの飛躍が独特のバランスを保っていて、主題も簡単に噛み砕けない曖昧さというか難解さをもっているので、おいそれと「面白かった」とか「つまらなかった」とかいいにくいが、とにかく造形的な完成度に関しては、これほどワケわからないものをよくもここまでと唸らせる仕上がりではある。ミシン台の周囲にハサミとか霧吹きとか水とか、作業に必要な道具がゴムでぶら下がっていて、自らもゴムベルトで台につながれている安藤が車輪つきの椅子で行ったり来たりしながら、大きく広げられたパラシュートの布にシュシュッと霧吹きをやっては離し、反対側の霧吹きをつかんでシュシュッとやっては離し、すると、ちょうど手から離れた霧吹きがスッ飛んでいく先にトタンの板が作りつけてあって、そこにガーンとあたって音を立てるというシーンなど、労働を効率化する種類の合理性を遊戯的に拡張することでポエジーのようなものを立ち上げているのが面白い。ガーンという耳障りな音が鳴った瞬間に、トタン板の存在感と、そこにそれが設置されていることの周到さとがグッと迫り出す。合理的だが無意味、無意味だが合理的。アイロンをかけるとか、スイッチを入れるとか、アクションはどれも仮の目的によって動機付けられているのだが、その目的性を宙吊りにし、ズラすことでもっと抽象的なテーマを紡ぎ出そうとしているようだ。このとき、目的が前に出すぎると手段(動きのプロセス)が見えなくなってしまうし、逆に手段(プロセス)が強調されすぎると今度は目的が邪魔になるだろう。ちなみにダンスでモノを使う場合、しばしば道具の道具性(使用目的)がダンスを死なせてしまうことがある。例えば、何でもいいが、天野由起子『蝶調のマツリ』('02)にはトイピアノが出てくる。天野はその鍵盤を押して音を出すのだが、その指のストロークは「音を出す」という目的、いいかえれば鍵盤という「目的地」に束縛されることで、純粋で自由な手段そのものとしてのストローク=ダンスではなくなってしまう。ならば優れたピアニストにおいては手段と目的が一致しているというべきなのかどうか、それも難問だが、少なくともここでは同じジレンマがどうも安藤の芝居臭さ(動きの月並みな様式化)によって解決されていて、そこに一抹の安易さが漂っているようにも思われた。腕を振り上げる動きとか、体のひねり方とか、小さな声とか、アクの強い予備動作が無防備に頻出するのだ。もちろん安藤のアクションにダンス的な滑らかさを与えてしまうのもやはり安易な解決だろうが、おそらく舞台としての説得力の要だろうし、このいささか生硬な想像力の帰趨を左右するのではないか。もうちょっと観察を続けてみたい気がする。
コメント

大野慶人・笠井叡 DANCE EXPERIENCE 『め - 38年目の春夜』

2004-03-14 | ダンスとか
新宿・パークタワーホール。
一昨年の「土方メモリアル」よ再び!という期待は強かったのだが、笠井はいつもの笠井だった。五本のサックス(Generation GAP)によるチック・コリア『Spain』の生演奏とともに、極彩色のシャツ&金の長髪を束ねた笠井(オバサンみたい。あるいは三輪明宏みたい)が現われ、以後は大野と交代でソロを踊る構成。笠井はスクエアプッシャー(たぶん)とかトンがった、あるいはオシャレな音楽を使うが、大野は童謡とか、斎場で流れていそうな癒し系の音楽を使う。それぞれ自分の世界を徹底的に守っていて、絡みも交流も少なかった。ただしラストシーンだけは、舞台対角線上で二人がすれ違って笠井が大野の方を振り返り、劇的な展開を予想させて幕となる。大野は「大野一雄の息子」というイメージから脱却するのは大変だろうが、早くも足腰にいくらかの震えが見られた。構成演出を手がけ、ソロパートの分量は笠井の方にやや多く割り当てている。笠井の踊りは、爆発的なものではなかったにせよ、見事なものだった。モロにフェイクなバレエを臆面もなく散りばめつつ、形の充実を放棄したスカスカなストロークの連打が、信じがたいほど安定したテンションで延々と持続する。この独特な集中力のあり方。
コメント

珍しいキノコ舞踊団 『FLOWER PICKING』

2004-03-11 | ダンスとか
目黒・CLASKA。
会場はリノヴェーションによって復活したオシャレホテル。外観も内装も「渋い」というよりむしろ「わびしい」テイストで、一階のロビー&ラウンジなどの薄暗さなどは何だかカウリスマキ風。カフェのテーブルでのてんやわんや状態からダンスが始まり、やがて彼女らの後を追うように観客は階段で二階へ上がる。通された先はなぜかギャラリーのようなホワイト・キューブのスペースで、ここでダンスが展開され、しばらくするとまた観客の移動があるものの、この部屋からは出ず、そしてヴィデオがあり、レクチャーがあって、観客は教わったダンスを踊りながら大移動……なのだが、部屋から出たと思ったら階上へは向かわず、通路を一周してまた帰って来てしまう。そしてまた元の席へ戻ってダンスが少しあり、それで終了。正味90分強。びわ湖ホール版は「この場所を使って何ができるか?」というところから構想されたのであろう遊び心満載のプログラムで、観客は「舞台裏ツアー」的なノリでガヤガヤ移動しながら次々に仕掛けられたアトラクションに驚喜したのだが、正直今回は何でここでやったのかあまりよくわからない。キノコが久々に狭いハコでやって、そのダンスを間近で見られたところが美味しかったのか。確かに美味しかった。踊っているダンサーたちにマイクが回されリレーのように歌を歌い継いでいく場面などはとりわけ、異様なまでに楽しかった。……しかしどうも、こう肩肘張って「評価」を下すのが野暮に思えてしまい、そこがまたキノコ独特である。「骨抜きにされる」というか「ほだされる」というか、幼児退行を否定することの方が幼児退行よりも幼稚に思えてくる。この意図的な幼児退行の振舞いに対してリアル幼児の幼児性は周回遅れの位置にあり、両者はスレスレでズレながら並行している。「ダンス=享楽的=バカ」という(それこそ単純素朴な)イメージとの危うすぎる距離感に珍キノコのアイデンティティの全てがかかっているといっても過言ではなかろう。しかし、ということは同時にまた、場の空気を読んで積極的に幼児退行する人の方が大人であり、空気を読めずにポカーンとしている人の方が子供であるということにもなりはしないだろうか。いや、そもそもノレない人を作り出してしまったとしたらその時点でキノコの全体主義は失敗というべきなのだろうか。柱が邪魔で見えないとか。混雑しすぎて動線が明瞭でないとか。いかにも「人畜無害」で「カジュアル」なようでいて、解釈(というか受容の仕方)の幅は案外狭い。
コメント

中嶋夏と「霧笛舎」 『だいぶ晩くなって……消えつつ、生まれつつあるもの』

2004-03-10 | ダンスとか
赤坂・国際交流基金フォーラム。
たぶん日本での公演はすごく久々。プロフィールを見ると昨年秋の岡本太郎美術館を除けば二十年ぶりみたいだし、公演を打つこと自体、十年以上ブランクがある。90年代初頭までは海外で活動、それ以降は日本での障害者教育の仕事がメインになっているようだ。数人のダンサーによる群舞と、中嶋のソロが交互に置かれ、終盤は中嶋ソロがずっと続く。三角形のオブジェみたいになったダンサーたちがゆっくり動いて、その背負ってるものを開くと古い襖絵のような、または子どもの絵のような陰鬱な風景画が真一文字に並ぶのが冒頭シーンで、続く中嶋のソロは、鈴を持った指で印契を結んだような形を作って、リズミカルに踵を持ち上げながらクルクルと左右に身を翻し、腕で直線的な形の断片を打ち出し続けるというもので、カタックのようなインドネシア舞踊のような、色々とオリエンタルな要素があちこちに顔を出す踊り。音楽もやはり国籍不明な、パーカッシヴなもので、その盛り上がりとともに動きのテンションが高まっていく。ここは集中度が高くて安定していてインスピレーションにも富み、身体の奥へ際限なく分け入ることによって空間を膨張させていくような、見応えある素晴らしいダンスだったのだが、その後がパッとしない。新聞紙をつないで作った巨大な衣装をつけてダンサーたちが走り回るスペクタクル、空き缶が散らばる中を呆けたように歩き回る中嶋、とある意味「舞踏」の王道みたいな内容なのだが、どちらかというとモダンダンス~大野一雄の色彩が濃く、終盤で連続する中嶋ソロなどはただの自己陶酔にしか見えなかった。二時間もやっているから見る方の集中力が続かないというのもあるが、どうもこの系統はよくわからない。
コメント

ヤーン・カンパニー 『ロメオ+ジュリエット』

2004-03-09 | ダンスとか
新宿・パークタワーホール。
実際見てきた人に「見たら激怒するかも」まで言われたが、やはり自分の眼で見てみないことにはわからないので見てみた。ロミジュリを現代風に翻案というのからしてすでに現舞関係でよくやってそうなのだが、モンタギュー家とキャブレット家の抗争すなわち「民族紛争」なるスキームのただ中で競われているのが実は「ファッションセンス」だったりするところなんかは、エスニックなものとして表象される「他者」の有徴化と、グローバル化した消費文化におけるディスタンクシオン(階級闘争)が裏腹の関係にあるという示唆を含んでいて興味深く、なるほどスロヴァキアでこういう集団抗争の物語はリアルなのかもなとは思った。もちろん古いとか、ダサいとか、商業演劇として見てもブツ切れの転換があまりにガサツだとか、振付だってバレエ主体に色んなテクニックをまぶした二流のヌーヴェルだとか、ダンサーは全員軸もなければ体も堅いではないかとか、文句はいくらでも付けられるけれども、そんなことよりどうしてこれがダンスでなければならないのかが全くわからないことが問題だ。セリフもヴィデオもたくさん使われているから筋の説明は十分すぎるほどなわけだが、じゃあダンスは何をするのかといえば、主に集団同士の抗争シーンとか、文字通りのダンスシーンとか、バルコニーのシーンとか、つまり専ら「情動」の演劇的表現として然るべき場所に配されているだけで、これはダンスに何が可能かということについての振付家ヤーン・デュロヴチークの見識のほどを明らかにしている。ダンスの見せ方を考えるだけでダンスについては考えない、ましてやダンスによって考えることもなければ、ダンスにおいて考えることもない、これがヌーヴェルである。いやヌーヴェルなんだから、ヌーヴェル自体は固有の歴史的経緯があるんだから、まあ許されよう。事実このダンサーたちには奇を衒うような厭味がまったくなく、むしろ清々しいほどであって、むしろその清々しさを清々しく受け入れられない自分と彼ら彼女らとのこの出会いこそが不幸なものに思えてくる。つまり東京国際芸術祭は何で今さらこんなものを日本に招聘したのか、ということだ。
コメント

室伏鴻 『すべてはユーレイ』

2004-03-08 | ダンスとか
西荻WENZスタジオ。
『ジゼル(s)』の美術・衣装などのモティーフがそのまま持ち越されていたことに意表を突かれた。「ジゼル」=「ユーレイ」というつながりは当然としても、チュチュの薄い生地が紗幕のように吊るされていて、その奥に脚立と鉄パイプ、そして舞台周囲にはやはりチュチュが丸めて吊ってあり、冒頭、脚立の上にしゃがみ込んだ室伏自身もそれを付けて、顔にもグルグルと巻き付けている。さらに当人が踊っている様子や(おそらく)戦争の光景を重ね合わせたヴィデオ映像が、紗幕と背後の壁とに映し出される。室伏本人のこういうスペクタクル寄りの舞台は初めて見た。いつかぜひ、もっともっと本格的なものをドーンとやってもらいたいと思う。脚立の上の、幾重もの紗幕の向こうの室伏の顔がこちらを向いているのにふと気づいたりすると、その黒目の輝きが曖昧で不気味でものすごく怖い。脚立から降りて床に立てば大野一雄みたいにも見える。映像に映っているのがどうもキノコ雲のようでもあり、案外オーソドックスな「舞踏」的意匠に対して柔軟な人なのかもしれないなどと思った。昨日もあった白い棺を舞台奥からズリズリと押し出してきて、隅に転がっていた迷彩色のヘルメットをガンと押し退ける。何ということはない行為でありながら、ひどく禍々しいものに感じられる。これが詩というものだろう。棺に入って、中で唸ったりしつつ、出てくるといつもの素肌に黒いジャケット。ここからが本番で、この数日の劇場通いの疲れを吹き飛ばすような痛快な踊りであった。褶曲する筋肉に充填され内側へねじくり返るようにして放射されるエネルギー。ストイシズムよりも派手な暴力性が印象に残った。タメてタメて後へまっすぐ倒れるだけではなく、時には突き飛ばされたようにもんどりうって両足を宙に舞わせる。『マトリックス』みたいに、天も地も関係なく跳ね回る。その後も、鉄パイプを脚立にガンガンやり、それをチュチュに突き立て、グルグル振り回し、予定調和とは無縁でありながら確かな手応えのある実験的ストロークを並べていった。まったく充実した時間であった。ところで、今日の舞台で一つ考えさせられてしまったのは舞台における「怖さ」の種類について。鉄パイプを脚立にガン!ガン!とぶつけるのは主に生理的嫌悪感だと思う。目の前でグルグル振り回されたり、それが宙に張り巡らされているピアノ線に引っかかってブチッと行くのは、自分に当たるかもしれないからやはり怖い。視覚的イメージの恐ろしさや、想像力に訴えてくる怖さというのもある。棺を押すのとかチュチュをいたぶるのとかは象徴的な効果として怖い。
コメント

ダンス01 『ジゼル(s)』

2004-03-07 | ダンスとか
西荻WENZスタジオ。
竹屋啓子のグループ「ダンス01」に、室伏鴻が振り付ける。この組合せは一昨年『舟もなく』で見ていたけれども、それにしても今回はなんでまた『ジゼル』なのか。冒頭現われるのは迷彩服にヘルメットの女たちで、ますます『ジゼル』からは遠のいていくし、あまりにストレートな時事ネタに少々鼻白んでいると、そこへ追い討ちをかけるかの如くなぜかドアーズの『ジ・エンド』と、引き続き『地獄の黙示録』のサウンドトラックが流れ出す。時代錯誤な戦争のイメージ。湾岸戦争の頃に比べれば軍事において身体は地位を回復しているとはいえ、争点はもはや空間や身体ではなく経済なのだからして、つまりこの過剰ゆえに嘘臭い演出は、この人たちは一見兵士の格好をしているけれども実は兵士なんかでありはしないのだ、という反語なのだろう。どっから見ても軍隊のくせに、でも軍隊じゃなくて自衛隊なんですよと言い張る二枚舌な身体だ。無責任に(非主体的に)振りかざされる力、という点で去年の『美貌の青空』における若手三人衆を思い出す。室伏とは違って、筋肉に苦悶の表情を浮かべることもなく淡々と真鍮板をぶん投げていたあのスリムな男たち。この冒頭シーンが終わると、あとはずっとロマンティック・チュチュを付けたダンサーたちが踊り続ける。つまり『ジゼル』=ウィリと2004年の軍隊は、ゾンビ(生きている死体)つながりなのだろう。そして明日の室伏ソロ『すべてはユーレイ』へと。作品ノートにはなるほど「ダンスとは生と死の境界に位置しています」とある。思えばフェラ・クティも軍隊をゾンビ呼ばわりした。とはいえダンサーたちは「踊りまくって死ぬ」ほど踊りまくっていたわけではないし、死んでいるのに踊りまくっているというほど「舞踏」的ヴォキャブラリーがこなせるわけでもなく、結局誰が得をしたのかよくわからない公演だったが、二箇所印象に残る部分があった。一つは兵士の格好をしたダンサーたちが、ヘルメットのつばを床や壁にコツンコツンと当ててみるシーン。ヘリの轟音に包まれて気配を消していた身体たちが突然、小さいがとてつもなく雄弁な音によって実体化する。こんな物々しい格好しちゃって、と思ったらそれが他ならぬ自分であった、と我に返るというか。それから何といってもラストの、ダンサーたちがロマンティック・チュチュの布地をかぶって潜り込んだり、頭の上に丸めて立ちすくんだりしてみせる長いシークエンス。バレエの道具で「舞踏」する。写真でしか見たことのない、フランス時代の室伏のスペクタキュラーな演出を髣髴とさせた。
コメント