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ダンスとか。

LIVESOUTH VOL.1

2008-12-28 | ダンスとか
京都・山下残アトリエ。
▼川崎歩 『80年代のスピルバーグ』
▼山下残 『横浜』
▼川崎歩 『ためいけ~上陸編~』
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おもろ夜会 vol.4/冬のエキゾチズム

2008-12-27 | ダンスとか
那覇・沖縄県立博物館・美術館(野外展示場)。
▼コウサカワタル&坂元PUNCH!健吾
▼ラマンオキナワ 『OKINAWA CAMP』
(首里フジコ×山城知佳子)
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「美術家たちの『南洋群島』」展

2008-12-27 | ダンスとか
那覇・沖縄県立博物館・美術館(企画ギャラリー1・2)。
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東京ELECTROCK STAIRS 『Wピースに雪が降る』

2008-12-26 | ダンスとか
吉祥寺シアター。
数ヶ月前にここで長いソロ作品を見た時よりもKENTARO!!のやっていることがクリアに感じられた(作品の内容が違ったのか、自分の感覚が変化したのかはもはや確かめようもない)。いわゆるコンテンポラリーの振付家がヒップホップの語彙をいわば「外来語」として取り入れるのはよくあるパターンだが、ここでは動きのみならず演出面まで含めて二つの言語が限りなく等価に扱われようとしているように見える。すなわち、「舞台芸術」としてのコンテンポラリーの文法と、ストリートダンスの文脈でクラブなどで行われるショーの文法のパッチワークであって、いうなればバイリンガルな人間が二ヶ国語を混ぜて喋っているような状態。例えば「日常の身振り」だが音ハメ、しかもその動きが黒くファンキーに跳ねていたりするのを見ると、民主主義を謳いながら実際にはWASPの集団であったジャドソン教会派への批評的コメントとも読めてしまうし、四角い舞台空間の構成的秩序から能う限り無頓着でいようとするダンサーの居方や移動の仕方、あるいはユニゾンでありながら二つの集団が向かい合ってジャム風に踊っていたりする辺りも、そもそも一心不乱に「踊る」姿を観客に見せるなんていう意味不明な制度としての近代ダンスを軽やかに相対化してみせてしまっている。トワイラ・サープがバレエとシアターダンスを混在させてみせたのと比べてKENTARO!!のやっていることの射程がはるかに長いのはやはり「外」から来た人の立ち位置ゆえなのだろう。いずれは、コンテンポラリーの人種を驚かすだけでなく、ストリート系の人種をも驚かすことができたら凄い。
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劇団解体社 『無機的‐INORGANIC 人体主義者』

2008-12-25 | ダンスとか
湯島・CANVAS。
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HARAJUKU PERFORMANCE + / VOICE & PHYSICAL

2008-12-23 | ダンスとか
ラフォーレミュージアム原宿。
▼山川冬樹×飴屋法水
▼contact Gonzo
▼珍しいキノコ舞踊団
▼KATHY
▼伊東篤宏×東野祥子
▼KATHY
▼室伏鴻
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ロトザザ 『エチケット』

2008-12-22 | ダンスとか
Rotozaza, Etiquette

恵比寿・ラ・ムッジーナ・カフェ。
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神村恵カンパニー 『配置と森』

2008-12-20 | ダンスとか
横浜・STスポット、夜。
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イデビアン・クルー・オム 『大黒柱』

2008-12-20 | ダンスとか
新百合ヶ丘・川崎市アートセンター(アルテリオ小劇場)。
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演劇集団「創造」 『人類館』

2008-12-16 | ダンスとか
早稲田・早稲田大学大隈記念講堂(大講堂)。
作/知念正真、演出/幸喜良秀
調教師/上江洲朝男、男/花城清長、女/小嶺和佳子
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金魚 『言葉の先』

2008-12-13 | ダンスとか
浅草・アサヒ・アートスクエア、夜。
『dulcinea』『犬の静脈~』『沈黙と~』といった近作が、「削ぎ落とす」ことで身体や空間や時間の裸形を剥き出しにしてきたのだとすれば、今回は多くのものが付け加えられているように見える。おそらくはまた新しい領域へ向かいつつあり、しかしまだ結論らしきものはほとんど形として見えてこなかった。むしろ今回の作品との対照を通じて『dulcinea』『犬の静脈~』『沈黙と~』のことをよく考えた。この新作では主に空間的なドラマトゥルギー、あるいは秩序、あるいは意味が、作品の「読み方」を指示してくるのだが、ここ数年の諸作は「読み方」の提示を徹底的に拒否していて、それゆえにかえって観客は身を乗り出してエンゲージしてしまうという面があったのだ。「読み方」というのは、期待を喚起し、それを適切に導く筋道とでもいいかえられるもので、とりわけ『沈黙と~』の月島版(森下以降の短縮版ではなく)では、空間の演出どころか、動きの上での反復やリズム、フローなども抑圧して、むしろ何も定められていないかのような時間をダンサーとともにたどって行くスリリングさが正確に狙われ、鮮明に実現されていたように思う。観客が「身」を乗り出し、さらけ出さざるを得なくなる、そういう「場」の状況は、演劇(シアター)から最も遠い何かだった。それがダンスであるかどうかはこの際どうでも良いように思う。
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勅使川原三郎 『ない男』

2008-12-11 | ダンスとか
両国・シアターX。
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「沖縄・プリズム 1872-2008」展

2008-12-09 | ダンスとか
竹橋・国立近代美術館。
もともとは沖縄県立博物館・美術館の開館記念展「沖縄文化の軌跡 1872-2007」と一つだったものが結果として分離したという話を聞いた覚えがあるが、約一年遅れで開催された「東京版」の方は「沖縄版」に比べるとかなり小ぢんまりしていてカタログもつつましい。「グローバル」にサミットが開かれたり「国策的」に2000円札が刷られたりもせず、あるいは「商業的」な後押しもない場合、東京での沖縄のプレゼンスはこんなものということを物語っている気がして、しかしそれはそれで一つの反語的な「語り」ではある。展示の内容は写真が大部分で、あとは映像作品が多かったが、「沖縄版」より焦点がはっきりしているため自分のペースで見られた。
終盤近くの、山城知佳子のヴィデオインスタレーション『アーサ女』が、女の呼吸音を大音量で展示室内に轟かせながら図太く存在していて良い。横長のスクリーンに映し出される画面は、激しく波に揺られるカメラで、八割以上が水面下を映し出している。濁りや泡、しかし時おり水面上に浮上して空や島の一部(基地?)が見える。かと思うとまた泡、そして一瞬、魚の群れ。水の色が変わって、また違う場所の空と陸。こんな調子でしばらくすると海上保安庁のボートが別のボートを停めて職質をしているらしき光景がチラチラ見えてくる。スクリーン脇に並ぶスティルに写っているのが「アーサ女」か、「アーサ」というのは海藻で、それが口の周りにまとわりついている。現実とも非現実ともつかない存在の、海からの視線、しかも波に阻まれている一方で、水を通じて空間をワープする。夢のような水中の光の乱反射から、生々しい現実までの行き来。しかし何より音響のダイレクトな息苦しさが強烈で、隠されているものを「見る」こと、行為としての「見る」が、直球で形になっているような気がした。あらゆる視界が「目くらまし」(スペクタクル)に占拠されてしまう東京だからこそのインパクトなのかも知れないとも思った。
他にも興味深い作品はあったが今回、「写真」というものがそもそも面白いと、今まで感じていたのとは違った意味で面白いと感じた。すなわち写真が映しているものは、世界の機械的な断面であるがゆえに、見る者がそこに色々なものを勝手に読み込み、さらにその読みを見て(読んで)しまう。人の表情や風景の表情はいうにおよばず、「隠喩」のような作用には、写真を見る者の自己が否が応にも投影されて、そしてその投影された自己を含めて写真は見られる。東松照明の海上にぽっかり浮かぶ雲がキナ臭く見えたり、伊志嶺隆の草叢が女の髪に見えたりする時、まるで「夢判断」のように、その形象に意味が欲せられる。解釈が動き出す、その瞬間、対象と自己の関係、対象に対する自己の立ち位置が誰によるものでもない問いとして現れてくる。何気なく目に留まる形象の一致、例えば建物の角のフォルムと遠くの山のフォルムが相似しているなどといったことにさえも意識下で意味が求められる。意味などないのかも知れなくても、自分の意識が意味を求めているということが既に何事かを意味していて、うろたえてしまったりする。そんなものとして写真は面白いと思った。こういう場合に、文脈の力に作品が従属させられているのではないかという紋切型の問いがあるとするなら、文脈から自由な作品など存在するわけがないし、文脈から自由な観者など存在しないという紋切型の答えがそれに対応するしかない。しかし写真は、例えば絵画のように作者が隅々まで管理して作り上げたものではあり得ないがゆえに、どんな文脈にも収まり切らないものを必ず映している。だから映像と文脈との間にはズレが必ず潜んでいて、そのズレた隙間で、見る者の目があらぬ創造力を振り回し、見る者の身体をうろたえさせるというようなことも起きる。
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