dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

ぼろけょゐ 『0ここ』

2006-05-28 | ダンスとか
高田馬場・プロトシアター。
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かもねぎショット 『新編 サークルダンス ~疾走する街~』

2006-05-27 | ダンスとか
三軒茶屋・シアタートラム、夜。
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ひびきみか 『Paradox CARMEN』

2006-05-27 | ダンスとか
代々木・ダンスギャラリー響。
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videodance2006 week 2 session 3

2006-05-22 | ダンスとか
与野本町・彩の国さいたま芸術劇場(映像ホール)。
▼『同時代の創造:ダンス』('99、ジェローム・カスー監督)
La creation contemporaine: danses, film direction by Jerome Cassou.
▼『ル・プティ・バル[小さなダンスホール]』('93、フィリップ・ドゥクフレ振付・監督)
Le p'tit bal, choreography and film direction by Philippe Decoufle.
▼『2イリス』('05、フィリップ・ドゥクフレ振付・監督)
2Iris, choreography and film direction by Philippe Decoufle.
▼『ペンディングされた時間』('04、ローランス・ガレ監督)
Le temps retenu, film direction by Laurence Garret.
▼『勅使川原三郎―不可視のダンス』('05、エリザベット・コロネル監督)
danser l'invisible, film direction by Elizabeth Coronel.
▼『小さな朝の詩篇』('99、ジョゼフ・ナジ振付、リュック・リオロン監督)
Petit psaume du matin, choreography by Josef Nadj, film direction by Luc Riolon.
▼『ベラ・フィギュラ』('98、イリ・キリアン振付、ハンス・フルシャー監督)
Bella Figura, choreography by Jiri Kylian, film direction by Hans Hulscher.
▼『フラクタル』('94、エドゥアール・ロック振付、ジョスリン・バルナベ監督)
Fractales, choreography by Edouard Lock, film direction by Jocelyn Barnabe.
▼『アパートメント』('03、マッツ・エク振付、トーマス・グリム監督)
Appartement, choreography by Mats Ek, film direction by Thomas Grimm.
▼『パースペクティブ・スタディ vol.1』('04、勅使川原三郎監督)
Perspective Study vol.1, film direction by Saburo Teshigawara.
▼『ラバンのダンス作品集1923-1928(カンマータンツビューネのための作品集から再現)』('92、マリオン・ノース監督)
Laban Dance Works 1923-1928: Recreation from his Kammertanzbuehne Repertoire, film direction by Marion North.
▼『ギエム』('95、フランソワーズ・ハ・ヴァン・ケルン監督)
Guillem, film direction by Francoise Ha Van Kern.
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videodance2006 week 2 session 2

2006-05-20 | ダンスとか
与野本町・彩の国さいたま芸術劇場(映像ホール)。
▼『透明迷宮』('06、笠井叡、高橋悠治構成・演出、たきしまひろよし撮影)
今年1月に国分寺いづみホールで行われた公演の記録映像。笠井は白塗りに白いジャケット。かなり広い舞台の下手隅にピアノ、照明は素明かり。笠井の踊りは、全く非視覚的であると思う。つまり目に見える体が問題なのではなくて、体と相関する意識の方にフォーカスがある。見た目の形というものはあくまでも副次的な「現象」に過ぎず、たとえそれが不格好でも、不完全でも、形をそれとして整えたり洗練したりするより、体の物理的な操作を支える意識の操作や遊動、ドライヴにダンスの中心があるように思う。観客もまたそこに焦点を合わせることができる。目に見える形ではなく、そこへ向かう力を見る。こういうダンスを、他の様々なダンスとひと括りに「ダンス」と呼ぶのが妥当なのかどうかわからない。笠井の踊りを見ていて本当に引き込まれるということはごく稀にのみ起こるのだが、その原因の一つには、見ていて非常に疲れるということがある。とにかく視覚的な情報を押し退けて、その向こうで動いているものに焦点を合わせ続けなければならない。またほとんど常に、笠井の意識に対して体が否定的な役割を演じているように見えるところも、一般的な意味でのダンスの楽しさからは程遠い。意識は縦横無尽に動くが、体はそのごく僅かしか反映しない。動きのヴォキャブラリーは限られており、体は一定の範囲内でしか伸び縮みしないし、形も変化しない。だから、笠井の意識が踊れば踊るほど、しばしば体はその牢獄のように見える。「透明迷宮」というタイトルはこういう笠井の踊りの本質を的確に表現しているように思う。見えない壁が迷路をなしていて、手探りで進んだ果てが行き止まりだったり、突然壁が途切れて方向がわからなくなったりする、そんな空間を、それでも進もうとするのが笠井の踊りなのだろう。それに対してバッハやショパンを弾いたり即興で音を鳴らしたりする高橋のピアノは、徹底して音という「現象」であることによって、自由を確保している。踊りを楽しんでいるというよりむしろ苦しんでいるように見える笠井を、高橋はあたかも悠然と弄ぶ。
▼『奇妙な孤独』('05、山田せつ子振付・構成・演出、たきしまひろよし撮影)
去年12月にスパイラルで行われた公演の記録映像。こうして続けて見ると、山田せつ子の踊りは笠井のそれと、一見似ているようでいて全く違う。動きの語彙や、フレーズの長さ、リズムはかなり近いのに、山田の踊りは普通に肉でできており、目に見える。目に見える限りでの身体で踊っているので、伸縮や、粘りや、切断や、飛躍が、一つの連続体として動かしがたくある体を分節化したり彩色したりする。そしてそういう「現象」を次々に重ね、織り成していく技術、体でもって一瞬前の体を対象化していく技術としての即興が成立している。これに対して天野由起子はやはり振付けたソロを踊る人であって即興的なセッションはあまり得意でないのではないかと思った。
▼『メグ・スチュアートのアリバイ』('01、メグ・スチュアート振付、マルテン・ヴァンデン・アビール監督)
Meg Stuart's Alibi, choreography by Meg Stuart, film direction by Maarten Vanden Abeele.
最初から映像として作られたヴィデオダンス作品。非常に素早い動きで人の体がカメラの前を飛び交う、そういうショットを次から次へと目まぐるしく組み立てている。ほとんどMTV的な感覚だが、刺激がいたずらに追求されているというよりは、映像の運動が与える刺激そのものに注意を促すような、単調な激しさでもって作り上げられている。
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videodance2006 week 2 session 1

2006-05-20 | ダンスとか
与野本町・彩の国さいたま芸術劇場(映像ホール)。
▼『ウルロ』('04、ピッポ・デルボーノ演出、インディア・カンパニー、ポンピドゥ・センター監督)
Urlo, direction by Pippo Delbono, film direction by India Company, Centre Pompidou.
アヴィニョンでの上演の記録映像で、ダンスというより演劇系。カトリックの司教が仰々しく入場したり、テクストが読まれたり、パンクな音楽でパフォーマーたちが暴れたり、「叫び声」というタイトルの通りに騒がしい舞台。映像が断片的で、何がどうなっているのかあまりよくわからなかった。
▼『ポリエステル100%』('01、クリスチャン・リゾー、カティ・オリーヴ監督)
100% Polyester, film direction by Christian Rizzo, Cathy Olive.
二年前に横浜でも展示されたインスタレーション作品を映像化したもの。二着の肌着のようなワンピースが、袖と袖をつながれ、吊るされて、床に置かれているいくつかの小型扇風機の風によって揺れる。照明で背後の壁に影が映る。全く素朴な仕掛けだが、じっと見ていると様々なイメージが浮かんで、その度ごとに、仕掛けの素朴さのことを改めて思う。映像としても巧みに作り上げられているので、インスタレーションとして見せるよりも効果的なのではないかと思うが、25分はさすがに長すぎる気がした。ちなみにIrene Filibertiという人が書いたプログラムの文章には「古びた映画のちかちかする効果を取り入れ、映像の質を敢えて劣化している」とあるが、不規則に「ちかちか」しているのは照明の効果で、ヴィデオの画像はきわめてクリアだった。
▼『きっと彼女は最初に踊って、考えるのは後回し』('03、ヴェラ・マンテロ振付、アントワーヌ・ドゥラポルト監督)
Peut-etre qu'elle pourrait danser d'abord et penser ensuite, choreography by Vera Mantero, film direction by Antoine Delaporte.
ポルトガルのダンサーの舞台の記録映像。四隅にランプを置き、その中で踊るソロで、珍しく線的な動きではなく、おそらく場面ごとに動きの質や種類を設定した上での即興。動きをフォルムに預けてしまわずに、体に意識を密着させて部位を繊細に細かく動かす踊りが、日本でよく見るダンスに近い。
▼『ダブルポイント1&2』('02、エミオ・グレコ振付、エリック・リンク監督)
Doubles Points 1 & 2, choreography by Emio Greco, film direction by Erick Link.
▼『慎み深い死者たち』('04、ラシッド・ウラムダン振付、パブロ・アルテス監督)
Les Morts pudiques, choreography Rachid Ouramdane, film direction by Pablo Altes.
▼『スカル*カルト』('02、クリスチャン・リゾー振付、クリストフ・バルグ監督)
Skull*Cult, choreography by Christian Rizzo, film direction by Christophe Bargues.
ジャン=バティスト・アンドレが踊った『コムクラン、コムカルト』とほぼ同じものだが、こちらがオリジナルで、もともとはこのダンサー(ラシッド・ウラムダン)とともに作られたらしい。しかしウラムダンにはアンドレのような動きの異様さはなく、少なくともこの映像からはパフォーマンスの狙いがよくわからない。インパクトの薄さには、映像の作り方もおそらく関係している。アンドレ版の方には画面を緊張させようというはっきりした意図があったが、ウラムダン版は本当にただの記録で、無闇にカメラが動くため見ていても集中できない。もっともそうした各々の撮影の仕方も、多かれ少なかれ実際のパフォーマンスの性質から引き出された発想なのかも知れない。
▼『トゥールルル』('04、カルロッタ・サグナ振付、アルノー・エメリ監督)
Tourlourou, choreography by Carlotta Sagna, film direction by Arnaud Emery.
記録映像。銃の照準のようなパネルの上で、迷彩服デザインのチュチュを着たバレリーナ(ジョーン・サン・マーティン)がテクストを読み上げたりしつつ威嚇的に踊る。テクストの内容がわからないのが残念だったが、ダンスというより、「ダンス」という記号を使ったパフォーマンスであると思う。
▼『リサボン/ヴッパタール/リスボン』('98、フェルナンド・ロペス監督)
Lissabon/Wupperthal/Lisboa, film direction by Fernando Lopes.
▼『ピナ・バウシュ作品抜粋集』('90、ケイ・キルヒマン監督)
Quelques extraits de pieces de Pina Bausch, film direction by Kay Kirchmann.
▼『ネフェス[呼気]』('04、ピナ・バウシュ振付、ジェローム・カスー監督)
Nefes, choreography by Pina Bausch, film direction by Jerome Cassou.
▼『バンドネオン ―ブエノスアイレスのピナ・バウシュ』('95、ミロス・デレティッヒ、ガブリエラ・マスー、ガブリエラ・シュミット監督)
Bandoneon - Pina Bausch a Buenos Aires, film direction by Milos Derettich, Gabriela Massuh, Gabriela Schmid.
▼『ディドンの眼差し、イタリア紀行』('00、アリエラ・ベディーニ、クラウディア・セッコ監督)
Le regard de Didon, Voyage en Italie, film direction by Ariella Beddini, Claudia Secco.
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大駱駝艦・天賦典式 『魂戯れ』

2006-05-19 | ダンスとか
吉祥寺・前進座劇場。
2003年に京都の春秋座で初演された作品なので、この再演でも前進座の歌舞伎の機構が活用されている。そもそも大駱駝艦の舞台はバロック的な猥雑さという点において歌舞伎やレヴューを思わせる部分があるが、それが正面性の強いスペクタクル的な「画」の構成に収斂してしまいがちであるところが勿体ないといつも思っていた。今回も、金色の竹が立ち並ぶ空間の中で、二人の怪物じみたキャラクターをはじめ、左右対称の「画」が多く作られる。花道を麿赤児が走り抜けていったり、男女の集団がズラッと居並んだりしても、本質的にはいつもの大駱駝艦の舞台と大きく違うものではない。回り舞台を駆使した、同心円をなす何層かのダンサーの集団が互いに摩擦を起こしながら行き交う終盤のダイナミックな場面には、まるで巨費を投じて作り上げられたアメリカ映画のスクリーンの中に巻き込まれてしまうかのような迫力があったが、それでもやはり「画」であることには変わりないのだ。舞台が「画」のように硬直してしまうということ、それはすなわちダンサーが「動いていない」ということを意味している。プラクティカルに見れば、まず何といっても、キューが多過ぎるために振付が断片化してしまい、ダンサーにはキューとキューの間のわずかな隙間しか「踊る」余地が残されていない。ダンサーたちはほぼ全面的に振付家によって統制されていて、しかもそれでいて、統制を内面化することなく、表層の従順さで受け止める。これが世田谷パブリックシアターのような劇場だと、「画」はそれを見る者に様式美しか伝えてこないことになる。しかし今回、劇場のサイズはいつもより小さく、また特にタッパが短い。このおかげで「画」には特殊な厚みが、つまりダンサーの硬直した「身体」が「画」の背後に生々しく息づくものとして触知された。壁に塗り込められた若者の身体が、実は全然死んでいなくて、身動きをとれぬままぬらぬらと蠢いている。とりわけ巨大な男根をつけて揺らす三人の女のシーン、すなわち兼澤英子の腰の硬さと、またそれと好対照をなす小林裕子の過剰な腰の振りの無意味さ(律儀に巧くこなせばこなすほど、それは何のレトリカルな効果もなしに、ひたすら文字通り「卑猥」でしかないのだった)が、この舞台がいつの間にか「舞踏」のパロディになっているという印象を決定的なものにした。『肉体の叛乱』の38年前には有効であった悪意が、自らの空転によって、時代の空虚さを語る。どういう経緯を辿ってか大駱駝艦という集団自体が今や「画」であらざるを得なくなっているのではないか、そんな考えが脳裡に浮かんだ。ダンスはとっくに不可能なのであり舞踏すらもとっくに不可能、それでも踊りたい若者が大駱駝艦に集まってくる。そういうやるせない切実さがこの舞台には溢れている気がして、麿の作る「画」の不動の美学が今までとは全く違う色合いに見えた。
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山田うん(ダンス)×平野公崇(サクソフォン)

2006-05-18 | ダンスとか
錦糸町・すみだトリフォニーホール(小ホール)。
前半はバッハの様々な曲その他の演奏と、それに振り付けられた小品。平野公崇、松井宏幸、貝沼拓実がサックスを吹き、ダンスは山田うんのソロに、田畑真希や伊藤知奈美が加わる。クラシック音楽用のホールなので客席も平たく、ダンサーの足などは全く見えなかったが、それ以上に、公演そのものがクラシック音楽寄りに(平野サイドから)デザインされていて、それでいてダンスとの共演については何のコンセプトもないように感じられた。狭く奥行きのない舞台にダンスが全く映えないし(背景の照明の色が変化するのなどもひたすら貧しい)、平野たちは舞台のあちこちに場所を変えながら三人並んで演奏に没頭しているだけで別にダンスを見ていない。山田うんの振付も、いつものヴォキャブラリーを使っていながら特に何をどう見せたいという方向性が弱く、何となく形だけ組み立ててみた、というような印象を受ける。いつもならば動きの節々にもっと鋭いエッジが立ち、見ているこちらの体にビクビクと刺激を与えてくれるのに、ここではサックスの音が空間をすっかりアーティキュレートしてしまうのに任せて、もはやダンスが出る幕はなかろうとでも言わんばかりに、萎縮していて主張がない。ダンサーたちも平坦に踊っている。とりわけ序盤の山田うんの踊りは、フォルムが空疎で、体操にしか見えなかった。後半は黒田京子のピアノが加わって全員での即興。ダンスはある程度用意された動きを使っているようだった。黒田は、できるだけダンスを見るようにしているのが特徴的で、他の出演者の気配を把握しながら音を出しているのが、客席からもよくわかった。舞台上の主体と主体との関係が活き活きしている時、観客はその関係を「ドラマ」として楽しむ。このように、ある関係の中で間主体的に生まれてくる「立場」において様々に動的に振る舞うことは、予め描写され細部まで決定された架空の存在を再現前させることとは別なのに、いわゆる「演劇」というカテゴリーの中ではこの二つがあまり区別されていないのではないか、ということを考えた。終盤はサックスとピアノとが加熱して盛り上がった。
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videodance2006 week 1 session 3

2006-05-15 | ダンスとか
与野本町・彩の国さいたま芸術劇場(映像ホール)。
▼『生きるためのコスト』('04、ロイド・ニューソン/DV8フィジカル・シアター振付・監督)
The Cost of Living, choreography & film direction by Lloyd Newson.
下半身のない男と、下半身のある男が主人公で、ダンスとドラマが一体となったDV8らしい作品。人々の好奇の視線に対して提示される、下半身なしのダンスが、低いアングルからのショットによる健常男性の群舞(上半身だけのダンスに見える)へと移行したり、移動用の台車のようなものを使って二人が軽快に疾走するなど、映像作品としてよく出来ている。しかも単なる福祉・啓蒙ではない。男が自分の彼女のダンスがいかに凄くて面白いかということを、友人に自慢(?)するシーンが中盤にあり、そこでこの男の方はどうも調子に乗り過ぎて、まるで彼女を見世物ででもあるかのように、からかい半分に扱って彼女を怒らせてしまうのだ。ここで彼女が受ける不快感は、とてもリアルだが言葉では何とも説明しづらい感情で、やはりダンスに関わっている人たちならではの作品だなと思う。要約してしまえば、人を能力において評価するという点で、彼のやっていることは下半身のない彼の友人に向けられた人々の侮蔑と何ら変わらない、ということになる。だからこの作品は、弱い者を守ろうとすることで守る側の価値観を絶対化することなしに、身体を能力(既存の、相対的に「公共的」な価値)へと還元すること自体を拒否せよと主張しているように思う。このスタンスは例えば稲葉振一郎の「資本」論と微妙な関係にあるだろう(ダンスもまた能力や価値といった関数から決して無縁ではありえないのだ)。
▼『母/大地』('04、アクラム・カーン振付・監督)
ma, artistic direction by Akram Khan.
先月NYで見たのと同じ舞台の記録映像。2004年9月の台湾公演らしいが、どういうわけか精彩に欠けるパフォーマンス。先月見た時は、振付の面白さに興奮したし、カタックもできてコンテンポラリーもできるダンサーをどうやってこんなに集めたんだろうと思ったり、ダンサーとしてのカーンのズバ抜けた動きに目が釘付けになったりしたが、この映像ではあまり変わったことをしているようには見えず、カーンのソロが終わった辺りで見るのを止めてしまった。この公演から1年半でダンサーが成長したのか、あるいはカタックは動きの方向を幾何学的に使うため、カメラで切り取られることで舞台の空間性が死んでしまっていることも致命的かも知れない。
▼『招かれた者たち』('04、メグ・スチュアート振付、ジョナサン・インクセッター監督)
the invited, choreography by Meg Stuart, film direction by Jonathan Inksetter.
舞台作品を元に作られたイメージ映像的な作品。メグ・スチュアートは本当に注目されているようだが、ぼくの知る範囲では振付家というよりフィジカルシアター的な演出家ではないのかと思う。演劇的な設えなしで作った純粋な振付作品は、バリシニコフのホワイト・オーク・プロジェクトからの委嘱による『Remote』(97年)をヴィデオで見たことがあるけれども、ダンサーたちがバレエのアティチュードから崩れていく動きを延々と続けるだけだった。このヴィデオも、室内のような空間で様々な日常の衣装を着た人々がずっと叫んだり暴れたり倒れたりしている。大雑把にいって「器官なき身体」のようなものへ向かおうとするのは世界的な傾向なのだろうが、これならむしろ黒田育世などの方がまだ手が込んでいるのではないかと思ってしまう。「器官なき身体」へ向かうことは誰にでもでき、そして現実にそういう身体に到達することは原理的に不可能なのだし、むしろ不可能な理念とどういう関わり方をするかという戦術が「振付」や「方法」なのだといえる。ここをスキップして「器官なき身体」の様々な表象(イメージ)を作り出すことはいくらでも可能で、ドラマトゥルクなどを駆使してコンテクストを立てれば「批評的」な言説で際限なく戯れることができるだろう。ただそんなものを見にわざわざ劇場まで出かけて、一時間なり二時間なり自分の体をそこに置くことに何の意味があるのかがぼくには理解できない。ダンスを見る時は、ダンサーの身体から自分の身体へとアフェクトされたい。単なる騒がしい動きではなくて、思わずグッと来るようなレトリカルな動きが欲しい。
▼『悪いけど、その辺を一回りしてきてくれる』('01、マルコ・ベレティーニ振付、メルク・プロダクション監督)
Sorry, do the tour!, choreography by Marco Berrettini, film direction by Melk Prod.
記録映像。昨日も見たベレティーニの、もっと前の作品で、ディスコをパロディにしている。よくあるディスコ・ダンスの振りを崩してユニゾンにしたり、ダンサーが一人ずつ現われて、でも踊れなかったり、というようなことを、どうも劇場ではなさそうな空間(本物のディスコかも知れない)でやっている。音楽はかかりっ放しで、照明もおそらく観客席まで一様に。なのにダンスは生硬なパロディであって、観客はそれを踊らないで見ている。劇場とディスコの違いをもう少し真面目に考えるべきじゃないのかと思った。
▼『身体』('00、サシャ・ヴァルツ振付、ヨルグ・イェシェル監督)
Koerper, choreography by Sasha Waltz, film direction by Joerg Jeshel.
ヴァルツといえば『宇宙飛行士通り』しか知らなかった頃、ドイツ文化センターでこの映像の一部を見てビックリした記憶がある。今回ようやく全体を見ることができたが、映像作品として綿密に仕上げられているためにかえって実際の舞台がどんなものだったのかはよくつかめなかった。とりわけ人体の皮膚や、これといって名前の付いていないような任意の部分の肉に指を食い込ませながらつかんで引きずるなどといったシーンのインパクトは、ライヴでは、仮に間近で見ていたとしてもこれほど衝撃的ではないだろう。クロースアップのままカメラが対象を追い続けてくれるからこそ、握り締められた皮膚の表面に見たこともない形状の肉塊が生み出される様を十分に凝視できるが、舞台では、近ければすぐに通り過ぎて行ってしまうし、遠ければ想像力で補うことになり、いずれにしても「痛々しさ」の記号的な了解で終わるに違いない。またこの映像は、出来事と出来事の関係を編集で巧みに組み立ててもいるので、空間的な配置がどうなっているのか、作品内を流れる時間がどんなものなのかもよくわからない。おそらく舞台と映像との差異が比較的小さいのは視覚的なイメージ(表象)を駆使した部分で、後ろを向いた女性の両脇からたくさんの手が伸びて、彼女の背骨に沿って白い皿を重ねるように並べ、一定のリズムでそれを左右に動かす、というシーンは面白かった。カチャカチャと音を立てながら背骨が解体されては元に戻るという、マンガチックかつ不気味なイメージが、見ているこちらの身体を侵食して来て、体の奥を直接「やられる」ような迫力がある。このシーンからは、イメージ(表象)が、運動することによって静的な記号性を超え、エロティックな知覚の対象にまで高まってくることがあるのだということを教えられた。ただ背骨に沿って皿が並べられているだけでは、それを「背骨」として考えることすら難しいと思うが、しかし皿の列がバラバラになり、また一直線に並び、再びバラバラになる、という運動、つまり列とその解体の往復運動がリズミカルに構成されることで、「背骨」と「解体された背骨」のイメージとが同時に並行して立ち上がってくる。ここでは、運動は、皿の二様の配置の間をつないでいるのみならず、現実(皿)と非現実(背骨)の間を媒介する構想力にも関与しており、認識(表象、イメージ、記号など)がいかに運動によって変化を被るか、そして運動がいかに認識を形作るかということを示しているだろう。客席に向かって、何かを回想して語りながら自分の体の部位を指差していくシーンも、同じく観客の身体のイメージに揺さぶりをかける。太腿の内側を指差して「耳が」と言ったり、脳天を指差して「腹が」と言ったりするだけで、身体とそこに貼り付いた言語秩序が動揺する。ここでも効果的なのは、「指差す」という行為の運動性(手が動くというリテラルな意味ではなく、多くの中から一つを選び出すという身振り自体が、その「一」の選択を支える「多」との相関関係にあるという意味での運動性)だ。ダンスとはいつもこんな風に、身体のイメージを変容させ、多様な変容可能性の基底にある形なきものの姿を露呈させる運動なのではないかと思う。
▼『アバウト・ノーボディ[サシャ・ヴァルツ「ノーボディ」をめぐって]』('02、アナイス・スピロ、オリヴィエ・スピロ監督)
About noBody, film direction by Anais & Olivier Spiro.
『noBody』はドイツ文化センターで全編の映像を見たことがあるが、これはアヴィニョンでの上演を準備する過程を追ったドキュメンタリー。ヴァルツはいつまでも少女みたいな人で、この映像でも可愛いワンピースを着てダンサーたちに振付をしている場面があって可笑しかった。
▼『ウムヴェルト[環境]』('04、マギー・マラン振付、ジャン=フランソワ・グレレ、ジェラール・セルジャン監督)
Umwelt, choreography by Maguy Marin, film direction by Jean-Francois Grele, Gerard Sergent.
舞台の記録映像。縦長の黒い板と鏡とが交互にいくつも並べられ、その間にダンサーたちが見え隠れしながら、小さな動きを見せたり、衣装や道具が変化していたりするというもの。実際の舞台で見るのならまだしも、映像でこれを一時間も見るのはつらかった。わざわざドイツ語でタイトルをつけていることから、フォン・ユクスキュルを参照しているのだろうと思うが、何かそれらしい解釈を試みようにも細部に眼を凝らすことができず、ひたすら変化を待ちながら忍耐するだけで終わってしまった。
▼『タデウシュ・カントールの演劇』('88、ドゥニ・バプレ監督)
Le Theatre de Tadeusz Kantor, film direction by Denis Bablet.
概説的なドキュメンタリー。とてもよくできていると思う。しかしなぜかカントールにはどうしても興味がもてない。『死の教室』をヴィデオで見て、あと確か昔セゾン美術館でやった展示も見た記憶がある。舞台に演出家本人が出てきたり、メタファーやアレゴリーを駆使した舞台装置など、目につくポイントは多いのだが、何か根本のところで入っていけない。
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videodance2006 week 1 session 2

2006-05-13 | ダンスとか
与野本町・彩の国さいたま芸術劇場(映像ホール)。
▼『古びた身体のための新しいムーヴメント』('03、マルコ・ベレティーニ振付・監督)
New Movements for Old Bodies, choreography & film direction by Marco Berrettini.
舞台の記録映像。清掃員、芸者、パンダ、ホットドッグ(?)などのキャラクターが次々に現れて、喋ったり歌ったり、馬鹿馬鹿しいアクションを行ったりする。こういうのは本当にヨーロッパでよくあるパターンだが、一体どういう人が好んで見ているのだろうと思う。
▼『コムクラン、コムカルト』('05、クリスチャン・リゾー振付、アルノー・エムリー監督)
Comme crane, comme culte, choreography by Christian Rizzo, film direction by Arnaud Emery.
中庭のような空間で行われたソロの記録映像。全身黒づくめのライダー(ヘルメットの下の顔も布で覆われている)が、ゆっくりと体を動かして姿勢や位置を変化させていく奇妙な作品で、謎めいた雰囲気が身体表現の強度とかみ合ってとにかく面白かった。全身が真っ黒だから、少し妙な姿勢を取ったりするだけで、どこがどうなっているのかよくわからなくなる。背中側に両腕を真っ直ぐ伸ばして後ろ向きに歩いて来たりするところも怖いが、床に身を屈めるだけで、腕と脚は簡単に入れ替わり、脚が頭から生えたり、脇腹から肘が伸びたりする。しかもそれが緩慢に切れ目なく変形し続ける。単なる全身タイツでなくライダーの扮装をしている辺りにも、具体的なイメージと抽象的なフォルムとの間の不安定な行き来を強調するポイントがあるが、踊っているジャン=バティスト・アンドレはサーカス出身で、肘を曲げた倒立の状態でなおもゆっくりと均質な速度で動いていったり、崩れそうなバランスがじわじわと回復されていったり、超絶技巧をこれでもかと見せつけ、その技巧が錯視的なイメージを根本のところで支えている。細かな筋肉の動きと震えがはっきりと目に見え、それでいてそこがどの部位だかわからなかったりするこの強烈なエロティシズムは、ダンス的だなと思う。屋外の自然音(木々のざわめき)の他に、少しだけ音楽(70年代くらいの歌)が入る。撮影は、全身が映るロングショットと、バストショットの二台のカメラで行われていて、画面が細かく切り替わるが、編集の意図は明確で、作品の性質にフィットした重厚感が醸し出されている。
▼『ヤン・ファーブル、雲を測定する男』('03、カロリーヌ・ヘルテル、マリアナ・モミロヴィッチ監督)
Jan Fabre, l'homme qui mesure les nuages, film direction by Caroline Haertel, Mirjana Momirovic.
ドキュメンタリー。前半はヤン・ファーブルの美術や舞台の制作の様子など、後半はファーブルが友人のアーティストたちを招いて、食事をしながら議論を闘わせる。まず前半で圧巻なのはブリュッセル王宮の広間の天井からシャンデリアまでを緑色に輝く甲虫の羽でびっしり覆うプロジェクト。圧倒的に美しい視覚的インパクトもさることながら、「完全な自由(裁量権)」を条件に王室から仕事を引き受けているというシチュエーションが凄い。王妃がシャンデリアの方を指差して「先端のクリスタルは残すの?」と微妙に不安そうな顔で聞いても「いいえ全て覆ってしまいます」とあっさり答える。この世にここまでコテコテな西洋ハイカルチャーが生き続けている場所があるとは思わなかった。つまり古典主義や古典的教養によって俗人からの差別化を図るとかそういう形式的な仕方によってではなく、端的に「高い」価値を讃えたり、所有したりするということが、社会構造的にできてしまうという意味だ。ファーブルが昆虫などを使うのも、ただ昆虫が好きで、美しいと思うからそうしているのだということが結果的に「美」として判明に示されてしまっている以上、むしろ昆虫を嫌悪する無根拠な共通感覚の方こそが退場せざるを得ない。とっくに評価の定まった芸術家をわざわざ呼びつけて、実は褒賞する側の権威を確保していたりとか、凡人が権威を傘にきてマスメディアに持ち上げられるとか、そういう貧しい世界ではない。美的判断が指し示す「高さ」が常識を圧倒する、ほとんど空々しくなるほど「理想的」な価値の世界。だからこのドキュメンタリーが、オープンカーで夜の街を走ったり、郊外の古城みたいな所でデッサンを描いたりするファーブルを映すと、つい失笑したくなってしまう。しかし画面はあくまでシリアスである。インド映画とか、アジアのアイドル歌手のプロモーション・ヴィデオみたいだ、という想念もよぎる。しかしこの価値の「高さ」は、そんなことで揺らぐものではないだろう。後半で登場するファーブルの友人は、マリーナ・アブラモヴィッチ、ヤン・フート、マイク・フィッギス、エミオ・グレコ、それとファーブルの舞台に出演している女優のエルス・ドゥククリア。「芸術家は何を探求するのか」とか、「観客は何も理解しない」とか、ここでもまた恐ろしくアナクロニスティックな議論が平然と展開される。色々な意味で怖い。
▼『オウムとモルモット』('02、ヤン・ファーブル振付、クリス・ヴァン・エルト監督)
Parrots and Guinea Pigs, choreography by Jan Fabre, film direction by Kris van Aert.
舞台の記録映像。一羽のオウムと、オウムに似た衣装の女性がいて、他に数人の男女が、巨大なグロテスクな動物の着ぐるみと暴力的かつエロティックに絡み合う。あまり展開がないまま二時間近く続くので退屈してしまったが、舞台で見たらどうなのか分からない。動物的なものに対するファーブルの関心は一貫しているが、『劇的狂気の力』にせよ『時間のもう一つの側』にせよ、ぼくの知っている限り舞台作品は徹底して人間の身体を、それそのものとして扱っている。この作品でも動物はあくまでもパロディの対象として現われ、それによって動物そのものではなく動物と人間の境界を人間の側から眼差す。想像されたものとしての「動物」ないし「動物性」が主題になる。
▼『ア・テール・オブ』('05、勅使川原三郎、ラヴィ・ディープレス監督)
A Tale Of, direction by Saburo Teshigawara, Ravi Deepres.
森と、廃墟じみた古い洋館を舞台に撮影したイメージ的な映像。佐東利穂子と宮田佳が出演している。画面のクオリティはともかく、いかにも作り手が自分の美意識に陶酔している感じがひたすら若々しい。
▼『C‐ソング01』('03、ヤン・ロワース監督)
C-SONG 01, direction by Jan Lauwers.
ニード・カンパニーの振付家による映像作品。浜辺に二組の父子がいて、子供同士が喧嘩して一方が気を失ってしまうという顛末が、波のショットを織り交ぜながら取り留めなく映し出される。これだけの素材で10分間持たせるにはそれなりの技巧が必要だと思うが、ショットの構成を見る限り、ロワースは素人としか思えない。またそれとは別に、どこがダンスなんだろうという風にも思う。最も安易な答えは、画面の動きがダンスなのだというやつだが、あらゆる映画は動いているのである。「動き」と「ダンス」の違いはどこにあるのか?
▼『テンプス・フュジット[逃げてゆく時間]』('05、シディ・ラルビ・シェルカウイ、Les Ballets C. de la B.振付、アナイス・スピロ、オリヴィエ・スピロ監督)
Tempus fugit, choreography by Sidi Larbi Cherkaoui, Les Ballets C. de la B., film direction by Anais & Olivier Spiro.
『ダヴァン』の四人組の一人であるシェルカウイの振付作品を、ロケ撮影で映像化したもの。この人は名前からしてどういう出自なのかよくわからず謎めいているが、今ヨーロッパで確実に台頭している。とにかく面白かった『ダヴァン』と同様この作品も無国籍風で、タブラが鳴っているなと思いきや画面はアラブの家屋、そうかと思うとやはりインド系の女性がヴェランダから顔を出していて、中庭では男女がタンゴを踊っている。次の場面では、赤土の上で焚き火を燃やしながら、スーツの男が低い姿勢でのジャンプなどハードな動きで踊る。さらにはイスラムのスカーフをつけた女性がベリーダンスを織り交ぜつつ、ここでもフロアを多用した独特の振付になっている。バレエ的なフォルムの美学とは異質な、リズミカルで粗野なシェルカウイのムーヴメントはあまり見慣れないもので、何か典拠があるのかも知れないが、明らかにリリースによって体のしなりや四肢のスイングが増幅されていて、一定の手法が練られている。エキゾチックなものに対してどういうスタンスで関わっているのかということにも興味を惹かれる。
▼『狼』('04、アラン・プラテル、Les Ballets C. de la B.振付、ペーター・シェーンホーファー監督)
Wolf, choreography by Alain Platel, Les Ballets C. de la B., film direction by Peter Schoenhofer.
舞台作品をヴィデオ用に(おそらくスタジオで)撮影したもの。画面に若干のエフェクトが加えられている。セットも、生演奏も、衣装も、人々の生活している様子をそのまま演劇的なパフォーマンスに仕立てているコンセプトも、2000年に東京で見たプラテルの初来日公演『バッハと憂き世』と非常によく似ている。音楽はモーツァルト(WOLFgang Amadeus Morzart…)。ダンスに何も新しいものはなく、プラテルはぼくにとって本当にどうでもいい存在。2時間以上あったが30分ほど見て脱落。
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videodance2006 week 1 session 1

2006-05-13 | ダンスとか
与野本町・彩の国さいたま芸術劇場(映像ホール)。
▼『ピナ・バウシュが65歳以上の男性と女性を探しています』('02、リロ・マンゲルスドルフ監督)
Pina Bausch cherche hommes et femmes de plus de 65 ans, film direction by Lilo Mangelsdorf.
『コンタクトホーフ』制作の舞台裏を追ったドキュメンタリー。65歳以上とはいっても50代の人も入っていたりするようだ。ヴッパタールのダンサーが、(基本的には)アマチュアの人々にみっちりと振付をする。身体能力面での訓練は特に必要なく、ただ覚えれば踊ることができる。振りやアクションのそういう簡単さ、卑近さがポイントだろう。ダンシーな身体の状態を生じさせることと、能力を高めることとは本質的に関係がない。ダンスの楽しみは、「できる」とか「できない」とかいった基準とは全く別の次元に属している。しかし、ということは、能力を「高めない」こととももちろん関係がないはずだ。バウシュのこの企画にポストモダンダンスの「デモクラシー」と相通じるものがあることは確かだが、バウシュは反能力主義的なルサンチマンの隘路をもさらりとすり抜けているように見える。むしろ老いた身体をその固有の特性において活用して、特殊なダンスを作り出す。
▼『コンタクトホーフ』('02、ピナ・バウシュ振付・監督)
Kontakthof, choreography and film direction by Pina Bausch.
上記の「高齢者版」の記録映像。最近、80年代に上演された『コンタクトホーフ』を、『山の上で叫び声が聞こえた』などとともにヴィデオで見て、いかにこの時期のバウシュが独創的なダンスを作っていたかがわかったのだが、同時に、「一見ダンスらしからぬところにダンシーな質を発見し増幅する」というその手法が、ぼくが初めてバウシュの舞台を見た96年(『船と共に』)の時点で既に形骸化していたということもほぼ確信できるようになった。70年代末から80年代にかけてのバウシュの舞台では、様々な「行為」が(別に「反復」などしなくても)全く不思議に「ダンス」として成立しており、(カメラや編集の効果を割り引いても)風船の膨らむ速度と割れるタイミング、ダンサーの出ハケ、音の入り方、ギャグの滑り具合、客席に向けたニヤニヤ笑いまで、一切が音楽的なリズムで構成されている。これ以前のバウシュとも、以後のバウシュとも違うこの非ダンス的なダンスは、しかしおそらく徐々に、個々のダンサーのキャラクター(人格)性へと回収されていってしまったのではないかと思う。例えば小柄な女性がノシノシと袖から現れる動きの、大きすぎる歩幅や速度や体のこわばり具合が面白かったのに、一方ではダンサーが巧くなりすぎて「芸」にしてしまい、他方で観客はそのダンサーが出てくるだけで笑うようになった。純粋な身体運動から、ベタついた人間的な馴れ合いになった。だからそこで、アマチュアの無名の老人たちによって「蘇演」するというアイディアは納得できる気がする。実際それなりに長い作品で運動量もあるので、本当にヨボヨボの老人が出ているわけではなく、何人かはかなり本格的なダンス(表現主義風の振付)を見せる。しかしやはり老人特有のギクシャクとした動き、またそれ以前に明らかに舞台慣れしていない挙措(立ち姿からして全く頼りない)が、振付そのものが目指しているダンスの網の目を縫うようにして顔を出す。作品本来の振付けられた運動と、神経や筋肉の機能不全など身体内部に生じる様々なトラブルに起因する運動が、緩くつなぎ止められ、互いを侵食し合うようにして同時進行するため、どこか微妙に調子が外れていながら、それでいてダンシーな質は保たれるという異様な事態が生まれるのだ。予測不可能なタイミングで長い停滞が起こったり、唐突に勢いが跳ね上がったりする老人の動きは、もちろん老人でない者にとってはスリリングだが、本当に怖ろしいのは、老人と老人の間でも決してタイミングは合わないということだろう。成熟し安定した成人の身体、あるいは発達の過程にある子供の身体ならばともかく、衰えゆく身体はそれぞれに多様な滅び方をしており、ヴェクトルを共有していない(「死」は「生」の否定に過ぎないので、「生」以外の全てのヴェクトルは自ずと「死」へ通じている)。こうして、コミュニケーションもままならない、名もなき身体の群れによって、バウシュは再び運動を「人間」から取り返しているように思える。撮影の関係によるものかも知れないが、照明の当たっている何人かの背後の薄暗い空間で複数の男女が鈍重に蠢いているさまなど実に不気味で、しかもその不気味さが今日の身体のありようを鮮やかに照らしている。ピナ・バウシュはヴッパタールのカンパニーなどに固執していないで、もっと自由に創作をすればいいのではないかと思った。
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まことクラヴ 部活動報告会vol.4 『シカク』

2006-05-05 | ダンスとか
こまばアゴラ劇場。
2002年の『部活動報告会vol.1』は屋外ゲリラ活動の文字通り「報告会」というコンセプトが面白かった。「遊び」にしても、本気でやっている「遊び」の凄みが出てくるのではないかと思わせるものがあった。しかし翌年の『迷宮神楽坂』は早くもガラッと変わってしまい、独特の暗さとユーモアの混濁を職人的強度でもって作り込んでいた。『ニッポニア・ニッポン』はあからさまに小芝居風になった。今回は強いていえば『迷宮神楽坂』に近いが、テーマの見えない小ネタの集積という印象は拭えず、しかも「部活動報告会」というタイトルがあまり笑えない。つまり「部活」のパロディではなく素で「部活」の「報告会」になっているように思え、だからコンテンポラリーダンスを「ニートの学芸会」という風に揶揄したい人たちには格好の素材であるような気さえしてしまった。ダンスを職業にしているNoismの『SHIKAKU』の向こうを張って、「部活」の看板を掲げ堂々としているなと期待させておいて、こんな律儀に勝負を仕掛けてしまったら、現実(生活)が追いすがってきてシャレじゃなくなる。例えば冒頭の振付(五人が横方向にレイヤーで出入りする)はかなり気合が入っていて、カチッとした振付が新鮮ではあったのだが、どうしても感覚だけで作っていることは分かってしまうし、第一こんな狭い小屋でやられてもなあと、ただひたすら日本のダンスが置かれた状況の「貧しさ」にばかり意識が向かってしまった。要するに「貧しさ」を逆手に取ろうという余裕、遊び心が見当たらないのだ。「テーマの見えない小ネタの集積」とはいっても、何かの一貫性は自然と見えてくる。それは「視覚」でも「刺客」でも何でもなくて、「動物化」である。おそらく今回、遠田誠の関心が最も集中しているのは、アゴラ劇場という空間をいかに使い尽くすかという点で、下手側にある床の開口部や、上手側にあるエレヴェーターホールのような空間とエレヴェーター、二階のギャラリー、そして屋外までがあれこれと手を尽くして使われた結果、まるでダンサーたちはこの狭苦しい空間に生息して縦横無尽に徘徊している何かの生き物のように見えた。そのような、環境と過不足なく調和している生物、所与の環境を超過する想像力や、過剰な力の備わっていない「動物」を律儀に演じるのがさほど愉快なことであるとは思われないし、しかももしこれがポツドール(=演劇)であったら再現=表象による批評的な距離が担保されるのだろうが、ここでは環境から演繹された規則にひたすら身体を馴致していく行為が、対象化されることもなく、むしろその行為自体に他ならぬ「コンテンポラリーダンス作品の成就」という「夢」のようなものが賭けられているように感じられる。これは途轍もない倒錯だし、おそらくは作り手の側においても自己欺瞞になっているはずだ。なぜならこんな「部活」だのコンテンポラリーダンスだののような過剰な活動をしなくたって、人は簡単に動物として生きていける世の中なのだから。それとも、過剰な活動としての「コンテンポラリーダンス」(でなくても何でもいいが)が、「職業」として成立することを望んでいるとでもいうのだろうか?ダンスが仕事になったらおしまいだと考えたからこそ、「部活」と銘打って、生活に関係ない、どうでもいいこと(ダンス)に力を費やしているのではなかったのか。今回最も惜しいと思ったのはエレヴェーターの使い方で、こんなに美味しいものをどうしてもっと遊べないのだろうと思って見ていた。この部分について、稽古不足であることは明白で、どんな機械でももっている癖のようなものをしっかりつかめばこれ一つで60分間踊り続けることだって不可能ではない(機械や動物は踊れないが、人間はそれらと踊れるのだ)。日常生活の中ですらエレヴェーターは事件に満ち、想像を絶する滑稽な出来事が起きるというのに、ダンスをわきまえた振付家の舞台のラストで全員がハケる際に単なる間の悪い「エレヴェーター待ち」になってしまうなんて、正直信じられないのである。
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イメージフォーラム・フェスティバル2006(Oプログラム) カメラによるダンス・スタディーズ2

2006-05-05 | ダンスとか
新宿・パークタワーホール。
▼『消失点』('05年、ジネット・ローラン振付、オアナ・スュトゥ監督)
Wire Frame, choreography by Ginette Laurin, direction by Oana Suteu.
ジネット・ローラン振付の『Passare』をベースにした映像作品。建築家とその妻の関係の溝のようなものと、建築物の崩壊とを比喩で結びつけつつ、漠然とした心理的イメージというか「雰囲気」(セリフを使わずに意味を曖昧にするだけで簡単に立ち上がるような、何か「言葉にならない」感情のようなもの)を描写している。パリッとしたスーツを着た建築家がオフィスでいきなり踊り出すなど、まるで登場人物が唐突に歌い出すコテコテなミュージカルに似ているが、踊りがドラマ描写からあまりにも遊離していてひどく滑稽に見える。ローランの作品は『ドン・キホーテ』と『シャガール』をヴィデオで見たことがあるが、そこから得た印象としてはかなりリテラルな仕方でナラティヴや意味を取り扱う振付家で、逆にいえばナラティヴや意味を切り離して見るとあまり特色のない平凡なバレエ・ベースのダンスである。主演の女優はおそらくカンパニーのプリンシパル・ダンサーで、セリフがほとんどないのだが、彼女がセリフを言わなくても画面に現われることができるようにするためにちょっとした動きや仕草などが不自然に多く映っていて、それによって映画としてのリズムがメチャメチャになっている辺りも、技術的な稚拙さと、それ以前に企画の必然性のなさを感じさせる。
▼『ピナ・バウシュの吐息』('05年、フセイン・カラベイ監督)
A Breath with Pina Bausch, direction by Huseyin Karabey.
『ネフェス』を制作している稽古場を撮影したもの。バウシュの出したお題に対してダンサーたちがあれこれモティーフを作り出し、順番にバウシュの前で見せていく。動きやアクションが生まれてくるスタジオの自由な雰囲気が興味深く、またそれを椅子に座ってチェックするバウシュの「審査員」ぶりと、ダンサーたちのまるで小学生のような従順さが奇妙だった。バウシュは本当にいわゆる「振付」ということをしていなくて、ダンサーから出てきた素材を編集するだけのようだが、そのことは同時に、ダンサーたちがバウシュの作品の傾向をいかに内面化し切っているかということをも意味するように思える。監督は、稽古場で提出された素材が、舞台でどんな風に仕上がったかを単調なオーヴァーラップで見せていくばかりで、映像作品として見るべきところはほとんどない。
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イメージフォーラム・フェスティバル2006(Nプログラム) カメラによるダンス・スタディーズ1

2006-05-05 | ダンスとか
新宿・パークタワーホール。
▼『賛歌No.1』('03年、マリー・シュイナール監督)
▼『アメリア』('03年、エドゥアール・ロック監督)
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イメージフォーラム・フェスティバル2006(Lプログラム) ビデオ・ディクショナリー

2006-05-04 | ダンスとか
新宿・パークタワーホール。
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