dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

矢内原美邦/ニブロール 『ドライフラワー』

2004-02-29 | ダンスとか
新宿・パークタワーホール、昼。
おおむね三部からなり、やはり最初の部分が新味。生ドラム(ライヴ演奏)、赤いエレガントな衣装・ヘアメイク、女性4人という編制、トップからの照明による陰影の強い表情、床に置かれた互い違いのブロック。そして意外にも一種オーソドックスな振付とコンポジション。さらに、スタイルは伸びやかなんだけど動きに独特のクセがある康本雅子がニブロールのテイストと融合して見たこともないダンスを生み出していた。しかし本当に驚くべきは中盤以降の振付の明瞭さと密度、ダンサーの安定感だろう。フロアを走り回ったりぶつかり合ったりする系統の動きがあまり目立たないし、また言葉で指示・説明できる類の「アクション(行為)」的な要素も大人しめだが、シーンが常に同時多発的に展開され、そのどこを見ても振りが細密に彫り込まれてきっちり仕上げられている。踊れないダンサーをタイム・スケジュールの中に放り出してその身体を半・放し飼いにする過去の路線からは離れつつ、しかし越後妻有版『NO-TO』ともまた違う方向で、矢内原的な振りがこんな風にロジカルに詰められるものとは思わなかった。新しい論理学の開発に成功、という感じだ。そのこととも若干関係してくるが、たかぎまゆが両足を開いて思い切り踏ん張り、手の平を前に突き出すポージングのシーンは忘れられない。このポーズは『コーヒー』でたかぎまゆがやったもので、今回はその斜め後に藤井園子が立ち、同じポーズを取る。ニブロールらしからぬ露骨なユニゾンなのだが、よく見ているとたかぎはそのまま力んだアクション、藤井はそこから弱々しく内側に腕を折り曲げていく振りへと鮮やかに分岐していき、美しく感動的なコントラストを作っていくのだった。しかし今作を絶賛できないポイントは、一つには、振付が充実していた分ヴィデオが単なる壁紙に甘んじてしまったこと。ヴィデオ、本当に必要だったのだろうか。情報過多による支離滅裂をして「速い」「カオティック」と雰囲気的に受容しようとする限りは、こんな振付重視=ヴィデオ軽視は受け入れがたいのだが、もし振付家の方向転換であるのならばむしろそれを徹底すべきだと思う。そしてもう一つのポイントは中盤のサムすぎるセリフや歌。いつもは誰もが見て見ぬふりをしている部分だが、ここまでクドくやられるとそうもいかないし、今回は構成面でも錯雑としすぎて、致命傷になったと思う。テーマ的にみても、女性ばかりのホモソーシャル空間の内部に展開する力学(東京三部作とははっきり異なる「親密圏のポリティクス」)の表象を支えるべきただ一人の男性・石立大介が集中的に現われるのがまさにこの極寒の中盤部分であり、集団にとっての異物(=外部)の提示が手際よく処理できていないがゆえに作品全体の焦点がボヤけてしまったのだと思う。飄々としておマヌケでエモーショナルなエイリアン、というキャラが面白かっただけに惜しい。石立がハケた後の最後の部分は、雪が降ったり、バタバタと人が倒れたりする「終末」イメージで、最後に起き上がる人がいるのはお約束。小奇麗なまとめ方がかえって何かの言い訳めいて見えた。しかし何だかんだいっても、ニブロールのこの空間・時間・運動の質感はやはり他の何にも似ていないわけで、毎回毎回着実な変化を見せつつ未踏の領域へ前進していく矢内原美邦のパワーには圧倒される。だいたいこの人には迷いが感じられない。いや迷走はむしろ常に積極的にしているんだけど、躊躇いとか衒いがない。
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dance unite ジジ

2004-02-28 | ダンスとか
神楽坂・セッションハウス。
「unit」ではなく「unite」。振付家は自作の振付に専念し、その代わりダンサーとして他方に出る。自作自演をあえて禁じてみるのは良い考えだと思う。
▼勝部ちこ 『ジジ』
ダンサーは池田素子、樋口信子、伊藤真喜子。この人の振付作品を見るのはたぶんこれが二回目。コンタクト・インプロはほとんどなく、かなりしっかり振付けられていた。どのシーンもそれとして面白かったのだが、50分強の中にアイディアを詰め込みすぎていて全体的なまとまりには欠けた。三人が至近距離で向き合って目線を合わせたまま、一人だけ座ったり、立ち上がったり、ニ人だけ座ったり、という冒頭近くの無音ガン付けシーンがまず面白い。これがやがて、アイコンタクトによって三人がフォーメーションを作りながら走り回ったり停止したりするというシーンに展開する。いい具合に力が抜けていて自然な緊張感があり、楽しかったのだが、折角なんだから、立った姿勢のまま仰向けに倒れかかって重力と遠心力で走り出すとか、元ネタ(ローザス)を丸出しにせずに粘ってほしかった。そう思ってみれば白の半袖シャツに黒のスカートという衣装も何となく似てるわけで。もう一つ面白かったのは、ゲームのようなシーン。割と長い、振付けられたシークエンスを一方が踊り、他方がそれを座って見ている。見ている方は任意のタイミングで「それ。」と声をかける。すると踊る人はそこを短い断片に切って、ヴィデオのように何度も繰り返し、また「次。」という声がかかると元の振付の続きをそこからやる。断片の反復をしている間に、さらに「それ。」と言ってもっと短い断片に刻んだり、停めてからすぐに「次。」と言ってまたすぐに停めたり、人間スクラッチ状態。見るからに難しそうだ。特に「次。」と言われて続きをやるのが難しそう。ゲームのままにしておかないでダンス作品の中に組み込めばいいのにとも思うが、これはこれでなかなか興味深い。まず「それ。」と言われても、決定されるのは動きの停止点だけだから、その断片がどこから始まるのかは自分で決めなければならない。また切り取られた動線は、反復されることでデフォルメされるし、また元々はなかったリズムを生んでしまいもする。こうして動きには踊り手の多大な解釈が自ずと盛り込まれてくるわけで、そのプロセスが可視化されることにより、身体運動の中にどれだけ不可抗力が作用しているか(重力や遠心力だけでなく、可動範囲や関節の向き、部位の寸法なども含まれる)が見えてくる。人間無茶なことはできない。
▼伊藤真喜子 『WW』
勝部ちこのソロ。「ラボ20」以来の新作なので楽しみにしていたのだが、今回はあまりピンと来なかった。これはどの程度振付けられているのか、あるいはかなりダンサーの即興に委ねられているようでもある。前半三分の一ほどは、大きなクッションに頭を突っ込んでグリグリやり続ける。一度ハケて、残りはずっと、ハイヒールを履き、リアルな馬のマスクをかぶって、踊ったりボーッとしたりする。目が開きっぱなし、口も開きっぱなしなおマヌケ感だけでここまでもたせる、そのシンプルなこだわり方は潔くて好感だが、それでも既製品のマスクを長時間見せ続けるのはどうかとも思う。
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砂連尾理+寺田みさこ 『男時女時』

2004-02-26 | ダンスとか
新宿・パークタワーホール。
冒頭シーンが凄かった。大仰なコーラスがかかって、上手奥から照射された金色ビームの対角線上に寺田、砂連尾と並んで踊る。光と音によってモニュメンタルな存在へと仕立て上げられるフツーな人々の姿、このちぐはぐ具合はまさに『あしたはきっと晴れるでしょ』のクライマックスの、場違いなスペクタクル感を髣髴とさせた。しかし安定した対角線構図がひとたび崩されてから後は、もうほとんど何も見えてこなかった。『ユラフ』を初めて前橋で見た時から毎回感じるこのとらえどころのなさ。トークで砂連尾は、二人が視線を合わせないこととか、正面から向き合わないこととか、しきりに「曖昧さ」なるものについて語っていたから、これが「曖昧な表現」ではなく「曖昧さの表現」なのだと信じたいが、しかしこの程度に「曖昧」な舞台であればそれこそ他にいくらだって挙げられるのだから、これは「曖昧さの表現」が残念ながら「曖昧」なのだというほかないだろう。二人の身体が、二人の間に常にポッカリと設けられている広大な空間に負けてしまっている。他方、この作品の中で誰もが面白いと思うに違いないのは寺田の踊りで、振りが体の中にしっかりと落ちているし、よく咀嚼し解釈した上でアウトプットされているから、小さな振りでもきわめてクリアに伝わってくる。そしてこの寺田は案の定、砂連尾が「曖昧さ」などについて語るのを「フーン」と受け流すばかりで食いついてくれないらしい。そんなに前から見続けているわけでもないくせに『あしたは…』ばかり引き合いに出すのは良くないが、それでも、少なくともあの作品はすでに十分「曖昧」だったし、それが表現としての強度をもっていたことは間違いなく、つまり砂連尾は「曖昧さ」を語ることで「曖昧さ」そのもの(寺田の「フーン」な身体)からも、ダンスからも遠ざかってしまっているのだろう。ちなみに『あしたは…』には、二人が並んでバラバラの動きをしながら下手から上手へと移動していく忘れがたい場面があり、そして『ユラフ』にも辛うじて、上手で二人が至近距離で向き合いながら互いに噛み合わないバラバラの動きを次から次へと繰り出す印象的な場面があった。どちらも説教くさいお題目などではなく、絶妙なスレスレ感が何ともいえずエキサイティングなダンスになっていたのだった。
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アルカサバ・シアター 『アライブ・フロム・パレスチナ ―占領下の物語―』

2004-02-26 | ダンスとか
三軒茶屋・シアタートラム、昼。
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安藤洋子×W.フォーサイス

2004-02-25 | ダンスとか
三軒茶屋・世田谷パブリックシアター。
▼『WEAR』
今回目玉の新作。安藤洋子ソロという触れ込みだったが、男性二人との共演になった。だからどうこうとは別に思わないが、安藤洋子の「個性的な身体性とキャラクター」なるもの、つまりダンサーの身体的個性に対して、システムの人であるフォーサイスがどうアプローチするのかはちょっと興味があったわけで、それをこういうタンツテアター寄りの引き出しで片付けられてしまうのはいささか肩透かしではある。舞台下手に灰色のマットがグシャッと積み上げられた家のようなものと、手前に大きな巻紙(何と書いてあったのか不明)が置かれ、モコモコしたダウンジャケットを着込んだ三人がギクシャクと動き回ったり家に引っ込んだりストップモーションのように停まったりする、というのが基調になっていて、巨大なアフロのかつらがユッサユッサとやわらかそうに揺れるのがキモカワイイ感じ。音楽(池田亮司)は単調な弦にセリフがかぶさるもので、さらにフォーサイスが無線を使って男性二人に出しているサインらしきものが聞こえてくる。NY辺りのホームレスみたいに見えたが、コンセプトとしては「南極」らしい。安藤が分厚い衣装を脱いで踊る部分もあるにせよ全体に見せ場は少なめで、25分もやるような作品ではないと思った。これが15分だったら印象もずっと良くなっていただろう。安藤を見るのはA・シルヴェストリンの作品に出ているのを見て以来これがまだ二度目で、ダンサーとしての彼女についてはあまりよくわからなかったが、床に尻をついて宙に浮かせた足が内股にガギガギしているところなどは『疱瘡譚』の土方みたいだった。最後は男性二人がマットの家を引きずってきて、安藤がそこへ無事収監されて幕。
▼『(N.N.N.N.)』
'02年初演。4人の男性が横に並んで腕をからませたり組み替えたりしていくというシンプルな作品で、ダンサーの息遣い以外は無音。フォーサイスでは今までまったく見たことのない傾向の作品であるし、振りであって、ほぼ全面的にコンタクトによる関係のロジックが支配しており、形を作り出す部分がほとんどないから、一見即興のようにも見えるが(衣装がジャージとかだし)、きわめて精密に振り付けられている。地味に凄いタイプの作品。チラッと『白鳥の湖』みたいになるシーンもあったり、全体にコミカルなのがまたフォーサイスらしからぬところで、強烈な個性の刻印が見て取れないからある意味フツーの振付家の作品のようにも思えるのだが、しかしそうはいってもこの、まるで4人で1人のダンサーであるかのような有機的な緊密さはまさに非凡としかいいようがない。手をつないだり組み替えたり、意識のセンターがあっちからこっちへ移動したり、遠く離れた部位と部位が連絡しあったり、こうやって人体は動いているよなー、と思った。
▼『QUINTETT』
'93年初演。翌年の来日公演時には見逃しているので、今回初めて見た。男性3、女性2。フォーサイスと聞いて誰もが期待するこの照明、衣装、音楽、美術、振付。ギャビン・ブライヤーズ『イエスの血は決して私を見捨てたことはない』(そういえばこの歌もホームレスだ)の反復&漸進する時間の流れに、それとは無関係に並走しているようでいて時折り一瞬だけフワッと乗っかっていくダンス。そして舞台奥の穴や袖から無言で出入りするダンサーの視線の無内容さ、仰向けに落ちかかる女を穴の中から男が何度も押し返しているところへ超然と降りてくる幕……だが、今回はダンスがまったく弱かった。フォーサイスのグネグネした超複雑な振りを非人間的な速度と安定感で見事に踊りこなしているダンサーは一人もいなかった。ヨレていたり、ざっくり大雑把であったり、硬かったりと、あまり身体能力の高くない人が揃っている。デモンド・ハート(たぶん)というアフリカ系の人は迫力があり、この人がソロパートで、舞台中央で右方向にジャンプしつつその頂点でいきなりバカッと左半身を開き、首を思い切り突き出しながら全身を力強くそっちへ持っていく部分があってびっくりした。しかしこの人とて、今まで見たフランクフルト・バレエの平均値からするとだいぶ見劣りがする。むしろ安藤洋子はよく動いていたのではないかと思うが、やはり他の人と並んでしまうと体型のレヴェルであまりにも差がある。
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ペピン結構設計 『東京の米』

2004-02-25 | ダンスとか
池袋・東京芸術劇場(小ホール)、昼。
ダンスと違って演劇はアンソロジーとかオムニバス形式でつまみ食いすることができないから、その劇団を知ろうと思ったら意を決して90分とか120分ぐらい付き合わなければならない。これは実に無茶な話だと思うのだが、今回も開始後5分で興味を失って難儀した。まったくありあわせの類型的な(しかも拙い!)演技でセリフがえんえんと続くだけで、これじゃ目なんかいらねえよ、という芝居。見るものがないのでうつむいて寝たりしていても十分わかってしまう。男の人に触られるとお米を吐いちゃう特異体質な女の話で、それがメタファーになってる。戯曲だけで十分伝わる内容じゃないのかな。
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クロムモリブデン 『なかよしshow』

2004-02-21 | ダンスとか
池袋・東京芸術劇場(小ホール1)、夜。
初めて見る劇団。キャリアは長く、その間にずいぶんスタイルが変遷しているそうだが、少なくとも今回はぼくの最も苦手とする、いわゆる「小劇場演劇」というやつだった。過剰に力んだり変な声だったり同じセリフを三回繰り返したりするヘンなキャラが次々に現われてブラックなナンセンスが連発される出だしには期待させられたのだが、本編が始まるとなぜか全員フツーになってしまって、後はお定まりのメタ演劇コメディ。
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ラビア・ムルエ&リナ・サーネー

2004-02-20 | ダンスとか
新宿・パークタワーホール。
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トチアキタイヨウ+ゴセッキー+マツウラシンペイ

2004-02-14 | ダンスとか
新宿・シアターPOO。
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山下残 『透明人間』

2004-02-14 | ダンスとか
六本木・オリベホール。
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チェルフィッチュ 『三月の5日間』

2004-02-14 | ダンスとか
天王洲アイル・スフィアメックス。
→『トーキングヘッズ叢書No.21』、『ダンスワーク』56号「2004年ダンスの総括」にてレヴュー
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スレイマン・アルバッサーム・シアターカンパニー 『アル・ハムレット・サミット』

2004-02-13 | ダンスとか
新宿・パークタワーホール。
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「六本木クロッシング:日本美術の新しい展望 2004」展

2004-02-12 | ダンスとか
六本木・森美術館。
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クサマトリックス:草間彌生展

2004-02-12 | ダンスとか
六本木・森美術館。
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第47回日本舞踊協会公演(第1部)

2004-02-12 | ダンスとか
半蔵門・国立劇場(大劇場)。
▼『清元 女車引』(千代/藤間勘叟、春/水木佑歌、八重/藤間掬穂)
▼『清元 浅草暦』(花柳秀暸、花柳鳳幸、花柳壽紫沖、坂東朋奈、坂東峰二三、坂東勝彦、藤間登巳)
▼『長唄 正札附根元草摺』(五郎/坂東寛二郎、舞鶴/若柳美穂)
▼『清元 峠の万歳』(太夫/猿若清三郎、才造/市山松扇)
▼『一中節 羽衣』(天人/西川左近、伯竜/西川春喜久)
▼『地唄 鉄輪』(井上八千代)
▼『長唄 義太夫 常磐津 紅葉狩』
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