新宿・パークタワーホール、昼。
おおむね三部からなり、やはり最初の部分が新味。生ドラム(ライヴ演奏)、赤いエレガントな衣装・ヘアメイク、女性4人という編制、トップからの照明による陰影の強い表情、床に置かれた互い違いのブロック。そして意外にも一種オーソドックスな振付とコンポジション。さらに、スタイルは伸びやかなんだけど動きに独特のクセがある康本雅子がニブロールのテイストと融合して見たこともないダンスを生み出していた。しかし本当に驚くべきは中盤以降の振付の明瞭さと密度、ダンサーの安定感だろう。フロアを走り回ったりぶつかり合ったりする系統の動きがあまり目立たないし、また言葉で指示・説明できる類の「アクション(行為)」的な要素も大人しめだが、シーンが常に同時多発的に展開され、そのどこを見ても振りが細密に彫り込まれてきっちり仕上げられている。踊れないダンサーをタイム・スケジュールの中に放り出してその身体を半・放し飼いにする過去の路線からは離れつつ、しかし越後妻有版『NO-TO』ともまた違う方向で、矢内原的な振りがこんな風にロジカルに詰められるものとは思わなかった。新しい論理学の開発に成功、という感じだ。そのこととも若干関係してくるが、たかぎまゆが両足を開いて思い切り踏ん張り、手の平を前に突き出すポージングのシーンは忘れられない。このポーズは『コーヒー』でたかぎまゆがやったもので、今回はその斜め後に藤井園子が立ち、同じポーズを取る。ニブロールらしからぬ露骨なユニゾンなのだが、よく見ているとたかぎはそのまま力んだアクション、藤井はそこから弱々しく内側に腕を折り曲げていく振りへと鮮やかに分岐していき、美しく感動的なコントラストを作っていくのだった。しかし今作を絶賛できないポイントは、一つには、振付が充実していた分ヴィデオが単なる壁紙に甘んじてしまったこと。ヴィデオ、本当に必要だったのだろうか。情報過多による支離滅裂をして「速い」「カオティック」と雰囲気的に受容しようとする限りは、こんな振付重視=ヴィデオ軽視は受け入れがたいのだが、もし振付家の方向転換であるのならばむしろそれを徹底すべきだと思う。そしてもう一つのポイントは中盤のサムすぎるセリフや歌。いつもは誰もが見て見ぬふりをしている部分だが、ここまでクドくやられるとそうもいかないし、今回は構成面でも錯雑としすぎて、致命傷になったと思う。テーマ的にみても、女性ばかりのホモソーシャル空間の内部に展開する力学(東京三部作とははっきり異なる「親密圏のポリティクス」)の表象を支えるべきただ一人の男性・石立大介が集中的に現われるのがまさにこの極寒の中盤部分であり、集団にとっての異物(=外部)の提示が手際よく処理できていないがゆえに作品全体の焦点がボヤけてしまったのだと思う。飄々としておマヌケでエモーショナルなエイリアン、というキャラが面白かっただけに惜しい。石立がハケた後の最後の部分は、雪が降ったり、バタバタと人が倒れたりする「終末」イメージで、最後に起き上がる人がいるのはお約束。小奇麗なまとめ方がかえって何かの言い訳めいて見えた。しかし何だかんだいっても、ニブロールのこの空間・時間・運動の質感はやはり他の何にも似ていないわけで、毎回毎回着実な変化を見せつつ未踏の領域へ前進していく矢内原美邦のパワーには圧倒される。だいたいこの人には迷いが感じられない。いや迷走はむしろ常に積極的にしているんだけど、躊躇いとか衒いがない。
おおむね三部からなり、やはり最初の部分が新味。生ドラム(ライヴ演奏)、赤いエレガントな衣装・ヘアメイク、女性4人という編制、トップからの照明による陰影の強い表情、床に置かれた互い違いのブロック。そして意外にも一種オーソドックスな振付とコンポジション。さらに、スタイルは伸びやかなんだけど動きに独特のクセがある康本雅子がニブロールのテイストと融合して見たこともないダンスを生み出していた。しかし本当に驚くべきは中盤以降の振付の明瞭さと密度、ダンサーの安定感だろう。フロアを走り回ったりぶつかり合ったりする系統の動きがあまり目立たないし、また言葉で指示・説明できる類の「アクション(行為)」的な要素も大人しめだが、シーンが常に同時多発的に展開され、そのどこを見ても振りが細密に彫り込まれてきっちり仕上げられている。踊れないダンサーをタイム・スケジュールの中に放り出してその身体を半・放し飼いにする過去の路線からは離れつつ、しかし越後妻有版『NO-TO』ともまた違う方向で、矢内原的な振りがこんな風にロジカルに詰められるものとは思わなかった。新しい論理学の開発に成功、という感じだ。そのこととも若干関係してくるが、たかぎまゆが両足を開いて思い切り踏ん張り、手の平を前に突き出すポージングのシーンは忘れられない。このポーズは『コーヒー』でたかぎまゆがやったもので、今回はその斜め後に藤井園子が立ち、同じポーズを取る。ニブロールらしからぬ露骨なユニゾンなのだが、よく見ているとたかぎはそのまま力んだアクション、藤井はそこから弱々しく内側に腕を折り曲げていく振りへと鮮やかに分岐していき、美しく感動的なコントラストを作っていくのだった。しかし今作を絶賛できないポイントは、一つには、振付が充実していた分ヴィデオが単なる壁紙に甘んじてしまったこと。ヴィデオ、本当に必要だったのだろうか。情報過多による支離滅裂をして「速い」「カオティック」と雰囲気的に受容しようとする限りは、こんな振付重視=ヴィデオ軽視は受け入れがたいのだが、もし振付家の方向転換であるのならばむしろそれを徹底すべきだと思う。そしてもう一つのポイントは中盤のサムすぎるセリフや歌。いつもは誰もが見て見ぬふりをしている部分だが、ここまでクドくやられるとそうもいかないし、今回は構成面でも錯雑としすぎて、致命傷になったと思う。テーマ的にみても、女性ばかりのホモソーシャル空間の内部に展開する力学(東京三部作とははっきり異なる「親密圏のポリティクス」)の表象を支えるべきただ一人の男性・石立大介が集中的に現われるのがまさにこの極寒の中盤部分であり、集団にとっての異物(=外部)の提示が手際よく処理できていないがゆえに作品全体の焦点がボヤけてしまったのだと思う。飄々としておマヌケでエモーショナルなエイリアン、というキャラが面白かっただけに惜しい。石立がハケた後の最後の部分は、雪が降ったり、バタバタと人が倒れたりする「終末」イメージで、最後に起き上がる人がいるのはお約束。小奇麗なまとめ方がかえって何かの言い訳めいて見えた。しかし何だかんだいっても、ニブロールのこの空間・時間・運動の質感はやはり他の何にも似ていないわけで、毎回毎回着実な変化を見せつつ未踏の領域へ前進していく矢内原美邦のパワーには圧倒される。だいたいこの人には迷いが感じられない。いや迷走はむしろ常に積極的にしているんだけど、躊躇いとか衒いがない。