CREAM ヨコハマ国際映像祭2009 オープニングイベント
桜木町・新港ピア。
何に使うとも不明なガラクタ群を淡々と運ぶGonzoたちと、目を閉じたまま同じ行為に身を投じる数人の人々の対比。神村恵や捩子ぴじんのようなダンサーたちと、非ダンサーの人々との差異は限りなく小さく、たどたどしく不安定な動きにジッと見入ってしまう。「停電」ってそういうことか!とコロンブスの卵的なアイディアに感銘を受ける。ガラクタ群をおおむね移動し終えたからといって何が展開するのか読めず、ただモワーンとした雰囲気に観客たちも何かと手を出し始める。目をつぶって行き止まり右往左往している人に触ってちょっかいを出したり、転がっている風船を破裂させてリアクションを見たり、いわば友愛と暴力との不分明地帯(グレーゾーン)としての「接触」がさまざまに発生していた。やがて照明がチカチカと不安定になって来て、暗がりが支配的となり、大きな「ロ」の字型の空間の一角でGonzoのセッション=バトルが始まる。ほぼ全暗になったり薄明るくなったり、さらにカメラのストロボや懐中電灯が用いられて、怖いようなカッコいいような、そして見ることと見られることとがその意味を絶え間なく変化させる、これは今まで見た中でもGonzoのベストパフォーマンスではないだろうか。目をつぶったままヨロヨロと自転車で走行し続ける捩子ぴじんが、ロの字型の空間の何周目かに入り、しかも誰もが忘れていた頃不意にGonzoの中に突っ込んで来たところは奇跡のような美しいバカバカしい瞬間だった。一時間ほどの全体が、決して「混沌」として盛り上がるわけではなくて、むしろどこで何が進行しているのか、それとも何も進行していないのか、いつどこで何が起こるのかが終始曖昧な、文字通り「暗がり」の中を彷徨うようなユルさが絶妙で、ユルいにも関わらず(あるいはそれだけにかえって)スリル感が止まない。「暗い」ということは、要するに「先」が読めないということなのだ。つまり「未来」が与えられないために絶えず「今」「今」「今」の連続(決して「持続」ではない)になるのだし、「展望(perspective)」が与えられないために劇場のような視線と客体のフレームワークから自由な空間が生まれる。子供の頃には確かに味わったことのある感覚、そして劇場だの美術館だの、はたまた「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」のような倫理的イヴェントの枠内でもなかなか味わえないレアな感覚。「停電」と聞いたらどうしてもテクノロジーと身体を対比するようなことをイメージしてしまいそうだけれども、これはむしろ、光/リュミエールに対する身体の側からの見事な応答だと思った。
桜木町・新港ピア。
何に使うとも不明なガラクタ群を淡々と運ぶGonzoたちと、目を閉じたまま同じ行為に身を投じる数人の人々の対比。神村恵や捩子ぴじんのようなダンサーたちと、非ダンサーの人々との差異は限りなく小さく、たどたどしく不安定な動きにジッと見入ってしまう。「停電」ってそういうことか!とコロンブスの卵的なアイディアに感銘を受ける。ガラクタ群をおおむね移動し終えたからといって何が展開するのか読めず、ただモワーンとした雰囲気に観客たちも何かと手を出し始める。目をつぶって行き止まり右往左往している人に触ってちょっかいを出したり、転がっている風船を破裂させてリアクションを見たり、いわば友愛と暴力との不分明地帯(グレーゾーン)としての「接触」がさまざまに発生していた。やがて照明がチカチカと不安定になって来て、暗がりが支配的となり、大きな「ロ」の字型の空間の一角でGonzoのセッション=バトルが始まる。ほぼ全暗になったり薄明るくなったり、さらにカメラのストロボや懐中電灯が用いられて、怖いようなカッコいいような、そして見ることと見られることとがその意味を絶え間なく変化させる、これは今まで見た中でもGonzoのベストパフォーマンスではないだろうか。目をつぶったままヨロヨロと自転車で走行し続ける捩子ぴじんが、ロの字型の空間の何周目かに入り、しかも誰もが忘れていた頃不意にGonzoの中に突っ込んで来たところは奇跡のような美しいバカバカしい瞬間だった。一時間ほどの全体が、決して「混沌」として盛り上がるわけではなくて、むしろどこで何が進行しているのか、それとも何も進行していないのか、いつどこで何が起こるのかが終始曖昧な、文字通り「暗がり」の中を彷徨うようなユルさが絶妙で、ユルいにも関わらず(あるいはそれだけにかえって)スリル感が止まない。「暗い」ということは、要するに「先」が読めないということなのだ。つまり「未来」が与えられないために絶えず「今」「今」「今」の連続(決して「持続」ではない)になるのだし、「展望(perspective)」が与えられないために劇場のような視線と客体のフレームワークから自由な空間が生まれる。子供の頃には確かに味わったことのある感覚、そして劇場だの美術館だの、はたまた「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」のような倫理的イヴェントの枠内でもなかなか味わえないレアな感覚。「停電」と聞いたらどうしてもテクノロジーと身体を対比するようなことをイメージしてしまいそうだけれども、これはむしろ、光/リュミエールに対する身体の側からの見事な応答だと思った。