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ダンスとか。

contact Gonzo×梅田哲也×捩子ぴじん×堀尾寛太×神村恵 『停電EXPO』

2009-10-31 | ダンスとか
CREAM ヨコハマ国際映像祭2009 オープニングイベント

桜木町・新港ピア。
何に使うとも不明なガラクタ群を淡々と運ぶGonzoたちと、目を閉じたまま同じ行為に身を投じる数人の人々の対比。神村恵や捩子ぴじんのようなダンサーたちと、非ダンサーの人々との差異は限りなく小さく、たどたどしく不安定な動きにジッと見入ってしまう。「停電」ってそういうことか!とコロンブスの卵的なアイディアに感銘を受ける。ガラクタ群をおおむね移動し終えたからといって何が展開するのか読めず、ただモワーンとした雰囲気に観客たちも何かと手を出し始める。目をつぶって行き止まり右往左往している人に触ってちょっかいを出したり、転がっている風船を破裂させてリアクションを見たり、いわば友愛と暴力との不分明地帯(グレーゾーン)としての「接触」がさまざまに発生していた。やがて照明がチカチカと不安定になって来て、暗がりが支配的となり、大きな「ロ」の字型の空間の一角でGonzoのセッション=バトルが始まる。ほぼ全暗になったり薄明るくなったり、さらにカメラのストロボや懐中電灯が用いられて、怖いようなカッコいいような、そして見ることと見られることとがその意味を絶え間なく変化させる、これは今まで見た中でもGonzoのベストパフォーマンスではないだろうか。目をつぶったままヨロヨロと自転車で走行し続ける捩子ぴじんが、ロの字型の空間の何周目かに入り、しかも誰もが忘れていた頃不意にGonzoの中に突っ込んで来たところは奇跡のような美しいバカバカしい瞬間だった。一時間ほどの全体が、決して「混沌」として盛り上がるわけではなくて、むしろどこで何が進行しているのか、それとも何も進行していないのか、いつどこで何が起こるのかが終始曖昧な、文字通り「暗がり」の中を彷徨うようなユルさが絶妙で、ユルいにも関わらず(あるいはそれだけにかえって)スリル感が止まない。「暗い」ということは、要するに「先」が読めないということなのだ。つまり「未来」が与えられないために絶えず「今」「今」「今」の連続(決して「持続」ではない)になるのだし、「展望(perspective)」が与えられないために劇場のような視線と客体のフレームワークから自由な空間が生まれる。子供の頃には確かに味わったことのある感覚、そして劇場だの美術館だの、はたまた「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」のような倫理的イヴェントの枠内でもなかなか味わえないレアな感覚。「停電」と聞いたらどうしてもテクノロジーと身体を対比するようなことをイメージしてしまいそうだけれども、これはむしろ、光/リュミエールに対する身体の側からの見事な応答だと思った。
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CREAM ヨコハマ国際映像祭2009

2009-10-31 | ダンスとか
桜木町・新港ピア、BankART Studio NYK。
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関かおり

2009-10-24 | ダンスとか
横浜・STスポット、夜。
▼『めい』
(出演/関かおり)
▼『パラティカ』
(出演/赤木はるか、深井三実、吉村吉顕、米山明花)
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維新派 『ろじ式~とおくから、呼び声が、きこえる~』

2009-10-24 | ダンスとか
フェスティバル/トーキョー09秋

にしすがも創造舎、昼。
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神村恵 『次の衝突』

2009-10-17 | ダンスとか
東向島・現代美術製作所、夜。
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Namhaean Byeolshingut(南海岸別神グッ)

2009-10-16 | ダンスとか
統営(Tongyeong)・某海岸。
朝鮮半島の最南端、沿岸地域で行われる豊漁祈願の巫俗儀礼。通常は1月に行われるものだが今回は特別な企画らしい。この地域に住む一家4人でチャンゴやピリなどを演奏し、巫堂(ムーダン)役は近隣の芸能保存機関で教育を受けた人。海に向かって供え物をした後、大きな扇子を持って、軽く舞ったり(足元が砂地なのであまり大きくは動けない)、語りと歌を織り交ぜる。韓国の人にも何と言っているか意味はあまりよくわからないらしいが、真っ暗な夜の海の波音とあいまった独特のムードで何とはなしに敬虔な気分にさせられた。
(儀礼が終わると浜で魚介類の網焼きと酒が振る舞われ、宴。忘れ難い経験。その場を引き上げてからは、保存機関の建物内の一室で深夜まで芸能大会。チャンゴのビートが腹に轟き渡るような音場の中で、ムーダンの人たちや、重要無形文化財の人たちが何人も集まって次々に芸を披露していった。)
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SIDance 2009/Across Hip Hop III

2009-10-15 | ダンスとか
Seoul, Sogang University Mary Hall.
▼Dance Company Medius, Amusement of Ancients
ストリートダンス出身の人が大学でモダンダンスなどを学ぶというパターンは韓国ではもう珍しくないらしく、ダンサーも観客もストリート系と舞台系とが完全に入り混じっているようだった。この作品も、昔の商人の格好をした男が出て来て客席をいじった後、壁に寄り掛かって居眠りを始めると、壁に描かれていたエジプトの(?)古代人(?)のような金色の装束の四人組が動き出すというもので、ポッピングの技と、ニジンスキー『牧神の午後』のイメージが重ね合わされているようだった。途中で銀色の宇宙人みたいなのが出て来て騒ぎになったり、「作品」として見てしまうといかにも子供じみていてくだらないんだけど、舞台と客席が反応し合ってストリートダンスの「ショー」みたいなユルい枠組が出来ているから、くだらなさも「くだらなさ」として笑って楽しんでしまう種類のノリだった。単にシリアスに作り込まれた「アート」よりもこういう方が軽やかにブレヒト的(反省的)であるような気がした。
▼Ambiguous Dance Company, Uh-cheo-goo-ni Season II "Language"
黒の全身タイツになぜかフェンシングのマスクを付けた5人が無音でずっとグルーヴをキープして踊る。なかなか凄いけど面白くはないなあと思っていたら、だんだん見たことのある振りが現れて来て、マイケルの『Beat It』が流れ出すと、徐々に例のダンスに移行。冒頭からの一連の動きが繰り返され、この音楽に合わせて作られていたことがわかる仕掛け。さらに客席に座っていた一人も加わって来てセンターを取るのでマイケルのPVのラストをそのままやっているような状態になり、客席を巻き込んで盛り上がった。今年は何といってもマイケルの年ということでオマージュなのだろうけど、でもやっぱり何でここでマイケルにオマージュなのかっていう疑問も拭い難くて、そこら辺は何か作品性のレヴェルで解決しておいてもらえたらもっと良かったと思う。
▼LEE In-Soo Dance Project, The Toughest Part
男性のデュオで、友人同士の関係を演技のモティーフとしつつ組み立てたもの。動きはかなりダイナミックで荒々しく、それでいて照明などとも緻密に絡んで劇的かつトリッキーな展開を見せる。ヒップホップ的な要素はあまり目立たない。二人の人格が入れ替わってしまう、あるいは互いに区別できなくなってしまう、というようなことを視覚的に見せていて、何の仕掛けもないことは明らかなのに、「手品」を見ている感覚に似ていた。ゆっくり動き回るスポットライトを指で追いかけていたら自分のところにあたってしまい倒れて終わる。カッコいい。ちなみにこの振付家もLDPのメンバー。LDPって実態がよく見えて来ないが、傾向はバラバラな、しかし才気漲る人たちがとにかく集まって緩くつながっているという感じなのだろうか。気になる。
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Par-il

2009-10-14 | ダンスとか
Seoul, Korea Cultural House.
Par-il(八佾)とは「八日間」の意味で、王族の前で行われる宗教的な奉納舞踊の形式に則って古典舞踊を見せていく企画。8人の踊り手が8組、計64の踊りで構成するのが本来の形であるのを、ここでは週替わりで8つずつ上演していく。この日はその第一週目。スンムやサルプリなど割と見たことのあるものが各15分くらいで立て続けに踊られる。MCが入るが休憩は挟まず一気に最後まで。一昨日のキム・スンミのような「凄い」踊りには出会わなかったものの、踊りも演奏もクオリティは高くて、こういうものをキャパ200くらいの小劇場の至近距離で見られるのはすごく贅沢。観客のノリがとにかく良くて、最後の、サンモ(帽子に長いリボンが付いていてクルクル回るやつ)を使った踊りの時はおばちゃんが舞台まで上がって来ておひねりを出していた。日本では能も歌舞伎も「芸術」になってしまっているけれども、韓国では古典文化の中に「芸能」性そして「シャーマニズム」がしっかり生命を保っているのが良いところだと思う。
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SIDance 2009/Solo & Duet I

2009-10-13 | ダンスとか
Seoul Arts Center Jayu Theater.
▼PARK Ho-bin, Skenos, Its Nine Holes
いくつか作品を見たことのあるパク・ホビン。女性ダンサー3人で、床面にヴィデオが映されて空間を変化させる。CGが踊り手の動きの範囲を規定したりするのだが、映像の動きがあまりに忙しなく、そこばかりが目立ってしまった。
▼LEE Sun-a, Performing Dream
ソロ。緻密な身体コントロールでトルソーや四肢の末端を分離し、部分的に動かして別の生き物みたいに見せる。
▼Hyoung-min KIM & Lena Son-hee Meierkord, (making of) District
舞台の一部に砂を敷いて背景に壁を立て、その狭い一角で行われるタンツテアター的なもので、出演者は女性2人。最初は前の作品からの舞台転換と見せかけておいて、そのままパフォーマンスへと推移し、客電を付けたままで進行する。生肉で背中をはたいたり、何かに驚いている表情を見せたり、大量のジャガイモを辺り一面に投げ散らかしたり、という風に物語的な脈絡はないのだが、何か出来事の予感あるいは心理的な残響のようなものだけが濃厚に漂う。必ずしも斬新とは思わないけれども、表現がクリアで、何が起きているのか曖昧になるような部分が全くない。形のないものを表現しようとしているのに、全ての「手」をリテラルに見せて、その即物的な構成だけでイメージを立ち上げているところが凄いと思った。キム・ヒョンミンはLDPのメンバー。LDPは男性のグループなのかと思っていたが違った。
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Soo-jin CHOI & Tae-eun KIM, The Code

2009-10-13 | ダンスとか
The 6th Digital Dance Festival 2009

Seoul, Sogang University Mary Hall Small Theater.
Digital Dance というのは要するにテクノロジー系のマルチメディア・パフォーマンスのことで、別にデジタルなわけではないらしい。チェ・スジンが振付家で、キム・テウンがメディア・アーティスト。テーブルがあって、他方にイーゼルのようなものが置かれ、壁に巨大な映像が出るのだが、ハングルでびっしり文字が書かれていて、その意味がわからなかったため、5人のパフォーマーがいったい何をやっているのか皆目つかめなかった。ダンス的な要素はほとんどなく、身体によるインスタレーション的な感じで、中盤でいきなりサンバがかかると客席後方から女性が一人、踊りながら闖入してくる。作品が『コード』というタイトルなのにその「コード」がまったく共有できず残念。
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SIDance 2009/Korean Identity through Dance 14

2009-10-12 | ダンスとか
Seoul, Sogang University Mary Hall.
▼KANG Hye-ryun Dance Project, Fading Away
半透明のスクリーンの裏側から映るシルエットと、その手前で演じられる動きが対比されるなどして、「光」を様々に見せていく。耽美的な雰囲気なんだけど、ダンスというか身体表現である必然性があまり感じられなかった。
▼Chang-Mu Company - KIM Sunmee, Bolero
凄いダンスだった。普通チャンムーのダンサーのソロでラヴェルの『ボレロ』と聞いたらだいたい見当が付いてしまいそうだし、実際何か斬新なアイディアで見せるわけではないのだけれども、とにかくダンサー(伝聞によれば五十歳)が凄過ぎて言葉を失う。ボレロの安定した三拍子を下地に、反時計回りの円を描きつつとはいってもきわめて即興的に自由に移動しながら、伝統舞踊のヴォキャブラリーを変幻自在に見せていく。韓国の伝統舞踊の大きな特徴として、関節を上にクッ、クッと引っ張り上げては柔らかくたわめる動き、あるいは(同じことなのだが)床を柔らかくなでるように下半身全体をバウンスさせて運ぶステップといったものがあり、これを全身の様々な部位、トーン、リズムとその組み合わせで多様に変奏していく踊りとでも要約すればいいのだろうか。ストロークごとに作り出されるコントラストの多彩さ、そしてそれが生み出される過程の身体コントロールの微妙さ、複雑さ。フワッと勢いよく浮き上がった腕の動きが不意に中途で押し留められたり、足の進む向きが唐突に、しかしあくまでもさりげなく変わって円運動からどんどん逸脱していったり、自分で自分を際限なく裏切るのを楽しんでいるようで、見ている側も体がものすごく触発される。しかしその触発にどう応じればいいのかはわからない(同調したい、しかし軽妙複雑過ぎてトレースすることすらままならない)。それが極まると何だか喉元の辺りが締まって、ちょっとした息苦しさすら感じた(くすぐったさのあまり息が出来なくなるというのに似ているかもしれない)。しかしカッコいい。動きそのものより、動きを止めたり、高まりつつある熱を軽く廃棄してみせたりする、抑制ぶりの方に感動のコアがあったように思う。熟練した大人の渋み。
▼Sungsoo Ahn Pick-up Group, Music Game
超高密度で激しく複雑な動きが詰まったバレエのアンサンブル。トワイラ・サープのようなポストモダニズムで、ジャズやヒップホップ、ショーダンスの動きが超絶技巧的に組み込まれている。確かに凄くて最初は目を奪われるのだけど、技術の高度さにばかり目がいってしまうため、それを見せびらかしているだけのように感じられてだんだんシラけて来てしまう。実際ダンサーたちは高度な能力を発揮して振付を踊り抜くことに専心している。というか、そうでなければとても踊れないような振付なので必然的にそうなる。余裕がない。すると「たかがダンスなのに」という気持ちにさせられる。挙句にはストップモーションでギャグを入れたりして笑いを狙う方向へ進む。振付家はウィットを利かせているつもりでも、ダンサーの身体は引き攣っているから、見ている側としては何とも痛々しくて引いてしまう。
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SIDance 2009/Dancing City

2009-10-12 | ダンスとか
Seoul, Hyundai I Park Mall Square in Yongsan.
▼Fatou Traore & Axel Gilain & Dance Company Medius & LIM Mi Jung Jazz Band, Jam-Dance・Hip Hop・Jazz
SIDance では市内各所で無料の屋外パフォーマンスを行っていて、この日の会場は、ショッピングセンターのある大きな駅前広場。夕方5時半という時間設定のため、帰宅途中の人や買い物客などかなり多くの人が立ち止まって見ていた。ジャズの演奏も派手だし、即興のダンスもなかなか派手。ベルギーのコンテンポラリーダンスの人と、韓国のストリートダンスの人が踊るのだが、いわゆるエンターテインメント的なものではなくても(意味や、反復性のリズムや、ドラマティックな構造がなくても)、それなりにリスペクトに値する技術が用いられていさえすれば、結構色々な人がダンスを楽しんで見るものなんだなと思った。
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Dance Triennale Tokyo 2009

2009-10-08 | ダンスとか
▼アヌーク・ファン・ダイク/アヌーク・ファン・ダイク・ダンスカンパニー 『STAU』
Anouk van Dijk/anoukvandijk dc, STAU

青山円形劇場。
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ダンス・フィルム・ヴァリエーション/Aプログラム:コンテンポラリー横断

2009-10-06 | ダンスとか
渋谷・イメージフォーラム。
▼『ソロ―エヴィダンシアより― Solo』(振付・出演/ウィリアム・フォーサイス、1995年)
▼『部屋 La chambre』(監督・振付/ジョエル・ブーヴィエ、レジ・オバディア(レスキス)、1987年)
▼『オーニス Aunis』(振付/ジャック・ガルニエ、監督/リュック・リオロン、出演/カデル・ベラルビ、ウィルフリード・ロモリ、ジャン=クロード・シアッパラ(パリ・オペラ座バレエ団)、1994年)
▼『カスパール・コンツェルト Kaspar Konzert』(振付/フランソワ・ヴェレ、2001年)
▼『テーブルの音楽 Musique de tables』(監督・音楽/ティエリー・ドゥ・メイ、1999年)
▼『コピア 2 Coppia 2』(監督・振付/ジネット・ローラン、2008年)
「ヌーヴェルダンス横断」を思わせる構成…。セレクトする側の切り口が、ある時代で停まってしまってるなあという印象を抱く。そもそもヌーヴェルダンスって何だったんだろう、と考えると、ジャドソンが切り開いた可能性の領野を、(肝心要のはずの)スペクタクル批判の部分だけカッコに入れて、劇場=演劇(theater)という文脈の中で様々に活用した、ということではないか。浜辺で踊ったり(『オーニス』)、トランポリンで踊ったり(『カスパール・コンツェルト』)、そういう「アイディア」の数々が何とも空しく思えてしまうのは、それらがどうも既存のダンスの形式の中に追究すべき課題を見出したり、批判したりすることにつながっているように見えないからだと思う。トランポリンで跳んでも、デニショーンもマーサ・グレアムも特に深刻な打撃は被らないし、見方によってはジャドソン以前に後退している面も少なからずある。劇場=演劇の枠組に依りつつひたすら屋上屋を架しているような楽天性がヌーヴェルダンスのヌーヴェルダンスたる所以ではないか。そしてそれを可能にしているのはやはりヨーロッパの劇場文化の伝統だろう(フランスでマース・カニンガムを最初に受け入れ、後押ししたのは、ダンスじゃなく演劇の人たちだった)。もちろんフォーサイスは歴史意識が違うし(それにしても何か違う映像が見たかった)、ドゥ・メイの『テーブルの音楽』はそもそもダンスと音楽の両方にまたがっているけれども(振付はケースマイケルとチラシにはあったけどクレジットにはない。元はヴァンデケイビュスの舞台のために作られた作品)、いわゆるヌーヴェルダンス一般(?)については、単線的な「20世紀のダンスの歴史」の元に見てしまうのではなく、アメリカとは違う文化環境(あるいは文脈)で成り立っているものなのだと考える必要があると思う。そしてそれはもちろん日本とも違うので、文化の差異を抜きにしてヨーロッパのダンスをあれこれ判断してみても仕方がないのだ、と考えれば少し距離をおいて見られる気がする。
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Dance Triennale Tokyo 2009

2009-10-06 | ダンスとか
青山円形劇場。
▼中村恩恵/Dance Sanga 『ROSE WINDOW』
▼ジル・ジョバン/カンパニー・ジル・ジョバン 『Black Swan』
Gilles Jobin/Cie Gilles Jobin, Black Swan
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