dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

Body Blend

2006-02-28 | ダンスとか
NY, Dixon Place.
Curated by Isabel Lewis.
この会場はダウンタウンのビルの二階にある、普通に人が住んでもおかしくないような一室で(前は別の場所にあり、今また次の引越しを準備しているらしい)、文芸、演劇、ダンスなどの小さな企画をやっている。舞台の三方を囲む客席がソファとかストゥールだったり、飲み物も売っていて、非常にインティメイトなムードが新鮮だった。ヴィデオ・プロジェクターは、レンズ前に吊るされたボール紙をPA卓の辺りから誰かがツッと引っ張ってオン/オフするというローテクぶり。プログラムは用意されていなくてキュレーターが演目毎に前に出てきて紹介をする。お金をかけないでやって行こうとするこういう場所もあるんだということがわかって良かった。
▼Melanie Maar
地下鉄や街の人々を映したヴィデオの短い断片を時折り挿入しつつ踊るソロ。移動しないでグッと痙攣し続けたり、指で小さい動きをチマチマと繰り広げたり、床を使ったり、日本でよく見るようなテイストだが、徐々にバレエ的な動きも入ってくる。終始リズム感が稀薄で、空間も曖昧なのだが、ダンサーと観客の距離が近いため身体の存在感でとりあえず成立しているように思えた。
▼Angie Fowler
冬服を着込んだ女の子二人が現れ、後ろ向きに立って、リズミカルに「This is me, real me, not really, but a sort of...」と宣言する。この「私」の出し方もやはりDTWや St.Marks Church で見るようなものとはだいぶ趣きが違う気がする。スペクタクル(視覚に供されるもの)として洗練されているのではなく、何かもっと粘度の高い、「甘え」というか、もたれかかりのようなもの。抽象的なマスとしての観客の前に立つのではなく、一人一人の顔まで見ることができる空間では、こういう体の立ち方も可能になるのだろう。そして観客の側もマスに溶け込んでしまわずにダンサーと接触できるのかも知れない。二人はそれぞれ上着やマフラーを取ってから(体中にペインティング)踊り始めるのだが、片方が後ろ向きにフリーフォールするのを相手が滑り込んで抱き止めるとか、遊戯的な内容が目立つ。セッションハウスとかSTスポットとかを思い出させるテイスト。
▼Jason Somma
先日 St.Marks Church で見た Curt Haworth に出ていた人の、映像作品二点。Waltzing Jessica はコマ撮りによって男女が空中でワルツを踊っているかのように見えるというもの。要するにデヴィッド・パーソンズの『コート』と同じ要領だと思うが、撮影のために一定の高さで姿勢を崩さずジャンプし続けるのはダンサーならではの技巧といえる。撮影時に実際に行われた運動と、画面上の運動との著しいギャップ。Broken は寝室のベッドの上に男がダイヴしたりトランポリンのように跳ねたりする様子を速度変化や逆行などで見せるもの。
▼Ashley Wallace
女三人が白い衣装を付けて、男性を喜ばせる存在としての女性を皮肉っぽく演じる。いくら何でもこんな古典的なジェンダー観が作品の素材になるということにはちょっと驚いてしまった。ところでダンサーのうち二人は大柄で、空間の狭さに比してかなり窮屈に見える。つまり大きな体の人には大きな空間が必要だということで、必然的に観客との距離も大きくなる。大柄な体は半ばアプリオリに、スペクタクル的だということ。
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Regina Nejman & Company

2006-02-26 | ダンスとか
Regina Nejman & Company, The Velocity of Things

NY, Joyce SoHo.
縞々の水着のような衣装で揃えているフライヤーは全くそそられなかったのだが、「Outstanding Choreography Award - Fringe NYC 2005」と書かれてあって、その受賞作の再演らしいので、日本のようにコンペが多くはないNYでどんな作品が賞に選ばれるのかという興味もあり見てみた。振付家はリオ出身で、93年からNYで活動している。カンパニーの結成は97年。ダンサーは彼女を含む女5、男1。男と女がそれぞれバケツを持って、中に入っている砂のような粉末を交互に受け渡していく冒頭が、「物の速度」というタイトルを端的に示すものだということは、この時点ではまだよくわからなかった。ハイヒールを履いて仮面をつけたダンサーたちが現れて、猛烈なスピードのブラジリアン・ポップスがかかり、以降はひたすらオーソドックスな動きの展開になる。語彙もその組み立ても、これといって奇抜なことはやっていない。ただ次から次へかかる高速のサンバやドラムンベースとともに、途轍もない運動量がダンサーたちに強いられ、そしてその運動量は動きの大きさ(アクロバティズム)ではなく細部まで周到に作り込まれた動きの総量に由来している。有限な身体が多くの部分に分化させられ、それらのアンサンブルが音楽に同期する。分化した諸部分は、他の身体の諸部分とも等価で、だからそうした部分と部分が個々の身体の境界を超えて連動してしまうこともあり得るし、その時に、個々の身体こそが新たな境界線によって分断されているということもあり得るだろう。つまり身体と身体を分け隔て不連続なものにしている境界線が、音楽=ダンスの構造という新しい地図によって上書きされてしまう。この新しい地図の連続的な更新プログラムを書くことがすなわち「群舞」なるものの振付なのだとしたら、レジーナ・ネイマンは相当に高度な技術の持ち主といえるだろう。スピードの変化、方向のコントラスト、質感の飛躍が至るところにリズミカルに仕掛けられて、分割された複数の身体の諸部分が目まぐるしく再組織化されていく、その変化の速さ、自在さ、音楽性に興奮させられてしまった。もっとハイレヴェルなダンサーが踊ったらどうだろうかと想像しつつも、しかしむしろこの研ぎ澄まされ切っていない身体の動きが孕む様々なノイズ(遅れ、不正確さ、強引さ、疲労)もまた一種の味となっているように思えた。やがて中盤で突然ダンサーたちが消え、大きなタライの上に砂が落下し続ける場面がおそらく2、3分あり、多分ここはダンサーを休ませるための時間なのだが、落ちる砂の幅がよどみなく変化するさま、中心に近い方と外縁の辺りとでは全く違う運動が起こっていることなどに心を奪われてしまったのは、今しがたまで目を釘付けにされていた身体のカオスによる残響なのだろう。後半はバケツやハイヒールなど道具を使うシーンや、演劇的な要素、フロアワーク、コンポジションの要素が増えるが、速度感は衰えず、最後は再び冒頭の砂の受け渡しで終わる。62分。確かに、短い曲をただ繋げているだけなので流れがブツ切れになり、単調さの印象が生まれてしまっている(「長い」と感じるというより、「長い」と感じさせられてしまう要因がはっきり知覚できる)点が惜しいが、特に奇抜なことをしなくても強度が出ているという意味では金森穣の振付を思わせる。この振付家の作品は機会があればまた見たい。
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Danzahoy

2006-02-26 | ダンスとか
Danzahoy, Exodo

The Joyce Theater, 昼。
芸術監督 Adriana Urdaneta、振付家 Luz Urdanetaを中心に1980年から活動しているヴェネズエラのカンパニー。二人はロンドンの The Place で学んでいる。ダンサーは男女10人(DV8からの客演2名を含む)。90年代末に作られたらしいこの作品は全編がタンゴで踊られ、衣装や照明も黒と赤が基調で、舞台手前に赤のカーネーションで帯が作られている。ヴェネズエラとタンゴの関係についてはよくわからないが(十月に見た Grupo Corpo といい、南米北米問わず、社交ダンスという題材はそれほど珍しいものではないようだ)、ここではフラメンコ風の足の動きがアイリッシュダンスのようなステップにつながっていったり、様々なものがフュージョンしており、しかもそうした諸々のネタを用いながら、この振付家は至るところで既成の語彙やパターンとは違う独自のものを作り出そうと格闘しているように思われた。あくまでも「格闘」が伝わって来るのであり、必ずしもそれが良い成果をあげているわけではない。動きの語彙は全体に弱く、あまり展開しようのないものだったりするし(両足を揃えたジャンプ移動、あるいはただ両手の拳で床を叩くとか)、ひねりの加わったコンポジション(例えば男2女1のタンゴなど)もどちらかというと生硬で、観客をニヤリとさせるようなスマートさには欠けている。ただ見慣れた型を繰り返すことを細部に至るまで断固拒否しているために、常に一体これはなにをしようとしているのかと微妙な緊張感を抱きながら見ていられた。その頑なさにはとりあえず敬服せざるを得ない。モノクロのヴィデオを使って、聖堂のステンドグラスや、水面の光の反射、高速で流れていく景色などを照明のように当てるというのも渋いし、カーネーションの帯をダンサーたちが腕に抱えて横一列に佇む、というラストシーンから、一人ずつ奥へ下がっていく形で退場するカーテンコールも面白い。しかし、ここもこれで終わっていればスマートなのに、ダンサーは舞台奥へ下がってそこで再びカーネーションの帯を床上に作り、それを飛び越えて前へ出てきて、最終的にはまた花を掴んで空中に放り上げ、その中を後ろ向きに去って行くとかゴチャゴチャやるので不恰好になってしまう。作品全体に感じられる、こういうキレの悪さ、曖昧さは、おそらく既存の形式からの逸脱=「ハズし」を狙うというアプローチに由来するのかも知れない。他との差異を作ろうとして、他に縛られ、ぎこちなくなってしまう。62分。
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『LOFT』('05、黒沢清監督)

2006-02-24 | ダンスとか
Film Comment Selects.
NY, Walter Reade Theater at the Film Society of Lincoln Center.
黒沢清の映画は、画面を見ながらつい黒沢清のことを考えてしまう。時に映画そのもの以上に映画監督の身振りの方が気になってしまうのは、黒沢がどちらかというと批評からスタートしていて、観客である自分との距離が近く感じられるというだけじゃなく、映画が隅々までわざとらしく作られていて、そこに批評家(というかシネフィルというか)的なアイロニカルな手付きがプンプン匂うせいだ。実際この新作は何だか学生映画風、しかも黒沢初期の作品を思わせるというより、典型的な学生映画風の「技巧過多」と「情緒過多」という幼稚っぽい側面を誇張して「使いこなし」ながら、しかもそのスタイルでしか語り得ないことを語っていて、だから単なるパロディでも終わっていないし、かといって単なるベタなホラーとか純愛ドラマとかにもなっておらず、見ていてどこまで本気でどこまでギャグなのかわからないという黒沢映画の遊戯性が今まで以上に膨張し、観客にとっては苦痛とも快感ともつかない過酷なゲームと化している。歌舞伎かドリフのようなベタベタな「幽霊」の音楽、完全にシリアスなムードの中で不意打ちのように失笑させられてしまう豊川悦司のセリフ(「右にも死体、左にも死体、どこもかしこも死体だらけだ!」とか、ついに歩き出したミイラに向かって「動けるんだったら最初からそうしろ!」とか)、作為性丸出しのロマンス演出等々は、そのボケっぷりにツッコミを入れる人が映画の中にいないだけでなく、リアクションが徹底的に画面から排除され、あくまでシリアスさが維持されている。つまり「ボケっぱなし」で誰も何も言わないので、それがボケなのかどうかも微妙に怪しく、かといってもはやその滑稽さは見過ごせる程度のものでもなく、観客は感情を「適切に」発散することができずに悶々としながら、イエスとノーを同時に言い続けるこの映画によってニヤニヤ眺められているかのような気分にさせられる(それだからこそこの映画の態度は、感情の「適切さ」(共同性)なるものの放棄を促している、つまり、全くアナーキーに、好きなように心から怖がったり笑ったりすればいいではないかといっているようにも思える。そうすることによって、実はそれが無理であること、虚しい身振りに落ち込んでしまう他ないことを悟らせる。アナーキーな感情への通路を示しつつ封鎖する)。しかし結局この映画の焦点になってくるのは、やはり黒沢清独特の、暗くて壮大な、人の手ではどうにもならないような「必然」を必然としてスラップスティックに描き切ろうとするレトリックで、そこに関していつも(新作を見る度に)物足りなさを感じてしまうのは、要するにその「必然」が何を意味するのかよくわからないからなのだと思う。そしてその不可解な「メカニズム」への認識は大抵、長い時間をかけて記憶の中で沈殿していき、はっきりしたわだかまりとしていつまでも残ることになるのだが。ちなみにジャンプショットや時系列の交錯、安達祐美が不自然な場所にいきなり現れる場面など、清水崇の影響がずいぶん露骨に感じられた。中谷美紀の家の二階へ向かう階段の構造は『呪怨』と同一で、セットもやけに似ている。
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Bill T. Jones / Arnie Zane Dance Company

2006-02-23 | ダンスとか
Bill T. Jones / Arnie Zane Dance Company, Another Evening: I Bow Down

NY, Jack H. Skirball Center for the Performing Arts, New York University.
ビル・T・ジョーンズは確か90年代の半ばくらいにカンパニー作品(たぶん Still/Here)を見て、2000年に世田谷パブリックシアターの「振付の現在」という企画でソロを見ている(大野一雄とちょっとだけ共演していた)。しかし正直なところあまり強い印象はなく、特にグループ作品で覚えていることといえばせいぜい、すごく太った女のダンサーが一人いて(これがたぶん先日ソロを見たアレクサンドラ・ベラー)、彼女が他の皆と同じ振付をしっかり踊っていたことぐらいだ。今回の作品は過去のレパートリーからの抜粋を中心にしてリミックスする Another Evening というシリーズの新ヴァージョンで、純粋な新作ではない。しかしむしろ、おそらくその「リミックス」ということに関連して、とにかく「編集」の見事さ、この舞台の印象はそこに尽きるといっていいだろう。舞台左右にある巨大な金色の柱(劇場設備の一部?)の下にそれぞれヴァイオリン奏者と、シタール奏者がいて、下手奥にはピアノ奏者がいる。ジョーンズが現れ、重々しい演説調でこれから始まる「物語」(ないし「物語」を語ることについて)の前口上をすると、舞台の裏の方から騒々しいバンドの音響が聞こえてくる。ジョーンズは舞台奥の大きな黒い扉をゆっくりとスライドさせ、向う側から光が漏れるとともに、パンクバンドが獣のように暴れまくっているのが見えてくる。静寂・厳格さ・重さ・闇に対して、騒音・荒々しさ・運動・光が劇的に導入されるこの導入部を、しかしすぐに一度閉じ、あくまでも導入部としての効果、すなわち観客の予感と期待を最大限に煽る辺りには、余裕のある演出家の外連味さえ感じられた。ナレーションと、各楽器による音楽に歌も加わり、10人のダンサーが舞台中央で踊るのが基本構成だが、古典古代の時間をBC1000年、1500年、2000年と遡りながら神話的な物語の断片が示されたり、坊主頭の男が英語による経文の朗唱のようなものを I Bow Down と繰り返すと、それにパンクバンドのヴォーカルが I Bow Down と応じたり、ヴァグナーの『パルジファル』が聞こえて来たり、とにかく多様な素材を集め、層状に重ねた上で斜めに切り裂いて異質な断層と断層をコラージュ的に結合するその手付きは、少なからず強引でありながら、あくまでスケール大きく成立している。これだけ多くの要素を投入していながら混沌とせず、抽象的な「紛争と平和」のテーマをはっきり浮かび上がらせる力技はちょっと驚異的といえるだろう。ただ、スペクタクル的なインパクトに比べてダンスの存在感はいささか稀薄で、常に舞台中央を占めていながらどこか添え物のようにすら思えてしまったのは残念だった。コンポジションないし動きの組み立てには、あたかも舞台上で展開されるコラージュの大胆さ、力強さに似たものがあったし、ダンサーも動きに狂いのないパワフルな人が多かったが、振付の語彙には取り立てて特徴的なところが見当たらず、むしろ教科書的な動きを律儀に繋いでいる感じで、意識的に集中して見てみてもあまり惹かれるものはないように思った。ともあれ、様々な意味と形式が渦巻いて平和への祈念が語られた後、先にBC2003、2004、2005辺りでちょうど中断されたカウントダウンがおもむろに2006から再開され、しかもそこにBCではなくADが付されることにより、観客ともどもが生きる現在、そして未来に生々しく思いが馳せられる、というのが締め括りになる。柔術のような黒い稽古着を着たジョーンズの、厳めしくかつ寛容そうな、達観した初老の紳士然としたキャラクターが何ともいえず胡散臭い雰囲気を醸し出しながら、抑揚豊かに2007、2008、2009、2010、2011、2012と延々カウントして行くさまが、良くも悪くもアメリカ的なスペクタクルの印象を強烈なものにした。60分。
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Sally-Anne Friedland Dance Drama Company

2006-02-19 | ダンスとか
92nd Street Y Harkness Dance Festival.
NY, The Ailey Citigroup Theater.
イスラエルの振付家フリードランドが2002年にテル・アヴィヴで結成したカンパニー。
Borders
刺繍の入った白い帯が五枚下がっていて、その後ろにスポットが点くとともにダンサー(男1女4)が一人ずつ現れて、五人は互いに孤立したままソロを踊り、やがて幕が一枚一枚取り去られていく。全編に使われるフィリップ・グラスの映画音楽(The Hours, 2002)が本当にメローで俗っぽくて、グラスもここまで来たかと驚いた。振付は基本的にバレエの語彙に忠実だが、イスラエルの振付家らしく独自の動きが端々に見られ、またバレエの動きをスローモーションで行ったり、ダンサー間の動きの受け渡しに意表を突く展開があったり、インパクトは弱いながらも作品としての水準は低くないと思う。14分。
Red
背景に巨大な赤いバラの花束が吊り下げられ、衣装の赤とともに「女」を表現するという作品コンセプトは何やら異様に古めかしいが、内容はもう少し新しい(ちょっとしか古くない)タンツテアター的な、多様な要素の集合体。ダンサーは前の作品と同じ。強烈なキャラの大女がセクシーな衣装で現れたり、男女がタンゴを踊ったり、バーレッスン用のバーが半分に折れて、それを使って銃撃戦が行われたりする。しかしこういった雑多な場面が次々に繋げられているのも、そのことに特に必然性があるわけではなくて、今ダンス作品を作ろうとした場合に誰の手元にも既にあるような薄くて緩い「自由」をむやみやたらにアウトプットしているに過ぎないように思えた。前の作品のような動きの面白さも陰に隠れてしまっていて残念。せめてもう少しダンサーの水準が高ければ、こういう作品もそれなりに説得力を持つのかもしれない。48分。
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Reggie Wilson/Fist & Heel Performance Group

2006-02-18 | ダンスとか
Reggie Wilson/Fist & Heel Performance Group, The Tale: Npinpee Nckutchie and the Tail of the Golden Dek

NY, Dance Theater Workshop.
アフリカからカリブ、北米へと至るアフリカン・ディアスポラのダンス文化を主題にしている振付家で、この作品はシカゴ起源の一種の社交ダンス「ステッピング」がフィーチャーされているとのこと。銀色のカーテンに色とりどりの照明があたっていかがわしい雰囲気が醸し出され、ダンサー四人と歌手四人が同じ舞台に乗ってカジュアルに列を組みステップを踏んだり、ソロ・パートがあったりする。音楽はスピリチャルからグレース・ジョーンズの歌う『バラ色の人生』まで雑多で、ブギ、ディスコ、レゲトンなどポピュラー・ダンスへの参照も見られる。52分。人類学的というかパフォーマンス研究的な関心から、あるいはアイデンティティ・ポリティクス的な意図から、知的に構成されているのだけれども、社交ダンスを舞台に乗せる方法にはあまりコンセプトが感じられない。ダンサーや歌手の気取らないラフな踊りを引き出そうとしているわりにはフォーメーションがかっちり決められているため、規則に縛られながらミスが頻発するという堅苦しい見苦しい踊りになっていて、参照先の社交ダンスが本来持っているだろう楽しさを感じることができなかった。「踊るダンス」が「踊る/見るダンス」に移行する時、すなわち踊り手と観客が分けられる(主客の分裂というより役割の配分)時に起こる変化にあまり思いが致されていないので、ダンスとしてのポピュラー・ダンスではなく「ポピュラー・ダンス」の演劇的な再現表象に見える。DTWにアフリカ系の観客がたくさん来ていて、それがきわめて珍しい光景だということに気づき、そのことはそれなりに驚きだったのだが、これならむしろアルヴィン・エイリーなどの方がよほど「ポピュラー文化」としての機能を果たしている。たとえ劇場で行われるコンサート・ダンス(スペクタクル)の形式を取っていても、エイリーの観客はノリノリで楽しんでいるのだ。ロナルド・K・ブラウンの舞台でもそうだったし、セヴィオン・グローヴァーの舞台でもそうだったが、これらのダンスは必ずしも「アフリカ系」というアイデンティティでもって観客にアピールしようとはしているわけではない。アイデンティティが舞台と客席をつなぐ紐帯になることはあるかも知れないが、それはどちらかといえばマイナーな要素であって、いいダンスがありさえすれば客席も巻き込まれるのだし、重要なアイデンティティ・ポリティクスはそういう実践(再現表象ではなく)の中で微細に作動して、絶えず人と人を結び付けたり切り離したりしながら新たな分節化を行うだろう。単にダンスを再現表象の対象に落とすことによっては、ダンスを政治的に批評することはできないのだとしたら、ダンスはダンスによって(経験は経験によって)批評される以外ないわけで、そこに無言のパフォーマンス=批評としてのダンスの可能性の全体があることになる。
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HUNTERDance Theater

2006-02-18 | ダンスとか
HUNTERDance Theater, bare (excerpt)

Studio Series.
NY, Dance Theater Workshop.
DTWの本公演に出演するアーティスト(今回はレジー・ウィルソン)のキュレーションによって、三階にあるスタジオで行われる素明かりでのショーイング・シリーズ。振付家は Whitney V. Hunter(男性)、彼の他に男1女3のダンサー。作品中二箇所の抜粋ということで、「祈り invocation」と題された前半はハンターがロウソクの周りで儀式のような身振りをして白のシャツ+パンツの上から白の巻きスカートを身に着ける。後半「昇天 ascension」は同じ白の巻きスカートを着けたダンサーたちが入ってきて、ハンターの手拍子足拍子とともに、バレエや普通のモダンの動きを中心にしたユニゾンやズレなど。アフリカ系だがエイリーのような系統か。正味13分ほどで、これだけ見せられても何ともいいようがないが、Q&Aがあるのかと思ったらなくて、寄付金募集のアナウンスだった。
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NOA Dance

2006-02-17 | ダンスとか
NY, Joyce SoHo.
10月に Reveb Festival で見た『Epilogue』という作品が気になった振付家のカンパニー。2004年から2006年の作品を六本見ることができた。
▼Nelly van Bommel, Vagabundo
男女10人が全員出ずっぱりで、カジュアルに会話したり何となく立っていたり、という状況から複数のデュオやトリオが同時多発的に展開され、『Epilogue』に一番近い作品。音楽はボサノヴァ。ムーヴメント自体に新鮮さはないが、コンポジションは面白い。カップルが次々に組み替わったり、ロバート・アルトマンの映画のようだ。これだけ人を出しておいて出ハケを一切しないというところに、振付家は自分への課題を設定しているのだろうか。思ってみれば出ハケというのは人の存在/不在を意のままに操作するということであり、足すことも引くこともできない一定の体積から成っている個々の身体の存立要件とは対照的に、ひどく恣意的な操作であるといえる。だからこの出ハケを禁じるということは、舞台上の身体の総体を一まとまりの「身体」として定義し直すということでもあり、ダンス的には興味深い主題になり得るようにも思える。トリオが三組でユニゾンをする場面で、余った一人が舞台の周囲をウロウロしていたり、途中でどこかのトリオに無理矢理割り込んだりする場面などは、まさに「余剰」が「放浪する(Vagabundo)」状態なのだ。このことを頭においてもう一度見たらもっと色々見えて来るかもしれない。8分。
▼Nelly van Bommel, Dumbala
12月に見た『Pongas Triste』に似た感じの女性トリオ作品。音楽は合唱曲。床を含む、鋭い動きを、ひたすらタイミングを合わせながらユニゾンで行う。2分半。
▼Nelly van Bommel, Excerpts from Hebrew Tales
短い抜粋を二篇。『Sabra(イスラエル人)』は上半身裸の男が袖から出てきて、靴下の脇に小さいイスラエル国旗をなびかせながら左右の袖の間を行き来して踊る。必死さがおマヌケに見えるというパターンだが、作品の主題はよくわからない。『Yemenite(イェメン人)』は素朴な民族衣装のような格好をした男女のデュオで、民族舞踊風の腕の振りでグルグル歩き回ったりする。
▼Nelly van Bommel, Sonnet I
五人のダンサーが、フード付きの白いジャケットに手袋、マフラーという冬の格好でアクロバティックにひとしきり踊り、舞台前面に並ぶと正面から光が当たって、疲れからかクラクラ倒れてしまう。倒れては起き上がり、また倒れる。黒沢美香の『ララ』のような「他人のスキを突く」面白さが中心にあるわけではないが、とりあえず「自然な転倒」を装おうとするだけで、自ずと他人(他のダンサーや観客)のスキを突こうとする結果になるのだということを発見した。しかし、では『ララ』との違いは何か。『ララ』では、ここで行われているような「自然な転倒」の偽装が、音楽的なリズムとともにエスカレートし、ある時点で偽装から「偽装する」という(単なる)遊戯に転化してしまう。つまり装われた「自然さ」の人為性が(ダンサー同士の、そしてダンサーと観客の間での)「ゲームの規則」になる。ヴァン・ボメルの『Sonnet I』は、ただ「自然な転倒」というミメーシスを規則正しく持続することによって、「転倒すること」の滑稽さを律儀に7分間見せるのだが、黒沢の『ララ』において「自然な転倒」はあくまでも「自然な転倒という偽装」として扱われ、ダンスのためのフレーズと化してしまうのだ。舞台の上に自然はないのだと割り切ってしまい、それでいてなおも自然を取り戻そうとする時にダンスという道が選択されるのだろう。これに比べるとヴァン・ボメルは演劇的ミメーシスの水準に留まり、「自然さ」と「人為性」とその区別を大人しくなぞっているといわざるを得ない。
▼Nelly van Bommel, Java Steps
ギターとパーカッション(タブラとジャンベ?)の奏者が舞台に上がり、ダンスは女性のソロ。長い巻きスカートで、インドネシア舞踊風の動きを織り交ぜながら即興をする。ジャワ舞踊特有の、ポッピングのような停止や、ラーマーヤナで出てくる、腰の位置を変えずに片側の太腿をグッと上に持ち上げる動きなどが前半に現れた。脇を締めて両腕を縦にシェイクするような動きは何なのだろうか。あまり体の利くダンサーではなく、即興としての面白味は薄いが、この振付家の民族舞踊に対する無節操なまでの関心の持ち方は興味深い。モダンダンスの中に民族舞踊の語彙を引用するだけでなく、作品の構成(ミュージシャンと即興ソロ)においても非モダンダンス的なことを試みている。6分。
▼Nelly van Bommel, Pax Aeterna
ヴィヴァルディやグルック、ヘンデルのアリアなどを使った群舞中心の作品。荒々しいパートナリングのリフトなど、動きの平凡さばかりが目立った。15分。
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Yossi Yungman Dance Company

2006-02-12 | ダンスとか
Yossi Yungman Dance Company, Tipapupa

Israel Non-Stop! Festival.
NY, The Jewish Community Center in Manhattan, Auditorium.
元バットシェヴァで、何度か来日したこともあるヨッシ・ユングマンは2004年に自分のカンパニーを結成していた(ダンサーは五人)。この作品は2005年に子供向けに作られたもので、ユングマンが狂言回し的に魔法使いを演じ、男1女3のダンサーがその手下(?)みたいな感じで踊り回る。セリフがありギャグもあり、観客のリアクションを求める場面もあり、船を想起させる断片的な美術セット(すごく美しい)や、上からぶら下がったゴムチューブから蛍光色の粉が出てきて床に模様が描かれたりするのだが、踊り自体はかなりフツーのバレエ的なもので、イスラエルものにしてはちょっと期待外れだった。ギミックで束の間ウケても、それが持続しない。せっかく客席と絡むのだから、もっと体の動きを使ってスリリングな駆け引きを仕掛けてもらいたいものだと思った。ヘンな道具とか、表情や声、身振り、あるいは小芝居だけで子供にウケようとするのは、どうも大人のダンサーとして腰が引けている、ビビッている感じがする。一人、やけにノリのいい子供が小芝居にあれこれツッコミを入れていたのだが、ツッコミを真に受けて対応すると段取りが破綻してしまうので、ユングマンも適当に流したし、挙句にベビーシッターが口を押さえて黙らせていた。どこが「子供のための」なんだと思ってパンフレットの別のページを見ると for Families と書いてあるではないか。要するに既成秩序を再生産する(=振付を反復する)ためのショーなのだった。
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H. Kravas & A. Livingstone / PO.V.S. Tanze

2006-02-11 | ダンスとか
NY, Dance Theater Workshop.
▼Heather Kravas & Antonija Livingstone, ■■■■■■■■ - a situation for dancing.
▼PO.V.S. Tanze, 3petiX
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Alegrias En La Nacional Flamenco Theater

2006-02-10 | ダンスとか
NY, Alegrias En La Nacional Flamenco Theater.
バイレ/Nelida TiradoMaria De Los Angeles、ギター/Raphael Brunn、カンテ/Alfonso Cid
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Ronald K. Brown / The Evidence Dance Company

2006-02-10 | ダンスとか
NY, The Joyce Theater.

Program B
Come Ye
Upside Down
High Life
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Curt Haworth

2006-02-09 | ダンスとか
Curt Haworth, Descent

NY, St.Mark's Church-in-the-Bowery.
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Ronald K. Brown / The Evidence Dance Company

2006-02-08 | ダンスとか
NY, The Joyce Theater.

Program A
Order My Steps
Walking Out the Dark
Grace
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