dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

Miguel Gutierrez and the Powerful People

2005-11-30 | ダンスとか
Retrospective Exhibitionist
Difficult Bodies

→『音楽舞踊新聞』にてレヴュー
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Super Vision

2005-11-29 | ダンスとか
The Builders Association & dbox, Super Vision

2005 Next Wave Festival.
NY, Brooklyn Academy of Music, Harvey Theater.
舞台がスクリーンのように横長のフレームで切り取られ、役者の背後のホリゾントに映像が映される。役者の手前にも移動式の半透明のスクリーンがあり、そこにも映像が映る。舞台下には何台もラップトップが並んでいて、映像などをこれでリアルタイムに操作する。大体こういう道具立てで、いわゆる高度情報化社会のリスクみたいなことを三つのエピソードで描写(というか説明)。インターネットでクレジットカードを使うお父さん(なぜか子供だけは舞台下のどこかで芝居をしてそれをリアルタイムで映像に流し込み)、空港のパスポート・コントロールを通る度に個人情報を根掘り葉掘り聞かれるアラブ系のビジネスマン(入国審査官だけ舞台下→映像)、スリランカの母親とネットでTV電話しているNY在住の女性(母親は舞台下→映像)。内容的にも手法的にもあまりにイージーで、とりわけコミュニケーションの「メディア」を主題にしているのに、自分たちの表現の「手段」に対しては無邪気だなあと思いながら見ていた。おそらく重要なことは、この作品であらゆるメディアを使用する人々が結局は身体として空間内に配置されているという点なのだろう。ラップトップを操作する人も舞台裏や客席後方ではなくわざわざ舞台下に剥き出しで並んでいるし、物語上その場にはいない(ヴァーチャルな)人物を演じる役者もきちんと舞台下に配置されている。こうして身体がそこにあるだけで、「演劇」が「ヴァーチャル」よりも優位に立つことができ、「ヴァーチャル」を再現表象の対象に落とすことができるという仕掛けはやっぱり演劇として貧しい。身体は身体で、ヴァーチャルはヴァーチャルだと言っているだけではないか。身体がヴァーチャルでしかなかったり、ヴァーチャルを身体と取り違えるとか、そういういびつな現実に切り込んでこそ、わざわざ演劇でこれをやる意味があるんじゃないかと思う。
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Movement Research at the Judson Church

2005-11-27 | ダンスとか
Movement Research at the Judson Church "About Town"

NY, Dance Theater Workshop.
▼Michael Helland, The New Ugly Presents Star Fiction
▼Lyndsey Karr and Antonietta Vicario, References furnished upon request
▼Anna Sperber, Juliette Mapp, Vicky Schick, untitled unrelated excerpts from Anna, Ikea and I
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FRESH TRACKS

2005-11-26 | ダンスとか
NY, Dance Theater Workshop.
40年前から続いている、新人登竜門的なショーケースであるらしい。
▼The Labor Union, The Labor Union's Dance Work 1
振付=Isabel Lewis。ダンサーは女性2で、上手にミュージシャンが2人(チェロやベースなど)。ダークで時にブルージーなノイズっぽい音楽に比して、ダンサーの動きは昔のドイツの踊りのようなノシノシとした歩行や、壁を使った体操的な動きなどのユニゾンが中心で刺激がない。かといって「労働」というほど無味乾燥なわけでもなく、狙いが(あるとすれば)よくわからなかった。途中で一瞬ベーシストがユニゾンに加わるのなども、ぼくの理解を完全に超えていた。12分。
▼Rachel Bernsen, experiment in progress
無音で正面向きに立ち、横に伸ばした左腕をヒラヒラ、クネクネさせる動きを様々に変化させながら、徐々に胴と下半身の小さな上下動が加わっていき、右腕も動き始め、体の向きを変えてグルッと一周したところで終わるソロ。8分。こういう踊りはNYでは珍しい。しかし日本の(多かれ少なかれ舞踏の影響を受けた)ダンサーならば、まずじっと動かないところから始めて、動きが立ち上がってくる過程をつぶさに観察するかのように動こうとするだろう。彼女の場合は、とりあえず動き始める。周期的な動きの持続とその定型化した変化の中で自分の体の行く末を見守っている。エスカレートする腕の動きに足腰がつられていく、など。つまり疑わなくてもいい土台があり、そこから実験を開始する。これは共同体に関わる差異、また文化の歴史の差異でもあり、ある意味では羞恥心をめぐる差異でもあると思った。これを煎じ詰めれば、フォーサイスと土方のような方法論の差異に行き着くことだろう。
▼Paul Turner/c o u r t, TOUCHED
人種問題や社会的不平等などを背景に自暴自棄になっているアフリカ系の若者のスピーチと小芝居、そして(なぜか)ダンス。男女6人の群舞はあまりにも稚拙な振付で見ているのがしんどい。ダンスは学校で習うもの、学校で習った人(ないしプロ)が作り、踊るものだという考え方が前提になっていることと、表現の仕方がこうして「啓蒙」的なもの(芝居か説教)になることとの間には関係がある。何か自明なダンスなるものへの安心感が、観客との間身体的なコミュニケーションの回路を閉ざしてしまう。自明でない(記号化されていない)何かを曝け出すのでなければ、演劇的な関係は生まれてもダンス的なそれは生まれない。16分。
▼Chase Granoff/Jon Moniaci, Boredom with objects!
アンプやスピーカー、ラップトップやケーブルをたくさん散らかして、ジャージにジーンズの男二人が機材に手をかけてじっとうずくまっている。ドローンやパルスがどうでもいい感じに変化しながら鳴っており、一方が腹にスピーカーを乗せてしばらく仰向けに寝たりする。最後は二人そろって上手に座って誰もいない空間に散らかった機材を眺めたまま終わる。15分。「ノン・ダンス」といえば何でもかんでも了解されてしまう時代にこのイージーさは厳しいものがあるし、彼らもまた単に奇を衒っているだけにも思えるが、見ていると電子的な機械がもっている時間の流れとそれに囲まれている彼らの時間の流れ(息遣い、呼吸に伴う腹の膨張と収縮)の絶望的な隔たりが面白くて仕方なかった。退屈に生きているだけですでに「ダンス」だった。つまり彼らは「退屈」な日常を、それそのものとして思考するために「ダンス」という手段を選択しているのではないか。ダンスのためにダンスが当然の如くあるのではなく、彼らの生にとって必要な何かとしてダンスを捉え直そうとしているのではないか。
▼John Wyszniewski, Ground Control
デヴィッド・ボウイの『Space Oddity』がかかって、照明が入ると段ボールで作った箱から小太りのおじさんがズルズル這い出してきている。体にはプチプチのついた梱包材が巻かれていて、立ち上がって音楽とともに床へスライディング(発射)すると何事もなかったかのようにまた立つ。梱包材を剥ぎ取ると腹に手紙がついている。彼は16年前から文通サークルに入っていて、これは最近来た返事の一通。ダラダラとそれを読み上げた後、おもむろに舞い始める。あまり気張っていないバレエのステップに、細かい手振りで、クルクルと軽やかに、そして情けなく。この体型でやられたら否応なしに「可愛い」テイストになってしまう。最後はまた箱にもぐりこんで何か赤い紙テープのようなものを大量に外へ排出する。火のようにも血のようにも見えた。7分。ちょっと日本っぽい。
▼Jessica Morgan, You Are Gone Goodbye
女性4でデュオ2組が基本、どんよりとしたエレクトロニカに薄暗い照明。特徴のない振付で何を見たらいいのかわからなかったが、後半は床に寝て互いに絡まり合ったり、何ともだらしない感じにエロエロしく。最後は上半身を脱いで背中に文字。それぞれV, IT, IS, MEと書かれていてアナグラムを促すかのように入れ代るのだが、 VISIT ME 以外に何と読めるかをずっと考えて、何も思いつかないなあと思っているうちに終わってしまった。15分。
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Batsheva Dance Company

2005-11-23 | ダンスとか
Batsheva Dance Company, Mamootot

2005 Next Wave Festival.
NY, The Mark Morris Dance Center, James and Martha Duffy Performance Space.
オハッド・ナハリンの2003年初演作。スタジオのような空間で、客席は中央の舞台を四方から囲みわずか二列のみ。はじめに女性のダンサーが1人出てきて、無音のまま長々と踊り、後から残りの8人が加わる(男4女5。以後ダンサーの出ハケは主に、客席の中に点々とあるイスが使用される)。無音のユニゾンが終わるとポップソング(なぜかほとんどが日本の曲。ヤプーズ、高木正勝、その他多数)がかかり、曲が終わるとまた誰かが踊り出す。ソロと群舞が多い。こうして禁欲主義のようなものをかなり強引に観客に押し付けてくるのだが、実際振付がとにかく面白い。今まで見てきたナハリンのスタイルを改めてじっくりと堪能することができた。ほぼ常に腰が落ちていて重心が低く、それでいて胴のひねりを多く使って不安定な体勢から体勢へとアクロバティックに流れていく。バランスの崩れそうな危うくスリリングな動きであるにもかかわらずリリース的な重力の見せ方が全くなく、全身が床に根を張ったように安定している。バネのような反動もかなり抑制されており、スピードの可変量(加速度)が均質なので、確かに見ていて硬質というか無味乾燥な印象はある。コンタクトも使っていないし、即興らしき部分もない。決してエキサイティングな舞台とはいえないだろう。それでも動きの造形の幅の広さを見ることは、それだけで十分刺激的だった。体へのイマジネーション(イメージ化の可能性)が広がる。「動き」は「イメージ」を変化させる。踊る体を見ることは、体についてもっているイメージが刻々と揺すぶられ覆され、別のイメージへの可能性にさらされるということだ……。しかしほぼ全編通して凝り固まったストイックな流れでありながら、それに徹し切れていないところはどうも歯切れが悪く感じる。不自然な姿勢で舞台中央に寝た1人の周囲に全員が集まってきて同じように床に寝てみせるシーンなどは陳腐なほどに「死」を連想させるし、終わり近くなって急に男のヌードがあったり、性的な仄めかしのあるリフトがあったり、観客一人一人の目を見つめたり握手して回ったり、ありきたりなアイディアが現れてくる。最後は女性が突き出した肘に別の女性が噛み付いて終わる。これだけ地味に引っ張っておいていきなりそんなことをされても困ってしまう。衣装は七部袖と膝丈のつなぎでくすんだピンクや緑、青など、体は白く塗っている。62分。
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Movement Research at the Judson Church

2005-11-20 | ダンスとか
Movement Research at the Judson Church "About Town"

NY, Dance Theater Workshop.
▼nicoykatiushka, Coitus Reservatus; Performance based on 26 Kamasutra positions
一見ワケわからないユニット名だが、バラすと「Nico y Katiushka」(y は & だろう)。冒頭にスタッフが「二人は会場に向かう途中でアクシデントに遭い、残念ながら来られなくなってしまいました。代わりにヴィデオをご覧下さい」と告げ、舞台中央に置かれた14インチのモニターに客席から目を凝らすというお間抜けな事態に。そこには風に揺れる草が映っていて、モニターの背後にはなぜか植木が置いてある。すると左右から男女がモニターを運んで現れて、それを真中のやつに並べ、その向こう側に立つと、ちょうどモニターで隠れる足元の辺りが画面にも映って実物とシンクロする。そうして何をするのかというと二人はカーマスートラの26の体位(ポーズ)を次から次へ、淡々と見せていくのである。人を食った感じではあるのだが狙いが全くわからず、気持ち悪かった。18分。
▼Rae Ballard, Visions of Vincent
ゴッホにまつわるエピソード三つを演劇的に描写する作品。眠っているゴッホの傍らに着物を着た二人の女性が現れて踊りに誘う。農民の祭りに居合わせる。カフェでゴーギャンと仲違いする。どうともいいようのない素朴な黙劇(実はセリフも少しある)なのだが、19世紀の日本趣味の再現=表象をエクスキューズにして着物の踊りを舞台に載せている点に興味をもった。単なる再現=表象であっても、そこにダンス的な細部が息づくことによってそれは再現=表象の枠をあっさり超えてしまう。着物に草履であるがゆえの極端に狭く小刻みな移動やステップは日本舞踊のそれではなく、さらには不思議なリズムのバックステップとささやかながらトリッキーなコンポジション。ダンスは単なる運動である限りでの「意味」をその場に生成する。芝居臭い芝居にいつも欠けているのはこれなのだ。15分。
▼Brinsley Evans, The Baby Show
ベット・ミドラーなどにも曲を提供しているレコード・プロデューサー/ソングライターが初めてやるパフォーマンス・アートとのこと。ダッチワイフを立たせてシンセに向かわせ、自分(ゴツい)は幼女のようなピンクのワンピースを着て少女が大人になっていくまでを歌とヘンな踊りで見せていく。よくあるオカマ芸みたいなもの。12分。
▼Mina Nishimura, CocaCola
キューブリックの『スパルタカス』の「愛のテーマ」をサンプリングしたループにフランス語のラップが乗る曲にのって、ビーチサンダルでよたよたと出てくる。前半は歩き回りながら時折り唐突に大きい振りを踊ったりするさまが、「甘ったれた」とでも形容するしかないような引っ込み思案な動きになっていたが、ビーチサンダルを脱いで体が自由になるにつれ徐々にエンジンがかかって来た。全体に山崎広太の色が濃く、いきなりギアをチェンジして異質な動きに移っていく振付。両手に握っていたヴィニール袋(『アフリカの夜』)を、宙で離してはつかみ、離してはつかみする場面が面白かった。ヴィニールと空気の関係は一定のものでしかなくて、他方人間はそれでいくらでも遊べてしまう。変化しないものを弄ぶ行為、「反復」を糧に「差異」を編み出す行為、これに踊り手の意識も、見ているこちらの意識もぐんぐん引き込まれていった。そこには狂気への入口があった。17分。
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Grand Magasin

2005-11-17 | ダンスとか
Grand Magasin, 5th international forum of corporate cinema

NY, St.Ann's Warehouse.
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Shelter

2005-11-16 | ダンスとか
2005 Next Wave Festival.
NY, Brooklyn Academy of Music, Harvey Theater.
Music by Michael Gordon, David Lang, and Julia Wolfe. Libretto by Deborah Artman. Film by Bill Morrison. Projections by Laurie Olinder. Performed by musicFabrik and trio mediaeval. Conducted by Brad Lubman. Set by Jim Findlay. Lighting by Matt Frey. Costumes by Ruth Pongstaphone. Sound by Norbert Ommer. Directed by Bob Mcgrath.
少し遅刻してしまい冒頭を逃す。中規模のオーケストラの背景に映像が映し出され、さらに三人の女性歌手が場所を変えながら歌う。途中でオーケストラの手前にもスクリーンが降りて、いくつかの空間が重ね合わされる。ここでいう「シェルター」は、日本語ならばちょうど「家」に対応するような、多義的なニュアンスをもった主題。敷居がありドアがあり鍵があり、人を守るものであり拒むものであり、また建てられるものであり壊されるものでもある。そういった様々な「家」の側面を七つの歌と映像で見せていくのだが、どうもいい具合にノれなかったというのが正直なところ。映画音楽のような(例えばマイケル・ナイマンとか)ポップな曲は「聞かせる」というよりむしろ映像に随伴する感じの、これといった深みを欠くもので、ところが映像も断片的なイメージ群であり何かのオマケみたいに見える。つまり作品の「ど真ん中」が抜けている気がするというか、どこに焦点を合わせて見聞きしたらいいのかよくわからなかった。歌い手が場面ごとに移動したり、オケの上に布が降りてきて人々を覆ったり(=シェルター?)、舞台の上に何かを起こそうという気持ちはわかるのだが…。
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Marina Abramovic: Seven Easy Pieces (七日目)

2005-11-15 | ダンスとか
NY, Solomon R. Guggenheim Museum.
▼Marina Abramovic, Entering the Other Side
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Works in Progress / Dream Music Puppetry Program

2005-11-15 | ダンスとか
NY, HERE Arts Center, The Dorothy B. Williams Theatre.
▼Kate Brehm, A Seemingly Unified Spectacle
▼Drama of Works, Sleepy Hollow
▼Sarah Provost, Eric Novak, Elyas Kahn, The Adventure of Charcoal Boy
▼Kevin Augustine, Bride
▼Lake Simons and John Dyer, Alice's Adventures in Wonderland
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Movement Research at the Judson Church

2005-11-13 | ダンスとか
Movement Research at the Judson Church "About Town"

NY, Dance Theater Workshop.
本来はジャドソン教会で行われている新進アーティストのショーイングで、現在は教会の改装中のためDTWに会場を移している。毎週日曜夜、三組が出演し、入場は無料。
遅刻して最初の Deganit Shemy, Epidermic は見れず。数時間前に見たばかりのをまたやっていて驚いたが、モニターで見たところ広い舞台上に白のテープで空間を区切ってあるところが違っていた。
▼Misty Owens, Concerto in d
ピンクや紫系のレオタードを着た女性五人が踊るバレエ。音楽は新古典期のストラヴィンスキーで、全体にバランシンを意識しているが、幾何学的なフォーメーションを展開する中に若干のフロアワークなども。「何でもあり」の場にあえて明確なディシプリンを伴ったダンスを持って来られると、バレエも確固たる一種の「民族舞踊」として見えてくる。つまり数あるディシプリンの中でそれを選んでいるという事実、そしてそもそも何らかのディシプリンに忠実たろうとするその身振りが、その人々の「帰属意識」をはっきりさせ、必ずしもそれを共有しているわけではない観客に無条件のリスペクトを要請する。これが「民族舞踊」であると思う。
▼Daniel Linehan, Anorexia, Failure, and Puberty
『食欲不振、落第、思春期』とでも訳せそうだが、思春期の少年というよりホームレス(あるいはその両方?)を演じている。ジーンズにジャケット、眼鏡をかけた子供っぽい男が、ドル札を大量にバラ撒いて歩いて去る。今度は「今日は~で30ドル、一時間あたり3ドル」といった淡々とした報告をラジオからずっと流しながら、片足をジーンズの中へ引っ込めてのた打ち回る。客席の通路へ入ってきて観客の靴にキスをして回る。さらにもう一本のジーンズを頭からかぶって立ち尽くすなど。自虐的に「負け犬」を演じるパフォーマンスで(偶然だが昨日見た Sara Juli も「お金」を題材にしていた)、アメリカにもこんな人がいたかと複雑な気分に。しかしいかにも言い訳っぽくちょっとだけフツーに踊って見せるところがセコい。このセコさはこうした名もなき身体表現と「ダンス」というカテゴリーの間の屈折した関係を表現しているが、どうせならば片足を引っ込めた状態での中身のないジーンズが床をバタンバタンとリズミカルに叩くそのさまをもっと精緻に、紛れもなくダンスとしてエスカレートさせてもらいたかった。そんなものにダンス的な感動を覚えてしまった時こそ本当に観客は戦慄を覚えるだろう。中途半端に「ダンス」に間借りして、その身分を戦略的に利用していないところに弱さを感じる。
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Nami Yamamoto

2005-11-13 | ダンスとか
Nami Yamamoto, the last word was PAPIREPOSE

NY, Brooklyn Arts Exchange.
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Out of Israel

2005-11-13 | ダンスとか
NY, 92nd Street Y, Buttenwieser Hall.
▼Netta Yerushalmy, Island: a new work in progress
▼Deganit Shemy, Epidermic
▼Saar Harari, Now, in the storm before the calm, I can tell you things. I couldn't in the calm before the storm,
▼Deganit Shemy, B-A Work in Progress
▼Netta Yerushalmy, Crater in Us
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Malavika Sarukkai

2005-11-12 | ダンスとか
Bharata Natyam of India.
NY, Symphony Space, Peter Jay Sharp Theatre.
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Draftwork: Sara Juli & Tiffany Mills Company

2005-11-12 | ダンスとか
NY, St.Mark's Church in-the-Bowery.
▼Sara Juli, The Money Conversation
▼Tiffany Mills Company, Godard
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