dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

ダンスビエンナーレ TOKYO 2004 (Gプロ)

2004-11-28 | ダンスとか
青山・スパイラルホール。
▼スサンナ・レイノネン 『ノーワン ジャスト ユア フレンド』
Susanna Leinonen, No, One, Just Your Friend
フィンランドの振付家。下手寄りに照明で縦に2本の帯状空間が作られ、そこに女性2人が並んで正面向きのまま踊り、やがて上手から横にもう1人入ってきて、3人で同じモティーフの組合せをバラバラに踊る。バレエベースにモダンやコンテンポラリー、あと無理矢理の笑い顔や歪んだポーズなどもしかしたら舞踏も入っているのかもしれない振付はよく作ってあり、ダンサーもよく踊れる。体の向きの操作と、上体を中心としたダイナミックなフォルム。終盤になって上手奥にある鞍馬のような台も少し用いられる。タイトルとは裏腹に演劇的な仕掛けはほぼ皆無、とっつきやすいテクノに乗せたとっつきやすいダンス。これといって特徴的なところは見当たらないがウェルメイドな仕上がりでそれなりに楽しかった。25分。
▼サスキア・ヘルプリング/ダンス・キアス 『エクスポジシォン・コーア』
Saskia Hoelbling / DANS.KIAS, exposition corps
オーストリアの女性アーティストによるソロ。緑色の照明で客席まで包まれ、舞台の中央に白リノを張った低い小舞台が斜めに置かれて、その周囲に大きな照明が3基。白い下着のような格好のヘルプリングが入ってきて、大音響のノイズがカットイン、観客の多くがビクンとなる。プロレスラーが相手の出方を伺う時のように小舞台の周りをうろついた後、中に入って寝転がると音響は一気に静かな電子ノイズに変わる。以後ノイズや照明の色がしばしば変化し、ヘルプリングは寝た状態で身悶えるように動いたり、立ち上がって上空に手を伸ばしながらジャンプしたりする。27分。正直まったく理解できなかった。動きの動機がどこにあるのか、光や音がどういう役割を果たしているのかなど、コンセプトがつかめない。タイトルは身体の露出とかそういうことなのだろうけど、プログラムを読んでも一向に要領を得ず。困った。
それにしてもホールの作りというのは、パフォーマンスの見え方に大きく影響するということを改めて実感した。この2本だけ会場が違ったわけだが、これがもし青山円形劇場だったらと想像してしまう。壁や床の色、広さ、アクティングエリアの形、袖の有無、客席の向き、椅子の素材。
コメント

ダンスビエンナーレ TOKYO 2004 (Fプロ)

2004-11-28 | ダンスとか
青山劇場。
▼クリスティーナ・チュプケ 『リスウムリス(ライン/アウトライン)』
Christina Ciupke, rissumriss (line/outline)
ベルリンのアーティストによるソロ。大空間に照明で縦あるいは横の細い線を作り出し、その光で体の一部だけを見せながら動く。終始無音。闇の中に浮かび上がる、断片化した人体の一部が、単なるよくわからない抽象的な形態のように見えたり、やはり「人体の一部」であるように見えたりして、次第に網膜上の知覚と脳内での認識とがぶつかり合い主導権を争い始める。「形」なのか「人」なのか、ゲシュタルトが揺らぐ。目に映っているものを脳が修正したり、頭で思い描く像が網膜において否定されたりする(だけの)50分。あまりの退屈さにこんなことをボサーッと考えていたらプログラムにほとんど同じようなことが書かれてあって、良くいえば「コンセプトが周到かつ十全に実現されている」ということだが、「言葉で説明してしまえる以上のことが行われていない」ともいえるわけで、そもそも舞台空間をただの光学的な情報に還元してしまう作品コンセプト自体が貧しすぎないか。ちなみにDプロのミリアム・グルフィンクとは交流があるらしい。わかりやすい。
▼カルメン・ワーナー/プロビジョナル・ダンザ 『ピエル(スキン)』
Carmen Werner / PROVISIONAL DANZA, PIEL (skin)
スペインのカンパニー、一昨年に続く登板。ダンサーは女性2、男性3。ソファーやスタンドなどが置かれた室内空間で、黒いスーツを着た男が女を全裸にしたり、水を吹いたり、ユニゾンで踊り出したり、バロックのアリアとテクノがフェードでつながれたり、前回同様ありがちなピナ・バウシュ系タンツテアターの亜流。強いて挙げれば床に脚を伸ばして座った姿勢で髪を振り乱す大きな動きの振付が『ファイン・ロマンス』でも見受けられたもので、この人の特徴といえるのかもしれない。大きな転換なしにモザイク状にシーンが推移していく。63分。
コメント

白井剛 『質量 , slide , & .』

2004-11-27 | ダンスとか
三軒茶屋・シアタートラム。
→『音楽舞踊新聞』にてレヴュー(『ダンスワーク』56号「2004年ダンスの総括」に再録)
コメント

舞の会 ―京阪の座敷舞―

2004-11-27 | ダンスとか
半蔵門・国立劇場(小劇場)、昼の部。
▼『上方唄 三つの艶』(楳茂都梅衣代)
動きが弱く曖昧に漂うような踊りで印象薄。地唄(衣笠一代)の声が小さくて牽引力がないのも気になった。
▼『地唄 鼠の道行』(吉村輝章、吉村雄輝麿)
首を傾げてヒョッと止まったり、鼻や手を小刻みに動かしたりしてネズミの動きを模倣したコミカルな踊り。ネズミを擬人的に観察する眼差しが、人間の擬ネズミ的な動きによって反復される。人間のような表情を見せるネズミを演じる人間にネズミを見る、というか。内容はともかく、日本舞踊でこういう見るからに普通の横分けのオジサンたちの踊りを見るのが大好きだ。最高にクールだと思う。
▼『上方唄 いざや 住吉』(楳茂都梅加)
しなやかに流れる線の中に時折グイッと太い線を入れてくる、主張の強い踊り。瞬間的に連れ去られるその感覚がたまらない。しかし顎が常に前に出ているせいか、「しな」が何ともクドく、色気の種類があまり上品ではない。
▼『地唄 袖香炉』(井上政枝)
立ち方にも動きにも鉱物的な強度はなくむしろ柔らかいのだが、井上流の醍醐味を堪能させてくれる踊りではあった。次へ次へと滑らかに流れてはいかないミニマムな線分を疎らに置くだけで、空間が方向付けられ、空気も緊まる。足を開いて内股で後ろ向きに静止、すると着物の帯から下が完全な長方形。このあっけらかんとした無機質の冷たさ。
▼『地唄 黒髪』(山村楽正)
体の末端が線を描く以上に、首もとや上腕から脇にかけての部分などに小さく深い渦ができる。体の外へ走って抜けていかない捻れが、他人に投げかける媚態と、他人を受け入れる包容力を結合している。地味すぎず柔和。
コメント

ダンスビエンナーレ TOKYO 2004 (Eプロ)

2004-11-26 | ダンスとか
青山劇場。
▼李淑在/ミルムル・ダンス・カンパニー 『ハングル・チュム』
Sook-jae Lee / Milmul Dance Company, Korea Alphabet Harmony
ハングルを人文字でやる「モジモジくん」みたいな作品。大所帯だがダンサーはあまり巧くない。まずはソシアルダンスとバレエの混ざったようなもの(音楽は懐かしいC&Cミュージック・ファクトリー)、次いでレオタードに陰気な「電子音楽」のアメリカンなモダンダンス、そしてヨーロッパ正調のいわゆる「コンテンポラリーダンス」、最後は大団円で、イントレを使って大きく「ハングル」と書く。ここは完全にモジモジくん。文字を一個ずつ解説していくわけではなく、ダンスが展開していく中に時折ヒラッと出てくるから、ハングルを見慣れている人の目にはそれがゲシュタルトの図みたいにいきなり見えたりするのだろう。平仮名や漢字と違って幾何学的な形態だからあまりダンス的ではない気もするが、ダンスを見ていたら不意に「ぬ」とか「そ」とか浮かび上がってくるところを想像すると笑える。50分。
▼水と油 『断崖』
三人での新作。水と油は久しぶりに見たが、シュールとかギャグとかではない完全に「動きのための動き」のような部分が結構あって意外だった。大きな空間の中に巨大なテーブルがあって、その上を小野寺修二が歩いてくる冒頭など、画的に迫力のある場面が印象に残るが、マイム的な部分はあまり盛り上がらなかった。「遠く離れて座っている二人のコーヒーカップが糸でつながれている」とか、そのこと自体は確かにシュールではあるけれどもそこへ至る必然性が何も用意されていないのでまずフックを欠くし、そこから逸脱に次ぐ逸脱という展開が起こるわけでもない。中盤にヒッチハイクのネタ、最後は再びカフェのテーブル。35分。そもそもぼくは筋というか、意味のレヴェルに関心が薄く、何か細々したことが始まるとつい無意識の内に流してしまっていたりする。とりわけ笑いという効果が狙われていたりする時には、動きにその終着点が見えてしまうか、あるいは終着点を目指して動いているという事実が見えてしまう。すると過程としての動き自体の様々な様態はどうでもよくなる。意味に奉仕するだけの動き。そういうものじゃなく、意味以前の動きが見たい。意味以前の何か、あるいはシニフィアンスのありさまをひたすら注視したい。いや意味以前などといって意味を前提条件にする必要は全くないのだが、それは必ずや新しい意味を生み出し、意味のレヴェルでの驚きにもつながっていくに違いなく、にもかかわらずそのこと自体は差し当たりどうでもよいとするこのような姿勢でのみ関わりをもてる意味には関心がある、といっても許されるかもしれない。ところで、いつも藤田桃子の独特な仏頂面が気にかかっていることを今回初めて意識した。小野寺のようにリアクションがクドくなく、また高橋や須賀ほどフツーでもなく、硬質な異物感がシチュエーションの中で絶妙に屹立する。冷たく、しばしば何を考えているのかわからないが、そのくせ狡猾である。リアクションを取らないので、目のフォーカスはたいてい別の誰かに合わさっているのだが、視野の隅で画を支えているのはいつもこの人だったりする。
コメント

ダンスビエンナーレ TOKYO 2004 (Dプロ)

2004-11-24 | ダンスとか
青山円形劇場。
▼アレッシオ・シルベストリン 『デリヴァレ』
Alessio Silvestrin, DERIVARE
8月にSuper Deluxeで見た作品だが、今回は能楽師・津村禮次郎が生で出演してデュオ。普通の舞台なので映像なども見やすく、とりあえず作品として何が提示されているのかはわかった。やはり動きが単調。確かに体のコントロール密度がやたら高いのはわかるのだが、それ以上の何かを見せてくれるわけではなく、飽きてしまう。肩を怒らせて足を右・左と上げて、重心を上へ上へともっていこうとする動きが前半の大部分を占め、徐々に床を使ったり、能楽師を模倣して足をダン!と踏む動きが入ってきたりする流れ。それよりも津村禮次郎という人が実に何でもやってしまう人で、晦渋なテクストの朗読に加え、仰向けに寝て浮かせた足を動かしたりしていて、そっちの方が驚きだった。30分。どうでもいいことだが Derivare の v を「ヴ」と表記しているのにどうして Silvestrin の ve は「ベ」なのか。
▼ミリアム・グルフィンク/アソシアシオン LOL 『マリーヌ』
Myriam Gourfink / ASSOCIATION LOL, Marine
フランスの振付家で、ダンサーは女性1人(シンディ・ヴァン・アケール Cindy Van Acker)。四つの大きなスピーカーが置かれてその間でゆっくりゆっくり体の形を変化させ続けるという作品。電子的なパルスが徐々に重層化していく音響に包まれながら、しかし体は外界からの入力を遮断し切っているように見える。「遅い動き」が振付の主要なテーマらしいが、舞踏と比べるとそれほど遅くはない。動きの質感を均質に保とうとするストイシズム。ドナルド・ジャッド的表面への没入。でもこの作品はそれだけではない。電子パルスの肌理が変化していくことによって、見ている自分の意識が影響を受け、体や動きの見え方がどんどん変わる。分節の密度が高まっていったり、新しいプラトーを迎えて逆に低下したりする。その現象が面白かった。ダンサーと自分は同じ場を共有していても、それぞれの中で流れている時間はバラバラに変化しながら走っている。35分。
▼濱谷由美子/クルスタシア 『2P(要冷蔵)』
何年か前にソロ×デュオか何かで見た作品。長いパンツに短いチュチュ、背中に羽、というあんまりにもあんまりな全身白の衣装で、ハウスっぽい音楽で絡まずに踊ってから、帯状の空間で交互に後転しながら下がっていき、濱谷が動かなくなって相方の椙本雅子がショボーンとして終わる。アイディアに頼らず振付で攻めてはいるのだが、語彙はあきれるほど平凡なものばかり。ウェブなどを見るともっとアホっぽいイメージなのに、舞台に出るといつもこんな感じ。これが本当にやりたいことなのかどうか。22分。
コメント

室伏鴻 Ko & Edge Co. 『始原児 ―Experimental Body Vol.II』

2004-11-23 | ダンスとか
麻布die pratze、昼。
コメント

ダンスビエンナーレ TOKYO 2004 (Cプロ)

2004-11-22 | ダンスとか
青山円形劇場。
韓国特集。もちろん期待などしていない。ただ韓国といえばひたすら古いモダンダンスだと思っていたが、もう少し新しいヨーロッパのダンスに執拗に追随しようとする人々がいることがわかって、その点は収穫だった。日本にいる我々の眼からするとちょうど10年古く感じる。94年頃は日本にもまだこういうのを求める風潮があったと思う。それにしてもこの無邪気さはいったい何なのか。自分たちのやっていることに少しも疑いを抱いてなさそうな、不毛なポジティヴさ。ダンサーの質はもちろん高い。
▼朴豪彬/ダンスシアター加頭 『月から来た人々』
Ho-bin Park / Dance Theater CcadoO, People from the Moon
男性2人、女性1人。背景に大きな月が、ゆっくり昇って沈んでいく映像。無機質な音響。様々なヴォキャブラリーを駆使したダイナミックな振付に、「仕種」的なものも織り交ぜつつ、男女の衣装を交換したり、白い粉を撒いたり。基本的にはヨーロッパ風の(バニョレっぽい)スタイルを律儀に反復しているだけだが、パク・ホビンは彼自身いいダンサーでもあり、振付には時折閃くような才気が迸っている気がする。小さな空間の中で部位を縦横無尽に捻るサッカーのような動き。下半身のアクロバティックな動きが床と平行に展開される瞬間。20分。
▼張銀庭 『ウィズアウト・コンサーン』
Eun-jung Jang, without concern
真上からのスポットライトを手鏡で反射させて細い光線を張り巡らす冒頭はちょっと興味を惹かれたが、これまた浅薄にも「ポストモダニズム」をファッションでやっている作品。「偶然」じゃないカニンガムというか、「脱構築」じゃないフォーサイスというか、要するに照明や構成や展開などをただ「グチャグチャな感じ」にしている。ダンサーは男性2、女性2と、ギャラリーから照明をいじったり手拍子を打ったりする人が1。20分。
▼安愛順 『ウォーター、ボデイ、ア・ミス(神話)』
Ae-soon Ahn, Water, Body, a Myth
日本人ダンサーと韓国人ダンサーによる女性デュオ。舞台一面に点々と水の入った様々な器があり、色とりどりの丸いスポットライトで照らされていて、ダンサーは二人とも赤や青のテープを肌に貼っていたりする。目も眩むセンス。舞台を撮影した映像をリアルタイムで映写したり、生きた金魚を床に投げてまた水に戻したりする。振付に見るべきところはなし。22分。
コメント

上海歌舞団

2004-11-21 | ダンスとか
神奈川県民ホール(大ホール)。
▼陳維亜 『秦俑魂』
Chen Weiya, Soul of the Terracotta Worriors
2年前の「日韓・日中韓PAC2002」という企画で一度見た作品。その時はダンサー6人だったのだが、その同じメンバー+11人+主演の黄豆豆という大編制。テラコッタの像がバーンと割れて人が動き出しキメキメに舞い踊る。黄は確かに凄いが他にも何人か凄い人がいる。12分。
▼楊月林 『旦角』
Yang Yuelin, The girl in Beijing opera
女性ダンサー(Wu Jiaqi)によるソロ。中国の「伝統舞踊」というやつは曲芸との区別がとても曖昧だ。体を斜めに傾けた姿勢のまま、正面やや下向きに顔を付けた高速回転など。6分。
▼黄豆豆 『棋』
Huang Doudou, Chinese chess
男女群舞。白チームと黒チームに分かれた幾何学的な構成の合間に短いソロやデュオなどが挟まれる。後からタイトルを見て笑った。8分。
▼黄豆豆 『甲骨随想』
Huang Doudou, Calligraphy
今日の目玉というべき黄のソロ。恐ろしくキレのある回転と跳躍。9分。
▼顔安 『上善如水』
Yan An, Like water
一転して「コンテンポラリー」な感じの男女デュオ。キリアンとかそういうものの浅薄な模倣。この振付家の『春の祭典』を「日韓・日中韓PAC2002」で見たが、あの時も洋物の真似っ子だった。5分。
▼近藤良平 『肚子餓了、肚子真的餓了!〈腹が減った!とにかく腹が減った!〉』
男性13人による即席コンドルズ。初見の観客の前でこの大人数の一人一人にキャラを振り分けるわけにもいかず、群舞や、同じ動きをするデュオを3組並べたりする他に、若干の小芝居(リンゴを奪い合う)を入れた作品になっている。途中から近藤良平がピアノを弾く。厳しい訓練を受けているであろうダンサーたちの体や動きは、必ずしも杓子定規だったりクソマジメだったりするわけではないのだが、中途半端に整っていて、コミカルなはずの作品を強張らせてしまう。彼らなりの遊びの流儀はあるのだろうけれども、それと近藤良平の遊びの流儀がすれ違ってしまっているのだと思う。12分。
▼馬愛国 『剣似飛鳳』
Ma Aiguo, Sword looks like the Phoenix
女性5人による剣の舞。ここの女性ダンサーは精彩を欠く。5分。
▼黄豆豆 『黄土地』
Huang Doudou, Yellow Land
原始人のような男たち女たちが大暴れする凄いスペクタクル。凄すぎて薄笑いを飲み込んでしまう。女を捕まえて箱に押し込め生贄の儀式。黄の動きが凄い。信じられないほど高くジャンプして、ジャンプの頂点で下半身を首より上にグイッと持ち上げてしまう。目を疑う。群舞では男性ダンサーの中に手を抜いていい加減にやっている人がたくさんいた。タン・ドゥンの音楽。23分。
全体に見て、黄豆豆は確かに凄いが、基本的に身体能力を誇示するようなアクロバットであり、別にそんなものが見たくてダンスを見ているわけでないという不満がまず一つ(アクロバット批判というのはヨーロッパのダンス史に繰り返し出てくる議論だが)。それから中国の「伝統舞踊」なるものの概念を自明視したままそこに何かを足し算するという発想が完全に過去のものだ。パッチワーク。「スーパー歌舞伎」みたいな。歴史的に形成されたテクニックを分析的に解体していくアプローチはもうそんなに珍しくないはずだが、中国の国営団体にそこまで望めるとも思えないし、上海歌舞団を呼ぶならシェン・ウェイ・ダンス・アーツを呼ぶべき。
コメント

ダンスビエンナーレ TOKYO 2004 (Bプロ)

2004-11-20 | ダンスとか
青山円形劇場。
▼ポール‐アンドレ・フォルティエ/フォルティエ ダンス‐クリエーション 『テンションズ』
Paul-Andre Fortier / Fortier Danse-Creation, Tensions
カナダ・ケベックのグループ(フランス語なので“クレアシオン”と読む)。初老のフォルティエ自身と、若いエリック・ボシェンヌ(Eric Beauchesne)による男性デュオで、フォルティエは普通の長袖シャツとパンツ、靴を履いていて、ボシェンヌはタンクトップに裸足。お互いにほとんど絡まないまま、それぞれ異質な動きを展開する。背景にはずっとミニマル系のテクノが流れていて、ビートの層が漸次的に入れ代わりながらテンションが上下する。切れ目のない50分間。フォルティエは動かないでいる時間が長いが、ブルブル震えながら歩いたり、エアロビクスのような機械的な反復動作をしたり、けっこうヘンな振付。非人間的で無機的な質感を出すにしても、人形っぽかったり、彫像っぽかったり、ロボットっぽかったり、色々なモードがあるという認識を得た。ボシェンヌは恐ろしいヴァイタリティで動き続ける。バレエを基礎にしたいわゆる「コンテンポラリー」の振りに、時折ボクシングのような細かい足捌きが入る。基本的にはこの老若のダンサーの対比によって構成された作品なのだが、「老若」という文学には流れず(冒頭と最後に演劇的なジェスチャーによる絡みが少しある)、背景に流れ続けるテクノの構造をデュオのダンスに翻訳しているように見えた。音楽をなぞっているわけではなく、むしろ徹底してビートを外して動いているのだが、絡まない二人が刻む相互に無関係な時間が舞台上で交錯したり、一方が踊っている間他方が隅で動かないでいたり、かと思うと間歇的に振り返って、動き出す素振りだけを一瞬見せてまた戻ったり、ミニマル系の修辞を踏まえているように思われ、しばしばニヤリとさせられる。そう思ってみると音楽とダンスを等価な関係に置いてみせた作品ともいえるだろう。Tension"s"。後半に入ると、雲とか煙のようなアブストラクトでモノクロの映像が映され、ボシェンヌの動きがそれをなぞっているように見える瞬間もあった。特に新鮮とか刺激的ということはないが、破綻なく仕上げられたコンセプチュアルな「作品」を見た、という充実感はあった。
コメント

アートノヴァ Vol.19 「?アートノヴァ」

2004-11-19 | ダンスとか
アサヒ・アートスクエア。
▼青空太郎(チャンキー松本とイヌンコ)
前に青山円形劇場で見た時は、チャンキーがバンドのヴォーカルで、イヌンコはアニメを上映していた。夫婦らしい。今回はチャンキーがヴィニールの小屋みたいなところへ入って、即興で歌いながらマンガを描いていくのをプロジェクターで映し出し、それをイヌンコがシンセで伴奏する。本当の思い付きがどんどん連鎖していくのを、なぜか見入ってしまうのはやたら高いハスキーヴォイスの歌の旋律の寄る辺なさがどこかビョークを彷彿とさせるからだけではないと思う。途中、連想ではなくただのしりとりになってしまう部分はつまらないのだが、連想は(どんなにくだらなくても)面白くて見てしまう。イメージの連続と飛躍が同時に示されるから。
▼ほうほう堂
先日STでやった『るる ざざ』をやや短くしたヴァージョン。ストイックさが薄まってややポップ気味になったがやはり地味ではある。しかし良い。それぞれが相手のグルーヴに切り込んでいって、その応酬が自動的に変拍子みたいなものを生成する。振付を淡々とこなしつつ、いかに機械化に陥らないか、というところを追求しているように思った。ここから振付やフォルムの要素を限りなく排除していくとDA・Mになる。
▼宇宙レコード
西村たけお、小林顕作、中村たかしの三人組。基本的にはお笑い劇ではあるのだがお笑いだからこそ可能になるこの支離滅裂なナラティヴ構造を、方法論的に追求するとチェルフィッチュに接近してくる。前半はオフィスを舞台にしつつ部長だのOLだのの役を三人がどんどん交換して話の辻褄がどんどんおかしくなっていくというコント。間に池田鉄洋(猫のホテル)の気色悪いチアリーディングみたいなものが入った後、後半はヤンキーが怒鳴り声でダベっていて思いつくまま一方的に喋りながら自分で何の話をしているのかわからなくなったり、語勢だけで会話が成立したりするというコント。前半のコントはわざと話を取り違えたりする身振りを見せることで笑わせ、後半のコントはよりリアリズム寄りに滑稽なシチュエーションを描出している。こういうのとチェルフィッチュ的な方法主義とでどこが分かれ目になってくるかというと、「笑い」という単なる効果の水準で満足してしまうか、ナラティヴに対する悪意を徹底して突き詰めていこうとするがための自己批判的プロセスを採るか、という点だと思う。
コメント

ダンスビエンナーレ TOKYO 2004 (Aプロ)

2004-11-18 | ダンスとか
青山円形劇場、ゲネ。
▼エマニュエル・ガット 『冬の旅』
Emanuel Gat, Winter Voyage
去年セッションハウスで見たイスラエルの人。袖なしの青いワンピースのような衣装をつけた男性のデュオ。無音の部分とシューベルトが流れる部分が半々ぐらい。ごく一部をのぞき直立姿勢を保ち、キビキビと回転して遠心力で腕を宙に流しながら移動し続ける中に時折ユニゾンとそのズレを見せたり、というような振付。語彙を限定した上でポイントを明確にしているからそれなりに見応えがある。ギュッ、と絞め込むように力強く回って停止する。20分弱。
▼ズザナ・ハーイコヴァー/シュテューディオ・タンツァ・バンスカー・ビステゥリツァ 『サイレント・デザート』
Zuzana Hijkova / Studio Tanca Banska Bystrica, SILENT DESERT
スロヴァキアから初来日のグループ。男性2、女性3で、大きな白い流線型の箱状オブジェが人数分あり、これを移動させて空間を変化させる。音楽はノイズっぽいものと、シーンによってはテクノっぽいものがかかる。一人の男が眠っていると夢の中に色んな人が出てくる、という設定のようで、女たちがなぜかイスラムっぽいスカーフを付けて出てきたりするのは「砂漠」だからなのか。2回ほどあるメインの男性のソロはまあ悪くないけれども、グループの部分の振付は目も当てられない。教科書に出てきそうなヴォキャブラリーをそのまま集めて何とかつなげた程度のもので、その上ダンサーが軒並み踊れない。基本的に体が動かない上に、舞台の空間をよく把握できていないのか、身の置き所が定まらない。50分。
▼森山開次 『あらはさのくう』
この人は一昨年に一度見たことがあり、これが二度目。巨大な枯れ草のようなオブジェが宙に吊るされ、比較的暗い照明の中で踊るソロ。音楽は物理音や声に和風テイストの音素材をミックスした感じのもの。動線などを決めてあとは即興だと思う。終始「しなやか」なイメージの動きをやっているのだが、細く長い腕や脚を揺らめかせているだけで少しもしなやかではない。肩から先ばかりが動き、四角い箱のような胴がお荷物になっているように見える。20分。
コメント

五井輝 『音江山 ―Don't cry boy―』

2004-11-13 | ダンスとか
中野・テルプシコール。
コメント

港北芸術祭アートピア2004/カタカリ 『キーチャカ・ヴァダム(キーチャカの殺害)』

2004-11-13 | ダンスとか
大倉山・港北公会堂。
コメント

地点 『三人姉妹』

2004-11-11 | ダンスとか
小竹向原・アトリエ春風舎。
コメント