dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

勅使川原三郎 『SKINNERS――揮発するものへ捧げる』

2010-11-28 | ダンスとか
フェスティバル/トーキョー10

池袋・東京芸術劇場(中ホール)。
演出・振付・美術・照明・出演/勅使川原三郎、出演/佐東利穂子、鰐川枝里、加見理一、山本奈々
上体を中心にした痙攣系の動きばかりだった。リゲティの鍵盤曲はいってみればポリリズムのダンス音楽みたいなもので、複雑とはいえ聴覚的には明快に聞き分けられるのに、それを「痙攣」で踊られても音楽を印象のレベルで翻訳しているようにしか見えず、心が動かない。「痙攣」には、細かなフレーズの断片をジグザグに組み立てていく動きと、過緊張で筋肉をわななかせている動きの二種類があったが、音楽との関わり方の点では特に違いもなく、これって何が面白いのだろうと思いながら見てしまった。佐東は体を伸ばす動きが少なく、特に脚はほぼ封じられていた。脚は、佐東ではなく勅使川原が少し使っていて(この前の『オブセッション』と似た割振り)、重心の下方からエネルギーを抉り出して来る動きに痛快なダイナミックさが出ていた。しかし空間全体の攪拌に向かう佐東の脚遣いとは違い、あくまでその場に根を張るタイプの脚遣いなので、広過ぎて弛緩した舞台を救うことには決してつながらない。勅使川原は近年、「作品」を量産しているわけだけれども、現代舞踊的に構成されたこういう「作品」作りに固執する必然性がどれほどあるのか、という気もする。むしろ因襲的なフォーマットからダンス(踊り)を解放してもらいたい。「因襲からの解放」が自己目的化してしまったダンス(?)ばかりの貧しいご時世なのだから、真に解放するに値するダンスを野に解き放ったら一体どうなるかを見せてもらいたいと思う。
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ロジェ・ベルナット 『パブリック・ドメイン』

2010-11-28 | ダンスとか
Roger Bernat, Public Domain

フェスティバル/トーキョー10

池袋西口公園。
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生活舞踏工作室 『メモリー』(ロングバージョン)

2010-11-27 | ダンスとか
Living Dance Studio, Memory

フェスティバル/トーキョー10

にしすがも創造舎。
振付/ウェン・ホイ(Wen Hui 文慧)、ドラマトゥルク・映像/ウー・ウェングアン(Wu Wenguang 呉文光)、出演/ラオ・シュウジュアン(Lao Xiujuan 労秀娟)、ウェン・ホイ(Wen Hui 文慧)、ウー・ウェングアン(Wu Wenguang 呉文光)
去年2月に香港で30分くらいのヴァージョンを見ていたが、今度は8時間版。巨大な蚊帳に囲まれた空間で、上体を後ろに反らせては戻す動きをゆっくり繰り返すウェン・ホイと、古いミシンで作業をしている母親役のラオ・シュウジュアン(ちなみに今回の「母親役」は急遽、ウェン・ホイの実母が出演)、そして時折り出てくるウー・ウェングアンは映画作家のはずだがセリフもあり、ちょっとしたパフォーマンスをする。幕に写されるアニメや実写映像と、二人のミニマムな動きや会話などが入れ替わりながら、起伏なく延々と続く構成だが、これだけ長いとだんだん時間の感覚が狂ってきて、案外短く感じた。トイレに立つこともなくずっと見続けている人が他にも80~100人はいたと思う。香港で見た時はウェン・ホイ一人だけで、映像も少なかったのだが、今回はウー・ウェングアンの映画『我的1966』が7つの部分に分けられて全編上映されるなど、かなり映像の比重が高いように思えた(最長で28分間、映画の上映が続いた)。確かに、映像をずっと見ているところへ唐突に照明が入って生身のウェン・ホイが現れたりすると、次元の切り替わりが鋭く感じられ(軽い眩暈すら覚えるほどに)、こういう演出は長時間上演でなければ不可能なのだが、その分だけ作品のコンセプトが強くなっていたかというと色々気になるところもある。まずライヴで演じられているのも映像の中で話されているのも主に1966年当時への回想なのだが、そこでそれぞれの媒体の特性に由来するニュアンスのズレが鮮明に出ているのに、そのことがわりとスルーされているように感じた。舞台上の親子のやり取りは主観的な「メモリー」だが、インタヴュー映像の方は機械的なプロセスを経た客観的な「レコード」(主観的メモリーの客観的レコード)としての印象がはっきりある。香港で見たソロ版には個人性やインティマシーを濃厚に感じたが、この版では複数の人の個人的「メモリー」が並列されることによって作品の規模が拡大しているといったような単純な結果にはなっていない。事態はもっと複雑なのに、そのことが実はあまり顧慮されていないと感じたのは、端的には、文革当時の写真などが断片的にモンタージュされるのと全く同じ水準にドキュメンタリー映像が置かれているように見えたからだと思う。(1)舞台上の身体、(2)ドキュメンタリー映像、(3)写真のモンタージュ、という三つの要素があるとすれば、まず(1)と(3)の間には明確な位相差がある(例えば主観と客観、あるいは虚構と現実、演技と記録、などといったズレがある)。他方(2)は、(1)と内容において等価、しかし(3)ともまた形式面で等価なのだ。だから両方(主観と客観etc.)にまたがる(2)は作品全体の構造上かなり厄介な立場に置かれることになるわけだが、その立場の難しさ(それがいわば「ドキュメンタリー」というものの本質でもあるだろう)に対して何らスタンスの提示が感じられなかった。かろうじて終わり近くにウー・ウェングアンが、このドキュメンタリーを撮影してからもう18年経っている事実に言及しはするのだが、映像の存在根拠としての自身の身体をパフォーマティヴに提示するに留まっていて、しかもそれはまた舞台上のウェン・ホイ親子とはさらに別の位相に属する(4)とでもする他ない要素だ。共約され得ない複数の位相がクロスしている状態でありながら、位相差が特に強調されるのではなく、むしろ曖昧に流されているように感じてしまった。そのことが気にかかるのは、やはりこれが単なる美学的な構築物ではなくて、現実や歴史をどう扱うかという問題に関わっているからだろう。この作品は初演時には1時間で、後から『我的1966』を組み込んで8時間版を作ったと聞いたが、ちなみに今回上演された1時間版では『我的1966』の中の女性のインタヴューの部分だけを使い、全体がいわば三人の女性によって織り成される作品だったらしい。もしかするとそっちの方が完成度が高かったかも知れない。そしてもう一つ気になったのは、映像が流れている間にしばしば演者たちが舞台上からいなくなっていたこと。これは作品にとって致命的な判断ミスであると思う。観客が8時間座っている状況で、演者の方が休憩を取ってしまったら、「8時間」という持続を劇場でフィジカルに共有することの意味が根底から崩れてしまう。後で聞いたら、わりと最近まで8時間ずっと舞台に居続けていたのだが、体力的にきつくてやめたとのこと。それならむしろ作品の長さの方を縮めるべきだったのではないか。「6時間」でも「4時間」でも、その方がずっと論理的になったはずだ。
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中村恩恵+岡登志子 『即興45min. 無の地点』

2010-11-26 | ダンスとか
大野一雄フェスティバル2010

馬車道・BankART Studio NYK(3F)。
出演/中村恩恵、岡登志子、演奏/井野信義(ベース)、今井和雄(ギター)
しっかりとフォルムを立ち上げ、それを破綻なく変形していく中村の踊りを初めて至近距離で見て、迫力を感じた。その後に続く岡の踊りは、呼吸や重力や慣性や反動を軸にした動きの作り方で、骨太な中村のそれとは全く異質。しかしこういう両者を並べたら、どうしたって明確でわかりやすい方が有利というようなヒエラルキーが生まれるに決まっていて、今回のようなデュオをやる意味がわからなかった。岡登志子は素晴らしい振付家でダンサーだけど、このところ高瀬アキ(ピアノ)や、中村恩恵のようなストロング・スタイルの人と続けて共演していて、逆に精彩を欠いていると思う。即興演奏の二人が良かった。明確なメロディもリズムもなく、五里霧中の状態のままでコミュニケートして、わけがわからないけれども感動的な何か(音楽)が生まれていた。
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タバマ企画 『あの女性~アノヒト』

2010-11-26 | ダンスとか
大野一雄フェスティバル2010

馬車道・BankART Studio NYK(3F)。
構成・演出/田畑真希、出演/尾形直子、カスヤマリコ、篠崎芽美、関かおり、田畑真希、長井江里奈。
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マレビトの会 『HIROSHIMA―HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』

2010-11-24 | ダンスとか
フェスティバル/トーキョー10

池袋・自由学園明日館(講堂)、夜。
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天狼星堂舞踏公演 ソロ小品集2010

2010-11-23 | ダンスとか
中野・テルプシコール。
▼小林友以 『ボッサボサボサ』
うずくまった姿勢から、立ち上がり、歩き去るまでを、終始遅い動きで。見る側からいえば、遅い動きを見るということは小さな点に注意を集中するということであり、ということはすなわち視野を狭めるということでもある。フォーカスが絞られれば絞られるほどに、踊り手の周囲の空間が視界から消え、踊り手の全体像すらも薄らぐことがある。その果てに、視覚は三次元的な空間の広がりを捉えるということをしなくなって、むしろ注視している先と、眼球との間の距離感が失われたりする。そこに舞踏独特の没入感のようなものが生じる、といえるように思う(原理的には)。フォーカスを絞り続けるには力が要り、その力は、第一には踊り手から発せられるものだろうけれど、しかしそれ以上に、フォーカスを絞り続ける目の側の力との拮抗によって生じる「張り」(tension)のようなものである。踊りには、そういうものがうまい具合に生まれる時と、生まれない時とが歴然とある。この踊りの場合、見た目には動きは均質なのに、「張り」が軽く弾けては、また最初から張り直される、ということが、繰り返し起きたように感じた。
▼横滑ナナ 『常夏』
賑やかな音楽や標題通りの描写的な音、揺らめく水面の反射のような光で、空間全体を作り、その中に身を置く踊り。空間と身体のコントラストが強調されるものの、見ているこちらの意識は絶えず変化していく空間の方に吸い取られ、体の中に入って行くことができなかった。だから、踊りというよりもむしろ演劇として見た。
▼大倉摩矢子 『うしろがわ』
黒いジャケットに赤いネイルで、斜めの光が当たり、ドラマティックな雰囲気が漂う中に異なるトーンの動きをつなげて行く。どの場面も、何をどう踊っているのかが明確で、一々が彫り物のようにくっきりとしていた。遠ざかったり近づいたりして聞こえる無機質なミニマル音楽のようなものによって抽象的な空間が生まれていて、それを聞くでもなく聞かないでもないような身の置き方をしながら、均質なように見える部分にも不定形な波があり、繰り返されない動きにもリズムが宿っていた。一言でいえば良い踊りだった。しかも速度や質感やモティーフなどを変えて生み出される場面の推移は、何か構造のようなものが組み上がっていくのを見ているかのように明晰。こういうスケール感は今までの大倉摩矢子の踊りで見たことがない。ところで、冒頭の遅い歩行で示された「遅さ」の本質について。動きの向かう方向がはっきり示されていて、それによって想像が現実を追い越してしまい、そこから振り返った時にこそ「遅さ」は強く感じられる。「未だ来ていない」時点すなわち「未来」を待ち受けている状態の中で「遅さ」の印象は生まれる。例えばここでの歩行にはマイムの要素を感じたが、歩行せずに歩行を見せること、すなわち運動ではなく運動のヴェクトルを示すことにおいて、動きのマイム的な記号化が有効であることは容易に理解できる(舞踏とマイムの明白なつながり)。ヴェクトルの提示が強く、なおかつ動きの遅延が甚だしいほど、見る側の意識としては、想像される未来と目の捉える今の間の激しい往復を味わうことになる。おそらくそれは踊る側の論理としても同じではないか。未来と今の間の往復の激しさが、表立っては見えない波になって、遅い動きの中に籠る。踊りとしての厚みとは例えばこういうものを指して言うと思う。
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岡崎藝術座 『古いクーラー』

2010-11-22 | ダンスとか
フェスティバル/トーキョー10公募プログラム

池袋・シアターグリーン(BIG TREE THEATER)。
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地点 『――ところでアルトーさん、』

2010-11-22 | ダンスとか
フェスティバル/トーキョー10

池袋・東京芸術劇場(小ホール1)、昼。
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ロドリゴ・ガルシア 『ヴァーサス』

2010-11-21 | ダンスとか
Rodrigo Garcia, Versus

フェスティバル/トーキョー10

にしすがも創造舎。
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クリストフ・マルターラー&アンナ・フィーブロック 『巨大なるブッツバッハ村――ある永続のコロニー』

2010-11-19 | ダンスとか
Christoph Marthaler & Anna Viebrock, Riesenbutzbach. A Permanent Colony

フェスティバル/トーキョー10

池袋・東京芸術劇場(中ホール)。
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悪魔のしるし 『悪魔のしるしのグレートハンティング』

2010-11-14 | ダンスとか
フェスティバル/トーキョー10公募プログラム

池袋・シアターグリーン(BASE THEATER)。
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France_pan 『あ  りきたりな生活』

2010-11-14 | ダンスとか
フェスティバル/トーキョー10公募プログラム

池袋・シアターグリーン(BOX in BOX THEATER)。
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Port B 『個室都市 京都』

2010-11-13 | ダンスとか
KYOTO EXPERIMENT

京都駅周辺。
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ピチェ・クランチェン ダンス・カンパニー 『About Khon』

2010-11-13 | ダンスとか
Pichet Klunchun Dance Company, About Khon

KYOTO EXPERIMENT

京都芸術劇場(studio 21)。
ジェローム・ベルと対話する『ピチェ・クランチェンと私』を改作して、ピチェがコーンについて受け答えする前半部分の後に実際のコーンの上演を組み入れた作品。それを今回はジェローム・ベルではなく山下残とやる。「ヨーロッパとアジア」の対話から、アジア内の対話になったことで、まずは紋切型な文化論のフレームが機能しなくなり、作品も、コーンも、また「アジア」も、自由になったと思う。ではそこで何をどう「上演」するのか。暗黙のうちに観客の意識をとらえて自分のペースに巻き込むベルのような技術を山下残は駆使しないし、またベタに「日本文化」を背負うこともせず、むしろほとんど舞台を意識していないかのような「だらしない」感じで振る舞い、「コーン」て聞いたら工事現場に置いてある赤いコーンを連想しちゃったよ、とか、『まことちゃん』に出てくる「ぐわし」の指を教えようとしたりとか、ひたすら安定的なコンテクストをはぐらかしにかかる山下残に、ピチェが素でオロオロしているさまがとにかく新鮮だった。いわゆるクレヴァーな「間文化的パフォーマンス(intercultural performance)」すら成立していないように見えるのは、ピチェが自文化を明確に「アイデンティティ」として領有しているのに対し、山下残はそういう意識がほとんどないからだろう。それゆえ対等な二つの「文化」の間の対話にはならない。冒頭、山下残が「タイに行ってピチェのパフォーマンスを見た時に、伝統的な文化をすごく感じたんだけど、日本にはそういう文化がない」と発言すると、ピチェは「変だね、ぼくはタイにいる時に伝統を感じないけど、日本に来るとすごくそういうものがあると感じるよ」と答えた時にもそう思った。二人はむしろ「自分の国の文化は意識しにくいものだが外国人の目にはよく見える」というようなところで合意しているみたいだったが、とりわけ「今日における創造的なダンス」すなわち「コンテンポラリーダンス」の定義に関しては両者の差異は歴然としていて、とりわけピチェの作品や活動の文脈については、通常理解されているよりはるかにローカルで異質なものとして捉えるべきなんじゃないかということを強く考えさせられた(グローバルなシーンでは「珍しいタイ発の現代ダンス作家」かも知れないが、タイの文化の歴史的文脈では「伝統文化と現代文化の間の齟齬と格闘する古典舞踊界の異端児」なのだ)。二人の対話が、そもそも伝統文化に対する意識の仕方がこれだけ違うのはなぜか、というところへ深まっていけば面白かったのだが、この作品は『ピチェ・クランチェンと私』ではなく『About Khon』なので、そういう方向へは行かなかった。ぜひ「アジア内対話」を発展させていってもらいたいと思った。後半のコーンはピチェ自身による現代的な振付であるようで、前半でのデモンストレーションの内容を再認させる要素も含みつつ、複数のシーンが同時に展開したりする。いつか古典的なコーンを見てみたいとも思ったし、また「コーンについてのパフォーマンス」だけでなくピチェ作によるコーンの新作も見てみたいと思った。
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