フェスティバル/トーキョー10
池袋・東京芸術劇場(中ホール)。
演出・振付・美術・照明・出演/勅使川原三郎、出演/佐東利穂子、鰐川枝里、加見理一、山本奈々
上体を中心にした痙攣系の動きばかりだった。リゲティの鍵盤曲はいってみればポリリズムのダンス音楽みたいなもので、複雑とはいえ聴覚的には明快に聞き分けられるのに、それを「痙攣」で踊られても音楽を印象のレベルで翻訳しているようにしか見えず、心が動かない。「痙攣」には、細かなフレーズの断片をジグザグに組み立てていく動きと、過緊張で筋肉をわななかせている動きの二種類があったが、音楽との関わり方の点では特に違いもなく、これって何が面白いのだろうと思いながら見てしまった。佐東は体を伸ばす動きが少なく、特に脚はほぼ封じられていた。脚は、佐東ではなく勅使川原が少し使っていて(この前の『オブセッション』と似た割振り)、重心の下方からエネルギーを抉り出して来る動きに痛快なダイナミックさが出ていた。しかし空間全体の攪拌に向かう佐東の脚遣いとは違い、あくまでその場に根を張るタイプの脚遣いなので、広過ぎて弛緩した舞台を救うことには決してつながらない。勅使川原は近年、「作品」を量産しているわけだけれども、現代舞踊的に構成されたこういう「作品」作りに固執する必然性がどれほどあるのか、という気もする。むしろ因襲的なフォーマットからダンス(踊り)を解放してもらいたい。「因襲からの解放」が自己目的化してしまったダンス(?)ばかりの貧しいご時世なのだから、真に解放するに値するダンスを野に解き放ったら一体どうなるかを見せてもらいたいと思う。
池袋・東京芸術劇場(中ホール)。
演出・振付・美術・照明・出演/勅使川原三郎、出演/佐東利穂子、鰐川枝里、加見理一、山本奈々
上体を中心にした痙攣系の動きばかりだった。リゲティの鍵盤曲はいってみればポリリズムのダンス音楽みたいなもので、複雑とはいえ聴覚的には明快に聞き分けられるのに、それを「痙攣」で踊られても音楽を印象のレベルで翻訳しているようにしか見えず、心が動かない。「痙攣」には、細かなフレーズの断片をジグザグに組み立てていく動きと、過緊張で筋肉をわななかせている動きの二種類があったが、音楽との関わり方の点では特に違いもなく、これって何が面白いのだろうと思いながら見てしまった。佐東は体を伸ばす動きが少なく、特に脚はほぼ封じられていた。脚は、佐東ではなく勅使川原が少し使っていて(この前の『オブセッション』と似た割振り)、重心の下方からエネルギーを抉り出して来る動きに痛快なダイナミックさが出ていた。しかし空間全体の攪拌に向かう佐東の脚遣いとは違い、あくまでその場に根を張るタイプの脚遣いなので、広過ぎて弛緩した舞台を救うことには決してつながらない。勅使川原は近年、「作品」を量産しているわけだけれども、現代舞踊的に構成されたこういう「作品」作りに固執する必然性がどれほどあるのか、という気もする。むしろ因襲的なフォーマットからダンス(踊り)を解放してもらいたい。「因襲からの解放」が自己目的化してしまったダンス(?)ばかりの貧しいご時世なのだから、真に解放するに値するダンスを野に解き放ったら一体どうなるかを見せてもらいたいと思う。