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ダンスとか。

小川水素:Homage to [a] Life 2009 『Stand!』

2009-09-28 | ダンスとか
NEO COLLECTION 2009

日暮里・d-倉庫、公開ゲネ。
RAFTでやっていたこのシリーズはずっと気になっていて、いつも日程が合わずに見逃していた。今回「公開ゲネ」という設えのおかげでようやく見れた。全面的に無音。タイトルの通りに、五人の出演者がずっと立ち続けていて、やがてポロポロと位置を変えたり、その移動する動きがより連続的な動きになっていったりする。あるいは壁に寄り掛かった姿勢のキープと、変化。さらにはボールをパスし合う行為など。あからさまにジャドソン的な作業なのだけど、真面目すぎて、見ている側としては好奇心が持続せず忍耐モードになる。ジャドソンの人たちっていうのはもっと「遊び心」というか、ふざけてしょうもないことをやってるんだというメンタリティがあり、わざわざ見に集まって来る観客たちにもキャンプ趣味というものがあって、小さいことに関心を集中させたり退屈を楽しんだりする一種の「気分」が共有されていたんじゃないかと思う。遊びの感覚というのは突発的なひらめきや逸脱をもたらしてくれるものだと思うし、観客の視線との相乗効果(共犯関係)が最もよく発揮される局面でもあるに違いないが、それを捨てるとなると、残るはガチの知性で勝負ということになる。そしてガチの知性は、だいぶ終盤に近づいた頃、一人のダンサーが舞台上を一定速度で歩き回り、それを脇からもう一人がずっと追尾して行って、さらに追尾する人が二人三人と増えて行くシーンではっきりと輝いていたように思う。追尾する側が最終的に五人に達すると、舞台空間の制約から、大きくうねる集団によって一人目のダンサーが動ける範囲が狭められる。「運動」は、雪だるま式に肥大したために、もはや最初の頃のようには自由ではない。導いていた側(リーダー)が、追随する集団(フォロワー)によって逆に行動を規定されるようになり、ひいては集団の中に呑み込まれて、誰が主導権を握っているのかすら見えなくなっていった。即物的な現象というよりは少し演出が加えられているようにも思えたが、これを見ながら、「組織論」「集団論」というのは振付家の重要な仕事であり得るんだと気付かされ興奮を覚えた。この領域、いま誰もやってないんじゃないかと思う。
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