dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

Theo Adams Company 『Cry Out』

2009-11-30 | ダンスとか
座・高円寺2。
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黒沢美香&ダンサーズ 「ミニマルダンス計画――起きたことはもとにもどせない――」

2009-11-28 | ダンスとか
こまばアゴラ劇場。
▼黒沢美香 『耳』
コントラバス/斎藤徹
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黒沢美香&ダンサーズ 「ミニマルダンス計画――起きたことはもとにもどせない――」

2009-11-28 | ダンスとか
こまばアゴラ劇場。
▼『jazzzzzzzz-dance』
振付/黒沢美香、出演/クリタチカコ、砂山典子、平松み紀、吉福敦子、公門美佳、木檜朱実、小林美沙緒、斎藤麻里子、椎名利恵子、多田慶子、藤木恵子、福岡まな実、吉川恵子
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アジア舞台芸術祭2009 東京/国際共同制作:ハノイ

2009-11-28 | ダンスとか
池袋・東京芸術劇場(亞細亜城)。
▼タンロン水上人形劇団+花伝[KADEN]シアターカンパニー 『KAPPA』
構成・演出/岡田圓(花伝[KADEN]シアターカンパニー)
I.伝統演目:竜の踊り、不死鳥(鳳凰)の舞い、カエル釣り
II.共同制作1:奉納相撲と河童
III.共同制作2:Kappa(伝統と革新の狭間で…)
ヴェトナムの水上人形劇というのはずっと見たいと思っていたもので、作り付けの噴水池で無理矢理というシチュエーションではあるもののこういう機会があって良かった。簾の向こう側に、腰まで水に浸かった人形遣いがいて、長い竿で水中の人形を観客の方へ押し出して操作する。構造としては一種の棒操り。なぜ水中でやるのかというと人形の出ハケが一瞬でできるというのが最大の利点なのだろうけど、生活環境ゆえに水にまつわる演目が多かったりするのかも知れない。人形そのものはあまり手の込んだものではなく、大雑把に関節が動く。河童が出てくるあたりからが岡田圓の創作と思われ、ヴェトナム相撲に、河童は相撲が強いという日本の説話モティーフが接続されているようだ。その後、人間が演じる河童が水中から出てきて、さらにスーツ姿の男装の女性二人が現れ、「伝統か革新か」みたいな単純な劇が演じられる。スーツの二人組は「革新のためには古いものを捨てなければならない」と主張するのだが、他方で水中にはエビとカニと魚が現れ、河童はそれらの命を救って、エコロジーというか動物愛護と、文化の上での伝統主義みたいなことが重ね合わされているようだった。表現の素朴さはさておき、この河童(=反省の主体)がすなわち「日本」で、エビ・カニ・魚(=自然)が「アジア」の寓意として表されているように見えてしまって当惑した。花伝[KADEN]シアターカンパニーは鈴木忠志系のナショナリスト劇団のようで、演技はいかにもそういう系統だけど、何らかの表現様式を「伝統的」と標榜すること(文化的に自己同一化すること)への違和感がいとも簡単にスルーされてしまっていると思う。それはヴェトナムの人たちにしたって同様なのかも知れないし、あるいは違うのかも知れず、いずれにしても、歴史に対する不安定な距離感、いいかえれば文化的アイデンティティという観念のアクチュアルな作動ぶりと、その歴史的な差異、さらには複数の文化の間の歴史的な相互作用などといった現実的なイシューについては一切踏み込むまいとする姿勢の硬さが、何とも頼りなく感じられてしまった。
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アジア舞台芸術祭2009 東京/国際共同制作:台北

2009-11-28 | ダンスとか
池袋・東京芸術劇場(亞細亜城)。
▼矢内原美邦 『Chocolate, APAF 2009 version』
出演/Hui Wen LI、Hsiao Tzu Tien(世紀當代舞團/Century Contemporary Dance Company)、望月美里(ニブロール)
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ローザス 『ツァイトゥング』

2009-11-27 | ダンスとか
Rosas, Zeitung

与野本町・彩の国さいたま芸術劇場(大ホール)。
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スバエク・トム――カンボジアの大型影絵芝居

2009-11-26 | ダンスとか
浅草・アサヒ・アートスクエア。
出演/ティー・チアン一座。
珍しいカンボジアの影絵芝居。タイの「ナン・ヤイ」とほぼ同じなので、ナン・ヤイの原型でもあるのだろう(スバエク=ナン=皮、トム=ヤイ=大きな)。本国でもなかなか見るのが難しいと聞いた。室内だし光源が篝火ではなくてライトなので、揺らめきはないのだけど、大きな牛皮の人形がスクリーンに現れた瞬間はもう目が眩むくらい美しかった。インドネシアのワヤンのような彩色がほとんどされていないため、光が透けてセピア色になり、しかも光源との遠近の具合でその明暗が変わる。黒く塗ってある所だけ黒い影になり、くり抜いてあるところからはくっきり光がもれて、モノクロームというか黒と茶と光源のアンバーの鮮やかなコントラスト。アジアに広く見られる影絵というのは、映画が発明されるよりはるか以前から存在してきた「映像文化」なのだということを思う。そしてその一方で、影絵は二次元ではなくて、三次元性をも備えていて、とりわけこのスバエク・トムはスクリーンの前も後も使い分けるし、人形遣いはステップで完全にダンスしている上、さらに人形遣い同志で役柄になりかわって格闘(?)を演じたりもする。この人形と人形遣いの関係は本当に独特で、人形より人形遣いばかり見てしまったりすることも多い(スクリーンは床まで張られているため人形遣いの姿は常に見える)。基本的に人形には可動部がないから人形遣いの方が複雑な動きをする。操り棒は固定、肩も当然ながらほぼ固定だが、腕は動かすので、「井桁」が変形するような具合になり、そのまま胴は固定で、後足を跳ね上げたり、前足を引っ張り上げて止めたりする。ところがそれは人形の動きにはほとんど反映されないから、あくまでも人形遣いのパフォーマンスなのだ。人物が誰かの話を聞いていたり、ただ何かを待っているという状態を表す時に、時折りかすかに人形をピクン、ピクンと動かすところも面白い。物語はリアムケー(=ラーマキエン≒ラーマーヤナ)なのでわかりやすく、勇壮なシーンと滑稽なシーンがほどよくブレンドしたエピソードが二つピックアップされていた。音楽は大きな太鼓がバスンバスンと鳴るのが大陸っぽくて印象的。専門の歌い手によって筋が語られ、演じられるが、ごくたまに人形遣いがセリフを言ったり、一斉に掛け声をあげたりもしていた。道具立ては素朴なのに構造はすごく複雑になっている。
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クリス・コンデック 『デッド・キャット・バウンス』

2009-11-24 | ダンスとか
Chris Kondek, Dead Cat Bounce

フェスティバル/トーキョー09秋

にしすがも創造舎。
観客の入場料を元手にライヴで株取引を行ってみせるというパフォーマンス。「ライヴ」というか、これじゃ「ただの現実」じゃん、と思った。音楽や映像で多少味付けもしてあり、スクリプトに基づく語りとライヴでの発話を編み合わせた演技など、それなりに構築された「上演」であるとはいえ、株取引のごく基礎的な仕組みがわかっている人はこれを見ても何も感じないだろうし、そうでない人も単なる事実を教えてもらえるだけだろう。しかしあえて、「ただの現実」以上の何がここにあるかと考えてみると、劇場に集まった人々によって共有された体験だという点が辛うじて残る。その一時的なコミュニティという場の一回的性格が、イヴェントとしての意味を最低限のところで支えている。にもかかわらず、現実にこの場に集まっている人々の本当の具体的な現実が扱われるわけではなく、きわめて客観的で一般的な事象へとフォーカスは絞られる。例えばこの日は、観客のうち五十数人が招待客であったらしい。4000円とか払っているわれわれは、そんなこと聞かされて何とも思わないわけがないが(上演のコンセプトだって根本から崩れている)、それはこのウィットに富んだ上演とそこに具現される批評精神、社会的政治的問題意識のための犠牲として暗黙のうちに納得すべきなのだろうか、「もはやわれわれは資本の外で生きることはできない」から? 虚構ではない現実を扱う先端的な「ポストドラマ演劇」のような見かけをしているけど、実際には現実に切り込む身振りの話題性(のみ)でもって本当の現実を隠蔽している。これこそタチの悪い「スペクタクル」というやつであろう。
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「踊りに行くぜ!!」vol.10 前橋公演

2009-11-23 | ダンスとか
前橋・シネマまえばし、前橋中央商店街。
▼長内裕美 『concord』
▼目黒大路 『この物体』
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「踊りに行くぜ!!」vol.10 前橋公演

2009-11-22 | ダンスとか
前橋・シネマまえばし、前橋中央商店街。
▼長内裕美 『concord』
▼目黒大路 『この物体』
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『SHE-彼女』

2009-11-20 | ダンスとか
新百合ヶ丘・川崎市アートセンター(アルテリオ小劇場)。
dance/佐東利穂子、direction/勅使川原三郎。
『牧神の午後』がかかって海辺の映像、やがて『鏡と音楽』終盤の長い脱力左右ステップから出発して怒涛の即興が延々と続く。やはりとんでもないダンサーだと思った。人間ってこんなに動けてしまうんだという驚き。その後も1時間に渡って信じられないスタミナで踊りまくって、「佐東利穂子のソロが見たい」と思っていた人間の欲求はこれで十二分に満たされて然るべきはずなのに、結果としてこの物足りなさは何なんだろうと考え込んでしまった。「期待に対してあまりにもストレートに応えてくれてしまっているから?」――奇を衒わずに直球勝負を挑んでも何も損をしないダンサーであった。「作品性(作品としての奥行き)が感じられないから?」――確かに、ある作品への動機があってそれを具体化するにあたり佐東のソロという形式が選択されたというより、単に佐東のソロを見せるために最低限必要な演出が勅使川原によって施されていたという印象ではある。しかしそれは「割り切り」としてむしろ明快であった。「勅使川原の演出・振付であって本人の“独舞”じゃないから?」――そもそも勅使川原の振付あっての佐東の踊りだと思うし、三人称のタイトルとの兼ね合いで演劇的リプレゼンテーションとしても成立していると思った。結局、どうしても拭い切れない印象は、「グループ作品の中で踊っている佐東ほど、このソロは魅力的に見えない」ということで、これはなぜかと考えるに、佐東の踊りと空間との関わり方の質の問題なのではないか。一般的にいって、ソロというのは必然的に踊り手が空間の中心とならざるを得ない。観客の視線が集中するために踊り手の身体が全空間の重心になるわけである。それに対し、細かく、しかも激しく伸び縮みするステップを刻んで絶えず移動しながら、きわめて多彩なストロークをとめどもなく繰り出し続ける佐東の踊りには、空間の中をまったく自由に泳ぎ回ってみせる快活さがある代わりに、踊り手の身体が空間を定義するというより、むしろ何らかの一定の空間が予め与えられていることを必須要件とするのではないか。だから他のダンサーたちが動き回っていたり、あるいは他のダンサーたちが一時的にいなくなっているというような、いずれにせよ何らかの形で「構成」された空間の中での方がかえって佐東の運動がより鮮やかに浮き立つのではないか。もちろん、観客からの集中的な視線を身一つで受け止めるような、堂々と屹立するソロ・ダンサーの身体が、今回の佐東には欠けていたなどと言い切ってしまえば話は早いのだろうけど、そんなマッシヴに凝固した佐東が見たいだろうかというと、ちょっと想像の範囲を超えてしまって、だからとりあえず、「やっぱりグループ作品の中での単独者としての佐東利穂子が見たい」と、何とも後ろ向きな欲求しか抱けない。そのことが遣る瀬ない。
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パスカル・ランベール

2009-11-19 | ダンスとか
こまばアゴラ劇場。
▼『自分のこの手で』
Pascal Rambert, De mes propres mains
▼『演劇の芸術』
Pascal Rambert, L'Art du theatre
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『4.48サイコシス』

2009-11-17 | ダンスとか
フェスティバル/トーキョー09秋

東池袋・あうるすぽっと。
作/サラ・ケイン、演出/飴屋法水。
4年前にクロード・レジの演出でも見たことがあり(BAM)、その時は直立不動のイザベル・ユペールのモノローグという形式だった。それに対し、飴屋演出はケインがテクスト上でやっていることを、役者や照明や音などといった演劇の道具立てへとかなりリテラルに置き換えてみせている感じ。隅々までギンギンに磨き上げられた飴屋テイストが素晴らしくて、戯曲作家の仕事に、あくまでもそれと過不足なく渡り合うだけの演出家の仕事がぶつけられているような印象で、「演出」というよりはむしろ実験的な「翻訳」という方が相応しいと思った。とはいえレジのモノローグ演出も、飴屋のアンサンブル演出も、教科書的なアプローチという意味では単に両極というか、テクストを忠実に読むならこのどちらかになるしかない気がするが、飴屋版は複数の人々の語りの集積になったことで、一個人の内面の懊悩というイメージを超えたメタフォリカルな広がりを見ることができたりして、意味の重層化に傾いている。とりわけ日本語が、ネイティヴだけでなく非ネイティヴの役者によっても発話されたりすることで、「日本語」という言語共同体の内部に分裂が刻み込まれている辺りが興味深かった(それだけに、もう少し心に響くような日本語に翻訳できなかったのだろうかという部分もあったりするのだけど)。よくある「生きづらさ」みたいなドメスティックな画が単に「国際化」している(世界共通のものになっている)とかいったような同質性の確認ではなくて、グローバルな力学的状況の中に都市や個人の生のディテールが位置づけられることでむしろ日常の風景が現実の世界の具体的な多様さ(差異)とその諸関係へと開かれていくような、「運動性」の感触が舞台の中にあった。
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Port B 『個室都市 東京』

2009-11-17 | ダンスとか
フェスティバル/トーキョー09秋

池袋西口公園および周辺。
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黒田育世/BATIK 『花は流れて時は固まる』

2009-11-16 | ダンスとか
フェスティバル/トーキョー09秋

にしすがも創造舎。
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