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ダンスとか。

シアター21・フェス STEP UP 1 vol.3

2004-04-25 | ダンスとか
神楽坂・セッションハウス、夜。
▼木村美那子+やのえつよ 『サクラサク』
バービー人形が真一文字にズラッと並び、サイボーグっぽい女(やの)と、着物の女(木村)が絡まずに踊る。途中で人形が一面に散らかされて、そこへ木村がバタンと床に倒れ伏してしまう場面が印象に残った。
▼加藤奈々・西村香里 『notice what you notice』
ノイズっぽい音楽と白の衣装で、機械的なカットアップを施した反復、立ったダンサーと床に寝たダンサーが鏡合わせになったようなユニゾン、など。演出やテクニック、構造など全体にフォーサイスからの影響を感じた。
▼廣井陽子 『マシュマロ・アワー』
この人を見るのはこれで三、四本目。前回ラボで見たとき同様、今回も「今までで一番いい」と思った。目に見えて進化している。的を絞り、非本質的なことをバッサリ捨ててしまうようになったのはラボ以降だが、このまま進んでいってほしいと思う。作品はシンプルで、円形の白い絨毯の上に大量のマシュマロが積まれ、その脇に座り込んでマシュマロの中に突っ伏したり、姿勢を変えないまま上半身を中心に動かしたりするというもの。内側に集中したミニマムなダンスだが、円からポロポロとこぼれていくマシュマロが微かに暗示する「外部」、そして最終的には自分で絨毯を腕の中へ抱え込んでしまうことによって廣井自身も外へ出てしまうという展開が興味深かった。どことなく手塚夏子に似ていなくもないが、とりあえず緊張感を途切れさせないことに成功しており、地味な動きでありながら何度か虚を突かれてこちらの体がビクッと動いてしまった。
▼P' Lush 『この部屋にごみ箱がない』
玉内集子と松井久子によるユニット。一方が壁に寄りかかっていて、もう一方がケンケンでフロアを周ったり、はたまた長い棒を持ち出してきて斜めに置いてみたり、青竹踏みのようなことをしたり、と無秩序・無意味・無関係なシークエンスを並べていく。「意味ありげ」と「無意味」の匙加減が絶妙なので、つい何か意味とか構造とかを探そうとしてしまい、その都度はぐらかされる。
▼Ca Va 『孵化』
黒田高秋、藤代博之、丸山和彰の三人によるマイム。料理人たちが卵をめぐってドタバタするという筋立てで、中の一人が途中からなぜか卵を産む鶏/女になってしまう。下っ腹を膨らませてリアルタイムに「妊娠」してみせるなど、ちょっとだけブラックだが、単なるコントになってしまってもいた。「水と油」にもせめてこれぐらいの毒があれば……。
ところで5番目を別にすれば残りは全部女性で、この日のラインナップには面白い対比が読み取れる。つまり1と3はいわゆる「ガーリー」的なものを踏まえており、2と4はその反動としての「無機質」「スポーティ」「構造」へと傾斜している。前々から思っていたのだが、ダンスにこの手のステレオタイプがあふれ返っているのはなぜなのか(これは単なる言説上の戯れではなくて、現場にも直接関係してくる問題だと思う。なぜならたいていのダンスが幼稚に見える最大の原因がここにあるからだ。おそらくダンス(特にコンテンポラリー・ダンス)は、今の日本の文化の中でも異常なほど「幼稚さ」がまかり通ってしまう、きわめて特殊な場になっている)。いうまでもなく、単にダンス(特にモダン・ダンス)が女子教育的な位置づけを与えられてきて、今もそうであるから、というだけでは説明にならない。問題はダンスする女性が自己を「女の子」とか「ガーリー」として過度に誇張したがるのはなぜかというところにある。印象でいえば、大方のダンスは「ブリッ子」という「振り」を何かの武器にしている風でもなく、単に自己完結するためのツールとしているだけであり、しかも「自己完結」とはいっても、引きこもることを通じて内面が微分され複雑化していってしまうことを予めせき止めんがために「女の子」「ガーリー」というステレオタイプな表象が導入されているように思える。体育大学関係の出演者が多いシアター21・フェスでは、まさしくその手のものを多く見かける。今日でいえば1がそうだ(2と4を「ウーマンリブ」だというのは明らかに言い過ぎだが)。この点から見ても3は面白いオルタナティヴを提示しかけているのではないかと思う。「いかにも」といえばあまりに「いかにも」なお膳立てをあえて放置したまま(そんな「表象」は実はどうでもいいことなのだといわんばかりに)、狭い心理的・運動的・快楽的空間を微分していくことにもっぱら執着している。この種のダンス的探求が、記号的な表象を破壊することに成功するのだとすれば、「表象」のクオリティとテクニックのクオリティはむしろ表裏一体であるといえるのだろう。
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『Message From Body V/NUOTATORE』

2004-04-24 | ダンスとか
銀座・Pepper's Gallery、夜。
五回目となる「身体のメッセージ」展内のパフォーマンス。どちらも芸大取手校舎の学生なので、ちょっとティーンなパーティ的雰囲気だった。
▼KINKY
去年シアター21・フェスで見て以来気になっている杜宮慧のグループ。この人は以前バレエを習っていたという程度で、いわゆるダンスにこだわってはおらず、しかも前衛趣味とか機械オタクとかでもなく、いい意味でナイーヴに、しかもその自分のナイーヴさに頑固に執着しながら何かを作り出そうとしている。今回は、イスやカウンターなどもあるラウンジ風の空間を作って、開演からしばらくは客入れ状態のまま、音楽や照明やヴィデオでパーティーっぽい雰囲気を出し、自分は人に話しかけたり、ちょっと人の手をとって踊ってみたりということをしておいて、20分経ったところで音を止め、ようやく何か始まるかと思わせておきながら照明を全部点灯させ、素の空間を露出させて、杜が観客の隙間を縫うようにダッシュして壁に手をついたり、床に寝てゴロゴロしながら作り笑いを見せたりして、10分後に終了するというもの。狭い空間に大量の観客が入ってしまい、どうなることかと思ったが、これはこれで成り立っていたと思う。お客をいじりたい、挑発したいという衝動は非常にわかりやすいもので、表現としての戦略性に関わる部分はほとんど手付かずのままだが、とりあえず「何だかわからない」ところに立ち止まって安易な解決へ流れないのがいい。後半の部分は、前半の「親密さ」をそのまま裏返しにしたような「よそよそしさ」「距離感」を、人工的な演技(目線を合わせない、背筋を伸ばしてキリッと歩く、など)で誇張して作り出すのではなく、例えばもっと、今にも話しかけられそうな親密さを保ちつつ、でも突然ダッシュしたりゴロゴロしちゃったりする、ヤバイかもしれない人、という微妙な異常さを出してくれたら、観客も居心地が悪くて良かったのではないかと思う。もちろんそれには(珍キノコにも似た)新しいテクニックの開発が必要になってくる。アイディアの段階から先への踏み込みがもう少し見たかった。
▼DROPS
演出/川村格夫、ダンス/大川麻里江というユニットでニ作品。こちらは客席と舞台をちゃんと分けていて、内容的にもやや「ダンス」臭がする。一本目は、弱いオレンジの照明と普段着のような衣装、ラウンジーなBGMをユルく流して、自分の部屋でグダグダしているようなダンス。もっとグダグダしてもいいのだが、いかんせんこっちもバレエ経験者なのであまり巧くいっていない。しかしグダグダ感をベースにしつつその上に何かを立ち上げるのではなく、グダグダした身振りそのものを見せようとしてしまっているところに何か捨てがたいものを感じる。二本目は、客席の鼻先に紙のスクリーンを張って、裏からアナログかつアブストラクトなヴィデオを映し、その間にダンサーが入って、バレエをやるというもの。
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お茶の水女子大学 芸術・表現行動学科 舞踊教育学コース 創作舞踊公演

2004-04-22 | ダンスとか
『Dance Performance vol.31 日独コンテンポラリー・ダンス・プロジェクト』。なかのZERO(大ホール)。
新2年生の群舞と新3年生の群舞、それと神戸のフェスで受賞した群舞作品を見た。あと卒業生作品という枠で、木野彩子『い ち』も見られた。これは林洋子とのデュオで、上手奥の椅子に二人が乗って妙な形を作り、林が下手手前に走り出してきてそこでソロを踊る。その間ずっと、木野がイスからずり落ち続けているのがヘンだった。今日の目当てはドレスデンのパルッカ国立舞踊学校の演目。グレート・パルッカはヴィグマンの弟子だが、(ごくたまに目にする限りでは)もしかして戦前のドイツのいわゆる「表現主義舞踊」がかなり面白いんではないかという気がしていて、こういう権威筋による上演とくれば見逃せない。パルッカ『セレナータ』('32)は、アルベニスのピアノ曲を使った短いソロで、マリア・ツィンマーマンという人が踊った。衣装はえんじ色の長スカートにヘソ出しトップス、裸足。派手な動きも形も、わざとらしい見せ場もなく非常にシンプルな振りで、使っている部位もごく限られているのだが、踊りというものに対する誠実さというか、デリカシーを感じさせる素朴な良さがあった。力を漲らせて左右に広げた両腕を、目を斜め下に伏せつつ、全体を一斉にジワッと弛緩させるなど。次はドーレ・ホイヤー『アフェクトス・フマーノス』('62)、ユリア・カトゥリーナによるソロ。コテコテの「ドイツもの」で、パーカッションによるメロディのない音楽、黒い頭巾に怪しい組織みたいな衣装、そして裸足。全身を有機的に動員せず特定の部位に集中した短いフレーズばかりで、その一個一個を滑らかに流さずカチンカチンと区切ってから次へ連結していくという、古いドイツものの一つの典型ともいえるものだった。「虚栄」「憎悪」「愛情」と三部に分かれており、「愛情」だけは柔らかく流れる動きになるあたりも説明的。三本目はブリギット・シェルツァー『ベニスの舟歌』('02)。これはパルッカ生誕100周年の際に作られたものらしく、ツィンマーマンとカトゥリーナによるデュオ。メンデルスゾーンの曲を使い、黒いレオタードの上に黒いロングスカートをつけ、やはり裸足。タンツテアターには行かなかった「表現主義舞踊」(=非フォルクヴァンク?)という感じだが、あまり新しいものを取り入れてはいない代わりに、著しく旧態依然ということもなく、単に平凡という印象をもった。ここで休憩が入り、後半は新4年生による小品七本と群舞一本。特にデュオとかソロは見てみたい気もしたが、疲れていたのでパスしてしまった。こういう場所に来るたびに、一般に新しいと思われているものが本当に新しいのか、あるいは、古いと思われているものがどれだけ古いのかを改めて冷静に考えさせられる。そして、本当の問題は「新しい/古い」ではなく、それをやる人が疑いを持ちながらやっているかどうかなのだという結論に至る。
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首くくり栲象 『怪力伝説』

2004-04-21 | ダンスとか
中野・テルプシコール。
いびつな十字型をした低い舞台が空間全体に作られ、観客はその腕と腕の間に座る。一隅にはミュージシャンが一人いて、ピアノやパーカッションを操る。栲象はオペルームに通じるハシゴを伝ってゆっくりと降りてきて、そのままのペースで十字の交差部分まで進み、左側と右側の腕の部分を往復してから、十字の先端部分まで歩く。ここまでで数十分かけているのだが、特に何があるわけでもない。元ボクサーの痩せて引き締まった身体が、ひたすら無味乾燥に時間を蕩尽していく。奥には高い台があって、一方の端の空中に首吊り紐がぶら下がっている。栲象がそこへ向っていることはあまりにも明白であり、それをただひたすら延期するばかりで、その引き延ばされた時間を何か非日常的な質感で染め上げるというよりは、この延期そのものをマゾヒスティックかつ大道芸的に笑おうとしているように見える。ようやく高い台の先端まで行く。紐を首(正確には顎)にかける。音楽がクライマックスを盛り上げる中、栲象の足がじわじわと台から離れていく。つま先だけが残り、顎とつま先とで固定された全身の弓なりにしなったフォルムは、人の儚さみたいなものがあふれて何ともいえず美しかった。足が離れてぶら下がる。縮こまっていた脚が少しずつ伸びて、体から力が抜けていく。全体重が首の筋肉にかかっているわけだが、それでもその姿勢において最も安定的な力の配分に到達した時、ある種の安寧が訪れるのに違いない(苦しい反復運動の中で心地よいパターンを発見するのに似ているだろう)。しかし何といっても栲象は首を吊っているのであり、「生の安寧」が「安らかな死」と二重写しになっているという状況が滑稽でもある。「首吊り」は非常に長い時間、おそらく数分続いたと思う。滝のような汗が流れていた。やがて脚が縮まり、栲象はまた台の上へ戻る。そして往路と同じく十字型の低い舞台の上をゆっくり歩き、ハシゴを上って消える。「何だったのか」と思いつつ、60~70年代的なスペクタクル性や儀式性のようなものが意図されているのかもしれないと考えた。そしてそれがどうして当時は可能であり、今は可能ではないのか、とも。「首吊り」の持続時間は当時とは比較にならないほど伸びているらしい。
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Lens 『そこに 灰がある』

2004-04-20 | ダンスとか
麻布 die pratze。
(→『CUT IN』にてレヴュー)
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室伏鴻 Ko & Edge 『EXPERIMENTAL BODY no.1/Heels』

2004-04-13 | ダンスとか
神楽坂 die pratze。
→『音楽舞踊新聞』にてレヴュー(『ダンスワーク』56号「2004年ダンスの総括」に再録)
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中村公美 『からっぽになた』

2004-04-09 | ダンスとか
原宿・デザイン・フェスタ・ギャラリー。
非常に狭い部屋の中で、長い茶色の巻紙の山に埋もれ、ゴソゴソしていたり、ちぎって丸め、投げたり、セロテープで壁に留めたり、また山の中に潜っていったりするという行為を4時間に渡って展示する。おそらく誰もがいわゆる「パフォーマンス」(そして中村の自称する「もの派」よりもむしろ「具体」)を連想するわけだが、しかし今日(これまた本人が強調する)「ダンス」という文脈さえ踏まえてしまえば、「コンセプト」ではなく「質感」、あるいは、「理屈」ではなく「感覚」が大事なのだという言い分が一応は可能になるのだからして(?)、要するにここで起こっていることは「ダンス」による「パフォーマンス」の再解釈、ダンス史による美術史の再解釈なのだということも一応はできる。それは非常に魅力的な作業になると思う。村上三郎だのクリス・バーデンだのマリーナ・アブラモヴィッチだののダンス史的蘇生。アクションやハプニングをモダニズムの枠組に押し込めてきたのは、むしろ怠惰な美術史や批評だったのかもしれないではないか。ということはまた、ダンス史のいわゆるモダニズム(ポストモダンダンス)の部分だって書き換えられる可能性は残されているのだ。もしジャドソン教会派の最良のダンスが黒沢美香の雑巾がけのようなものであったとしたら?イヴォンヌ・レイナーとローザスの間にどれだけの質的な距離があるか?一通りはこういうアイディアを提供してくれている中村公美だが、しかし当人の表現はどうにも弱いといわざるを得ない。それこそコンセプトがあまりにも曖昧だ。紙がガサガサいう音が狭い空間にこもって、まるで波打ち際のようなサウンドスケープを立ち上げているのだが、その代わりヴィニールテープや壁を使った時のような触覚的エロティシズムは影を潜めている。フラッとのぞきに来た人を引き込んでしまうような強力な流れもなく、かといって「退屈」を売りにするには傲慢さに欠けている。即興ならばもう少し度胸が座っていてほしい、これが本音だ。ただし無謀な企画を自分で背負い込んでしまった表現者が思わず予想外のトンチンカンな展開を生んでしまう瞬間は4時間の間にいくつかあった。例えば仰向けに寝て足の方から巻紙の山にズリズリ入っていく時の、ほとんど自宅の寝室にいるかのような恐るべきリラックスぶり。腕に紙をグルグルと瘤状に巻きつけて身体を変形させていくプロセス。ところがいずれの場合も、「予想外の成り行き」の馬鹿馬鹿しさを意識すると同時に狙いすぎて臭くなってしまうことへの恐れからか、現われかけたモティーフがすぐに手放されてしまう。まさにそこが入口であるのに。
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「ヴァチカン美術館所蔵 古代ローマ彫刻展 生きた証―古代ローマ人と肖像」

2004-04-07 | ダンスとか
上野・国立西洋美術館。
それほどモティヴェーションが高くなかったので何となく流し見してしまったのだが、展示してあるものがメチャメチャ古いにもかかわらずその歴史の重みと全然釣り合わない展示室のこの安い雰囲気はどうなんだろうか。量も少ないし、イマイチ気合が感じられない。流し見しながらぼんやり考えたこと。石像は冷たい。木彫と比較しても、人間的な接触・交流が完全に断たれる感じがする。触ると冷たいということが一見して明らかな素材の質感。どうしてここからピュグマリオンのような発想が出てくるのだろうか。いやむしろ石だからこそ、なのだろうか。カエサルとカラカラがやたらカッコ良かった。往年のハリウッド俳優のようだ。
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若尾伊佐子 『サ・カ・マ・ル・ン・ド VI カケラ』

2004-04-03 | ダンスとか
千駄木・ブリックワン。
完全に知らない人だが、「無音、即興」に釣られた。まず一分の隙間もないような全暗になり、そこへ白い影がぼんやり歩み出てきて、正面にじっと佇んでいる冒頭が凄まじかった。光量が足りなくてヴィデオのオートフォーカスがなかなかキマらない時のように、眼の筋肉が勝手に動いてしまい、焦点が合わない。見えたと思ったらぼやけ、また突然クリアになったかと思うとジワーッと闇に溶けていく。しかもそれが白い人型なのだから恐ろしい。控え目な照明が入ると白いレオタードに白いTシャツを着ていた。以後照明はアトランダムな感じに比較的せわしなく変化する。動きは緩慢で、どちらかというと内側に集中するのだが、もろに舞踏っぽいわけではなく、非常にカテゴライズしづらい。そういう踊りに出会うと、自分の側も何か新しいチャンネルが開くのではないかとワクワクしてくるのだが、あろうことかこの日は客席が最悪だった。わずか20人ほどなのに、ぼくの後に座っている人はずっと口をクチャクチャさせているし(しかも何か食ってゲプッとかいってる)、子供がトイレに行きたがったり、いびきが聞こえてきたり、どうしようもない。ぼくは最後までまったく集中できなかったが、踊り手は自分のペースを守り抜いていたように思う。ブラヴォーとかしかいいようがない。というわけでこのダンサーのことはほとんどわからずじまいだった。残念。
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五反田団 『ながく吐息』

2004-04-01 | ダンスとか
こまばアゴラ劇場にて。
評判の五反田団を初めて見た。立ちションが止まらなくなるというアイディア一発で転換もなしに80分引っ張るのだが、これって要するに『ゴドーを待ちながら』的なドラマトゥルギー。やはり沈黙しても無駄話しても間がよくもつわけである。実際に「待つ」という主題はいくつも仕掛けられていて、さらに「待っていなかった(現われないでほしかった)女が来てしまう」というネタもある。『水の駅』を髣髴とさせる長い長い放尿は動物的快楽の常態化すなわち「緩慢な死」だとか、それが異性愛による家族的秩序の回復によってのみ解決されるのはどうしてかとか色々言えるのだが、基本的に「演劇」を疑う姿勢が希薄なのでぼくには刺激が足りなかった。せめて道にあふれた大量の水が何か機能してほしいところだ。役者陣では、演出の前田司郎だけがセリフに微細なニュアンスを盛り込んで笑わせてくれる。他の人たちにはそれほど念入りに演技をつけていないのではないか。
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『イノセンス』('04、押井守監督)

2004-04-01 | ダンスとか
渋谷・シネフロント。
真ん中ぐらいで「もう早く終われ」モードになってしまった。絵がほとんど動かない(犬のとこだけ動く)とか、恥ずかしい引用がてんこ盛りになっているとか、あれこれ狙ってやっているのだろうけど、「わざとらしくやる」=「確信犯的」ではない。映画としてはつまらないのに色んなことを語れそう(語れる)という難儀な代物。ちなみに「ハラウェイ博士」は『サイボーグ宣言』のダナ・ハラウェイなわけだが、去年出たこれの続編(?)は『Companion Species Manifesto: Dogs, People, and Significant Otherness』という。まだ読んでないけどハラウェイももろに犬好きのようだ。ちなみに『キミは動物〔ケダモノ〕と暮らせるか?』('97年、筑摩書房)の飴屋法水は犬嫌い。
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