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ダンスとか。

DANCE×MUSIC! ~振付家と音楽家の新たな試み~ vol.1

2005-07-31 | ダンスとか
浅草・アサヒ・アートスクエア。
▼砂連尾理+寺田みさこ×桜井圭介 『O[JAZ]Z』
▼北村成美×巻上公一 『インダスヒュー』

→『音楽舞踊新聞』にてレヴュー
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DANCE×MUSIC! ~振付家と音楽家の新たな試み~ vol.1

2005-07-30 | ダンスとか
浅草・アサヒ・アートスクエア。
▼砂連尾理+寺田みさこ×桜井圭介 『O[JAZ]Z』
▼北村成美×巻上公一 『インダスヒュー』

→『音楽舞踊新聞』にてレヴュー
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Archa Theatre 『CHAT ―危険なほど易しいつながり』

2005-07-30 | ダンスとか
赤坂・国際交流基金フォーラム。
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枇杷系 「ダンスの発明 vol.9」

2005-07-29 | ダンスとか
西落合・BIWAKEIスタジオ。
(予定されていた加藤奈緒子『バロック vol.1』は体調不良により上演中止)
▼有田美香子 『所々マダラ i』
今までそれほど多く見ていないので、彼女の特徴がどうもつかめていなかったのだけれども、今日のパフォーマンスは明快で、目の奥までスッと入ってきた。足の裏の接地面をおかしな風にズラして、外の縁だけで歩いたりする冒頭からして面白い。中央手前にある、ピンク色の点が集ってできた円に絡み、跨ぎ越しては戻ったりする場面、あるいは仰向けになって四肢を動かす場面など、これといって小綺麗に整理されているわけではない動きがしっかりした強いフォルムを伴っていてダイナミックである。ただわからないのは、どの動きも反復によって体をリズムにノせる方向へ向かう(最初の一回は作為だが二回目から直ちにリズムが入る。やや強引とも見えるほど急速に)にも関わらず、持続に関してはやけに淡白であるところだ。作為からリズムへとできるだけ素早く乗り移ろうとしているように見えるのに、すぐにリズムは遮断される。その意図が最後までつかめなかったというのが正直な感想。作品としては、微かなノイズやピアノ曲などが素っ気なくかかる程度で、イメージにほとんど寄りかかっていないのが潔くて良かった。終盤ではやや陰鬱なトランペットと打ち込みの音楽(ジョン・ハッセル?)が入って、床に横座りになり、上体を横にズラしては膝下を横にズラして(つまり股関節を回転させては膝関節を回転させて)体の向きを変えていく。ここでもまた、回る関節の動きが柔らかいリズムを帯びて、どちらかといえば露骨なまでのダンスになる。面白い。こういうことに驚きを得たい。でもここもやはり曲がさっさと終わってしまい、物足りないまま終了。約35分。
▼山本彩野/オカザキ恭和 『Holes』
上手中央で山本が腹部に仕込んだ風船を膨らませていき、下手奥でオカザキが白い球体とともに佇んでいる。青白い照明に照らされたオカザキの頭部が、白い球体に呼応している。するとやはりアンバーの光の中で、膨み行く風船の対応物を探してしまう。強いていうならば山本の臀部、あるいはうずくまる背中。妊婦の腹部の内容物が、オカザキにあってはすでに体外にあるかのような、不条理なイマジネーションがかき立てられる。やがてオカザキが中央に仁王立ちになって、強い白色光を浴びながら両手をゆっくり持ち上げていく。何ということはないが奇妙なインパクトのある場面。後半では、二人で同時に行う二種類の動きが面白かった。床に這いつくばる動き、あるいは仰向けに寝た姿勢で両肩を使いシコシコ移動していく動き。ここでは山本の体が、見かけからは想像できないほど骨太に力強く動くので驚いた。低い姿勢のまま、バネを利かせて狭い空間を大きくつかまえる。もう一つは、立ったまま首を後ろに仰け反らせてヨタヨタと歩く動き。「舞踏」的な誇張は何ら含まれていない。足を動かさざるを得なくなる瞬間を待っているようでいて、それが苦行じみるほどには追い詰めない。かといってギャグに逃げるでもない。有田の作品にも共通するこの淡白さ、(語弊を恐れずにいうなら)「無感動」ぶりに、何か深く共感する。約20分。
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Noism05 「Triple Bill」

2005-07-28 | ダンスとか
三軒茶屋・世田谷パブリックシアター。
▼アレッシオ・シルヴェストリン 『DOOR INDOOR』
▼黒田育世 『ラストパイ』
▼近藤良平 『犬的人生』

→『音楽舞踊新聞』にてレヴュー
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グラインダーマン 『Binary Rider 2005 [HAYABUSA VS MUSTANG]』

2005-07-24 | ダンスとか
横浜・BankART Studio NYK(NYKホール)。
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チェルフィッチュ 『目的地』 ワークインプログレス

2005-07-24 | ダンスとか
横浜・BankART Studio NYK(NYKギャラリーA)。
来月びわ湖ホールで初演される新作からの抜粋。30分ほど。部屋の角の部分を使って客席は二面。ソファが一つ。松村翔子が出てきて「私は今日はセリフないんですけど」というようなことを言って始まる。松村はずっと虚空を見つめるようにしてゆっくり身をよじったりどこかに手をやったりして立っていてとにかくその居方が異様。脇で岩本まりが喋り始める。例によって間接話法ないし伝聞の語りで、右手(ないし両手)が始終、横にいる松村の方へ伸びる。今にも「この人が…」という風にして松村の身体を物語の中に引きずり込みそうだ。そうすれば自ずと松村の身体は虚構の役柄を演じ始めざるを得ないだろう。さらに岩本の身体もその虚構の水準あるいはそれに対するメタレヴェルに安定した位置を得て、ともかくもフィクションの構造が成立するだろう。しかしそうはならない。岩本の手は曖昧に伸びたり引っ込められたりして、松村にタッチするか、やっぱりしないか、という不安定な「行きつ戻りつ」がずっとずっと持続する。この不安定感は実に耐え難いもので、それがなぜこうも耐え難いと感じるのかと自分で不思議に思えてくるほど持続するところに、つまり例えば現実/虚構のような分割を完了したがる気持ちを反省させるに至らしめるところに得難いスリルがあり、そんなわけでチェルフィッチュの舞台を見る時、心拍数は微かだが明らかに上昇する。後半は今の話題に出てきた人物らしき山縣太一と下西啓正の会話らしきもの。山縣のパフォーマンスのもつ説得力はやはり圧倒的で、この人と演出家=岡田利規との間にはどういうコミュニケーションが行われているのだろうということが気にならないでもない。全くの抜粋なので、話の内容はそれほど展開しない。男と女が出てきて妊娠の疑いが持ち上がって、というような流れ。今回の新しい試みとしては、壁にテクストが映されるという要素がある。短い文章で、「港北ニュータウン」の描写や、猫のことなどが書かれていたと思うが、スライドのテンポがあまりにも遅くて逆についていけなかった。しかし情報の速度のことより、「港北ニュータウン」という地名の具体性が、セリフ中に出てくる固有名詞「イスくん」(?)との間に激しい摩擦を起こす。山縣のことを指しているらしいのだが、そんな名字あるんだろうか、あだ名にしてもヘンすぎる、と思ってよく聞こうとするがやっぱり「イスくん」としか聞こえない。「イス」ってここにあるこの「椅子」ですか、と愚にもつかない間抜けな連想をしてしまうのは避け難く、しかも事実ただ山縣だけがその椅子に腰かけるのだからたまらない。記憶する限り、今までもチェルフィッチュにおける人物の名はこんな風に具体性をボカされていたと思う。『三月の5日間』における「ミノベくん」とかも「ミ」の音がはっきりしないので曖昧なままになるし、「ミッフィーちゃん」のシーンでは「他人の名前を便宜的に(テキトーに)付ける」という件が出てくる。「名付ける」ことによって身体がどこかの空間内に定位されてしまうのを徹底して回避しているように思える。そこに「港北ニュータウン」が、あくまでも文字の上での存在として導入されてくる……ぼくはこの辺りのことを気にしながら来月の初演を見ることになると思う。
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ダンスがみたい!7/オトギノマキコ、秀島実

2005-07-18 | ダンスとか
麻布die pratze。
▼オトギノマキコ 『脱臼するメルヘンは内側のテトリス』
▼秀島実 『夜のため』
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中村恩恵 『a play of a play』

2005-07-18 | ダンスとか
与野本町・彩の国さいたま芸術劇場(小ホール)。
振付/中村恩恵、出演/佐藤知子、廣田あつ子、松崎えり、伊藤拓次、松本大樹、中村恩恵、加藤訓子(perc.)。
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MIKUNI YANAIHARA Project 『3年2組』

2005-07-16 | ダンスとか
吉祥寺シアター、昼。
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ダンスがみたい!7/岡本真理子 『ボタン雲の育てかた #1』

2005-07-13 | ダンスとか
神楽坂die pratze。
青いテントから出て来て、小さな金属の何か(実は生クリームのチューブの先端)を点々と並べていったり、無数のカラフルなボタン(マーブルチョコかと思っていた)が散らばったり、テントに潜って被り物をして現われたり、といういくつものシーンに若干の踊りが添えられる70分ほどの作品。客席からは何だかわからないほど小さなものをいかにも大事そうにいじってみせれば「繊細」に見えるに決まっているのであってそこに何ら驚きはない。小さきもの、ミニチュアへの執着、あるいは「掌の美」。とりあえずは何よりもその「ブリっ子」ぶりが鼻についてしまう岡本の身振りは、「繊細」というよりむしろ「『繊細な私』の誇示」とでも呼ぶべきであり、「繊細な私」の誇示に物を奉仕させる身振りはしばしば「女の子」なるものの植民地主義の様相を呈する。物の声を聞かず畏敬の念を抱かず自己完結した一方的な物の動員、この種の「暴力」は老若問わずジェンダー的に形成された「女の子」なるものの強勢形としての「ブリっ子」的属性であると思う。そもそも「ブリっ子」とはすなわち「~ぶる人」=「フリをする人」=「振付に安らう人」のことであろう。そして振付とはダンスを生起させるための必要悪なのであるから、「フリ」をしながらダンスが発生しなければ必要ですらないただの悪に終わってしまうのである。振付は、計算によって計算不可能なものを準備し、技術によって事故を期待し、作為によって作為が作為でなくなるに至らしめる、そのための滑走路にすぎない。バタイユならばこれを「官能的熱狂の計算ずくの追求」(『エロスの涙』、ちくま学芸文庫、51頁)というだろうし、黒沢美香ならば「怠惰にかけては勤勉な 黒沢美香のソロダンス」というだろう。だから岡本真理子はその「繊細」の追求において(もし追求するのならば)、何としてもその追求の作為的な身振りを作為の地位から脱落させなくてはならない。確かに、人が思わずノせられてしまう(ダンスを発生させる)高度なブリっ子と空回りするブリっ子とが存在する…。こんなことを考えたのも、空回りしていた岡本のブリっ子ぶりが唐突にいきなり深々と突き刺さってきた瞬間があったからに他ならない。舞台の手前、観客の眼前でこれ見よがしに無防備にヘソを出して仰向けに寝た岡本が、右手に中途半端に手袋を嵌め、その先端でヘソの辺りを何となくさすっている。やがてその手が口元に移動する。そして突然、鼻の辺りをチョンと軽くはたいて、右手は体の脇に落ちる。この、まるで「鼻ペチャなんて、気にしないわ」と歌が聞こえてきそうな「チョン」に、(そのむせ返るほどの作為性にも反して)思いがけず自分の体が反応してしまった。おそらく岡本の作為が、半端につっかけられた手袋という緩衝地帯によって絶妙なミュートをかけられていたからで、それによって振付はダンスへと見事に変性することができた。再び手が伸びて今度は額の辺りを「繊細」に触る。すると前髪が、まるで額から剥がれるようにして、直毛ゆえに額のカーヴの形状のまま根本から仰け反り頭頂部へ向かってゆっくりと倒れた。この髪の動き、正確にいえば、手と手袋と髪の連携によって仕組まれた事故、これがダンスという現象であると思う。物の介在による遅れが、過程を引き伸ばしてテロスを延期する時、その真空に、作為が作為ならざる運動を立ち上げる。以後このダンス的瞬間を求めて岡本の身振りをずっと見ていたが、同種の事態はいくつか確認された。大きなスコップを持って踊り回るシーン、とりわけそれを持って旋回し始めるや否や、遠心力が、作為の旋回をコントロール不可能な危険な運動へと追い上げていく顛末などはダンスと呼べる。オープンリールのカセットレコーダーから白いテープを床に垂れ流して歩き回る終盤のシーンなども同様だろう。均質な速度で機械的に落下し続けるテープのドローイングは、岡本の作為に依存しつつ、それを刻々と端から裏切って行く。身体の身振りとテープの行く末との圧倒的な隔たりは危ういところで(危ういだけになおさら)ダンスたり得ている。しかし正直な感想をいえば、この程度のことはまともなダンサーなら誰でも無意識の内に気付いていて、作品中のちょっとした寄り道程度に無自覚な形でしばしば行われてもいる。物の使い方としては素朴であり、未知なる過激な領域では全くない。だからやはり、この作品にはまだ驚きはないといわざるを得ないのである。
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トヨタコレオグラフィーアワード2005 “ネクステージ”(最終審査会)(二日目)

2005-07-10 | ダンスとか
三軒茶屋・世田谷パブリックシアター。
▼新鋪美佳 『るる ざざ』
ほうほう堂。元はSTスポットで作られた作品なので、周囲の壁がないこととアクティングエリアの大きさにかなり苦戦。壁の代わりに白い帯状の線で舞台を囲んで対応したが、やはり空間の漠然とした広がりが最初から見えてしまい、その後あまり変化しなかった。動き方も全体に大味になって、微妙なニュアンスやスリリングな間合いのブレよりも、形や段取り優先の部分が多くを占める。印象に残ったのは舞台前面に出てきてど突き合う部分で、ホントに喧嘩してるみたいに見えて胸が潰れるような思いだった。今回はほうほう堂らしいデリケートさがあまり出てなくて残念。
▼岡田智代 『ルビィ』
非常にシンプルなシークエンスをいくつかつないだ作品だが、そのシンプルさを見事にアレンジ・増幅して大空間に対応。グレーの照明と同色のワンピース、そして銀色の美しい椅子。女一人の姿が、広い舞台の中央で垂直に突き刺さるように屹立し、メタリックで冷たい空気を放射する。中央でゆっくり旋回する部分では、椅子が光を反射して凶々しく煌めき、貴石とも凶器ともつかない異様で「危険」なオブジェと化した。遅い動きは、それによって体の内側でエネルギーを過剰に蓄積したり膨張させたりするのではなく、あくまでも無機質なまでに均質な動きのテクスチャーの実現を目的として行われる。ダイナミズムを押し殺しながら刻々と変化するフォルムと体の向き。刻み目のないものを凝視することの困難が目をますます活性化させ、意識が表層の奥へ分け入ろうともがく。椅子から崩れ落ち、顔を覆う場面の、徹底してアンチドラマ(「無内容」)な虚脱。アバで踊る部分はもう少し足を「枷」として否定的に機能させつつ、手振りではなく胴・体幹・腰を動かして欲しかったりとか、色々思わないこともなかったが、基本的に初演版とはコンセプトの異なる作品として見た。最初から最後まで緊張感が持続し、精神にグサッと来た。今回の8本中でのベスト。
▼岡田利規 『クーラー』
チェルフィッチュ。セリフのループが、小さな反復を重ねながら少しずつズレて先に進んで行く流れになっていた。山縣太一の動きは、他愛ないけどやってみたくなる、だらしない動きで、しかも変な脱力の仕方がむしろハイテクに思える。屈むと胸ポケットからタバコが落ちる、ネクタイを後ろに跳ね上げる、いきなり山崎ルキノに「迫る」など、ディテールも充実。二人を囲んでいる四角いスポットの、山崎の方にだけ輪郭のぼやけた丸スポットが当たって、四角の光の一辺が破れて漏れ出しているように見えるシーン。あるいは二人が手前中央から、舞台の真中へ、そして奥へと三段階に移動して行きつつ、いつの間にか声が録音にすりかわって言葉と身体が分離したまま終わる。こういう「悪意」のある表現の痛快な自由さは、不思議なことにダンス・プロパーではなかなか見られない。全体を見ると変化に乏しいためやや長く感じられ、チェルフィッチュのダンス作品としてはまだ第一歩に過ぎない(しかも出演者が直接話法のみで発話し、身体が多重化されていないという点では『マリファナの害について』以前に戻っている)というべきだが、やはり比較を絶して新しく、「トヨタアワード」がこの新しさを評価せずしていったい何を評価するのかと思う。この作品がもたらすものは完全に「ダンシー」な体験で、したがって事実上、完全に「ダンス」であるとひとまずは言えるが、むしろその圧倒的な新しさゆえに何か目が眩むような感覚があることも確かで、この動揺を見て見ぬふりをするのもまた誠実ではないと思う。行きつ戻りつするセリフと身振りの流れ、そこには手持ちの概念や思考回路からする単純な肯定も否定も許されないような途轍もない何かが、要するに手持ちの概念や思考回路の再検討(否定ではなく)を強いる何かがある。
▼宇都宮忍・戒田美由紀・合田緑・高橋砂織・得居幸・三好絵美 『kNewman』
yummydance。初演より、動きの内容がはるかに密に作りこまれている。濃い目に立ったキャラの配置とアクションのみならず、個々のダンスの間の関係が生み出すヴァイブレーションに満ちて最初から最後までとにかく楽しかった。自他の体をあくまでラフにコントロールして、互いに翻弄し合うユルい関係の「遊び」(=余白)が生きている。遊び=余白とは、「何もしない」ことではない。全ての行為(運動)が逃れることのできない手段と目的の図式の硬直の中で、絶えずどこかから逸脱やノイズを調達して来ないではいられない無限の自己否定的な衝動。踊っていてもその踊りからすら出て行こうとする。これがダンスの心、「遊び心」であり、そしてそれはここまで周到に構築することができるものなのだ。定位置に定刻通りに是が非でも滑りこむ、あるいは決まった量の距離や時間をできる限り細かく刻み込む、こうした過剰な熱に身を浸す。どこか垢抜けないナイーヴさも、開き直った弱さの露出(東京のダンスにありがちな)ではなく、武器になり得ていると思う。

結果
「次代を担う振付家賞」=隅地茉歩
「オーディエンス賞」=鈴木ユキオ(9日)、新鋪美佳(10日)
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トヨタコレオグラフィーアワード2005 “ネクステージ”(最終審査会)(一日目)

2005-07-09 | ダンスとか
三軒茶屋・世田谷パブリックシアター。
▼岩淵多喜子 『Against Newton』
Dance Theatre LUDENS。過去に2回(新国立劇場初演03年、アイホール04年)見ている作品。中盤からずっと続く、柔道の受け身のように倒れては起き上がる動きの反復がトリオで振り付けられた部分が面白かった。見た目は生真面目な人々がスポ根的な掛け声とともに行う「倒れる」も「起きる」も、その動機はあからさまに作為であるにもかかわらず、倒れ行く/起き上がり行く僅かな過程の時間だけは物理法則との格闘になる。すかさず作為が見映え良く後始末をつける。舞踏とは異なり虚実ない交ぜのプロレスのような踊り。
▼黒沢美香 『馬をきき』
スモークと下手側からの低いライト、恐ろしげなノイズとともに、袖から蟹股で跳ねながら現われる。金色の長いゴムホース、オレンジ色の長靴。すぐに「ずいずいずっころばし」がかかる。全体に地味な動きで舞台上を徘徊、大空間を一人で支配しつつもスペクタクルにまでは至らないが、黒沢美香ダンスの精髄は堪能できた。上手寄りから真一文字に片足ずつ、出しては引っ込め、出しては引っ込めのステップの部分は最高のジャズのアドリブを聴いているかのように、無限に変形されるリズムがとにかくスリリングで、一打一打に新鮮な視界が開ける。さらに今度は下手側から、床に置いたゴムホースにそって膝を付いてバックして来る。片方の膝だけが、動く度にキュッと音を出す。反復される一歩一歩の動きにはさっきのステップのようにはっきり目に見えるアレンジは施されない。むしろストロークとストロークの間や、速度の微細な振れ幅が露わにされる。こんな単純な動きが紛れもなく「ダンス」たり得ていることの驚き。動きと、その直後に来るごく短い静止、そこに踊り手の反省の契機が挟まっているように思う。小刻みに短く止めて振り返ることで、「単位」を作り、そこに次の動きを重ねて行く。この「止め」を、「動き」と等価に扱うことができれば、それらは一続きの律動を形成するのだろう、ということを考えながら見ていた。おおむねコアな世界で、観客との物理的・心理的な距離が終始大きく、見る者を巻き込み悪意の交感を仕掛けることをあるレヴェルで断念しているように思えた。最後に仰々しく降下して来る赤い幕はフォーサイス『アーティファクト』に比肩すべきもの。
▼鈴木ユキオ 『,,,やグカやグカ呼鳴、、、』
金魚。意味不明な行為が反復抜きに(非可逆的に)逸脱し続ける出だしの勢いが強烈で思わず地沸き肉踊り身を乗り出す。STスポット初演版と比べると空間が全方位にヌケて、普通の「コンポジション」(フレームの内部を緻密にまとめ上げる)の水準からは切れていたのが良かったが、今度は編成が男4女1に変わったため「女」が求心性を生んで空間の拡散を抑止、しかも女にまとわりつく男たちの動きがアルゴリズム化。見る者の視線は混沌に泡を食って泳ぐことなく全体をまとめにかかる。作品自体、演劇的な表象というか「若者の世界観」みたいなものの描写に流れ気味だが、そういうスタティックな構造が見事に壊れていたのが中盤の男2人の怒鳴り合いの場面。無闇に大声を出しながら、ルールのないゲームのようなやり取り。バケツを投げつけ合っている内にうっかりヘンなタイミングでフェイントを入れて自分がコケたり、いきなり相手のポーズの真似をしてみせたらさらに相手の食い付きが異様に速かったりして、一方の「予想外」が他方の「予想外」へと次々に連鎖していく。もはや即興とすら呼べない域。こういう「熱」を作品化できているのは本当に凄い。
▼隅地茉歩 『それをすると』
ダンスユニット・セレノグラフィカ。木製の横長テーブルとイス2脚を中心にアンバー系のスポットで全体に薄暗い空間。下手手前にリコーダーやパーカッションのミュージシャンがいて、イスに座った男女2人とセッションっぽくなる序盤。2人の動きは指先を多用するチマチマした仕草的なものの掛け合いが多いが、照明や音響込みの全体的な質感からすると、体とその動きの生々しさがもっともっと消去されて儚いものに見えた方がフィットしたのではないかと思う。もっと暗く、あるいは遠く。スポットの外側の周囲をゆっくり経巡る隅地の、ほとんど影だけのソロが良かった。
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佐多達枝バレエ 『dogs』

2005-07-09 | ダンスとか
六本木・俳優座劇場、昼。
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踏みはずし Vol.2(三日目)

2005-07-07 | ダンスとか
王子・pit北/区域。
▼小松亨 『乳房』
▼正朔 『心盗っ人』
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