渋谷・公園通りクラシックス。
水上バス隅田川ライン。
今年で三年目、「さりげなく」がコンセプトだったのだが今回はもろに「濃い」人選で、必然的に大道芸的なノリになる。ピンクの派手派手衣装のたかぎまゆと、いつものようにカフェの店員みたいな衣装のおのでらんが、大きなカバンを持って、隅田川の水上バスを豪華客船へと強引に変換する。社交ダンスのステップみたいな足型を観客が床に置いて、たかぎまゆがツイスターゲーム状態になったり、セリフの書かれた吹き出しを持ってポーズを取ったりと、観客とのやり取りが重視されていて、家族連れや小さい子供は喜んでいた。罪のないお遊びなのだが、それだけといえばそれだけのものでしかない。やはり興味のない人が無視できて、無視していても何となくチラチラと視界に入って気にかかるとか、興味をもって追いかけると色んなことが起きているのだが、それでもそこはあくまで日常空間なので、スカされるようにあっけなく消えてしまうとか、企画の趣旨としてはそういう微妙な匙加減の「くすぐり」を狙うべきではないか。その観点からいうと、ベストは去年の北村成美だと思う。
今年で三年目、「さりげなく」がコンセプトだったのだが今回はもろに「濃い」人選で、必然的に大道芸的なノリになる。ピンクの派手派手衣装のたかぎまゆと、いつものようにカフェの店員みたいな衣装のおのでらんが、大きなカバンを持って、隅田川の水上バスを豪華客船へと強引に変換する。社交ダンスのステップみたいな足型を観客が床に置いて、たかぎまゆがツイスターゲーム状態になったり、セリフの書かれた吹き出しを持ってポーズを取ったりと、観客とのやり取りが重視されていて、家族連れや小さい子供は喜んでいた。罪のないお遊びなのだが、それだけといえばそれだけのものでしかない。やはり興味のない人が無視できて、無視していても何となくチラチラと視界に入って気にかかるとか、興味をもって追いかけると色んなことが起きているのだが、それでもそこはあくまで日常空間なので、スカされるようにあっけなく消えてしまうとか、企画の趣旨としてはそういう微妙な匙加減の「くすぐり」を狙うべきではないか。その観点からいうと、ベストは去年の北村成美だと思う。
ダブリン・Project(Cube)。
▼『The Other Side of O』(振付/Deborah Hay、出演/Julie Lockett)
▼『Beauty』(振付/Deborah Hay、出演/Ella Clarke)
▼『The Other Side of O』(振付/Deborah Hay、出演/Julie Lockett)
▼『Beauty』(振付/Deborah Hay、出演/Ella Clarke)
ダブリン・Irish Film Institute。
▼『Musique de tables』(1999年)
▼『Love Sonnets』(1994年)
▼『21 etudes a danser』(1999年)
▼『Musique de tables』(1999年)
▼『Love Sonnets』(1994年)
▼『21 etudes a danser』(1999年)
新宿・THEATER/TOPS、昼。
作・演出の土屋亮一が欲しているものと、ぼくが欲しているものとが部分的にしか重なっていないことはわかっていたが、今回はその距離が限りなく大きかったようだ。アナーキーな運動性がカケラもなく、ひたすら穏便に事が進行していくばかりで盛り上がらなかった。しかしその分、例のムリヤリなセリフの組み立てがいかに奇妙な質感を持つものであるかを冷静に味わうことができた。ダブル・ミーニングを狙うあまり、会話が極度に抽象的になり、比喩が執拗に弄ばれ、結果的にしばしば意味がわからず、まるで新しい言語のように聞こえる。刺激的だ。大仕掛けも見たいが、もっともっと時間をかけて、セリフだけに執着しても面白くなるんではないか(だいたい公演数が多すぎる。秋には今年三本目が予定されている)。しかしそれにしても、体操競技を題材にして、体育館を舞台にするという着想がまた斬新である。演劇はおろか映画ですら見たことがない。マンガにはもしかしたらありそうだが、この生々しさは出せないだろう。単にネタをやりたいがため、という非演劇的な動機が、非演劇的な素材を用意する。シベ少に「小手先」感がないのはこの無鉄砲な欲望の強度と確かさに由来するのだと思う。むしろ「小手先」なのは観客の方で、まだネタ振りの第二段階くらいの時点で大笑いしている。驚きつつ、これが「小劇場演劇」というものなのかと感慨に耽った。何せまだメインの大ネタは来ていないのに、とにかくムリにでも笑って元を取ろうとしているかのようなのだ。その後にメインのネタが始まると、いよいよ本当に息を詰めて見守らずにはいられないから、もはや反応も正直なものになり、要所要所でしか笑い声はあがらない。そして結果的には不発だったため、いささか醒めた幕切れとなったわけだ。「好意」も度を越すと卑屈というか、欲望の薄さを露呈してしまって情けない。演劇への「愛」と欲望がリンクしていないのだろうか。
作・演出の土屋亮一が欲しているものと、ぼくが欲しているものとが部分的にしか重なっていないことはわかっていたが、今回はその距離が限りなく大きかったようだ。アナーキーな運動性がカケラもなく、ひたすら穏便に事が進行していくばかりで盛り上がらなかった。しかしその分、例のムリヤリなセリフの組み立てがいかに奇妙な質感を持つものであるかを冷静に味わうことができた。ダブル・ミーニングを狙うあまり、会話が極度に抽象的になり、比喩が執拗に弄ばれ、結果的にしばしば意味がわからず、まるで新しい言語のように聞こえる。刺激的だ。大仕掛けも見たいが、もっともっと時間をかけて、セリフだけに執着しても面白くなるんではないか(だいたい公演数が多すぎる。秋には今年三本目が予定されている)。しかしそれにしても、体操競技を題材にして、体育館を舞台にするという着想がまた斬新である。演劇はおろか映画ですら見たことがない。マンガにはもしかしたらありそうだが、この生々しさは出せないだろう。単にネタをやりたいがため、という非演劇的な動機が、非演劇的な素材を用意する。シベ少に「小手先」感がないのはこの無鉄砲な欲望の強度と確かさに由来するのだと思う。むしろ「小手先」なのは観客の方で、まだネタ振りの第二段階くらいの時点で大笑いしている。驚きつつ、これが「小劇場演劇」というものなのかと感慨に耽った。何せまだメインの大ネタは来ていないのに、とにかくムリにでも笑って元を取ろうとしているかのようなのだ。その後にメインのネタが始まると、いよいよ本当に息を詰めて見守らずにはいられないから、もはや反応も正直なものになり、要所要所でしか笑い声はあがらない。そして結果的には不発だったため、いささか醒めた幕切れとなったわけだ。「好意」も度を越すと卑屈というか、欲望の薄さを露呈してしまって情けない。演劇への「愛」と欲望がリンクしていないのだろうか。