Cirque du Soleil, Dralion
大阪南港・新ビッグトップ。
何せ初シルク・ドゥ・ソレイユがラスヴェガスで見た『O』だったためか、わりと普通の小ぢんまりしたサーカス小屋みたいな会場に拍子抜けしてしまいながら、そうか、これは「サーカス」なのだったと今さらのように気づく。中国の雑技団でよく見るアクロバット芸をさらに高度化したパフォーマンスが主で、キャストも中国人がすごく多いのが意外。見知ったものに派手な色を着けて見せている、という印象がどうしてもつきまとって、結構すごい技をやってる(らしい)間もかなり眠ってしまったが、さすがにトランポリン+壁のシーンは呆気にとられて見た。思い切り跳ね返って壁に一瞬よじ登り、何歩か斜めに歩いて、そのまま壁を蹴ってまた落下してくる、その連続。バラバラな物理法則の間を楽勝な感じで渡り歩いている、そのさまが不思議すぎてなかなか脳で受け入れられない。しかし、何だかそれは、脳での出来事、網膜での出来事で、単に知覚が欺かれているだけのような気がしてしまう。普通サーカスっていうのは「曲芸」だから、失敗するかもというスリル(遊戯性)こそがキモなのだと思うが、ここでは分厚く飾り立てられた技の一つ一つは、失敗など懸念されてないし、成功すらそもそも「賭け」られてはいない(あまりにも当然のこと(職務、労働)として見なされている)ように感じられる。ひたすら「あり得ない」出来事が網膜に焼き付けられるこの感触は、CGを駆使したハリウッド映画のそれに近い。揺るぎない(何か別の可能性を想定させることのない)一枚岩の「現実」がドコドコ生産される。技が高度であればあるほど、完璧を期さないとリアルに危険なわけで、すると逆説的にもスリル(危うさとの戯れ)は薄れ、圧倒的な「力」の驚異だけが残ることになるのだろう。かくして、サーカスは曲芸=遊戯だが、シルク・ドゥ・ソレイユはイリュージョンの産業。実際、従業員数4000の一大企業なわけだし。
大阪南港・新ビッグトップ。
何せ初シルク・ドゥ・ソレイユがラスヴェガスで見た『O』だったためか、わりと普通の小ぢんまりしたサーカス小屋みたいな会場に拍子抜けしてしまいながら、そうか、これは「サーカス」なのだったと今さらのように気づく。中国の雑技団でよく見るアクロバット芸をさらに高度化したパフォーマンスが主で、キャストも中国人がすごく多いのが意外。見知ったものに派手な色を着けて見せている、という印象がどうしてもつきまとって、結構すごい技をやってる(らしい)間もかなり眠ってしまったが、さすがにトランポリン+壁のシーンは呆気にとられて見た。思い切り跳ね返って壁に一瞬よじ登り、何歩か斜めに歩いて、そのまま壁を蹴ってまた落下してくる、その連続。バラバラな物理法則の間を楽勝な感じで渡り歩いている、そのさまが不思議すぎてなかなか脳で受け入れられない。しかし、何だかそれは、脳での出来事、網膜での出来事で、単に知覚が欺かれているだけのような気がしてしまう。普通サーカスっていうのは「曲芸」だから、失敗するかもというスリル(遊戯性)こそがキモなのだと思うが、ここでは分厚く飾り立てられた技の一つ一つは、失敗など懸念されてないし、成功すらそもそも「賭け」られてはいない(あまりにも当然のこと(職務、労働)として見なされている)ように感じられる。ひたすら「あり得ない」出来事が網膜に焼き付けられるこの感触は、CGを駆使したハリウッド映画のそれに近い。揺るぎない(何か別の可能性を想定させることのない)一枚岩の「現実」がドコドコ生産される。技が高度であればあるほど、完璧を期さないとリアルに危険なわけで、すると逆説的にもスリル(危うさとの戯れ)は薄れ、圧倒的な「力」の驚異だけが残ることになるのだろう。かくして、サーカスは曲芸=遊戯だが、シルク・ドゥ・ソレイユはイリュージョンの産業。実際、従業員数4000の一大企業なわけだし。