dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

シルク・ドゥ・ソレイユ 『ドラリオン』

2007-08-31 | ダンスとか
Cirque du Soleil, Dralion

大阪南港・新ビッグトップ。
何せ初シルク・ドゥ・ソレイユがラスヴェガスで見た『O』だったためか、わりと普通の小ぢんまりしたサーカス小屋みたいな会場に拍子抜けしてしまいながら、そうか、これは「サーカス」なのだったと今さらのように気づく。中国の雑技団でよく見るアクロバット芸をさらに高度化したパフォーマンスが主で、キャストも中国人がすごく多いのが意外。見知ったものに派手な色を着けて見せている、という印象がどうしてもつきまとって、結構すごい技をやってる(らしい)間もかなり眠ってしまったが、さすがにトランポリン+壁のシーンは呆気にとられて見た。思い切り跳ね返って壁に一瞬よじ登り、何歩か斜めに歩いて、そのまま壁を蹴ってまた落下してくる、その連続。バラバラな物理法則の間を楽勝な感じで渡り歩いている、そのさまが不思議すぎてなかなか脳で受け入れられない。しかし、何だかそれは、脳での出来事、網膜での出来事で、単に知覚が欺かれているだけのような気がしてしまう。普通サーカスっていうのは「曲芸」だから、失敗するかもというスリル(遊戯性)こそがキモなのだと思うが、ここでは分厚く飾り立てられた技の一つ一つは、失敗など懸念されてないし、成功すらそもそも「賭け」られてはいない(あまりにも当然のこと(職務、労働)として見なされている)ように感じられる。ひたすら「あり得ない」出来事が網膜に焼き付けられるこの感触は、CGを駆使したハリウッド映画のそれに近い。揺るぎない(何か別の可能性を想定させることのない)一枚岩の「現実」がドコドコ生産される。技が高度であればあるほど、完璧を期さないとリアルに危険なわけで、すると逆説的にもスリル(危うさとの戯れ)は薄れ、圧倒的な「力」の驚異だけが残ることになるのだろう。かくして、サーカスは曲芸=遊戯だが、シルク・ドゥ・ソレイユはイリュージョンの産業。実際、従業員数4000の一大企業なわけだし。
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『怪談』('07、中田秀夫監督)

2007-08-30 | ダンスとか
なんばパークスシネマ。
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ダンスの時間 2007 Summer Festival(第七日・夜)

2007-08-26 | ダンスとか
天王寺・ロクソドンタブラック。
▼室町瞳 『おいしい場所』
バレエのテクニックを主として作られたソロ。場所を動かずに向きを変えながら同じ振りを繰り返したり、対角線上で移動するなどして、空間を構成していく。三宅純の音楽など。
▼アンサンブル・ゾネ 『Fragment』
真っ暗闇の中で規則的に何かを引きずり回す音とともに、複数のダンサーが動いている気配もあり、この冒頭の時間がやけに長くて怖かった。こういうのはすぐ終わるんだろうと思っていると案外終わらなくて、だんだん焦ってくる。そしてこの異常な状況に自分を馴染ませようとして、やがて何か違ったものの見え方(状況との対峙の仕方)が出来てくるのではないかという希望を抱き始めた頃、ようやく終わって明かりが入った。岡登志子の場合、こういう観客に突きつけられる「残酷さ」みたいなものが、よくある幼稚な攻撃性(こけおどし、すなわち結局はコミュニケーション)では全然なくて、むしろコミュニケーションの兆しを徹底的に潰した結果として生まれているように見えるところが好きなんだと思う。怖くて危険なんだけど、抽象的な危険性で、害を与えられるとか生存が脅かされるとかいうこととは関係なく、自分を内側から支えているものがただ崩れてしまう、スリルがある。出演者は五人で、仕種の反復から発展していく動きが目立った気がする。冒頭の暗闇のシーンは、実際には三人のダンサーが丸椅子を脚の周囲に素早く引きずって回転させ、座ったまま前進、ということを繰り返していたのだが、非常にテキパキとした椅子の扱いも、規則性(厳密さ)と暴力性(乱暴さ)が融合していて奇妙に美しかった。他に、力んで前に駆け込みながら行きつ戻りつする場面など、男の踊りが分厚い。アンサンブル・ゾネをこういう小さい空間で見ることは珍しいが、身体の肌触りが空間の様式美に埋没することなくグッと浮き立っていて新鮮だった。来年の新作のためのスケッチのようなものらしい。
▼村上和司 『RED さん』
赤いレスリングウェアみたいなものに赤い水泳用の帽子、ゴーグルの三人。無言で機械っぽく滑稽なアクションをする。『RED MAN』というソロが元なので、ブルーマンの向こうを張っているのかも知れない。
▼j.a.m.Dance Theatre 『tango』
久しぶりに見たj.a.m.は、久万田はるみと森井淳のデュオで、ストライプ模様の衣装を着て、なぜか口を最大限に開き、互いに口と口が触れるスレスレの位置をキープしながら、闘うように絡み合う(音楽は当然タンゴが流れる)。だんだん激しいコンタクトっぽくなっていくのだが、体が直接的にぶつかり合うようになってからよりも、その前の、間合いを意識しながら急激に距離を縮めて攻めたり、立場が入れ替わったりする、ジャムっぽい段階が面白かった。実際にぶつかってしまうよりも、現実と想像力(相手の反応の「読み」)が絡み合った状態で動いている時の方が、ダンサーの体に走る力の流れが複雑になっている。例えば単に「押す」にしてもそこに同時に引き留める逆の力が働く(「加減」をする)。どんなリアリティも、「リアル」ということに決定されてしまえば、全部結果が出てしまっているわけだから、面白くない。その行き詰まりをいかに外すか、流動化させるか、遊戯化するか(不真面目にするか)、を考えることはたぶん面白い。
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セレノグラフィカ 『待たない人~樹下の双魚に~オリエンタル版』

2007-08-22 | ダンスとか
ダンスがみたい!9。
麻布die pratze。
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Makhampom

2007-08-19 | ダンスとか
Makhampom, Mahajanok Never Say Die

Bangkok, Studio Makhampom、夜。
野田秀樹の『赤鬼』やネセサリー・ステージの『モバイル』などにも出ていた、Pradit Prasartthong の劇団のアトリエ公演。大きな道の交差点にある小さな劇場で、歩道から一歩建物に入るとすぐ客席(キャパ50人くらい?)、カフェも付いていてちょっとオシャレな雰囲気。週代わりで英語版/タイ語版をやっていて、この日は英語版。海外ツアーのレポートのようなヴィデオが流れてから芝居が始まる。Pradit と もう一人の女優、それとナレーターの三人で、2004年のスマトラ沖地震の津波で家族を失い、後に残された人間が「罪責感」に苛まれて彷徨うという話を、神話と絡め、古典演劇の仮面を随所で使いながら演じる。とにかく狭い空間なので棒立ちの独白が多く、それとシーンの再現部分が組み合わされている。よく意味がつかめないところもあったが、アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの』(特にその「恥」についての議論)を思い出し、重ねながら見ていた。実質35分~40分くらいの短い芝居。2004年の現実の出来事と、神話のモチーフをつなげるというのは、アジアの現代演劇では珍しくないとしても、日本人にはやはり新鮮に感じる(でもバンコクで地元の観客に混じって見たからそう感じるのであって、もしこれが東京だったら「タイの現代演劇」というラベルが先に来てしまうから実感は弱まっただろうと思う)。少なくとも、ラーマキエン(ラーマーヤナ)が一種の「普遍」的なモデルとして機能するような共同体に属している、という意識が共有されていなければ、こういう表現は成り立たない。例えば日本の現代演劇で、能や歌舞伎の「様式」を引用することはあっても、神話や歴史の「物語」を、現代の出来事を語る際のモデルとして重ね合わせるなんていうことはちょっと想像しにくい。日本には国民的な「神話」がないのではないか。
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Live Arts Bangkok (第三日)

2007-08-18 | ダンスとか
Bangkok, Kukrit Pramoj House.
初日と同じ会場。今日は全て劇場(?)にて。外は一時大雨。
▼Jecko Siompo, Tikus Tikus
もう一度これを見ることができて嬉しかった。一昨日は二人の動きの同質性に目が行ったが、今日は女性ダンサーの方がシェイプが強く、くっきりしていて、それに対してジェコ・シオンポはもっとリラックスして踊っているのがわかった。中は固いのだけど外の方は柔らかい果物のような、こういう悠揚とした踊りっぷりをもっと集中して見てみたい気がする。デュオだとどうしてもコントラストが立ってしまって、余計な力を抜いた踊りはなかなか目立たなくなる。
▼Hun Pen + January Low, Seen Silent
カンボジアの Hun Pen はカンボジア舞踊、インド系マレーシア人の January Low はオディッシーを専門にしていて、それぞれが自分の踊りを見せたり、互いの踊りを交換したり、あるいはダンスを習得する過程でのぶっちゃけたエピソード(苦痛とか、性的なことなど)を公然とお喋りしたりするという作品。初演。オディッシーは垂直的に刻まれるカウントで力強くステップを踏みながら体の向きを操作し、カンボジア舞踊の方は入り組んだ曲線のポーズを彫像のように見せる。1+1が単純に2になっていて、啓蒙的で、あまり面白いとは思わないが、若いダンサーが古典の外に出て行く、とば口のようなものだとしたら、言葉を使って簡単に踊りの「外」に立ってしまう前に、まずは動きと身体に内在し続けてみて欲しいと思った。作品タイトルも、踊り子=サバルタンという、しかしそんなに単純なことだろうか。
▼Dick Wong + Wannasak Sirilar "Kuck", Encounter #1
二回目でも、もう少し楽しめるかなと思ったが、何が起きるんだろうという期待感のテンションが自分の中になくて、ちょっとつらかった。Kuck は「バレエ風に」という指示を全うしていた。
▼Fahmi Fadzil, Wayang Buku
マレーシアの二人組のパフォーマンス。Buku は Book だから、「本のワヤン」といった感じ。電球のパッケージに電球を入れて、影絵を見せる導入部分は気合を感じたのだが、大統領と首相のヘナチョコなコントでTVを批判したりするくだりからちょっと厳しくなり、どんどん冗長に伸びていって最後は観客も疲弊してしまった。メインは、色々な本を登場人物として扱って茶化す場面で、『Very Thai』(現代のタイ文化を紹介した英語のベストセラー本)、アンダーソン『想像の共同体』、アドルノ『本来性という隠語』、リチャード・シェクナー、ウィニッチャクン『地図がつくったタイ(Siam Mapped)』、Live Arts Bangkok のプログラムなどが並べられる(後で聞いたら、もともとは書店イヴェントとして上演したものらしい)。方向性としては好きだが、もう少し表現としてのクオリティを上げないと。LABのパンフレットがなかなか立たなくて、風で揺れて何度も倒れてしまったところがあったが、せっかく紙が生き物のようなアナログな動きを見せてくれているのに、パフォーマーは全然絡んでいかなくて、勿体ないなあと思った。
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Live Arts Bangkok (第二日)

2007-08-17 | ダンスとか
Bangkok, Siam Society.
会場は20世紀初頭に作られたという文化センター。普通のプロセニアムで、客席はフラットなので、ちょっと舞台は見にくかった。
▼Donna Miranda, Beneath Polka-dotted Skies
フィリピンの女性ソロで、去年の横浜のソロ×デュオに出ていたのと同じ作品。今回が初見。スーツケースに荷物と一緒に刃物を詰める奇妙な映像が流れた後、その手前で踊るのだが、フロアが多用されているために細かいところがよく見えなくて残念だった。
▼Zan Yamashita (山下残) + Thongchai Hannarong "Boy", Cough
山下残の『せき』(04年)を、タイのダンサーで上演。背景のスクリーンに「せきをする」「倒れる」「本を読む」「笑う」「せきをする」などといったテクストが淡々と流れ、ダンサーも淡々とその通りに行為する。文字と行為がひたすら平行線を保って進んでいく。何だろうこれは?どこをどう見たらいいんだろう?と入口をあれこれ探しているうちに、最後まで行ってしまった。尾崎放哉が元ネタになっているので、俳句的な間のようなものがもっと見えてくればいいのかも知れないが、別にそれだけではないのかも知れない。ぼくはオリジナル版を見ていないので比較はできないものの、ダンサーが何度も転がったり起きたりするところは明白に動きが様式化されていた。
▼Phon Sopheap, A Monkey's Mask
ここで一度中庭に出て、昨日と同じ演目。今度は庭が小さく、観客がぐるっと囲んでいるので、踊りの緊張度も高く、シャープに、劇的に見えた。演じ手の、「演じる」気迫が、見る者に虚構を受け入れさせるということがあると思う。最後は人をさらうのではなくて誰かの荷物をもって逃走。
▼Spell #7, Tree Duet
シンガポールのパフォーマンス・グループで、去年のIDFでは別の作品を見たが、今回は Paul Rae によるソロ作品。木の椅子、ペットボトル入りの水、一冊の本だけで、フラッと出てきて、「木」をめぐる様々なエピソードについてトークをするのだが、いかにも人を食ったような感じの、しかし演芸調には絶対持って行かないフラットさ(平凡さ)を完璧にコントロールしていて、これは凄いなと思った。例えばちょっと長めに水を飲むだけで、そこに何となく意味を読み込ませてしまったりする。話し方自体には何も変わったところはなく、ただ観客の注意を引き付け、さらりと意外な展開を見せて素で驚かす。話している内容は、シンガポールの寺院にある古木の話や、タイのゴム産業がアメリカのフォードのお陰で急激に発展する話、エコロジーの話などで、視点を目まぐるしく移動させながら、いかに木がわれわれの生活や存在と関係しているかを納得させる。Duet というのもそういう意味か、と後からすっきりする。
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Live Arts Bangkok (第一日)

2007-08-16 | ダンスとか
Bangkok, Kukrit Pramoj House.
70年代にタイ首相も務めたククリット・プラモー(1911-1995)がかつて住んでいた邸宅。バンコクにはほとんど残っていない、古式ゆかしい伝統的なタイ建築とのこと。細かいことはよくわからないが、一階部分がピロティになった母屋を抜けると広い庭があり、そこの東屋で最初のパフォーマンスが始まる。SEAMEO-SPAFA(東南アジアにおける芸術や歴史的遺産の保護および振興が目的)の主催によるこのイヴェント全体が、歴史的建造物と現代のパフォーマンスを組み合わせるというコンセプト。
▼Tin Maung Kyi, Zau Gyi
ミャンマーの人形劇の復元にあたっているSEAMEO-SPAFAの研究者による簡単なパフォーマンス。細かく繊細な造形の人形だが、特徴がどの辺にあるのかはよくわからない。上演というよりデモのような感じ。
▼Phon Sopheap, A Monkey's Mask
続いて、広い庭の芝の上で、カンボジアの若いダンサーがソロを踊る。自身の専門である猿の踊りを発展させたものとのことで、中央に置いた猿の面の周囲を移動しながら、時にアクロバティックに飛び回り、時に牧歌的な優しい雰囲気で、猿の様々な仕種を演じる。元の踊りがどんなものか、全く知らない。マーシャルアーツのようでもある。最後は観客の一人を拉致して消える。タヴナーのような現代音楽的なものを使っていた。いわゆるコンテンポラリーダンスの本格的なトレーニングは主にインドネシアで受けているようだ。
▼Pichet Klunchun, Pichet's Code
庭から母屋を抜けて反対側にある小さな半屋外の建物。本来は何のための施設なのかよくわからないが、中央に細長い舞台のようなものがある。ピチェ・クランチェンの新作ソロ。最初に床にチョークで丸、三角、四角を画くのは、彼自身によるコーンの分析の中でも出てきた要素だろう。その後、紙を上から落として、その落下する動きを腕で表現する、ということを何度か繰り返し、コーンの動きを使ったフォーサイス風の即興へ。タイトル通り、Codeを見せるということなのだろうが、振付作品として「楽しめる」というところまではまだちょっと距離がある。
▼Jecko Siompo, Tikus Tikus
前にジャカルタでも見たことのあるデュオ作品だが、近距離で改めて見て、度肝を抜かれた。動きのフレーズとか、ちょっとしたエピソードのようなものの、極度に短い断片の、呆れるほど忙しない連鎖。バネが完全に殺されていて、動きが一切伸び縮みせず、ひたすら細かい急停止・急発進、パワーだけが眼前に迫って来る。手首を10センチ動かすにも加速なしでいきなり最高速度が出る感じなので、動きに起伏(ドラマ)がない。他に類のない独特の振付言語といっていいだろう。パートナーは長い間バレエをやっていた女性だが、二人の動きの質がほとんど同じというところにも驚かされる。
▼Dick Wong + Wannasak Sirilar "Kuck", Encounter #1
香港のパフォーマンス・アーティストが、タイの役者を迎えて作った新作。まずジャンケンをして、負けた方が立ち、勝った方は椅子に座る。立っている方が何か短い動きをする。他方が「ノー」と言うと、別の動きをやる。やがて「イエス」が出ると交代。さっきの動きに、別の動きを続けて作る。これを繰り返して、トリシャ・ブラウンの Accumulations のような感じで一続きの振りを拵え、二人で踊る。またジャンケンをして、どんな風に踊るかを決める。「ピチェ風に踊る」というのを Kuck がとても巧くやって、盛り上がった。さらにラジオが持ち込まれて、相手が指定した音で踊る。最後は互いの顔写真のパネルにペンで好きなように手を加え、それぞれ見合って、終わる。単に踊るのではなく、踊るという行為のパフォーマティヴィティに照準した作品で、シンプルながら知的で面白い。動きそのもののや、解釈もあるが、それ以上に、動きを考えているところとか、考えながら動いていたりする様子、そして言葉以上に目配せや呼吸でコミュニケーションする二人の意識の動きが、まるで手に取るようにわかる気がして、ドキドキさせられる。Kuck は現代演劇の女形の役者らしく、愛嬌のあるキャラクター。
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神村恵カンパニー 『ビーム』

2007-08-13 | ダンスとか
踏みはずし vol.6。
王子神谷・シアター・バビロンの流れのほとりにて。
出演/岡村泰子、坂本典弘、松田多香子、神村恵、音楽/UNKOWNxHARDxERROR
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『インランド・エンパイア』('06、デヴィッド・リンチ監督)

2007-08-13 | ダンスとか
恵比寿ガーデンシネマ。
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天狼星堂 『八月』

2007-08-11 | ダンスとか
中野・テルプシコール。
闇配師/大森政秀、出演/大倉摩矢子、ワタル、小野由紀子、山下浩人。
三人がパラパラと出てきて、いきなり稽古場っぽくウォーミングアップのようなことを始めて面喰らった(素の表情で稽古着なのに白塗りはしっかりしている)。するとそこへ明らかに異質な感じの、白い服を着て髪を前に垂らした男(山下)が入ってきて、三人はあわてて去り、短いソロ。その後はワタルと小野のデュオやソロ、さらに山下のソロ、という具合に続いて、大倉の出番は最後の方の長いソロのみだった。これといった仕掛けや筋立てもない上、個々の体というよりむしろ技術(テクニック)を見せようとしているなあという印象を受けたのだが、特定の誰かを目当てにしているとかえって他の踊り手をニュートラルに見ようと努力してしまって落ち着かなくなり、翻って、自分はどれだけ大倉の踊りをニュートラルに見られるだろうかというプレッシャーにもなってくる。大倉は客席入口からサッとお客のように入ってきて、素の感じで舞台に進み、妙な具合に腕を持ち上げたりして下手の方を気にしながら上手に移動、壁に寄って止まった。そのまま長い間止まっていて、どんどん素の感じから遠ざかっていく。特に何か踊りのモード(非日常)に入っていくわけでもなくて、柔らかい体のまま「すごい勢いで止まっている」というか、ドアから入ってきた時の足取りの普通っぽさからの落差が広がるために、大倉の周りを時間が加速しながら流れていくように感じられる。その後、奥の壁伝いに、片腕を上に粗く突き上げて、上体を上に引き上げながら、体重を部分的に壁に預けつつヨロヨロと進んでいく。ここの、無調のヴァイオリン(わりと知られている曲)の部分は正直よくわからなかった。型じゃない何か明確なことをやろうとしていながら踊りの核がまとまらない感じがした。その後いきなり下手からさっきの山下が現われ、大倉は再び一気に素に戻って声を出してコミカルに追っ払い、おもむろに舞台中央辺りで腕を浮かした踊りに戻る。嵐の音にノイズが混ざったようなものが流れ始めると、さっきまでと大体同じ動きが芯をもってきた。体を浮かしていっているのか沈めていっているのか、重みの中心が不安定なまま柔らかく激しく縦に揺れる。全く型に落ち込まずに、シンプルなモチーフから強く出力する。ここの動きは、見ていて入り込み過ぎてしまって、あまり記憶が残ってないが、大倉の踊りを見るというのはこういうことなんだと思った。ところで白い衣装を着た山下は、何だか幽霊みたいで、しかも足元がゲートルだか包帯だかで締められているから、時節柄、戦没者の霊なのだろうか。
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『街のあかり』('06、アキ・カウリスマキ監督)

2007-08-09 | ダンスとか
渋谷・ユーロスペース2。
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砂山典子 『First-Class Barbarian』

2007-08-07 | ダンスとか
ダンスがみたい!9。
神楽坂die pratze。
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白井剛 『THECO-ザコ』

2007-08-05 | ダンスとか
三軒茶屋・シアタートラム。
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砂連尾理 『陰圧 <In-atsu>』

2007-08-05 | ダンスとか
ダンスがみたい!9。
麻布die pratze。
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