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ダンスとか。

細田麻央 『タニス』

2004-09-26 | ダンスとか
中板橋・新生館スタジオ。
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『地獄の季節 朗読とダンス、チェロ演奏によるA.ラムボー』

2004-09-25 | ダンスとか
渋谷・Honey's Cafe。
ダンス/高野美和子、伊東歌織、朗読・ヴィオル/雪香。
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『夢十夜 -Ten Nights Dream-』

2004-09-23 | ダンスとか
Art Union人間風景 presents おととうごき。
明大前・キッド・アイラック・アート・ホール。
構成・振付/加藤文子、箏/八木美知依、出演/小林拓、鶴見未穂子、小山田譲、加藤文子。
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『古代のファンタジー 卑弥呼 ~現代の踊るシャーマン達』

2004-09-23 | ダンスとか
上野・東京国立博物館、昼。
総合演出/上田遥、出演/小島章司、舘形比呂一、橋本拓也、熊谷和徳、三木雄馬、他。
一度も見たことない有名ダンサーがまとめて見れるというお得感に加え、タップの熊谷和徳が出ていたので見た。小島は天照、橋本はスサノヲ、三木はイザナギ、熊谷は月読、舘形は卑弥呼を演じ、各々の見せ場が物語風に綴られる。小島、橋本の担当分と、熊谷のパート以外は振付も基本的に上田による。三方を客席が囲む舞台で、紫にオレンジとかの照明に電子的で「和風」な音楽とか、まあそういうもの。最初に紫色のレオタードとレースのスカートを付けた女性ダンサー4人(コロス)が出てきて踊り出した時、石井漠舞踊団の女性たち(崔承喜とか)がデパートの屋上で踊っている映像とか、昔の日本映画で時々出てくるモダンダンスの舞台のシーンとかを連想してしまった。まさに十年一日。ただし当時の人々は苦労してあれを編み出したのであり、こっちはそれをなぞっているのだということは忘れてはいけないだろう。熊谷は誰とも絡まず、無音で踊った。恐ろしく細かいステップを刻みながら舞台を一周したが、あまり長くない出番ながら、わりとユルめに流していたように思う。橋本拓也は「荒ぶる神」という設定で漠然とした「悪役」を演じる。モヒカンであり、音楽は電子ギターおよびベースであり、ダルそうに歩き、道端にしゃがみ、女を引っかけ、暴力を振るう、という風に、誰もが否定しないであろう「悪」のイメージの最大公約数。彼を退治するのは天照=小島章司で、その武器はいうまでもなくステップである。バンバン!ババババ!とたちまち追い払われてしまう。誰も笑ってなかったけど。小島章司フラメンコ舞踊団のダンサーたちと、モダンのダンサーたち(コロス)がユニゾンをすれば、同じ振りでも体の使い方が全然違っているところも興味深かった。大トリを務めるのが舘形比呂一。初めて見たが、こんなにナルシスティックな人間は見たことがない。コロスを従えて、口で音を出してユニゾンを合わせていた。カーテンコール時に判明したが、彼のファンがかなり多かったようだ。
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東京コンペ#1 ダンス&パフォーマンス部門 ダンスバザール大賞 最終公開審査

2004-09-20 | ダンスとか
丸の内・丸ビルホール。
時間の都合がつかず途中から。西尾美也 『Untitled(無題)』、初期型01-04 『ワキのニオイをワキガという』、長尾忍 『ランチタイムPM11:00~PM14:00』、渡邊芳博 『混欲- flow』、わしろじんぺい/JINPEIプロジェクト 『光り絵』は見られなかった。各10分以内で、伊藤キム、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、三浦雅士が各賞を選出。
▼たかぎまゆ 『UNDER GROUND CHEER LEADER 2』
「吾妻橋ダンスクロッシング」の時のものをベースに圧縮。良かった。振付と構成がカチッとしているから、コンセプトや狙いが非常にクリアで曖昧なところが少ない。今の日本のダンスはどちらかというと個人的でプライヴェートな世界にこだわっていることが多いから、こうやって「日本的なるもの」に言及したりする表象系アプローチは貴重。ただ、「餅!」と声を出して説明するより、もっとダンスないし体をして語らしめてほしいとは思った。
▼はむつんサーブ 『アニメーションスタイルダンス』
赤い衣装の男性二人組。作品タイトルのように掲げられているこれも実は単なる様式(ジャンル)の名称に他ならないわけで、ストリートダンスの中で、あるいはポッピングの中で、あるいはアニメーションの中で、彼らがどの程度突出した存在であるのかは疑問。先日の We Love Dance Festival を見ただけでも、もっと凄いものがいくらでもあることはわかる(そのように客観的に優劣がある程度決定されてしまうジャンル特性自体を、そもそも肯定し受け入れるかどうかもきちんと考えるべきポイントだと思う)。審査員の一人、伊藤キムは「あれだけの動きでユニゾンをやっているなんて凄い。世界にも通用します」と講評を述べていたけど、いかに「創作系」(ストリートの側からするとこう呼ばれる)のダンスの水準が知識面でも技術面でも低いかということを赤裸々に明かしてしまった感がある。しかもその無知を自覚せずに「審査」という権力を行使してしまっているのは痛い。
▼ほうほう堂 『マーブル』
久々の新作。衣装がカラフルに戻ったが、音楽はちょっと隠微な感じのサックスなども聞こえてくる。お互いの体に絡んでゲーム的なやり取りをする基本は変わらない。正面向きに横に並んで、相手を突き飛ばしてから走って追い越し、今度は自分が突き飛ばされ、というのが4回×2セット行われる時、その突き飛ばす勢いが中・中・弱・強と設定されていたりした。しかし一つ一つシーン(ゲーム)を見せているというところに留まり、何か独特のテイストでもってこちらをとらえてくるまでには至らなかった。時間が短いのでもう少し強引に観客を引っ張っていくようなスペクタクル演出をしてみても良かったかもしれない。
▼康本雅子 『メメごと』
前半は無音で回転し続け、途中から音楽が入る。彼女が本当にやりたいのはこういうことなのだと思うが、ぼくはそれに全く関心がもてない。舞台上でここまで幼稚な振る舞いができるという開き直りを含め、人および体としてのキャラクターがあるから、好きな人は好きなのだろうし、ぼくは好きじゃない。いずれにしてもたかだか好き嫌いのレヴェルの問題であり、そこがつまらないと思う。
▼高橋砂織×三好絵美 『白い恋人』
yummy danceの、ちょっと信じられないレンジの広さを示す飛び道具。馬のマスクを膝に付けた三好と、頭に付けた高橋の乳繰り合い。人間だとわかっていても馬に見えてきたり、馬として見ていながらも口から人の足が突き出していたり、地と図の関係が絶え間なく揺らぎ続けるところが面白い。丸ごとネタ勝負みたいな悪ノリには決して流れていないのだが、もう少し表現の精度を上げないとネタしか受け取ってもらえないだろう。こだわればやれることはいっぱいありそうなのに、やっていないという感じがした。
▼pass into silence+Ruby 『sakura 2004』
背景に「イメージ映像」的なものが映されて、その前で踊る「モダンバレエ」。はむつんサーブと似たようなことがいえる。そもそもがすでにジャンルとして様式化してしまっているダンスであり、またその中でこれが抜きん出ているわけでもない。なぜこれが一次審査を通過したのか?「色々なものを集めて混ぜる」ことが「ジャンルの壁を壊す」ことだと錯覚しているところが80年代的なバブル=ポストモダンの症例であり、審査を含め、企画全体がバブル崩壊のトラウマからいまだに立ち直れずにいる人々のものであると思う。異ジャンル間で行われる「コラボレーション」などもそうだが、ジャンルを否定しようとしてかえってそこにとらわれる。むしろジャンルの本質を手加減せずに、しかもできるだけ個人的な仕方で、掘り下げていける知性こそが人を本当の狂気に導いたりする。
▼岡本真理子 『まばたきくぐり』
何度見たかわからない作品の最短ヴァージョン。手際よくまとめられ、今まで見た中ではベストの出来だと思うが、そもそもぼくはこの作品に興味がもてない。押し付けられてくる世界観。折角だからと足を踏み入れてみれば、もっともっとこっちへ来てよく見て下さいと要求される。
▼ひろいようこ 『マシュマロ・アワー』
見る度に体がどんどん変化していて本当に驚く。別人のようだ。前にセッションハウスで見た作品だが、今回はハコの大きさに合わせて動きが大きく力強く、構成も違っていた。フワフワした白い布の円の空間に閉じこもる場面が短く、早々にそこから出て、最終的には布に包まり自分がマシュマロになってしまう。体は集中度が高く、強かったと思うが、同じ程度に強いイメージが立ち上がっては来なかった。おそらくもう体が作品を追い越してしまっている。
▼身体表現サークル 『範ちゃんへ?』
特に今回の上演が、というポイントは見当たらなかったが、やはり面白い。全く個人的な視点から考察され、定義されたダンスが、限りなく純粋に抽出されたもの。彼らの眼には「ダンス」はこのようなものとして映った。なぜ機械という、作用と反作用だけからなる存在に憧れずにはいられないのか。そして憧れている自分への猜疑心に苛まれているという点において、「ダンス」の商標に依存した楽観主義者たちとは一線を画している。
▼鈴木ユキオ 『明日の為に〈その1〉体温、体音』
全身を外側につっぱり部位をアイソレートして動かすところはいつもと変わらないが、あえて勢いを殺してストイックに踊り続けた。正面を向くか、真後ろを向くかで、空間をあまり使っていないから自ずと体そのものに視線が向かう。それが見せたいのだと思う。しかし動きに対する執着がどうもひたすらにフェチ的で、踊っていて本当に楽しいのかなあなどと醒めて見てしまう。予測不可能な衝動と向き合わず、計算できる範囲だけで動いているように感じる。
▼PORT+PORTAIL 『生きものの記録』
Kim Miyaが仕切った、どちらかというとダンス寄りの作品。客席から引っ張り出された仕込みの男を四人の女が取り囲み、ソフトに輪姦して、しかる後、全員妊娠する。演劇的な身振りを反復・加速させてダンスへなだれ込む常套的な手法で、後半は妊娠した女たちのシンメトリカルなダンスになる。ダンスそのものはごく保守的なものだが、プロットには惹かれた。妊娠した後もう一押し、オチが見たかった。
<結果>
大賞=岡本真理子。優秀賞=はむつんサーブ、初期型01-04、康本雅子。審査員賞=渡辺芳博(伊藤キム賞)、ほうほう堂(ケラリーノ・サンドロヴィッチ賞)、西尾美也(三浦雅士賞)。協賛賞/キヤノン賞=身体表現サークル。協賛賞/大丸有エリアマネジメント協会賞=PORT+PORTAIL。協賛賞/丸の内法人会賞=たかぎまゆ。
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沙羅 『空ノかけら』

2004-09-20 | ダンスとか
元麻布ギャラリー。
7月のダンスシードで初めて見て、その時にフライヤーをゲットし、これは絶対行くと決めて二ヶ月待っていた初ソロ公演。とにかくインドに凝っているようで、それっぽいオレンジ色のケープをかぶってゆっくり歩いて回ったり、南アジアらしいエスノ・ポピュラー音楽や、テクノ(→ゴアトランス?)がかかったりする。そういう意匠はまあ別にして、前半はとにかくケープやらいくつかの衣装、あるいは上から吊るされた筒状の黒い薄布などで、身を覆い隠し続ける。周囲をグルッと取り囲んだ観客の前で、空間をしっかり把握し背負い切れていない、頼りない身の立ち方が、そういう被膜によってフォローされてしまっているように思った。作品を作り始めてまだ半年も経っていないのに、こういうシチュエーションでの即興ソロは無謀だろう。終始摺り足、最低でもつま先だけは床から離さず、身の丈だけで動く。手振り中心で、ヴォキャブラリーが明確ということも、豊富ということもない。ただし、いい加減なこととか無理なこととかを決してしない真面目な踊りで、その分おとなしく、体が縮めば縮むがままにまかせるばかりだが、どこか気概というか芯の強さがあり、観客にもたれかからず一人で闘う。見てくれを操作しようという気が全くない、こういう踊りなら不首尾でも許せる。黒いワンピースで床を這って、立ち上がり、移動しながら上体で踊り出したところで、ダンスシードの時に感じたこの人の体の質感の記憶がかすかに甦ってきた。ここからがスタートだな、と思ったらそこで終わってしまった。残念。約45分。
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ラ・サプリメント・ビバ 『ブルドーザー愛好会』

2004-09-19 | ダンスとか
しもきた空間リバティ。
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演劇計画2004+青年団リンク・地点 共同プロデュース 『じゃぐちをひねればみずはでる』

2004-09-18 | ダンスとか
こまばアゴラ劇場、夜。
→『ダンスワーク』56号「2004年ダンスの総括」にてレヴュー
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「リアクティヴィティ――反応=再生する可能性」展

2004-09-18 | ダンスとか
新宿・NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]。
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塩田千春 新作展 - 落ちる砂

2004-09-18 | ダンスとか
新宿・ケンジタキギャラリー。
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ジンジャントロプスボイセイ 『かもめ』

2004-09-18 | ダンスとか
天王洲アイル・スフィアメックス。
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はぎ子別館 vol.02 松コース

2004-09-13 | ダンスとか
西麻布・Super Deluxe。
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トチアキタイヨウ+ホナガヨウコ+ゴセッキー+ふくお+マツウラシンペイ

2004-09-12 | ダンスとか
新宿・シアターPOO。
このライヴもずいぶん回を重ねてきて、ついにダンサーが増えた。ホナガヨウコはこの前のニブロールに出ていて、今度は金魚×10にも出る。パーカッションが二人なので、ただでさえ狭い舞台奥は完全に塞がれ、空間は異様に狭い。前に見た時と同じように、なぜか「モイスチャー・リンス」という単語を断片的に口にしながら、音とセッションしていく。動きはこの前よりずっとしなやかで、時折「エッ?」と目を疑うような瞬間があった。暴れ馬の如く荒々しい腕のストロークがいつの間にかそれを打つムチにすりかわり、弾力が抑止力にフォローされて、何事もなかったかのように凪ぎに戻る。足元も軽やかで、これはいいライヴになるのではないかと思った。客席に背を向けて、二人のパーカッショニストを指揮するようにして(DCPRG風に)、ミュージシャンたちとアイコンタクトをとりながらハチャメチャに踊るところが凄かった。激しく上下にブレる背中から、音楽としかいいようのないものが聞こえてくる。ミュージシャンたちもそれを見ながら駆け引きや取り引きを楽しんでいる。まさにダンスと音楽の境界が消える感じ。これで前を向いてくれたら完璧なのにと思っていると、前を向いたのだが、するともうミュージシャンたちもダンサーの動きを見ることはなくなってしまった。つまりミュージシャンたちにとって、ダンサーの体の動きを見るためには、体を直接見るのではなくて目を見るということが必要であるようだった。目にフォーカスを合わせて、周辺視野で体の動きをおぼろに受け止めているのに違いない。だから背中を向けられてしまうと、手がかりを失うので、もうコミュニケートすることを止めてしまう。ダンサーが背中で表現できるべきであることはもちろんだが、ダンサーと共演する以上、ミュージシャンが背中と交感できることもまた要求されていいだろうと思う。しかしそれと同時に、彼らがダンサーの体のディテールをいちいちトレースすることなく、周辺視野で大づかみにダンスを受け止める、その知覚のあり方にも強く興味を惹かれる。そこにはもしかしたら、「身体」だの「フォルム」だのというものはなく、ただ「ダンス」というものだけがあるのかもしれない。その領域では、ダンスと音楽の間の区別は本当に完全に消えるのかもしれない。終盤になって、「ちょっとダンスくさいのもやってみます」と言いつつ、ホナガと二人で振付けられた踊りを見せた。中空を眺めて、その顔の向きをユニゾンで動かしていったりする。「ダンスくさい」というのは要するにこのフォルムに満ちた振付のことを言っているのだし、そしてさっきの音楽と区別のつかないような非フォルム的なダンスは、「ダンスくさくない」ダンス、つまりよりナチュラルなダンスであると言いたいのだろう。それと振付と、いったいどっちが、ダンスと呼ばれているものの本質なのだろう。ダンスくさかろうがなかろうが、振付だろうがルールだろうが、何にせよ体の動きはあるスイッチが入りさえすればダンスになるし、入っていなければダンスにならない。そのスイッチを「生命」とかそんな曖昧な言い方でしか表現できないだろうか。しかしあの「ダンスくさくない」ダンスの方が、ほとんど何の振付も与えられておらず、むしろ動きのパターンを自らひねり出してきているという点において、振付のあるダンスよりもより根深いダンスだと思われる。「ナチュラル」。使いたくない言葉だ。なぜなら、それがダンスとして成立してしまった時点ですでに、フォルムや振付が事後的に生成してくるのだから。こういうダンスにおける「生命性」を、「ダンス自体 Tanz an sich」と名付けてみるのはどうだろう。そしてそれは決して、剥き出しの形では現象してこない。必ずフォルムを身にまとい、汚染された形で現象してくる。ミュージシャンはそこから目をそらすために、ダンサーの体ではなく、目を見る。どうだろう。ライヴ全体としては、もうちょっと恥ずかしがらずに、傲慢な感じでやってほしかった。セッションとセッションの合間にトチアキのMCが入るところがいわゆるダンスの公演とは違う。MCを「素」=地として、ダンスが図になる。ただし自分の体を楽器のように客観化して使うことに関してはホナガの方が長けていると思った。
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(トリのマーク) 『ワニキシは花を プシュカルは山を』

2004-09-12 | ダンスとか
向島百花園。
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藤原理恵子

2004-09-12 | ダンスとか
亀有・延年寺。
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