dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

Joyce S. Lim / Paz Tanjuaquio

2005-10-30 | ダンスとか
NY, St.Mark's Church in-the-Bowery.
▼Paz Tanjuaquio, Thunder Against 1.2.3.
▼Joyce S. Lim, splitting the night sky
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4.48 Psychose

2005-10-30 | ダンスとか
2005 Next Wave Festival.
NY, Brookly Academy of Music, Harvey Theater.
By Sarah Kane. Directed by Claude Regy. Cast Isabelle Huppert, Gerard Watkins.
クロード・レジの演出は、イザベル・ユペール(本物)が舞台のエプロン中央に立ち、100分あまりもの間そこを一歩も動かずにひたすらモノローグを続けるというもの。移動しないどころか声の抑揚も身振りもギリギリまで削ぎ落とされている。ぼくの席からは手が時折りわずかに上下に動くのが見えたが、近くの席からは表情の変化がはっきりわかるという。背景のスクリーンに文字や数字が浮び、その向うにぼやけたシルエットで男の姿が現れる。立ち尽くすことのフィジカルな迫力によって、声にならない叫びを上げているようにも見えるユペールの演技は鬼気迫り、とにかく全く飽きずにずっと引き付けられてしまって驚いた。演出としてみれば、押し付けるのではなく「引き」で注意を喚起(吸引)し、観客に考える時間を与えて想像力を活性化しようとする手法は少々いやらしく感じられなくもないのだが、それ以上に、「立つ」ということを徹底的にやり倒す女優の力に圧倒される。この求心力がなければ、これは成り立たない。身体の発する力には、目に見えない言葉でうまく言えない部分がたくさんあるものだ。感覚的に「空間のつかみ方」などといってみれば、「つかむ」とはどういうことかもうわからない。立ち方、筋肉の緊張度、目の焦点の距離、呼吸のリズム。
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Ursula Eagly / Rebecca Davis

2005-10-29 | ダンスとか
NY, The Chocolate Factory.
▼Rebecca Davis, The birds are here. I hear them.
▼Ursula Eagly, Nobody Try to Be a Hero
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DEAR LAND

2005-10-29 | ダンスとか
NY, Performance Space 122. 昼。
Directed by Lydia Steier. Performed by the International Contemporary Ensemble.
実験的な音楽のシアターピースの二本立て。こういうものは日本ではどちらかというとコアなマニア向けの文脈でしか流通しないような気がするが、NYではこうした PS122 や The Kitchen のような場所で色々なものが同列に並んでいる。もっとも、特にダンスについては、近年の日本のようにある程度ジャンルが自律していた方が本質が深められて良い面もあるし、本質的なことのディープな追求と自閉とを取り違えて過剰なオブセッションを抱いてしまったり、「開かれ」ていれば何でもいいかのような風潮もどうかと思うが、ただコアでマニアックな表現がコアでマニアックでない人の目にも触れるような風通しの良い「場所」の存在は羨ましいと思う。今回は、身体から切り離されてしまった精神(狂気と亡霊)をテーマとした二作品が組み合わされている。
▼Peter Maxwell Davies: Eight Songs for a Mad King
1969年に書かれた曲(オペラ?)で、テクストはオーストラリアの作家ランドルフ・ストウがおそらくジョージ三世の言葉を引用しながら書いたもの。舞台両脇にフルート、クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ、パーカッションが各1、主演はテナーが1。彼は正面に置かれたスクリーンの裏側にいて、その顔がヴィデオで撮影されスクリーンに映る。気の違った孤独な王が様々な心情や情景、幻影らしきものについてエキセントリックに語る歌詞で、歌いながら顔に白粉をはたき続け、後半に入った辺りで化粧が完成するとスクリーンのこちら側に出てきて、ヴァイオリンを奪って叩き割ってしまう。
▼Du Yun: Zolle
若い中国系アメリカ人の作曲家による新作。Yun 自身が歌を歌い、他にナレーションと、歌わないで動き回るパフォーマー(movement)が一人ずつ。楽器はフルート、サキソフォン、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、パーカッションで、録音された音楽(テナー、アルト・フルート、ヴィオラ、ハープシコード)とともに演奏する。冒頭でスクリーンに、移動する車から見た高速道路の風景を線で描いたアニメーションが映し出され、簡潔にしかし細部をリアルにとらえた画面で自動車事故の様子が提示される。それによって亡くなった女が、現世を眺めながら死後の世界との狭間で彷徨うというような内容で、歌手は移動できる高い台を仕込んだスカートの上に立って歌いながら動き回り、その周囲をパフォーマーが腰を落として舞踏のように踊り回る。
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Ganesh & Kumaresh with Zakir Hussain

2005-10-28 | ダンスとか
Masters of Indian Music & Dance.
NY, Symphony Space, Peter Jay Sharp Theatre.
Ganesh & Kumaresh (violins), Zakir Hussain (tabla), Mannargudi Easwaran (mrdangam), S.V.Ramani (ghatam).
ガネーシュ&クマレーシュは兄弟のヴァイオリン・デュオ。ヴァイオリンは18世紀イギリス統治時代に南インドに持ち込まれ、古典音楽に合流したとのこと。しかし調が異なるとはいってもヴァイオリンはヴァイオリンで、やはりザキール・ハッサンの方に注目がいってしまうのは仕方なく、聴衆の多くもそのようだったが、例によってハッサンはこの二人を紹介するという立場に徹してあまり演奏しなかった。その代わりに ghatam というクレイポットの演奏が凄くて、細かい粒のような音が一粒一粒違う色を見せながら洪水のようにうねって流れ、かといってリズムが細かすぎてダンシーではないため、脳髄を粒々が通り抜けていく強烈な快感をただひたすらグッとこらえるのみ、という官能的な体験をした。音楽を聴いて踊り出してしまうことは、快感の「捌け口」を見出すということなのかも知れないと思った。おそらく快感は、苦痛と同じように、捌け口を必要とするものなのだ。
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Grupo Corpo

2005-10-27 | ダンスとか
2005 Next Wave Festival.
NY, Brooklyn Academy of Music, Howard Gilman Opera House.
▼Rodrigo Pederneiras, Lecuona
▼Rodrigo Pederneiras, Onqoto

→『音楽舞踊新聞』にてレヴュー
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Jodi Melnick & Scott Heron

2005-10-26 | ダンスとか
NY, Dance Theater Workshop.
▼Jodi Melnick, Wanderlust, Kentucky
カッコいいタイトルに似つかわしい、クールでストイックなソロ。バレエの語彙と、それを元にしたフロアワーク、あるいは速く鋭い動きと緩慢で均質な動きなど、全く異質なフレーズをつなげて長いルーティーンを作り、それを30分の間に何度か繰り返す。控えめな音楽と、徐々に移り変わる照明が時間の流れを演出し、後半では客席から男性が出てきて彼女を抱きとめる部分がある。こういうルーティーンの繰り返しは見ていて楽しいものでは決してないが、振りが持っている性質を丁寧にブレずに反復していて、その執着ぶりにはある種の説得力があった。繰り返されていても、あるいは繰り返されるだけになおさら、一回毎に、何かが起きるのではないかと思って見てしまう。そしてそれは実際、一回毎に「起きる」ともいえるし、やはり同じことの繰り返しに過ぎないともいえるのだが、しかし大事なのは「起きる」か否かではなく、「起きるのではないか」と思うというところにある。そのように思われる限りは、反復は実は反復では全くないのだし、逆にどれだけ新しいことを試みても、この賭けにも似た期待と緊張がなければ、それはやはりどこかで見たもののようにしか思われないことだろう。彼女のことは全く知らないが、「行為」ということが含んでいるこの辺りの本質をつついているように感じられて共感した。
▼Scott Heron, Flossing and Other Dances
客席後方から巨大なフロスの被り物で現れ、学芸会みたいな出し物。オカマっぽいキャラクターで笑いを取ったり、ミュージシャンと一緒に歌を歌ったりする。40分。
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Akira Kasai & Kan Katsura

2005-10-23 | ダンスとか
New York Butoh Festival.
NY, Theater for the New City.
▼Kan Katsura(桂勘), Time Machine
二度目なのでよりじっくり見た。というか寄り目になって仔細に見るように努めてみたが、しかしやっぱりよくわからなかったというのが正直なところ。舞踏のように、それをめぐる言葉が繁茂しているフィールドというのは、「深まる」と同時に他方でわかりにくくなる、アクセスしづらくなるということがある。一般にダンスはある種の「秘教化」が起きやすいと思うが、舞踏は特にその傾向が強い気がする。今日は前回より少し長めで34分。
▼Akira Kasai(笠井叡), Flowers -Lovely Jean-Paul
新作ではあるが『愛しのジャン=ポール』をベースにしていて、冒頭はユーロビートでドラァグクイーン。その後何度も衣装変えを繰り返し、中盤では詩の朗読(動いては止まって語り、切ってまた動く)を挟みながら、とにかくテンションを厳格に操作して動き続ける。やっていることはいつもと変わらないように見えるのだが、今日は何か鬼気迫るものを感じずノれなかった。空間を大きく捉えているというより、手前の方の客席と踊り手とのやり取りを遠くの席から傍観している気分だった。65分。
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Joan Jonas

2005-10-22 | ダンスとか
Joan Jonas, The Shape, the Scent, the Feel of Things
Beacon(NY), Dia:Beacon, Riggio Galleries. 夕方の回。
ジョナスは60年代から活動している美術系のパフォーマンス・アーティストで、この作品はヴァールブルクが北米インディアンの宗教儀礼やダンスについて記したテクストを使い、記憶や歴史、表象の成り立ちについて考察したものらしい。柱が何列も立つ広大な地下室空間に、三人のパフォーマーと歌手、ピアニストがいて、はるか彼方の壁に映像が映されるというシチュエーションは強烈だが、しかし内容はほとんど理解できなかった。物を運んで動き回ったりすることでヴァールブルクの心象風景のようなものが描かれたり、抽象的なイメージが畳み掛けられたりするのだが、空間がもっている感覚的な強度(ほとんど官能性といってもいい)と、パフォーマンスの曖昧さ・不明瞭さとのギャップばかりが意識され、85分もの間それに耐えるのは正直つらかった。観客がチラホラと途中退出し始め、しまいにはそれが多数派になったとまではいわないにしても、ただ実行に移さないだけで誰もが内心ではもっともなことだと思っているかのように、途中退出する観客たちが自分たちの立てる雑音に注意を払わなくても良いような雰囲気にまで至り、軽く衝撃だった。大学の一般教養の授業で出欠を取った直後に大量の学生が出て行くさまに似ていた。一般的にいって、アメリカの観客はすぐに見切りをつけて出て行く。
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Dia:Beacon, Riggio Galleries 常設展示

2005-10-22 | ダンスとか
Beacon(NY), Dia:Beacon, Riggio Galleries.
ビーコンはマンハッタンから電車で北へ90分ほどのところにある街。駅を出るとハドソン川の岸辺の船着場などの他は何もなく、住民は車で駅までやって来ている。2003年にオープンしたこの美術館は有名で多くの人が訪れるが、街の中心部へは人が流れて行かないためビーコンの街と美術館の繋がりは薄いらしい。小雨がパラパラ降って冷たい中を十分ほど歩く。もともと工場だったという建物は、立地と佇まいが何となく川村記念美術館を思い出させた。今日は地下のスペースで行われるパフォーマンスが目当てなので、限られた時間でざっと展示を見て回る。コレクションは主にミニマル系の巨大な作品で、それらがだだっ広い空間に豪快に置かれている。入り口を入ってすぐ、床に置かれているのはウォルター・デ・マリアの金属で出来た円や三角、四角など。輝きを放ちながら整然と並んでいるにもかかわらずただその巨大さゆえに無骨な、無造作な印象を受ける。ジャッドの箱、フレイヴィンの蛍光灯が延々と続く展示室や、ルウィットの壁画の部屋、ウォーホルの版画も多くあるが、ここでは作品がもっている様々な質のうちの「巨大さ」や「重量感」など身体的なインパクトに興味が向かうことが多かった。ボイスの、フェルトを積み上げた巨大作品は、一枚一枚もそれなりに重そうな大きなフェルト布が大量に積み重ねられ、奇妙な形に裁断されて、その周りを経巡ることで圧倒的な「量」が経験される。「重さ」に加え「数」が感じられるところが、単に「巨大」な物体とは異なる点だろう。可算的な量の知覚が、重さや巨大さという質を(曲がりなりにも)分節化することを可能にし、そのことによって質を長く受け止め続けることができる。長引く知覚は、知覚されるものの吟味を促して、その吟味がそのままある種のドラマになる。セラの金属のスパイラルはこれとは違った形でドラマを作り出す。外側を歩いても微妙に足元がよろめくが、これらは内部に入ることができ、すると緩やかに傾いた両側の壁の間を歩くだけで体の平衡感覚が狂うし、また歩くごとに視野が変化していくさまは異様に抽象的(というより形式的)な知覚体験で、それは「意味」のない世界などでは全然なく、むしろ純粋な「意味」の広がりと奥行きの中をあてどもなくさまようような、不安でエキサイティングな世界だった。ゲルハルト・リヒターの六枚組のグレーのパネルが、こういう作品群の中に置かれると立派なミニマリズムになっているのも興味深く思った(というより、この美術館は歴史上のミニマリズムを博物館的に収蔵しているのではなくて、とりわけミニマリズムが執拗に問うたある主題系に基づいて作品を集め展示しているのかも知れない)。非常に大きなグレーの板の上にガラスが貼り付けられて、それが微かに斜め上を向く角度で壁に取り付けられており、画面は見ている自分を含む室内の景色を反射して映し出すのみ、ただしよく見ると像は階調の荒いモノクロームになって奇妙に現実味が薄れている。そして薄れた現実味と引き換えに、もう一つの身も蓋もない現実が立ち上がるように感じられた。全てのものが、黒と白の間の一定の幅の中に圧縮され、ディテールが「要約」されて光学的な濃淡に還元されている。この「画面」は、絵画というものの可能条件に注釈を加えるようなものだと思うが、それとともにこの時ほど目を、というより網膜を意識したことはない。目も絵画と同じように、ただ光を受け止めている湾曲「面」に過ぎないように思え、足元が脱力してフラフラしそうになってしまったのだった。またジャッドとセラにはそれぞれ「騙し絵」的な作品があった。前者は一見ただの壁に見えるのだが上から覗くと実は奥へ向かって傾斜した台形の立体であるというもの、後者は大きな金属の板が床に敷かれているように見えるがよく見るとわずかに奥へ向かって傾斜している(手前が厚く、奥へ向かって薄くなっている)というもの。これらは発想として似ているが、作品がもたらす体験は相当に違うように思う。前者は「上から覗く」という行為が、ある視覚的なイメージ(「ただの壁」)が「実は…」という仕方で別の視覚的なイメージ(「台形の立体」)へと覆されるのだが、はじめに「上から覗く」という行為を促すのは単なる好奇心に過ぎない。確かに、見えている面の厚みのなさ、輪郭線の不自然なシャープさが「あれっ」と思わせるのではあるが、見ずに済ませてしまう人も多いに違いなく、つまりそれほど強い衝動とともに確認が急がれるわけではないのだ。しかもまた「事の真相」が明らかになった瞬間は何とも鼻白む。むしろ台形の立体だということが明らかになった後に、また元の角度から見るとやはりただの壁に見え、そのことの方が「事の真相」よりも面白い。これに対してセラの作品は、その前に立っただけで何となく違和感を感じる。歩き回ってもその微弱な違和感はどこまでもついて回る。「事の真相」どころか違和感の原因がはっきりしないことに耐えられずに、よく観察すると端の厚さと、反対側の端の厚さが違っていることに気づき、さらにボールペンを置いてみて勢いよく転がっていくのを見て、傾斜がついているという「事の真相」をはっきり知覚しようと努力せずにはいられなかった。そしていくら努力しても、「事の真相」は視覚的な(イメージ的な)リアリティを得られなかった。身体が感覚する内容(漠然とした違和感)を、測定によって間接的には確かめられても目では捉えられない、そして目では捉えられなくても身体は何かを感覚している、その事実を鮮明に示してくれているところが刺激的なのだった。屋外の小さな庭にある、ルイーズ・ローラーのサウンド・インスタレーションも「騙し絵」的な系統に属している。木々の中にスピーカーがあり、そこから鳥の声が流れているのだが、よく聞くと人間が鳥の声真似をしている。アコンチやウォーホルなどが参加しているが、幼児的な悪ふざけにも聞こえ、それが庭の風景をもっともらしく補完しているシチュエーションのおマヌケさが可笑しくて仕方なかった。
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Masaki Iwana & cokaseki

2005-10-21 | ダンスとか
New York Butoh Festival.
NY, Theater for New City.
▼Masaki Iwana(岩名雅記), Beast of Grass
軍人のような帽子を被り、真上からのスポットを浴びながらひたすらじっと立っている。床に座り込んだり爪先立ちになる部分もあるが、どこをとっても基本的には「動かない」というところにフォーカスが当たっているように思える。しかしそのポカーンと抜けた空虚さがこちらの身には強く迫ってこない。彼が何をやっているのか、正直ぼくにはわからなかった。少なくともこの「動かない」が、「動く」の否定形としてネガティヴな強度を放っているのではないことは確かだろう。なぜなら「動く」と「動かない」はほぼ最初から最後まで、葛藤を演じることがないからだ。そうなるとむしろ、「動かない」を「動く」との対比でとらえるのではなく、それ自体の内に質的な何かをまさぐらなくてはならないことになる。しかしそうすべき動機は、こちらには特にない。そうしたいと切実に感じさせられる何かがあれば、そうしたかも知れない。その「何か」とはやはり踊り手の側からの「働きかけ」、いいかえれば運動性であるほかはないと思う。45分。
▼cokaseki, Tooboe(Howl)
43分。→『音楽舞踊新聞』にてレヴュー
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Kan Katsura & Azumaru/Jack Wright

2005-10-21 | ダンスとか
New York Butoh Festival.
NY, Theater for the New City.
▼Kan Katsura(桂勘), Time Machine
上空から吊るされた白い布袋の中からヌメッと降下、床に映し出された時計盤の中央に寝て逆走するように動く。中盤以降は舞台中央で立ち位置を変えず、マイム的に体を硬直させて左右に向きを変える動きの持続。この踊りの小ささと空間の広さのギャップをどう捉えていいものか。30分。
▼Improvisation by CAVE resident artists and a guest musician
出演=Ximena GarnicaJuan Merchan、ヴィデオ=Shige Moriya、音響=Jeremy Slater。白い幽霊のような衣装をつけた男と女が広大な空間を取り留めなく動き回る。照明はホリゾントと床に映される(半ばアブストラクト半ば具象の)映像のみで、光と影が絶え間なく交錯して実につかみどころのない空間が生まれていた。どこかに居付くことのない動きの忙しなさがカタストロフィックなイメージを喚起し、終盤では映像に高層ビルを交差点の真中から見上げた光景が現れ、ビルの隙間の空が十字架の形に見える。13分。
▼Improvisation by Azumaru(東丸) with musician Jack Wright
上手奥でジャック・ライトがサックスを吹き、東丸は舞台全体を使って即興。即興を見せるにはもう少しスキルが必要かとも思われたが、いきなり三点倒立をして、間を計って、両手を離した瞬間は息を呑んだ。頭だけで逆さまに静止して、「アッ」と思うと魚のように綺麗に真横に倒れ落ちる。こういう、息を呑む瞬間、「ありえない」瞬間、疑ってみようともしなかったことをつい疑ってしまう瞬間は、「現実」に対して批評的な力を持っている。知らずに何かを信じて生きていたという事実を暴露する。15分。
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Ann Liv Young

2005-10-20 | ダンスとか
Ann Liv Young, Michael
NY, Dance Theater Workshop.
微妙に作り物っぽいTVドラマみたいな室内セットで、女たちが怒鳴り合いながらすぐに素っ裸になって踊り(暴れ)回る。ぶちまけられているのは男関係のストレスなど。窓から覗きながらマスターベーションしていた男も闖入して巻き込まれ、最初はストーリーが展開していきそうにも思われるが、登場人物が増えてもさして進展はなく、ひたすらドタバタが続く。いやむしろこの「ドタバタ」の実質、つまりいかに「ドタバタ」するかにこそ、身体表現が賭けられているべき、賭けられているはずだろう。裸になること、メチャクチャに暴れること、息を切らすこと、取り留めなく絡み合うこと、こうしたことは全て確固とした統一体としての身体を壊し、その下にうごめく無形の何かに触れようという試みに他ならない。しかしそうだとすれば、ヤングの方法はあまりにも否定神学的なアイロニーの身振りに終始してしまっている。無闇に巧い朗々とした声でフィル・コリンズとかを歌い上げ、エアロビクスのような開脚を(全裸で)見せつける。バカバカしいマニフェストみたいなものを完璧に統制の取れた軍隊のような仕方で読み上げる。ヤングは客席にいて、しばしば合いの手のような指示を出している。要するに一切は既成の形式(とりわけ良きアメリカのミュージカル)に対するパロディであり、未知の形式を生み出そうとはしていない。ヤングという人は身体表現なるものにもはや可能性を見ていないのではないかとさえ思えるが、しかしそうした否定的な身振りによって「無形の何か」の所在は示そうとしている。この矛盾、いわばアーティストの「敗北宣言」を観客も共有してただ「嗤う」というのも淋しい気がする。
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The Parsons Dance Company (Program A)

2005-10-19 | ダンスとか
NY, The Joyce Theater.
マラーホフがストロボで空中移動する『コート』で有名なデヴィッド・パーソンズのカンパニー。
Bachiana
男4女4。バッハの交響組曲に振付けたもので、始めは円陣や列などを次々に形成していくページェント的なシーン。男が逆立ちになって柱を模したりする。四組のパ・ド・ドゥが連続してから、また冒頭に戻る。赤と黒の衣装がいかにもアメリカのモダンダンス的で、バレエ中心の振付を踊るダンサーの動きはひどく重くマッチョである。体操的な速さと力強さで見せようとする。20分。
Kind of Blue
マイルス・デイヴィスの『ソー・ホワット』。ジーンズにシャツなどを着た男2女2で、ベタに『ウエストサイド・ストーリー』的な、通りすがりの女をナンパとかいったようなシーンをやる。ツイスト、ショーダンスやミュージカル的な振付。細かい振りはラフに。10分。
Swing Shift
男4女4。弦とピアノの音楽(Kenji Bunch)。裾が膝辺りまであるノースリーヴのワンピースっぽい服の下にパンツを履く、このアメリカ・モダンダンスの犯罪的スタイルは誰が発明したのだろう。群舞とデュオ、ソロなどで、アクロバティックな速い動きだが、大きな動きも見る者の精神を全く昂揚させない。伸び切る頃には縮むための準備をしている四肢。ただ忙しない段取りの数々。23分。
Slow Dance
男3(黒のタンクトップとパンツ)、女3(薄い青のレオタード)。雑なパ・ド・ドゥ三組の入れ替え。流れる動き、交錯、円陣など。9分。
Hand Dance
暗闇の中に横からの照明で、5人のダンサーの肘から先だけを見せ、ピアノとヴァイオリンによるラグタイム調の音楽に合わせて動く。フォーメーションの変化、指で芝居など。5分。
DMB
ジーンズに紫系のトップスを着た男5女4。デイヴ・マシューズ・バンド(=DMB)のロックっぽい曲がいくつかかかり、群舞とパ・ド・ドゥ、ソロなど。GAPのCMを髣髴とさせるエンターテイメント的なノリで、ジャズ、フロアなど。19分。音楽がキャッチーなので客席は盛り上がる。彼ら彼女らは自分の代わりに踊ってくれる分身を適当に眺めながら、録音された音楽を聞いて喜んでいる。一番派手だが雑でマッチョな踊りをしていた女性が一番大きな拍手を受けていて暗い気持ちになった。
パンフレットのカンパニー紹介の欄に、「カンパニーの第一の目的は、パーソンズ氏が可能な限り多くの新作を作れるようにすること」と書いてある。数量とは計測と比較に関係するものであり、また演算可能なものであって、創造性とは縁遠いものであると思う。
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Gina Gibney Dance

2005-10-16 | ダンスとか
Gina Gibney Dance, unbounded
NY, St.Mark's Church in-the-Bowery.
振付家ジーナ・ギブニーが1991年に作ったグループで、フェミニズム的な問題意識から1997年以降は女性のみとなる。ダンサーは4人で、教会なので柱を軸に、白いレース地の布で囲まれた空間が舞台。様々に光をあてられたりダンサーによって切り裂かれたりする布が空間を変化させていくが、動き自体は本当に何の変哲もないもので、4人が入退場を繰り返しながら、コンタクトインプロ的に絡んだり、取り留めもなくペアを組み替えたり、ソロを踊ったりする。音楽はアブストラクトな電子的なものがずっと持続。終わりの方で白黒のヴィデオが映され、ダンサーが踊っている様子が現実の空間に重ねられるが、この踊りはライヴであるとのこと。約50分。
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