dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

大野一雄フェスティバル2004/横浜ダンス界隈

2004-06-30 | ダンスとか
横浜・BankART1929その他。
▼ダンスカンパニーカレイドスコープ 『WORK WITHIN ACT』
▼塩澤典子 『ロックと猫とウオッカ一杯・・じゃなくって生ビールキンキンに冷やして!!(第一章)』
▼オトギノマキコ guest ジョン(犬) 『オトギノ犬』
▼金魚×20 『いい~ねっ、よこはま!』
▼山賀ざくろ 『エレガンス』
→『ダンスワーク』56号「2004年ダンスの総括」にてレヴュー
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JCDN「踊りに行くぜ!!vol.5」選考会

2004-06-29 | ダンスとか
浅草・AsahiスクエアA。
▼松本大樹 『タンタンティキダン』
この人は一昨年のソロ×デュオで見て以来二度目、その時よりずっとソフィスティケートされた作品。若松智子とのデュオで、同じくらいの背丈の二人が黒縁メガネに黒のシャツ&パンツ/ワンピース、裸足で出てくる。若松が後半でメガネを取られ、さらに目隠しまでされてどんどん視力を奪われていく展開がちょっと興味深かったのだが、あまり具体的な筋立ては追求されず、あくまで隅々まで作り込まれたムーヴメントが主役のようだ。振付や動線や空間の使い方や照明の明滅などオーソドックスなヨーロッパ系の語彙でできていて、体を細かく割らない大振りなフォルムや、呼吸で合わせてユニゾンでジャンプ移動とか、基本的にはそういうタイプの振付なのだが、時々奇妙な小刻み歩行が混ざっているのが気にかかった。本当はもっとヘンなアイディアを持ってるのではないか。語彙の幅が広がれば構成にももう少しメリハリが出て整理されるだろうし。
▼たかぎまゆ 『UNDERGROUND CHEER LEADER』
この作品をライヴで見るのは二度目。岡本太郎の言葉で「人生」を無条件全肯定されてしまった懐疑主義的チアリーダー、というアイロニカルなキャラクター造形が秀逸なのだが、とにかく構成がまず過ぎるため小ネタも音楽もことごとく空回りし、ダンサーもそれを背負い切れずにグニャグニャになってしまっている。テンション任せの即興に寄りかからないで、何をいつ出せば最も効果的かという黄金パターンを煮詰めてしまった方がこの作品は絶対に活きる。完成したらちょっとした事件になると思うのだが。
▼白井剛 『Parade』
今年の3月にショーイングで見た作品。基本的な構成は変わらず、プリンスを三曲(ただし最初の二曲を繰り返してから三曲目に行く)使って淡々と動きのトーンを変化させていく。前回見たときはすごく曖昧な動きがクリアなリズムを刻む不思議な感触だったのだが、今回は何だかただブレイクダンス風に部位をバラしつつ舞踏みたいなフォルムを動かしているようにしか見えなかった。こちらの見え方が違ったのかダンスそのものが変わったのか、何しろ前に見たのが「曖昧」なものだったので判然としない。また時間をおいて見てみたい。
▼鹿島聖子 『のぶちゃんとしょうちゃん』
久しぶりに見るザンゾランの人(元レニ・バッソ)。樋口信子とのデュオだが、コンセプチュアルなアイディアとかギミックが排除されているという以外は印象が前とあまり変わらない。アイコンタクトで合わせて走り出し放物線を描くとか、全体にフツーすぎてよくわからなかった。
▼三浦宏之 『第三惑星怒れる男・たびお・愛の短編』
ソロはたぶん初めて見る。金髪に黒縁メガネのサラリーマンが紙袋を提げて現われ、ブツブツ言いながら観客を軽くいじって、タバコを取り出しものすごい勢いでフカす。これを大仰な交響曲が盛り上げてしょうもないスペクタクルに仕立ててしまう辺りがちょっと面白かった。ジリジリと燃焼していくタバコと、鼻と口から大量に吹き出る煙の即物的なスピード感が、人を人ならざる方へと前のめりに煽っていく。ピナ・バウシュだったらもう少し芝居っぽく処理して小市民的な笑いへ持っていくところだが、三浦はふいごマシーンとしての自分の無為な労働のマゾヒスティックな快楽に圧倒されるがままに、出口の見えないプロセスをひたすら見せようとする。とはいっても普通のタバコだからそう長い時間がかかるわけもなく、かといってこれが不自然に長く続くような仕掛けがしてあればそれもまた興醒めなわけで、このジレンマは一体どうしたらいいのかわからない(例えば1.5リットルのペットボトルの水をストローで一気吸い、とかだったらどうか)。惜しいのはタバコの後、我に返ったように「何だったんだ今のは」と言ってしまうところ。これはシラける。タバコの後は自分の髪を触って「ヨコワケ」と言ってみたり、ネクタイを触って「ネクタイ」と言ってみたり、メガネを触って「メガネ」と言ってみたりする。これも無意味すぎてちょっと面白いのだけど、「ヨコワケ、ネクタイ、メガネ」と高速で連呼し始めるともうお約束になってしまう。「ネクタイ」とただ一言、一回だけ、ただし完璧なタイミングで発するべきだ。そのまま「パンツ」とか「ボタン」とか言いながら服を脱いで、予想外なまでの筋肉質の立派な体を見せながらフツーに踊り出してしまう後半は、前半とのつながりがわからなかった。
▼伊東歌織・高野美和子 『ハレンチモーション』
この作品も二度目で、マイナーチェンジした他の作品も見ているが、今回ようやく高野美和子という人のテイストが飲み込めた気がする。ほとんど常にバラバラなことをやっている二人の間の淡すぎる関係、一見あまりにもガサツに見える小道具(イスや、ヒモ付きのかつら)、何とも味気ない、それでいて微妙にイヤーな感じの衣装、シャカシャカいうノイズ系の音楽。今回はなぜか、この居心地の悪さがそのものとして面白く見られた。何が違うのか。たぶんやっていることはいつもと変わらなくて、ただ自分の見え方が違っただけだと思う。主に、空間が小さいからダンサーの身体の質感とか集中度とかがクリアに立ってしまったことに起因するだろう。それでも別にいいのだが、あえて、一種の「わかりにくさ」を主題としているのならその「わかりにくさ」がわかりやすく明確に伝わるのでなければ成功とはいえない、と問いを立ててみると、「わかりやすさ」の反対としての「わかりにくさ」が必然的な展開として滲み出してくるためのストーリー(流れ)ないしエクスキューズが用意されていて然るべきと思えてくる。つまり「噛み合わなさ」「居心地の悪さ」「わかりにくさ」を何らかの破綻、逸脱、裏切りとして(何かの否定形として、つまり否定的な内容をもった一個の「文」として)舞台上で肯定してみせるだけの説得力あるファクターが作品に内在しているべきなのではないか。その点、砂連尾理+寺田みさこも同じ問題を共有していて、これに対する一つの模範解答は例えばニブロールに求めることができる。ニブロールの場合、空間処理や運動の連鎖の仕方など非常に整理された振付語彙を用いながら、にもかかわらずそのフレームを、ダンス的な質感やフォルムやリズムを排したアクション的身振りでもって隈なく埋めていく。これによって「ダンス」なるものへの「否定」を作品として提示しえている。もしこれが「ハズし」一辺倒だったら、ただ「ハズれている」としか見えず、それは本当にハズれているにすぎない。作り手は何かを否定したつもりでも、見ている方には「チガウ」としか映らないのだ。
▼岡本真理子 『まばたきくぐり』
同じく二度目。これも小空間ゆえに活きたところがあって、また初演時より動きが増えて密度が上がっている面もある。それでもやっぱりつまらない。体や動きの質感と、落ち続ける砂の質感、ちゃぶ台の質感、コーヒーカップやスプーンの質感、音楽の質感、こういうものの間の不協和音が、単純に放置されているように感じられる。どこがどうなったらどのように良くなるのか、ぼくにはちょっとわからない。
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アートノヴァVol.17「大学対抗アートノヴァ」

2004-06-28 | ダンスとか
浅草・AsahiスクエアA。
▼篠崎芽美/クバ・カラン
Co.山田うんや珍しいキノコ舞踊団に出ていたダンサーで、これがグループ旗揚げなのかは不明。出演は他に岩渕貞太、石和田尚子、土田千尋。上手手前の花道状の通路を、黒いワンピースのダンサーが長い長い裾をひきずって歩いてくる。前半の音楽はシタールなどの入ったエスニックもの。このダンサーはそのまま舞台下手まで行って止まり、続いて裾の中から3人のダンサーが出てきて、舞台に向かう。全員黒のワンピースで、岩渕貞太も女装。舞台の上ではこの3人のリズミカルな反復系の振りや、よくわからない絡みがあり、曖昧な成り行きで舞台から降りたりもする。ずっと突っ立ったままだった最初のダンサーの超ロングスカートを篠崎が剥ぎ取って、一本背負いのような格好で運ぼうとすると相手が暴れて落ちてしまう、というのを繰り返す。この辺の音楽はドアーズ。別に黒田育世に似てるとかそんなことどうでもいいとしても、「どう作ったらいいのかわからないがどうしても形にしたい」個人的な表現衝動と格闘しているというより「とりあえずいかにもそれっぽいもの」を作ろうとして四苦八苦している感が拭えず、好感が持てなかった。
この後はポコペン舞子とチャンチキ・トルネードが出たのだが、どちらも知っているから今日はパス。
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ポツドール 『激情』

2004-06-28 | ダンスとか
下北沢・駅前劇場、昼。
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大野一雄フェスティバル2004/All Night Film 上映

2004-06-26 | ダンスとか
横浜・BankART1929(1929ホール)。
▼『KAZUO OHNO』('95、ダニエル・シュミット監督)
▼『O氏の肖像』('69、長野千秋監督)
▼『ドレスリハーサル』('80、ヴェルナー・シュレーター監督)
▼『O氏の死者の書』('76、長野千秋監督)
▼『稽古場の大野一雄(ダニエル・シュミット、レナート・ベルタ撮影による未使用フィルム)』
▼『O氏の曼荼羅』('71、長野千秋監督)
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熊谷和徳 TAP! the LIVE!『KAZ! on TAP!! Vol.2』

2004-06-26 | ダンスとか
渋谷・PARCO劇場。
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小沢恵美子 『DORT』

2004-06-26 | ダンスとか
神楽坂・セッションハウス。
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堅田知里 『インダラ』

2004-06-22 | ダンスとか
西麻布・Super Deluxe。
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リンゴ企画/近藤良平+黒田育世 『私の恋人 ~暇さえあれば体当たり~』

2004-06-19 | ダンスとか
神楽坂・セッションハウス、夜。
→『ダンスワーク』56号「2004年ダンスの総括」にてレヴュー
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藤田一 『これが私の優しさです』

2004-06-19 | ダンスとか
横浜・STスポット、昼。
山下残の作品に出ている若いダンサーで、作品は初めて見る。衣装も空間も真っ白で、客席はフワフワした毛のマットに、クッションや、なぜかぬいぐるみまで。観客はそこへ靴を脱いで上がる。脚を伸ばしたり、寝そべる人もいる。藤田は舞台奥にイスを置き、そこに座って何もせず、静かな映像(ゆっくり回る観覧車など)を見せたり、ショパンやラヴェル、矢野顕子などといったわかりやすいピアノの選曲で踊ったり。合間にはやたらたどたどしいMCも入る。恥ずかしがっている人を見るのって、恥ずかしい。なぜだろう。全体を覆うこの過剰なまでの柔和さは、頭を角にぶつけたら本当に死んでしまいそうな豆腐のそれであり、警戒感を通り越して退廃的ですらある。基本的には観客を眠らせてしまうぐらいのリラクシンな空間を意図しているのだと思うが、ただそこで不可解なのが、ダンスそのものはさほど柔和でも静かでもない、という点だ。約60分の内かなりの部分が、非常に丁寧に細部まで振り付けられているから、ただ環境インスタレーション的なものを拵えて満足するのではなくあくまでダンスに何かを言わせようとしていることはわかる。しかしでは、なぜダンスだけがかくもけばけばしく騒々しいモダンダンスなのか?スピードやエネルギーは抑制されているものの、このフカフカの客席の上で寝転がっている人とコミュニケートしようとしているとはどうしても思えない。まあそこで本当にただ「眠い」ダンスをやってもそれこそ芸がないわけだけど、「眠くなりつつある人々」とうまく関わりながら夢うつつの世界へなだれ込んでいく、というテーマはもっと深く探求する価値があるのかもしれない。途中、踏切の遮断機の棒の端っこをアップにした映像の部分が面白かった。おばさんや子供の声が聞こえていて、カンカンカンという警報機の音が鳴り始め、電車が通り過ぎ、遮断機がサッと上がると同時にカメラも上へ煽って、壁一面に真っ青な空が映り、それを背景にして藤田が踊りだすというもの。映像の中の「意味」的な世界から、舞台の上での非「意味」的な空間への快い飛躍。
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オガワ由香 『意志の螺旋(7) 火の輪郭』

2004-06-18 | ダンスとか
千歳烏山・studio GOO。
真新しい小さなフローリングのスタジオ、上手奥にガスコンロがあり、それが全暗の中でボッと点火される。妙に艶めかしい。気合を入れて構えていると無味乾燥なステップを踏む音が聞こえてくる。味のないガムをひたすらかみ続けるような、黒沢系行為。しかし明かりが入ると、すぐに出口→のひどく調子っぱずれなパーカッション(スティックで色んなものを叩く)が入ってきて、たちまち舞台は騒々しくなってしまった。集中力をアゲてかないと退屈になってしまいそうなダンスへの集中が徹底的に妨げられる、何という仕打ちだ。出口→は壁や床を叩きながら前にどんどん出てきて、およそ繊細さとは対極にある無計画な振舞いを続け、しばしばオガワの方に目をやる。リアクションを求め、何とか自己の存在を承認してもらおうとすがるこの男の目線は、黒沢美香と共演した時の万城目純のそれに似ていた。オガワ由香はもちろん目など合わせることもなく、いかにも泰然自若とした姿勢を崩さないのだが、この決して見映えが良いとはいいがたいコントラストをどう楽しんだらいいのかこちらにはなかなか見えてこない。宙吊りになった懐中電灯だの、シャボン玉マシンだの、小さい動物のミニチュアだの、紙袋だの、小道具はたくさん用意してあるのだが、そんなもので波風が立つほど舞台が凪ぐことはない。するとおもむろに客席から緑色の衣装のヘンな男が一人乱入し、さらにもう一人。緑の男はオガワに絡もうとしたり、舞台奥でボサッとしていたりする。後から来た男は自由連想方式で詩みたいなお喋りを始める。Aは体に色々仕込んでいて、ズボンの中から草がはみ出しており、全部脱げばゴロンと柚子が転がり出し香ってくる。それでもオガワは絡んでいかない。ものすごい、笑える画だ。構ってほしい男たちが、引き付けられては返り討ちに遭うこともなくただ所在無げにしており、かといってオガワのソロダンスがそれとして成立しているわけでもなく、ひたすら異物を受け入れつつ関係を遮断して当惑を押し殺している。詩の男は何となく引っ込むことに成功するが、緑の男は引っ込めない。それを出口→が引きずってハケさせ、後を掃除する。そうかと思うと今度は出口→の出番となって、最後までグダグダと1時間強。自分は何をしに来たんだろう、と考えることも虚しく思える。
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Big Dance Show vol.2

2004-06-18 | ダンスとか
ショーアップ大宮劇場。
一日4ステージのうち2ステージ目から入ったが、ゲストの Ko & Edge(Ko 抜き)はこれが1ステージ目。まず両腕を縛られた目黒大路が這いつくばるようにして現われ、続いてその縄を持った鈴木ユキオと林貞之が出てくる。目黒はグルグルに巻かれて置いてきぼりにされ、二人は舞台奥でなぜか半ケツになって一旦消える。再び林が出てきて口琴とか色々やって、鈴木がいつもの彼らしいソロ(全身を突っ張ってマイム風にバラして動き、伸ばした腕をアメリカンクラッカーの如くココンと手首の辺りでぶつける)を踊って、四つん這いの目黒を連れた林が出ベソの回転台(この劇場では、突き出した部分がそのまま回転するようになっている)をグルグル歩き回る。いつもの Ko & Edge のイメージから大きくかけ離れた無茶なことはしていなくて残念。律儀だ。それにしてもこれから「プロ」のダンサーが出てくるのかと思うと、ちょっとドキドキしてしまう。舞踏にしろコンテンポラリーにしろ、新潟を除き日本にプロのダンサーはいないわけだけど、ストリップの人たちは曲がりなりにも芸で食っているのだ。しかしそれもちょっと考えすぎだったらしい。しょっぱなの浜崎みうは踊りといってもエアロビクス程度のもので、あとは表情と雰囲気だけのロウソクショーだし、二番手の大信田ルイは一応踊るといってもそれを売りにしているようにはちょっと思えない。神田優子はかなり踊るが、とにかく振付を無理矢理こなしまくっているから見ていても苦しそうだ。踊りをもっと大事にしてほしいと思った。ここまでで段取りの基本パターンを把握。まずゴージャスな衣装で現われて軽く流し、ちょっと脱いで一度引っ込み、脱ぎやすい衣装にチェンジして再登場、あまり引っ張らずに結構あっさり(しかも一気に)脱ぎ、回転台でマスターベーションしつつ延々とご開帳、メローな音楽に変わってまた袖に入り、ユーロビートがかかって、下半身を出した衣装で軽く盛り上げて終了。一人20分。これでもかとひたすらモロに見せ続けるのでエロくなく、何が面白いのかわからない。このご時世、難しい世界なのだろう。とりあえず「生」ということに賭けるしかないのか。しかし次の御幸奈々、彼女は「本格派」という前評判を聞いていて、なるほど納得だった。和風(というか「アジア」風)の出で立ちで、ヌンチャクのように紐でつながった鞠を持って踊るのだが、何しろ振付の密度が異様に濃く、しかも速い。見たこともないような斬新な動きをしているわけではないが、振付密度では昨日の金森穣といい勝負だ。体中を使って一度に色んなことをやっているし、しかも音楽をちゃんと拾って要所要所で合わせたりもしている上に、時折ジャンプキックのようなアクションも織り交ぜる。ダイナミックに激しく動きながら軸がブレず、顔をしっかり付けているから振りがクリアに決まる。もちろん他の人のようにハイヒールなんか履いていない。ブーツだ。着替えた後もヒールはあくまで低い。身体という限られた空間を割って割って折って詰めていきたい、どうしてもそれがやりたいという一種の空間恐怖にさえ似たダンス的欲望をひしひしと感じる。しかし惜しむらくは、踊り自体が振りほどは強くなかったこと。音との距離がやや緩くブカブカしていて、どうも手を抜いているような気がする。もしかして70%程度なのではないか。一度本気を見たいと思った。マスターベーションの部分も、この人だけ衣装で隠してチラリズムをやるし、回転台の上で回りながらまず向こう側半分にだけ見せ、少し間をおいて今度はこっち側半分にだけ見せる、ということをちゃんと計算している。次の五木麗菜は「囚われの乙女」みたいなストーリー仕立てになっていて、ちょっと特殊。現代舞踊みたいとか言ってはいけない。トリの新庄愛はまたエアロビのインストラクターみたいな風情なのだが(しかもどことなくニューハーフっぽい)、全員の中ではいちばんノリよく踊る人。振付にはさほど凝っていないが、黒いダンスを少しやっているように思われた。一瞬ウィンドミルが出そうな勢いだった。最後はフィナーレで全員出てきて(ゲストは並ばない)、新庄愛が慣れたアナウンスでキレイにまとめる。それにしても、まあ裸を見せる商売だからみんな体はすごく綺麗なのだが、つくづく踊りって何だろうと思う。踊ることによって、踊っている間だけ、体に何かが付け加わる。モノではなくコトであり、実体ではなく現象でしかない。次のステージの Ko & Edge だけ見て出た。一回目より林貞之が良くなっていた。ちなみにこの劇場の照明や音のオペはB級。
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Noism04 『SHIKAKU』

2004-06-17 | ダンスとか
新宿・パークタワーホール。
→『ダンスワーク』56号「2004年ダンスの総括」にてレヴュー
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ラ・ラ・ラ・ヒューマン・ステップス 『アメリア』

2004-06-16 | ダンスとか
与野本町・彩の国さいたま芸術劇場(大ホール)。
5年前の『ソルト』もその前の『2』も確かに見ているのだが、印象が薄くてあまり記憶に残っていない。今回はポワントワークを前面に押し出したということで、とにかく超高速のパ・ド・ドゥなどがひっきりなしに90分続く。異様なのはやはり頻出するサポート付きのピルエットで、右右・左左左・右右右とか平気でこなしながら、そこに脚や腕の小さい動きをギュウギュウ詰めてある。速いのは確かに凄いのだが、だんだん慣れてしまってむしろサポートしてる男性のしっちゃかめっちゃかな動きの方が面白くなってしまった。パートナーが組み変わったりもするから何かの忙しいゲームみたいだ。作品の主題は速度、ひたすら速度で、ダンサーの動きと照明と音楽(ピアノとヴァイオリンとチェロ)が一体になって時間を煽り続ける。とりわけ驚くのは照明の速さと細かさ。一体どんなキューで進行しているのか。基本的に白のピンスポしか使っていないのだが(一箇所だけ横から来る場面がある)、無数のスポットが怒涛の勢いで動いて目まぐるしく空間を変化させていく。まるで照明もダンサーみたいに思えてくる。中でも真上からスポットが来ているところへ斜めからもう一本が射さり、さらに次のが射さったり、あるいは後から射さったやつが少しだけ角度の違う別のスポットに切り替わったりするというのが面白かった。光量自体はそれほど変わらなくても、フリッカーのように一瞬だけ意識が寸断され、同じ舞台なのにまるで「画面が切り替わった」ように感じるのだ。これを見ていて「カット割り」ということの意味を考えた。異なるカット同士がつながれて仮想上の空間が展開されることだけが重要なのではなく、持続が切られてなおかつその断絶を飛び越える運動が意識の中に起こるというところに意味があるのだ。中井正一が「コンティニュイティ」と呼んだやつだが、初めてピンと来た。こんなシンプルな手法で新しいことをやってしまっている照明のジョン・モンローは偉い。しかし速度に限らず、知覚における「量」一般というものはその絶対値ではなく変化の度合こそがキモなのだということをエドゥアール・ロックもまた理解していないようだ。以前ダムタイプ『memorandum』の時にも思ったのだが、どんな凄い光も音も、程度が高まっていく過程が大事なのであって、プラトーに来てしまうと何でも同じになる。高速道路を走っていたって居眠りはする。スピード狂とはスピードではなく加速感の長い持続への執着のことなのだ。舞台左右にアラベスク模様(バレエ=社交ダンスの原型的モティーフ)の紗幕が降りてきたり、菱形のスクリーンにCGのダンサーが映ったりと色々やっているし、男性のカルテットなど必ずしも速度だけではないのだが(スキンヘッドの人が良かった)、せっかくなのだから速度そのものをその増減を通じて体感させる仕掛けにもう少しこだわっても良かったんじゃないかと思う。音と光とダンスのタイミングのスカし具合も均質で、90分はちょっと長く感じた。
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Dance Seed 2004 ―わたくしの森羅万象―(第二日・夜)

2004-06-13 | ダンスとか
千駄木・ブリックワン。
まずは佐藤信光を先頭にしたユニゾンのシークエンスで始まる。衣装も揃えてある。
▼佐藤信光 『blood No.2』
前半は遅く動き続け、終盤でハジケる。形なんかではなく密度が見たい。
▼西村香里 『回帰』
ただ動いているという印象しか残らなかった。まだどうにもコメントのしようがない。
▼高橋佳也子 『はりなすてはならない』
先月見て今一つピンと来なかったが、良かった。やはり何かを持っている人だった。小さなハリネズミの置物を大事そうに抱えて、細かく、ただし決して慌てずに歩き回る。特にゆっくりした動きではないにもかかわらず、一歩一歩、足の裏が床に粘り付いている。そしてこの粘りが、腕や手の動きにも全く同じように現われる。宙を掻いているだけなのに、そこに粘るのだ。腰を折って動き回る。腕と脚でもって空間を丹念にすくい取りお腹の辺りにかき集めてくると、そこに積み重なる何かがある。こうなってくるともはや振りがどうこうといった低レヴェルな問題ではない。イスに腰掛けてガラスのカップと皿を手に取り、空のままあおってみるところなども、ガラスの感触がこちらの体にしっかり伝染してきて、くすぐったいような感覚になる。触っていないのに触っている感覚がはっきりある、幻肢とはこういうものだろうか。ただし終盤のデコラティヴで速い踊りは本当に必要だったのかわからなかった。
▼荒木志水 『デザート』
この人も先月見た。バレエのカーテンコールの様々なパターンを延々と繰り返してみせる。だいたいお辞儀というのはそのままですでに踊りのようなところのある様式化された所作だから、繰り返されてもなかなか違和感が生じない。しかし、それだからこそ、あまりに長く続いて「何かヘンだ」と思う時が来ると、その感覚は「日常的な所作や行為を反復してダンスに仕立てる」お馴染みのパターンにおけるそれとは微妙に違ったものになる。もっとねじれている。お辞儀(およびその他のカーテンコール的所作)は、様式化されているだけでなくコード化もされていて、とりわけお辞儀は意味性が強く、今はこれを反復しているのであってホンモノのお辞儀ではないのだとわかっていても、お辞儀されるごとにいちいち「終わった」という感覚を抱いてしまう。これはもう体にすり込まれてしまっていて、どうにも抗いがたい。わかっていて騙される感覚は、自分の体を自分とは別のものであるかのように思わせる。この冒頭シーンはやや短く感じられ、中盤は黒い上着を脱ぎ金ピカの衣装で派手に踊るのだが、これは要らなかった。後半でまたカーテンコールが始まる。今度はもっと長い気がした。様式化されているから、基礎さえあれば何度も正確に反復できる。しかし体の特性を活かしているとはいえ、アイディア勝負なので、もっと体の奥深くへの探求が見たい気もする。
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