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ダンスとか。

ダンス・フィルム・ヴァリエーション/Gプログラム:ポストモダンダンス

2009-09-25 | ダンスとか
渋谷・イメージフォーラム。
▼『トリオA Trio A』(イヴォンヌ・レイナー、1978年、抜粋)
▼『持続するプロジェクトの繰り返し/日々変更 Continuous Project/Altered Daily』(イヴォンヌ・レイナー、1969年)
▼『フットルールス Footrules』(ダグラス・ダン、1980年、抜粋)
▼『教皇と一緒の観客 An Audience With the Pope』(デヴィッド・ゴードン、1980年、抜粋)
▼『ザ・マター The Matter』(デヴィッド・ゴードン、1980年、抜粋)
▼『少女教育 Education of the Girlchild』(メレディス・モンク、1980年、抜粋)
▼『ドルメン・ミュージックのコンポジション Dolmen Music』(メレディス・モンク、1980年)
▼『16 Millimeter Earrings』(メレディス・モンク、監督/ロバート・ウィザース、1986年)
▼『レペティション Répétitions』(ルシンダ・チャイルズ、1980年)
▼『KATEMA』(ルシンダ・チャイルズ、1978年)
▼『Accumulation With Talking plus Watermotor』(トリシャ・ブラウン、監督/ジョナサン・デミ、1986年)
▼『舞台裏にて:M.G.のための映画版 Shot Backstage-For M.G.:The Film』(トリシャ・ブラウン、1998年)
いきなり『トリオA』が途中でぶった切られ、そのまま Continuous Project/Altered Daily の69年版(日本語題の「繰り返し」は「リハーサル」の誤訳)に突入。かなり急拵えな編集がされているようだ。その後のは全部見たことないやつだと思って期待していたら、ダンの『フットルース』からチャイルズの『レペティション』までは1980年のTV番組 Making Dances: Seven Post-modern Choreographers から抜き出したものだった。マーシャ・シーゲルが脚本を書いていたりするのだが、話の最中でもどんどん切って行く……次のチャイルズのソロはヨーロッパでの上演らしく、初めて見た。斜めの線を行ったり来たりするミニマルな振付だが、方向感覚がやたら不安定で、さらに靴が大きいのかドタドタしているのが奇妙だった。いわゆるチャイルズの幾何学志向とは違う面を見るべきなのだろうか、こういうところはもっと補足情報がほしい。目玉は最後だが日本語題は誤訳というか意味不明。For M.G.:The Movie というのがもともとの振付作品のタイトルで(M.G.はミシェル・ギィ。ギィは1973年にブラウンをフランスに招いた文化大臣、この作品の公演直前に急逝したためこのタイトルになった)、映画のようにフレーム内への人物の出入りということをテーマにした作品であって、だからあえて舞台袖から撮影してみたわけなのだろう。とはいえ、正直フツーの(お父さんが撮った運動会みたいな)ホームヴィデオにしか見えない。記録ではなくて作品としてどういうコンセプトがあるのか? それにしてもこの上映会、余程の予備知識がないとさっぱりワケがわからないだろう。もっとしっかり作品を撮ったものを流してほしかった。
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勅使川原三郎 『鏡と音楽』

2009-09-25 | ダンスとか
初台・新国立劇場(中劇場)。
回転するプロペラの影で照明が辺り一面を駆け巡る冒頭。続く勅使川原ソロはマイムの成分が濃く、これを見ていて勅使川原の振付の全般的な特徴の一部が理解できた気がした。例えば腕がいきなり硬くなったり柔らかくなったりするとか、体が引き攣って部分的に動かなくなってしまい、何度かグイグイ押し込んでいるうちに突破できたりとか、そういう「感じ」を勅使川原はすごくうまく作り出すわけだが、そういう「感じ」というのは見る者が受け取る印象なのであって、ダンサー自身の身体的な経験の問題では必ずしもない。「いきなり硬くなった」ように観客が感じる時、ダンサーはただいきなり硬直させているわけではなく、関節や筋肉のアーティキュレーションを変化させる際にもっと複雑なプロセスを踏んでいる。つまり、ダンサーの経験と観客の経験は同じでなくていいというイリュージョニズムの考え方が勅使川原の中に(少なくとも一方の極として)ある。これとダンサーの個人的で主観的な体感とのバランスの取り方が多様に考えられているところに勅使川原の振付の振り幅があると思う。それにしても今回の作品は構成が実に緩く、ノイズとバロック音楽(およびメシアン少々)の二面が交互に来る(鏡と音楽?)だけで、ひたすらインスタレーション的な「画」と、ダンスを見ることになるのだが、とりわけ前半はダンサーが踊りまくっており、いうまでもなく佐東利穂子も踊りまくっているので、これで十分と思えた。冒頭の勅使川原ソロから、一人おいて佐東のソロが始まり、以後もほとんど出っ放しで踊る。信じられないスピードで手がビュンビュン飛び交っているのだが、重要なのはもちろん足で、止まることのない移動と不安定に揺すられる体の質量こそがエンジンとなり、腕の駆動力ともなっている。絶え間なく動き続け、着地した瞬間にはもう次に飛び出していく方向を足が探っている。2000年に『ラジパケ』で見たあの子ヤギの動き(初めて書いた『バレエ』誌の公演評でもフィーチャーした)を思い出してしまった。両足が低空をヒョイヒョイ跳んでいく動きは他のダンサーたちもやるのだが、向きを変えるのには一定の時間がかかるものだし、勅使川原などは重心が低めなので上体や腕を動かしている間にしばしば足が止まる。ところが佐東は滅多なことでは止まらない。足が床に接している時間が圧倒的に少ない。高い重心を活かしながら、いとも簡単に次から次に足を動かし続け、たまに空間移動が止む時すら足は高速で低空スライドしている。この身体の軽さと、大きく、虫の翅のように使う腕は、相補的に機能している。見ていると、ほとんど飛びそうで、あまりのことに思わず顔がニヤけてしまう。
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