dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

日韓アートリレー2010

2010-12-22 | ダンスとか
日暮里・d-倉庫。
▼ダンスカンパニー/アンジュ 『その島に行きたい』
▼ユ・ジンギュのモムジッ 『ハンジ(韓紙)』
▼花上直人 『作品~Q~』
▼Abe"M"ARIA 『Nothing but――』
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『WHY NOT』(’69、荒川修作監督)

2010-12-17 | ダンスとか
六本木・音楽実験室 新世界。
ライヴ演奏/渋谷慶一郎
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N.N.N.

2010-12-12 | ダンスとか
横浜・STスポット、昼。
▼かえるP 『ケチャップ』
振付/大園康司、出演/橋本規靖、米田沙織、大園康司
▼CRUSH THE TYMKS 『TOKYO 白書』
振付/CRUSH THE TYMKS、出演/泊麻衣子、横山彰乃、高橋萌登
▼木村悠介+松木萌+吉本和樹 『double fact』
構成・演出・振付/木村悠介、出演/松木萌、吉本和樹、木村悠介
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山田せつ子 『薔薇色の服で』

2010-12-03 | ダンスとか
吉祥寺シアター。
ダンサーが「ダンス」「ダンス」と口にすればするほどダンスが遠ざかる感覚、見ている側としてもまた不意の強迫観念に苛まれてしまう体験。自分としては、何もそこまでは、ダンスを必要とはしていないんじゃないかと思った。というか、そもそも必要としたりしなかったりするものではないんじゃないか。なきゃないでいいとは思わない、あってほしい。しかし求めて得られるものではないし、自分で作り出せるものでもない、というようなものがあるという風に考えることはいけないことなのだろうか。
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維新派 『台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき』

2010-12-02 | ダンスとか
与野本町・彩の国さいたま芸術劇場(大ホール)。
新国立劇場以来、屋外のも含めほとんど見ているけど、びわ湖でやった『呼吸機械』の世評が自分には理解不能で、だったらもう見なくて良いのかなと思ったりもしていたのだが、アジアがテーマというのでスルーはできなかった。しかし今回のはいつものスペクタクルではなく、むしろ観客の想像力に訴える抽象的なセノグラフィーで、しっかりと内容のある作品だと思った。戦前の日本から「南洋」に移住した商人たちを個々の「点」として見て、それを星座のようにつないで見せていく。等間隔で並ぶ電柱の下に一人ずつ立って、互いに「そこはどこですか」と聞くと、20年代のジャカルタだったり、10年代のシンガポールだったり、30年代のサイパンだったりする。時間と空間を飛び越え、「日本人」というか「日本に生まれた人たち」が交信する。しかしこの「日本に生まれた人たち」としての移民が、「日本国民」としての属性からは隔てられているところにこの作品の肝があると思う。つまり電柱の下での時空を超えた人々のコンステレーションは、確かにその時点では「日本国民」たちの仮想的な紐帯とアイデンティティを浮かび上がらせているに過ぎないように見えるが、とりわけ戦時下の描写に至ると、彼ら彼女らと「日本国」との距離は鮮明になる。例えばサイパンで日本人町を築いた商店主が、アメリカ軍の砲撃を受けながら、「30年かけて築いたものが7時間で消えた」という時、「日本」を外から、しかもギリギリまで遠ざかったいくつもの地点から見返す視点が強烈に彫り出されてくる。さすがにアジアを扱いながら、まさか「ノスタルジー」などではすまされないし、また単に「国民=国家以前」を無邪気に想像してみる遊戯にも陥ることなく、「国民=国家」としての「われわれ」のありようを批評的に解体する新鮮な視点が示されていたと思う。ラストに上空から一群の星々が降りて来ると、それは電柱の街路灯と同じナトリウム灯のオレンジの光で、だからぼくは夜の飛行機から見下ろした時に見えるジャカルタの街の景色を連想してしまった。「国民」でもなく「群衆」でもなく、個が織り成す「星座」として人々を描くことで、広大な地理的・歴史的空間とそこに暮らしてきた(暮らしている)人々を、抽象ではない現実的な地続きのものとして見せる、というか、想像させる、その手つきはデリカシーにあふれていて、新鮮でスケールの大きな日本論/アジア論にふれた感じがした。これはぜひ瀬戸内海の、本当に海の水が打ち寄せる浜辺で、つまりサイトスペシフィックであることが想像力によって最大限に活かされる状況で見たかったかも知れない。
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