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ダンスとか。

大倉摩矢子 『明るさの淵』

2010-05-23 | ダンスとか
中野・テルプシコール。
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勅使川原三郎 『オブセッション』

2010-05-20 | ダンスとか
渋谷・シアターコクーン。
出演/勅使川原三郎、佐東利穂子、ヴァイオリン/ファニー・クラマジラン(Fanny Clamagirand)
体の中心から外に拡散していく遠心的な動きが勅使川原で、反対に内側に体を細かく折って凝集していく痙攣的な動きが佐東、というのは、ここしばらくの作品とは真逆の割振りだと思う。勅使川原の出だしが強烈だったけれども、全体に見せ場は多くないと感じた。特に(『消息』にも出てきた)テーブルやイスに絡んだり、あるいは(珍しく)相手の体に絡んで動く部分は説得力が弱い。勅使川原の振付は何といっても垂直軸とそこから派生するバネが命で、その分、水平方向のヴェクトルを活かすのは容易ではないのだと思った。
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黒沢輝夫・下田栄子 「まだ踊る」

2010-05-15 | ダンスとか
横浜赤レンガ倉庫1号館3階ホール、夜。
▼下田栄子 『月の砂漠』(出演/堀内翼、堀内朔良)
▼石井漠 『山を登る』(出演/黒沢輝夫、黒沢美香)
▼下田栄子 『蒔絵』(出演/米沢麻佑子)
▼黒沢美香 『薔薇ノ花瓣ニ放火シテ』(出演/小林美沙緒)
▼下田栄子 『闇に歌声』(出演/幅田彩加)
▼米沢麻佑子 『breath』(出演/望月崇博、米沢麻佑子)
▼黒沢美香&ダンサーズ 『ダンス☆ショーA』(『passion』『娘たち(『膝の火』より)』『mode'n dance』)
▼下田栄子 『兄妹(ブラート)』(出演/堀内翼、堀内朔良)
▼黒沢美香&ダンサーズ 『ダンス☆ショーB』(『ゲーシャ(『接吻』より)』『ウィーン』『24000回のキッス』『OSAKA』)
▼下田栄子 『銀色にのす女』
▼黒沢美香 『喜びも悲しみも幾歳月』
▼黒沢輝夫 『金色に踊れる男-やすらぎ-』

黒沢美香のソロが良くて嬉しかった。ここ数年楽しめないことが多くて、完全武装の『薔薇の人』でさえもヒット感を得られなかったのだけど、久しぶりに大きい空間を使った黒沢美香の踊りのスケールの大きさを味わった。動き自体が大きいわけではないにも関わらず、視線や、動きのヴェクトルの振り幅や変化の速度の変化などといったものを通して、物理的には満たされていない空の空間がその拡がりを(潜在的なものとして)主張しているように感じられてくる。黒沢美香の動きは、物理的に顕在化した量だけではなく、潜在的な量を浮上させる。いいかえるなら、単に「見せる」ばかりではない「暗示」が絶え間なく仕掛けられるために、見る人の想像力を無意識のうちに駆り出し、場の生成に関与させてしまうのだろう。ゆっくり時間が流れる部分はもとより、むしろ急いでアクロバティックに動いているさなかに、キュビズムのごとく、踊る体からいくつもの空間の切り子面が畳み掛けるように生まれてきて圧巻だった。ところでおそらく初めて舞台で見る下田栄子作品の振付には、意外なほど黒沢美香と共通するものがあった。とりわけ突発的で大胆な動きの展開がアクセントになっている点などは顕著で、しかし若いダンサーの瞬発的な力みは決して笑いを誘わない。現代舞踊的なヴォキャブラリーを、形はそのままで、効果だけをズラしたのが黒沢美香の振りなのだろうか。石井漠の『山を登る』でも、まるでバイエルからその旨味を最大限に引き出そうとするかのような極度に丹念な踊りっぷりは、素朴さの感動と同時に、妙なおかしさがあった。アイロニーをもって過去を遇するのは誰にでもできるが、リスペクトも失われてはいないがゆえに、こうも複雑な美しさになるのだろう。
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甦るラインダンス GHQが撮った宝塚歌劇『春のをどり』(一九四六・総天然色)

2010-05-15 | ダンスとか
表参道・東京ウィメンズ・プラザ ホール。
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木ノ下歌舞伎 『勧進帳』

2010-05-14 | ダンスとか
横浜・STスポット。
監修・補綴/木ノ下裕一、演出・美術/杉原邦生、出演/亀島一徳、重岡漠、清水久美子、福原冠、John de Perczel。
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チェルフィッチュ 『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』

2010-05-07 | ダンスとか
ラフォーレミュージアム原宿。
最初の『ホットペッパー』も、次の『クーラー』も、『クーラー』初演時に比べて作品としての必然性があまり感じられなかったというのが正直なところ。特に『ホットペッパー』は初日でパフォーマーが硬いのか、それとも他に原因があるのか、最後までコンセプトが見えて来なかった。プリペアド・ピアノを使ったケージの『ソナタとインターリュード』の音に動きや言葉をかなりリテラルにハメて作られていて、一曲ごとに話者が変わることでナラティヴが少しずつ進むのだが、曲と動きと言葉の三者が相乗的に活気付くべきところでかえって互いの足枷になってしまっているように感じた。「モツ鍋」の話をする伊東沙保のパートが相対的にうまくいっているように感じられたので、おそらくパフォーマーのコンディションによるところが大きかったのだろうと推測する。そもそもこの曲で踊るなんて、パフォーマーに対しても観客に対してもレヴェルが高度すぎるが、もっと熟した形でいつか見てみたいとは思う。『クーラー』は初演のマーラー9番ではなく、トータスとステレオラブを使っていて、内容もけっこう違う。パフォーマー(山縣太一、安藤真理)は健闘しているのだけど、曲の方が目立ってしまって、全体の流れがちょっと強引に引きずられているように感じられた。言葉と所作でパフォーマーのテンションの推移をじっくりスリリングに聞かせる初演の方がはるかに好きだ。しかし最後の『お別れの挨拶』は凄かった。コルトレーンの『India』にノってしゃべくり、身をよじる南波圭のパフォーマンスは、全身で音楽する=ダンスするということの一つの極限形態ともいうべきもので、『クーラー』初演版からさらに踏み込んだ作品としての説得力があったように思う。音を拾うとかリズムに同期するとかいったレヴェルではなくグルーヴに乗って、ジャズしていた。ジャズする、演奏に加わる、というのは、音楽に対してダンスが取りうる最良のポジショニングの一つであり、例えば最もコンディションが良い時の黒沢美香の即興や、最も良くできたキリアンの作品などで感じることがあるアレだと思う。ピンヒールの不安定さ、華奢な(表層筋の薄い)身体のソリッドで鋭い屈折角とクリアなリズムが、時間の流れを細かく破砕し続ける一方、迷走するナラティヴの粘度(それはもはや言語の線条性以上の何かではない)がギリギリの主体性を支え続ける。こういう果てしないよろめきの提示が、チェルフィッチュの重要なモティーフであることは確かだと思う。しかしそれを提示(あるいは表象)に留め、それ以上は語らないというのがモラルなのだろうか、と今回の作品に対しては強く思った。派遣社員がセミの一生に自分をなぞらえ、その仲間を見送りながら他の派遣社員が「遅かれ早かれ私たちも…」なんて言ったりする様子を、単にシニカルに提示してみたり、ダンスして見せたりするということの意味がわからない。快楽そのものが不快に感じられるということは、とりあえずどうでもいいとしても、この作品は現実に対してニュートラルな立場を取るということに失敗していないか。対象から距離をとりながら語るための手段として(シリアスさを中和する手段として)ダンスが用いられてしまうということが、何ともいえない気分になる。所詮ダンスなんて享楽でしかないのだろうか。どうせやるならもっとポジティヴな仕方でダンスを捉えてほしかった。
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「死なないための葬送─荒川修作初期作品展」+「コレクション1」展

2010-05-04 | ダンスとか
中之島・国立国際美術館。
50年代末の、棺桶の中にセメントなどでできたオブジェが横たえられている作品ばかり20点も見ることができた。荒川修作のこのタイプの作品は色々な企画展示でもよく見かけるけど、一点だけで見るよりこうしてまとめて見た方がコンセプトがわかりやすくなると思う。だいたい何で棺桶なのか、ということもよく考えてみたことがなかったけど、要するにこの大小のオブジェは一つ一つが「死体」=「body」なのだ。そう思って見ると、綿が練り込まれたり、奇妙な金属片が配置されたりしたコンクリートの塊のそれぞれが多様な「身体イメージ」として現れてくる。いびつな形状は、人間とは似ても似つかないものもあれば、背骨のような長細い(しかし人間にしては長過ぎる)ものもあり、そこに異様な凹凸や裂け目があったり、異質なテクスチャーをもつ部分があったりする。もし視覚イメージに頼ることなしに「身体」をイメージするとしたら、例えばこんな風になったりするんではないだろうか、と思わされる。ツルツルと丸みを帯びた部分は、その滑らかさが「水分」を連想させるせいか、臓器を思わせるし、かと思えばあからさまに足型や手型のようなものが押し当てられていたりもする。棺桶内部に張られた布のゴージャスな人工性が、「身体」の「不気味」さをあぶり出していて、とても面白く見られた。さらにこの企画展示に合わせて所蔵品展でも荒川の平面作品が四点出ていた。年代的には棺桶オブジェシリーズの直後、NYに移ってすぐの頃のもので、何かの図面みたいな線や形と文字が美しく配置されている。正直どれも独特の難解さで、なかなか腑には落ちないけれども、「知覚」や「意味」の根っこのところをスパッと切り裂いているように感じられるのは、画面内に主題も中心も見当たらず、それでいて作品全体がまとまりのあるオブジェのようなものにもなっていないからだろうか。図面とオブジェの中間、観念と物体の中間、そのどちらともいいがたい状態。ともあれ50年代の作品と連続して見ることで荒川修作のやっていることに今までより深いところで触れられたような気がした。
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近つ飛鳥博物館・常設展+「継体大王の時代-百舌鳥・古市古墳群の終焉と新時代の幕開け-」展

2010-05-03 | ダンスとか
南河内・近つ飛鳥博物館。
川崎歩『ためいけ』のことをイメージしながら古墳地帯へ。展示物は当然、断片とそれを元にした復元品ばかりなのだけど、全体像が見えにくいだけ余計に歴史へのロマンを感じるということもあるんだろうなと思った。しかし同時に、そこまで想像力を働かせるにはそれだけの強いモチヴェーションが何か要るに違いなく、それは少なくとも今の自分は持ち合わせてないなとも思った。それより遣唐使や大宝律令などといった時代の、「国際的」というか「国籍不明」な人々の文化(例えば服飾や言語など)のありように強烈に関心がわいた。あと学校の教科書で無味乾燥に暗記させられる「竪穴式住居」というものが実際にどういうものなのかがわかって面白かった。屋根が直接地面にかぶせられているように見えるのはかなり奇妙で、しかしその下の地面を掘って空間を作ってあるから「竪穴」というのだ。建物といえば安藤忠雄の建築は、確かにユニークな作りではあるものの俯瞰した写真から受けるほどのインパクトは感じなかった。
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『アリス・イン・ワンダーランド』('10、ティム・バートン監督)

2010-05-01 | ダンスとか
Alice in Wonderland, dir. Tim Burton

ユナイテッドシネマ岸和田。
久々に見たティム・バートン。話が明らかに端折られすぎていて全体に散漫に感じられてしまうけど、普通の映画ではありえないような「質感」が入り乱れていて、画面内のどこで何が起きるか予測できない楽しさはある。チェシャ猫のヌルッとした現れ方/消え方、白の女王のバレエ風のクラゲっぽいクネクネ感。キャラクターや物のスケールが意図的に攪乱されていて、単純に「大」と「小」に割り切れないところも良い。やや大き目になったアリスと、普通サイズのステインが、頭部だけ巨大な赤の女王を挟んで並んでいるシーンなんかは視神経に未知の負荷がかかる。
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