五十路男の失敗日記

生涯独身男の青春の挽歌

「タイム・マシン」と未踏の時代

2006年04月10日 | 雑記

テレビで、久しぶりに映画を観た。

「タイム・マシン」

H・G・ウェルズの古典的SFを原作とした、割合新しい映画である。
恋人の死を無かったことにするため、タイムマシンを発明する主人公。
しかし、どうしても恋人の「死」というものを変えることが出来なかった。

主人公は、未来なら過去を変える方法がわかるかもしれないと思い
未来へ時間旅行する。
彼はいろいろな未来を見る。
信じられないくらい科学が発達した未来。
人類が滅亡の危機に瀕している未来。
そして、原始人のような生活をしている人々が住む未来へ飛ばされてしまう。
彼はそこで、いろんな冒険をするのだが、結局タイムマシンが壊れてしまい
そこで暮らす決意をする。
彼は、「過去を変えることは出来ないが、未来は変えられる」と悟った。

大まか、このようなストーリーだったと思う。
映画というのは、1回観ただけでは分からない部分がどうしても残って
しまう・・・というのは、三十路だけだろうか。

この映画を観て、三十路が感じたことを少し述べたい。

三十路は、以前に何度も書いたが、パニック障害(かつて不安神経症と
呼ばれた)という病気のため義務教育もほとんど受け
られずに定時制高校や大学に進学した。
学校での苦悩は、義務教育を受けなかった「しわよせ」がきたものだと
思っている。
大学を出たって、病気である限り、就職も出来ない。
高校に入ってから、病気が悪化したのだ。
三十路は、地獄を見た。

身体の調子はここ数年、安定しているが、精神的苦痛はずっと続いている。
「過去を変えることが出来たら・・・」
もう、同じ失敗はしない、そう思っていた時期があった。もちろん、この
身体で戻っても仕方が無い。精神的な部分だけ、過去の自分に戻れたら
同じ過ちは繰りかえさないだろうし、未来、つまり現在を含む状況も違って
いただろう・・・。病気にもならなかっただろうし、なったとしても軽く済んだ
はずだ。
もちろん、そんなことが不可能なことであるくらい、分かっていた。
分かってはいても、どうしても過去にとらわれてしまう自分がいた。

20代の終わり頃だったろうか、考え方が変わった。
過去を変えることは不可能だ。過去に戻ることも不可能だ。
病気になってしまったことも、事実であり、変えることは不可能だ。

ならば・・・
自分の過去、自分が病気になってしまったことを素直に受け入れよう。
過去あっての現在の自分である。
過去が違ったら、必ずしも良い現在を迎えているかということも疑問だ。
病気も同じことだ。
病気にならなかったら、もっと悪いことが起きていたかもしれない。

「あのとき、あれがああなっていれば・・・」
「あのとき、こうしていれば・・・」

そういう考えを捨てようと思うようになった。
病気なら病気で、それを受け入れようという努力をした。
病気であるならば、そしてそれがなかなか治らないものならば、その病と
どう上手く付き合って生きて行くか。
そう考えるようになって、家の仕事も手伝えるようになったし、新しい世界
を見ることもできるようになった。
これから三十路の病気も、少しずつ良くなっていくかもしれない。

でもそれは、病気になる前の状態に「戻る」のではなく
病気を抱えた自分のままで、「未来を作る」ということなのだ。
過去に辛いことがあっても、それはそれだと受け止めて「新しい自分を作る」
ことの方が、過去の状態に戻すことよりも近道だと悟ったのだった。

映画「タイムマシン」では、主人公が「未来を変えてやる」と言っていたが
似て非なることではないか・・・と思った。
いや、結局は同じことなのか・・・映画に疎い三十路には、結論は出せない。
現在、自分が置かれている状況を受け入れ、それに適応していこうとする・・・
それは同じなのかもしれない。

考え方を変えてからの三十路は(まさに30代になる頃だった)、以前ほど
病気を恐怖しなくなった。発作が起きて苦しんでも、「これが三十路という
人間なのだ」と納得出来るようになった。クヨクヨしなくなった。
病状が好転しはじめたのも、この頃からだったから、それなりの効果は
あるのだろう。

「自分を決め付けない。自分の未来はこれから努力して作る」

1本の映画を観て、改めて考えさせられた。
ともすれば弱気になりがちな三十路に、活を入れてくれた。

この映画を観るように薦めてくれた、大切な人に謝意を表するものである。