cuminseed

ちょっとだけスパイシー

今の会社に入るまで

2005-11-22 | 障害者
今の会社に入るまで、
毎日の生活が、リハビリをする為だけでした。

療養中に、まさかの会社倒産。
発病したときよりも、精神的ショックが大きかったです。
会社に復帰する為に一生懸命リハビリをしていたのに、、、

根本的な考え方を変えないと、
これから先の人生が、ダメになると思いました。

それまでは、障害者なんて嫌だ!と意地を張っていましたが、
障害者手帳や障害者年金の申請を始め
ありとあらゆるサービスの申請を行いました。

朝から夕方まではリハビリ。
夜はネットで情報収集という毎日でした。

少しずつですが、手や足の回復が見られましたが、
失語症はほとんど良くなっていませんでした。
早朝は公園の散歩、午前中は市のスポーツジム。
午後はプールでのリハビリでしたが、
まったくと言っていいほど、人との会話がない生活でした。

この頃が、精神的な寂しさの限界だったようです。
お年寄りに混じって市の機能訓練教室に参加。
失語症のリハビリをどうするか考えた末、
字を書く練習を兼ねて、エッセイ教室にも参加しました。

このような生活を1年ほど続け、脳出血の後遺症(片麻痺)は
お医者さんがびっくりするような回復をしたようです。
退院時は車椅子か少しの距離なら杖、手はまったく動かない
状態から、3年後には、杖は必要なし。
手も動くようになってきました。

とにかく、5年間は自分で納得の行くまでリハビリをする。
5年たてば就職活動をすると考えてました。
問題は5年も空白期間があると、企業が採用してくれるかと
言うことでした。
現実には、発病してから会社が倒産するまで1年半ありましたので
4年ほどの期間ですね。
まず履歴書に何かアピールが出来て、リハビリにもなることを考えました。

障害者となってたくさんの人に迷惑をかけたのだから、
障害者でも出来るボランティア活動がないか?

そのころ地元で泉州人
http://www.senshujin.com/
というサイトで月に一度
“異業種交流会”が開かれていて
無職の障害者でも異業種の仲間にいれてもらえないかと・・・
勝手な解釈で参加させて頂いてたのですが、
“きたときよりもうつくしく”を合言葉に、
清掃活動と、泉州の発展を目的とした
NPO泉州人
http://www.senshujin.com/npo/
を立ちあげよう。
と話が持ち上がりました。
昔から登山や魚釣りもよく行き、清掃活動に興味があったので
“これだ!!!”
と、参加するようになりました。
他には、識字のボランティア。
障害者交流イベントの積極的な参加。
(このときに妻と知り合いました)

これらの活動が実を結んだのか、
短期失業者雇用対策事業で、市役所年金課アルバイトの紹介を受け。
続いて障害者雇用促進事業で、図書館でのアルバイト紹介。
図書館のアルバイト途中で、障害者職業センターから、
今の会社を紹介していただき
現在に至ってます。


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ある障害者雇用の苦悩(2)

2005-11-18 | 障害者
今の会社に入る前は、
“障害者雇用促進事業”で
某市で4ヶ月ほど働いていました。
肢体・精神・知的の3障害が
図書館の背ラベルの張替えをすると言ったものでした。
ここで、障害者が仕事をするって
かなり困難だと言うことが理解できました。

みんな仕事をしたい。仕事をして給料を貰いたいと、
意識と希望は持っているのですが、
一部の、肢体障害者・精神障害者は
まったく世間一般の企業で仕事をするという、
心構えがないのです。
小さいときから、
責任のある行動や仕事をしなければいけないという
教育をされていないような気がしました。

障害者だからといって甘やかされて育った人。
障害者だからといって、
悪いことをしても無視されてきた人。

普通で考えると、仕事をしに来てるのか?
作業所と同じ感覚で来ている人がほとんどでした。
というか、本人たちは作業所の延長なのでしょう。

障害者雇用促進について企業に働きかけをしている
人とも話をした事があるのですが、
肢体障害者、それも中途障害者は
けっこう再就職するのですが、
知的障害者はほとんど就職できないと、、、
企業の働きかけよりも、教育の見直しが先決だと
言われていました。

私の会社はもっと複雑でした。
サラリーマンに取って自己アピールは大切なのですが、
少し屈折した方向になっていました。
作業自体が自分たちで創造してするのではなく、
与えられた作業を遂行するだけなのですが、
人を蹴落として、自分を良く見せよう
という考えがまかり通っていました。

会社でも他の社員とフロアが違う、隔離された現場で、
障害者同士かってにすれば・・・と言った様相でした。

もともと障害者雇用と言うのは、
従業員の1,8%は障害者を雇用しなければいけませんよ。
しなければ罰金と、世間に言いふらしますよ・・・
というものです。
私の入社したときは、障害者の作業は、
あまり重要視されていなかったようです。

2日目の朝、
“何をすればいいのですか?”
先輩たちが
“座って見といて”

最初は気づかなかったのですが、
これが曲者でした。
新入社員にテキパキ仕事をされると
困るようです。

これは何処にでもあるようですが、
私の妻も某、大手スーパーの障害者雇用で
パートに行ったとき、先輩が仕事を教えてくれず、
2ヶ月しても仕事が覚えられないという理由で
退社させられた事があります。

私の場合、先輩がお昼に発した言葉が、
“私が新入社員に、仕事を教えろと
 上司に言われてへんから
 言われるまで座っといていいですよ”

“?”

凄いと感心しました。
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ある障害者雇用の苦悩

2005-11-17 | 障害者
前に書いたことがあるのですが、
私は某会社で、障害者5名で構成されたチームのリーダーを務めています。
(リーダーとは名前だけで手当てなどまったくありません)

昨日、障害者チームの一人がミスをした。
報告書を提出すると言う大きなミスです。
リーダーは2度と同じミスをしないように対策を提出しなければいけない。
あとは、迷惑をかけた部署に詫び状を書くなど、
日常業務以外の仕事が増えてしまう。

そのミスをした人は、入社8年(私は1年半)とベテランのはずですが
同じミスを何回も繰り返し、3ヶ月前に入社した人よりも劣るのです。
(以前はリーダーでした)

5名のうち、中途障害者が3名(片麻痺2、視覚1名)
生れ付きの障害者が2名いて、
この生まれ付きの2名が、ほとんどのミスを発生しているのです。

私以外は4名とも50歳代で、それなりの社会生活の経験者?
では無いようなんですね。

健常者の考え方といろんな面で違うのです。
最終的には、個人の努力と考え方が大事なのですが、
私の会社では、と言っておきましょう。

小さいときから育ってきた環境が違い、
社会にでてからも、責任のある仕事を
あまり任されなかったようです。

仕事とはどういったものか?
サラリーマンとは?
中途障害者の3名は、多くの修羅場をくぐって来た経験者で
生まれ付きの障害者と基本的な考え方が全然違うのです。

今の会社に入り驚いたのは、
障害の場所や程度がみんなバラバラなのに
“障害者雇用で給料がいっしょだから、
 作業を5等分し、
 各自が5分の1だけ仕事をすればいいです”
と当時のリーダーが私に言うのです。

私は
“障害者雇用だからこそ、
 お互いに欠点(障害)をフォローし、
 与えられた作業をミス無く遂行すべきだ!”
と思ってましたから
実際に勤めて見ると凄い世界だな。と
カルチャーショックでした。

そして私は1種2級の障害者手帳。
他の人よりも障害の度合いが大きいのです。
こんな身体で他の人に付いていけるのか?
不安だらけの入社でした。

“こんな考えが通る訳もないし、
 まぁ~~~何とかなるでしょ。
 それよりせっかく入った会社。
 給料もらわないと妻が怒るだろうな?”

“やはり今はお金が大事。
 仕事に慣れたら、
 自分がやりやすいように、
 職場の雰囲気を変えたらしまいだろう”

入社1日目の出来事でした。
 

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い・ら・ち・・・

2005-11-15 | 日常
昨日から出勤しだした。
風邪も少しずつだが良くなってきてるようだ。

私が会社に入る鍵を持っているため、
他の人たちより早く出勤しなければならない。
阪神尼崎駅から梅田に向かって電車に乗るのだが、
今日(今ごろになって?)ある変なことに気が付いた。

電車が混むのが嫌だし、会社に着いてから、
ゆっくりとトイレに行って(?)
コーヒーを飲み、妻に無事会社に着いたとメールするのが
日課で、始業時間の1時間ほど前に会社に着いている。
梅田で地下鉄に乗り換えるのだが、朝が早い為、
電車の本数が少なく、乗り換えの時間も10分近くの余裕がある。

なのに・・・
「まもなく大阪梅田、梅田に到着します。お忘れ物の・・・」
と車内放送が始まると、鞄を持って座席から立ち上がり、
ドアの一番前に陣取っているのである。
会社に着く時間も、乗り換えの時間もじゅうぶん余裕を持って
家を出ているはずなのに、電車を降りるときだけ、
マラソンのトップを狙う様相なのである。

帰りの電車では、
“ぎりぎりまで座席で粘って見るぞ!”
と、わざわざ空いている普通電車に乗り込んだ。

「次は尼崎・尼崎・・・」
と車内放送が始まると、お尻のあたりがムズムズするのを感じた。

「まもなく尼崎・尼崎・・・」
ぎりぎりまで座っていようと思ったが、
放送を聞いたとたん、心臓の鼓動が早くなり
“早く降りる用意をしろ”
と脳に働きかけているようだ。

『だめっだった!』
尼崎駅に着いたときには、我慢できず、
ドアの一番前に立っていた。

性格であろうか?
無意識の間についた癖であるかは、謎だが、
いくら余裕を持っても、
電車から、降りるときだけは
“いらつく”ようである。

これを
『貧乏性』
とも、言うのかも・・・






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明日は?

2005-11-13 | 日常
午前中に病院に行って来て点滴と採血をしてきた。
炎症反応は大分少なくなってきたが、
白血球の数値はまだ高いようである。

“会社には行っても良いですが、
 あと3日ほど抗生物質の点滴をしましょう”

との話。
仕事が終わってから病院で点滴という事になりそうだ。

夕方、会社の同僚から電話があった。

「完治するまで、仕事も忙しくないし
 無理して会社に出てこなくてもいいですよ」

と言うことである。

私の担当部署は、5名の障害者で作られたチームで
彼がサブリーダー、
私がリーダーと言う事になっている。
(給料は関係ないのです-残念)

私が入社したのは去年の6月で
今年の4月からリーダーと言う位置に付いている。
彼は入社して5年と経験や知識、人望と
私なんかと比べ物にならないくらい
良く出来た人である。
ただ、網膜色素変性症と言う病気を、
8年ほど前に発病し、2級の視覚障害者である。

視覚障害と言うのは、私のような肢体障害者と
まったく次元の違った障害であり、
情報量がすべての現代社会での会社勤め。
しかも障害が進行するかも知れないといった不安。

視覚障害でありながら他のメンバーより、
書類整理などの作業にミスが少なく
通勤から帰宅するまで緊張の連続という状態を維持すると言う、
凄い集中力と強い意志を持った人である。

彼もまた、中途障害者である。
私と似ている所は、

“もし病気にならなければ、
 幸せになれたのに・・・”

と言わず、

“もし病気にならなければ、
 また違った人生だったろうな”

と言うことである。

私と同じように、
悩み、苦悩したが、
それだけでは生きて(生活して)いけない。
現実を素直に受け止め、
これからをどうやって生きていくか?
考えている最中だそうです。

仕事より、
明日は、
彼の顔を見に行こうかな!


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