あっという間に4月です。
もうすぐふらんす堂さんから刊行される拙詩集『もうずっと静かな嵐だ』の、装画を描いてくださった、蒜山目賀田(ひるぜん・めがた)さんが個展を開催されています。
が!新型コロナウイルスの関係で、会場となる高円寺のギャラリーのpockeさんは、会期中も入場ができない状態です。
それでもめげない、蒜山さん。
個展の会場へ直接行けないなら、個展の様子をWebで公開してみたら良いんじゃないの!?ということをお考えになりました。
蒜山目賀田個展
「憶測の温床(virtual)」
※上記の個展タイトルに、ヴァーチャル会場へのリンクが貼ってあります。
会期・2020年4月2日~4月20日(火、水曜日アクセス不可)
サイトオープン時間帯・12:00~20:00
※また展覧会のブックレットの通信販売も、ヴァーチャル会場にて行っています。
さっそく、「憶測の温床(virtual)」を鑑賞してきました。
現在、鑑賞できる作品は次の4つでした。
展示1週目
1・「WELCOME TO WARP ZONE!」アニメーション作品
2・「もちてのほん」
3・「路上での拾得物」
4・「ユア・ホーム・タウン」※ダイジェスト版 映像作品
展示2週目
1・「ユア・ホーム・タウン」映像約8分×3本 ほか地図など
2・「新宿音声案内」
3・「テキスト」
展示3週目
1・「WELCOME TO WARP ZONE!」アニメーション作品
2・「もちてのほん」
3・「路上での拾得物」
4・「ユア・ホーム・タウン」※ダイジェスト版 映像作品
5・「新宿音声案内」
6・「テキスト」
7・「Ground / Replacement」写真 89×127 mm (1枚あたり)
ぜひ、会期中にWebで蒜山さんの御作品の数々をご覧くださいませ!
また、個展開催初日ですが、それぞれの作品について、感想文のようなものを書いてみたいと思います。
まだ感想文は見たくないよ!という方は、ここより下の画面は見ずにそっと、この記事の窓を閉じてくださいませ。
(4/13・展示2週目の感想文を追記)
(4/17・展示3週目の感想文を追記)
展示1週目
1・「WELCOME TO WARP ZONE!」アニメーション作品
私はいわゆる、ファミコンなどのゲーム機で遊ばずに育った。これは家庭の方針だったと思うが、そんな訳でゲームに詳しくない。
ゲームは友達の家でプレイ動画を見せてもらうもの、という感じだった。
そんな私でもわかる、これは某ゲームをパロディにしたアニメーション作品だ。
BGMには、おそらく誰もが耳にしたことのある、郷愁を誘う音楽が流れている。
ゲーム機があれば、コントローラーを操作して飛び込みたい煙突?が生えていたり、台?が浮かんだりしている。
私は子どもの頃の、友達がコントローラーを操作するゲームの世界を見ているような気持ちになった。
だが、コントローラーを操作する友達はここにはいない。
ひたすらにまっすぐ、主人公らしき存在は進む。
主人公らしき存在にとって、ここがすでにワープした場所で、可能ならば煙突に入ったり、台に乗ったりするのだろうけど、それができない世界へワープしてきてしまった、ような気がする。
BGMに時々ノイズが混じるのも、もうここではなにか変化をもたらすことは不可能な場所で、朽ちるのを待つだけの場所かもしれない。
だけど平原のような場所の果てを見つけるべく歩くことはできる。
ひたすら歩くことによる地道なワープ。
蒜山さんのアニメーション作品を拝見するのはこれが初めてだ。
いつもは絵画作品を拝見させていただいているので、新鮮に感じられつつ、絵画作品に表れる光と影の淡いの世界のようなものが、不確かだけどふんわりと存在するなにか、をこのアニメーション作品からも感じた。
2・「もちてのほん」
これは、以前の個展「ほどよい陰謀」にて発売された「もちてのほん」という、小さな本の写真や解説ページなどが見られる。
え、こんなものに持ち手を付けるの!?という、発想がすでに面白い作品集だが、持ち手があると、それそのものに触れなくても、間接的に”握る”という行為で繋がることもできる。
作品をご覧になった方なら分かると思うが、カタツムリに持ち手を付けたことで、私はたぶん、カタツムリと間接的に繋がることができると思う。
ちょっと距離感を持ってなにかと繋がるには、持ち手があると心は安心できるのかもしれない。
また純粋に、持ち手がないと不便なものもあるだろう。
こんなところに持ち手が!という驚きは、こんなところにこそ持ち手を!という閃きを得られそうだ。
3・「路上での拾得物」
作品ページにとくにタイトルの記載が無かったため、ヴァーチャル会場の「pockeの様子」にある会場設営図にあった、「路上での拾得物」をタイトルにしておく。
まず、思う。それを、拾うのか。そして、持ち帰るのか……?
最近、私が見つけた落し物はなんだっただろう。父が拾ってきた、女性もののチープなアクセサリーくらいだろうか。
ちなみに、父は拾ったアクセサリーを透明なビニール袋に入れて拾った現場へ戻し、「落とし物のアクセサリーです」というような張り紙をしていた。
のちに、そのアクセサリーは誰かによって拾われた。落とした本人かどうかはわからない。
今回の展示にそのアクセサリーはなかったので、蒜山さんが拾ったわけではなさそう(そりゃそうだ)。
落とし物を目の前にして、それを拾って届けるでもなく、多くの人に見られる可能性がある場所へ掲示するかのように表現すること。
私は、この展示を見て、「試みとしては面白く感じてしまうけれど、それは落とし物だし、元の持ち主はどう思うだろう?」と感じてしまう部分もある。
見れば愛らしい塗り絵や、言葉の綴られた手紙たち。持ち主のもとを離れてしまったけれど、ここに存在するよ、安心して、とも思う。
私が拾わなかった落とし物の塗り絵や手紙は、雨に濡れて破れたり、人に踏まれて汚れて原形がわからなくなったりして、本当に朽ちてしまうだろう。
でも、蒜山さんは落とし物を拾う。ご本人がどうお考えかは分からないけれど、拾うことでそのかすかな存在を救出したのだとも思う。
4・「ユア・ホーム・タウン」※ダイジェスト版 映像作品
行ったことのない町を故郷に見立てて街歩きする、という試みの映像作品。
本来はもっと長い映像作品のようだが、今回はダイジェスト版ということで約5分程度で作品の雰囲気を味わえる。
これが、面白いのだ。
え、あなたはこの町を知らないんでしょう?なのに、そこが田んぼや畑だったと言い、具体的な作物名を口ずさむ。
駄菓子屋があって、ヨーグルト味のあの懐かしい駄菓子をよく食べたんだよね、とか言うのだ、知らない町で。
これは、知らない町にあったかもしれない過去を作る、二次創作のような感じがする。
この映像作品には、台本があるのだろうか、とくに台本がないようであれば、登場人物たちの豊かな想像力に脱帽する。
登場人物たちは嘘を、かつてあったように、人によってははっきりと、人によってはぼやかして語る。
その嘘は、本当に嘘なのだろうか。
本当は、自分の”ホーム・タウン”にあった過去の景色を重ねているのではないだろうか。
私がこの映像作品に参加していたら、まっさきに自分の”ホーム・タウン”にまつわる景色を話してしまう気がする。
登場人物たちは、本気の嘘をついているのか、それとも嘘のような本当にあった過去を語っているのか。
あれこれと考えたくなる映像作品だった。
展示2週目
1・「ユア・ホーム・タウン」映像約8分×3本
先週とは展示方法が少し変わっていた。
展示についての説明文が新たに加わり、映像作品もそれぞれ独立して8分程度にまとめられたものが3本用意された。
前回の「ユア・ホーム・タウン」の感想文で、私は”行ったことのない町を故郷に見立てて街歩きする、という試みの映像作品。(略)本当は自分の”ホーム・タウン”にあった過去の景色を重ねているのではないだろうか。”と書いた。
この憶測は当たっていたようで、展示についての説明文は次のように記されている。
「ここがあなたの生まれ育った町だと仮定して、あなたの思い出の土地の案内をしてください。」
出演者は、本人の出自とは関係のない町を出身地と見立て、自分自身の地元での思い出を語っていく
予想していたことが当たるという面白さ、個展のタイトルである「憶測の温床」にぴったりな作品だと感じられる。
しかし、予想していたことが当たるということは、必ずしも面白いことではない。
悪い予感、憶測だって存在するのだ。
「憶測の温床」……何かしらの憶測を呼ぶ状況にあり、その憶測の結果が生じやすい環境を意図的に作っているのではないか。
2・「新宿音声案内」映像11分53秒
展示の説明文にはこうある。
「この町<新宿>についてのエピソードを奪い、語りなおす。」
動画、静止画で新宿らしい町が構成されている映像と音声の作品。
私自身、あまり新宿に詳しくない。せいぜい、紀伊國屋書店があり、歌舞伎町があり、という雑なイメージしかない。
この作品は、「ユア・ホーム・タウン」のように字幕が出ず、「新宿音声案内」のタイトル通り、男性の声で新宿の町の思い出、エピソードが語られる。
おそらく語り手は一人だけど、語り口調がちょっと変わって、次から次へと新宿でのエピソードが矢のように語られてゆく。
展示の説明文にある「この町<新宿>についてのエピソードを奪い、語りなおす。」ということが、いまいち、見えてこない。
新宿の町のエピソードを奪う、とはこの作品ではどう描かれているのか、読み取れなかった。
男性が語る新宿の町というのは、私がなんとなく知っている新宿のイメージが続いており、語り直す、という点まで到達しているのだろうか。
「新宿音声案内」というタイトルから、あえて音声だけを聴いて想像してみる。
私自身、あまり新宿に詳しくない。音声からだけでは、新宿の町並みを想像することが難しい。
音声だけで語られる新宿は、町並みを奪われていると言えるかもしれない。
また、映像作品だけど音声案内ということで字幕がないことに、深く意味があると思う。
聴くことに集中して、町の有様を思い出したり、新たに描きだしたりする。
私のなかで憶測の新宿が誕生する。
3・「テキスト」
私は多くの本を読んでいない。非常に不勉強なまま、この時代を生きている。
この個展のカタログテキストを一部、公開したのが、「テキスト」だ。
そこには、一見すると美術とは関係のないような、哲学的な要素が見られる文章が続く。
哲学的な思考や文章が苦手な私だが、蒜山さんが書かれたこの「テキスト」は、まぁまぁ読みやすく、興味を持てる。
美術・芸術は、その分野のなかだけで語られるのではなく、外側にある世界ともリンクしなければ、美術・芸術は生きてゆけない。
それは、私が書いている詩にも言える。詩の世界だけでなく、詩の外側にある世界との繋がりをもつための、言葉がほしい。
世界をひらいてゆくことばが、この「テキスト」には詰まっているのだと思う。
展示3週目
0・ヴァーチャル会場であるwebサイトの作りが複雑になっていた!
展示物が表示される【WORKS】のリンク先が、アクセスするたびに変わる仕組み、のようだ。
最初、サイトにアクセスして【WORKS】のリンク先が次々に変わったときは、(蒜山さん、これリンクが壊れているのでは?!)と思ったほどだった。
クリックした【WORKS】のリンク先によって、展示物が変わる。
見たいと思った展示物を、自分の意思によって見ることができない、ある種の不自由さ、面白さがある。
何度か【WORKS】をクリックして、トップページに戻ると、【WORKS】のページが増えたり減ったりする。
さて、新作はあるだろうかと、サイトを探検するようにクリックしていくと、見つかったのが「Ground / Replacement」だった。
それ以外の展示物は、展示1週目と2週目で公開されたものが、運が良ければリンク先で見られる、という感じだ。
あとは、隠しページのように無題のリンク先があった。
これはリンクを見つけた方のお楽しみということで、内緒にしておく。
1・「Ground / Replacement」写真 89×127 mm (1枚あたり)
グラウンドとして使われた場所の風景写真と、池のようなものが映り込んだ風景写真が、おそらくは交互に、かつ、自動的に表示が切り替わってゆく。
「Ground / Replacement」というタイトルは、一般的には運動場を指す「グラウンド」と、「元へ戻すこと」という意味でとらえていいのだろうか。
無限ループのように同じ配列で写真が延々と流れていく。同じものを見ているのに、写真の表示時間が短いためか、どの写真がどの写真と繋がりを持つのかが、混乱する。
はっきりとグラウンドとわかる写真もあれば、かつてグラウンドとして使われたらしい、雑草が生い茂る空き地のような写真もある。
池が映り込んだ写真は、池の大きさが大きくなったり、小さくなったりしているように見えた。
「Ground / Replacement」。「グラウンド/元へ戻すこと」。
グラウンドの写真は同じ場所を映したものはなさそうに見える。
池の写真は撮影している場所が変わっているのか、定点ではなさそうに見える。
それぞれの写真が、時間や空白を埋めるように表示が繰り返されてゆく。
けれど、頭のなかでは時間や空白が埋まったように感じない、常に新しい情報として入ってくる感覚がある。
見た写真たちを脳内で、撮影された季節や時間どおりに繋げて「元へ戻すこと」へ執着しようとすればするほど、元へは戻らないのだろうな、と思った。
もうすぐふらんす堂さんから刊行される拙詩集『もうずっと静かな嵐だ』の、装画を描いてくださった、蒜山目賀田(ひるぜん・めがた)さんが個展を開催されています。
が!新型コロナウイルスの関係で、会場となる高円寺のギャラリーのpockeさんは、会期中も入場ができない状態です。
それでもめげない、蒜山さん。
個展の会場へ直接行けないなら、個展の様子をWebで公開してみたら良いんじゃないの!?ということをお考えになりました。
蒜山目賀田個展
「憶測の温床(virtual)」
※上記の個展タイトルに、ヴァーチャル会場へのリンクが貼ってあります。
会期・2020年4月2日~4月20日(火、水曜日アクセス不可)
サイトオープン時間帯・12:00~20:00
※また展覧会のブックレットの通信販売も、ヴァーチャル会場にて行っています。
さっそく、「憶測の温床(virtual)」を鑑賞してきました。
現在、鑑賞できる作品は次の4つでした。
展示1週目
1・「WELCOME TO WARP ZONE!」アニメーション作品
2・「もちてのほん」
3・「路上での拾得物」
4・「ユア・ホーム・タウン」※ダイジェスト版 映像作品
展示2週目
1・「ユア・ホーム・タウン」映像約8分×3本 ほか地図など
2・「新宿音声案内」
3・「テキスト」
展示3週目
1・「WELCOME TO WARP ZONE!」アニメーション作品
2・「もちてのほん」
3・「路上での拾得物」
4・「ユア・ホーム・タウン」※ダイジェスト版 映像作品
5・「新宿音声案内」
6・「テキスト」
7・「Ground / Replacement」写真 89×127 mm (1枚あたり)
ぜひ、会期中にWebで蒜山さんの御作品の数々をご覧くださいませ!
また、個展開催初日ですが、それぞれの作品について、感想文のようなものを書いてみたいと思います。
まだ感想文は見たくないよ!という方は、ここより下の画面は見ずにそっと、この記事の窓を閉じてくださいませ。
(4/13・展示2週目の感想文を追記)
(4/17・展示3週目の感想文を追記)
展示1週目
1・「WELCOME TO WARP ZONE!」アニメーション作品
私はいわゆる、ファミコンなどのゲーム機で遊ばずに育った。これは家庭の方針だったと思うが、そんな訳でゲームに詳しくない。
ゲームは友達の家でプレイ動画を見せてもらうもの、という感じだった。
そんな私でもわかる、これは某ゲームをパロディにしたアニメーション作品だ。
BGMには、おそらく誰もが耳にしたことのある、郷愁を誘う音楽が流れている。
ゲーム機があれば、コントローラーを操作して飛び込みたい煙突?が生えていたり、台?が浮かんだりしている。
私は子どもの頃の、友達がコントローラーを操作するゲームの世界を見ているような気持ちになった。
だが、コントローラーを操作する友達はここにはいない。
ひたすらにまっすぐ、主人公らしき存在は進む。
主人公らしき存在にとって、ここがすでにワープした場所で、可能ならば煙突に入ったり、台に乗ったりするのだろうけど、それができない世界へワープしてきてしまった、ような気がする。
BGMに時々ノイズが混じるのも、もうここではなにか変化をもたらすことは不可能な場所で、朽ちるのを待つだけの場所かもしれない。
だけど平原のような場所の果てを見つけるべく歩くことはできる。
ひたすら歩くことによる地道なワープ。
蒜山さんのアニメーション作品を拝見するのはこれが初めてだ。
いつもは絵画作品を拝見させていただいているので、新鮮に感じられつつ、絵画作品に表れる光と影の淡いの世界のようなものが、不確かだけどふんわりと存在するなにか、をこのアニメーション作品からも感じた。
2・「もちてのほん」
これは、以前の個展「ほどよい陰謀」にて発売された「もちてのほん」という、小さな本の写真や解説ページなどが見られる。
え、こんなものに持ち手を付けるの!?という、発想がすでに面白い作品集だが、持ち手があると、それそのものに触れなくても、間接的に”握る”という行為で繋がることもできる。
作品をご覧になった方なら分かると思うが、カタツムリに持ち手を付けたことで、私はたぶん、カタツムリと間接的に繋がることができると思う。
ちょっと距離感を持ってなにかと繋がるには、持ち手があると心は安心できるのかもしれない。
また純粋に、持ち手がないと不便なものもあるだろう。
こんなところに持ち手が!という驚きは、こんなところにこそ持ち手を!という閃きを得られそうだ。
3・「路上での拾得物」
作品ページにとくにタイトルの記載が無かったため、ヴァーチャル会場の「pockeの様子」にある会場設営図にあった、「路上での拾得物」をタイトルにしておく。
まず、思う。それを、拾うのか。そして、持ち帰るのか……?
最近、私が見つけた落し物はなんだっただろう。父が拾ってきた、女性もののチープなアクセサリーくらいだろうか。
ちなみに、父は拾ったアクセサリーを透明なビニール袋に入れて拾った現場へ戻し、「落とし物のアクセサリーです」というような張り紙をしていた。
のちに、そのアクセサリーは誰かによって拾われた。落とした本人かどうかはわからない。
今回の展示にそのアクセサリーはなかったので、蒜山さんが拾ったわけではなさそう(そりゃそうだ)。
落とし物を目の前にして、それを拾って届けるでもなく、多くの人に見られる可能性がある場所へ掲示するかのように表現すること。
私は、この展示を見て、「試みとしては面白く感じてしまうけれど、それは落とし物だし、元の持ち主はどう思うだろう?」と感じてしまう部分もある。
見れば愛らしい塗り絵や、言葉の綴られた手紙たち。持ち主のもとを離れてしまったけれど、ここに存在するよ、安心して、とも思う。
私が拾わなかった落とし物の塗り絵や手紙は、雨に濡れて破れたり、人に踏まれて汚れて原形がわからなくなったりして、本当に朽ちてしまうだろう。
でも、蒜山さんは落とし物を拾う。ご本人がどうお考えかは分からないけれど、拾うことでそのかすかな存在を救出したのだとも思う。
4・「ユア・ホーム・タウン」※ダイジェスト版 映像作品
行ったことのない町を故郷に見立てて街歩きする、という試みの映像作品。
本来はもっと長い映像作品のようだが、今回はダイジェスト版ということで約5分程度で作品の雰囲気を味わえる。
これが、面白いのだ。
え、あなたはこの町を知らないんでしょう?なのに、そこが田んぼや畑だったと言い、具体的な作物名を口ずさむ。
駄菓子屋があって、ヨーグルト味のあの懐かしい駄菓子をよく食べたんだよね、とか言うのだ、知らない町で。
これは、知らない町にあったかもしれない過去を作る、二次創作のような感じがする。
この映像作品には、台本があるのだろうか、とくに台本がないようであれば、登場人物たちの豊かな想像力に脱帽する。
登場人物たちは嘘を、かつてあったように、人によってははっきりと、人によってはぼやかして語る。
その嘘は、本当に嘘なのだろうか。
本当は、自分の”ホーム・タウン”にあった過去の景色を重ねているのではないだろうか。
私がこの映像作品に参加していたら、まっさきに自分の”ホーム・タウン”にまつわる景色を話してしまう気がする。
登場人物たちは、本気の嘘をついているのか、それとも嘘のような本当にあった過去を語っているのか。
あれこれと考えたくなる映像作品だった。
展示2週目
1・「ユア・ホーム・タウン」映像約8分×3本
先週とは展示方法が少し変わっていた。
展示についての説明文が新たに加わり、映像作品もそれぞれ独立して8分程度にまとめられたものが3本用意された。
前回の「ユア・ホーム・タウン」の感想文で、私は”行ったことのない町を故郷に見立てて街歩きする、という試みの映像作品。(略)本当は自分の”ホーム・タウン”にあった過去の景色を重ねているのではないだろうか。”と書いた。
この憶測は当たっていたようで、展示についての説明文は次のように記されている。
「ここがあなたの生まれ育った町だと仮定して、あなたの思い出の土地の案内をしてください。」
出演者は、本人の出自とは関係のない町を出身地と見立て、自分自身の地元での思い出を語っていく
予想していたことが当たるという面白さ、個展のタイトルである「憶測の温床」にぴったりな作品だと感じられる。
しかし、予想していたことが当たるということは、必ずしも面白いことではない。
悪い予感、憶測だって存在するのだ。
「憶測の温床」……何かしらの憶測を呼ぶ状況にあり、その憶測の結果が生じやすい環境を意図的に作っているのではないか。
2・「新宿音声案内」映像11分53秒
展示の説明文にはこうある。
「この町<新宿>についてのエピソードを奪い、語りなおす。」
動画、静止画で新宿らしい町が構成されている映像と音声の作品。
私自身、あまり新宿に詳しくない。せいぜい、紀伊國屋書店があり、歌舞伎町があり、という雑なイメージしかない。
この作品は、「ユア・ホーム・タウン」のように字幕が出ず、「新宿音声案内」のタイトル通り、男性の声で新宿の町の思い出、エピソードが語られる。
おそらく語り手は一人だけど、語り口調がちょっと変わって、次から次へと新宿でのエピソードが矢のように語られてゆく。
展示の説明文にある「この町<新宿>についてのエピソードを奪い、語りなおす。」ということが、いまいち、見えてこない。
新宿の町のエピソードを奪う、とはこの作品ではどう描かれているのか、読み取れなかった。
男性が語る新宿の町というのは、私がなんとなく知っている新宿のイメージが続いており、語り直す、という点まで到達しているのだろうか。
「新宿音声案内」というタイトルから、あえて音声だけを聴いて想像してみる。
私自身、あまり新宿に詳しくない。音声からだけでは、新宿の町並みを想像することが難しい。
音声だけで語られる新宿は、町並みを奪われていると言えるかもしれない。
また、映像作品だけど音声案内ということで字幕がないことに、深く意味があると思う。
聴くことに集中して、町の有様を思い出したり、新たに描きだしたりする。
私のなかで憶測の新宿が誕生する。
3・「テキスト」
私は多くの本を読んでいない。非常に不勉強なまま、この時代を生きている。
この個展のカタログテキストを一部、公開したのが、「テキスト」だ。
そこには、一見すると美術とは関係のないような、哲学的な要素が見られる文章が続く。
哲学的な思考や文章が苦手な私だが、蒜山さんが書かれたこの「テキスト」は、まぁまぁ読みやすく、興味を持てる。
美術・芸術は、その分野のなかだけで語られるのではなく、外側にある世界ともリンクしなければ、美術・芸術は生きてゆけない。
それは、私が書いている詩にも言える。詩の世界だけでなく、詩の外側にある世界との繋がりをもつための、言葉がほしい。
世界をひらいてゆくことばが、この「テキスト」には詰まっているのだと思う。
展示3週目
0・ヴァーチャル会場であるwebサイトの作りが複雑になっていた!
展示物が表示される【WORKS】のリンク先が、アクセスするたびに変わる仕組み、のようだ。
最初、サイトにアクセスして【WORKS】のリンク先が次々に変わったときは、(蒜山さん、これリンクが壊れているのでは?!)と思ったほどだった。
クリックした【WORKS】のリンク先によって、展示物が変わる。
見たいと思った展示物を、自分の意思によって見ることができない、ある種の不自由さ、面白さがある。
何度か【WORKS】をクリックして、トップページに戻ると、【WORKS】のページが増えたり減ったりする。
さて、新作はあるだろうかと、サイトを探検するようにクリックしていくと、見つかったのが「Ground / Replacement」だった。
それ以外の展示物は、展示1週目と2週目で公開されたものが、運が良ければリンク先で見られる、という感じだ。
あとは、隠しページのように無題のリンク先があった。
これはリンクを見つけた方のお楽しみということで、内緒にしておく。
1・「Ground / Replacement」写真 89×127 mm (1枚あたり)
グラウンドとして使われた場所の風景写真と、池のようなものが映り込んだ風景写真が、おそらくは交互に、かつ、自動的に表示が切り替わってゆく。
「Ground / Replacement」というタイトルは、一般的には運動場を指す「グラウンド」と、「元へ戻すこと」という意味でとらえていいのだろうか。
無限ループのように同じ配列で写真が延々と流れていく。同じものを見ているのに、写真の表示時間が短いためか、どの写真がどの写真と繋がりを持つのかが、混乱する。
はっきりとグラウンドとわかる写真もあれば、かつてグラウンドとして使われたらしい、雑草が生い茂る空き地のような写真もある。
池が映り込んだ写真は、池の大きさが大きくなったり、小さくなったりしているように見えた。
「Ground / Replacement」。「グラウンド/元へ戻すこと」。
グラウンドの写真は同じ場所を映したものはなさそうに見える。
池の写真は撮影している場所が変わっているのか、定点ではなさそうに見える。
それぞれの写真が、時間や空白を埋めるように表示が繰り返されてゆく。
けれど、頭のなかでは時間や空白が埋まったように感じない、常に新しい情報として入ってくる感覚がある。
見た写真たちを脳内で、撮影された季節や時間どおりに繋げて「元へ戻すこと」へ執着しようとすればするほど、元へは戻らないのだろうな、と思った。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます