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思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

基準と価値

2007-10-04 21:15:36 | 思索
「長年の間・・社会という枠組みの中で・・外から与えられた価値観に支配され、自分を見失ってしまいそうな私たち・・善悪という観念に縛られ、誰かの許可をいつも気にして・・マニュアルに縛られ、基準以下であることは許されず・・人間として基準以下であることを怖れ・・もがき・・苦しむ・・哀れな生き物ですよねぇ・・私たちって・・」

う~む。
社会の価値観というのは社会が決めますよね。それは必ずしも個人の価値観を反映してくれたものではない。むしろ、そうでないことの方が多いかも知れませんね。民主主義国家、全体主義国家、資本主義、社会主義、政教分離、政教一致、キリスト教文化、イスラム教文化、その他多数、この各々全ての価値観は全く異なっていますよね。善悪が入れ替わったり対立したり。本来はどんな異なる価値観であっても、社会は個人を守るものでなければなりませんね。しかし、この社会の価値観を守るために、個人はどんどん死んでいくという現実。しかも嬉々として。逆だ!そんな風に思いますね。

みんな、(社会が決めた)人間としての基準に達しないことを怖れてしまうんですよね。その社会の構成部分として自分が在ることを認識したら、これは仕方のないことでもあるのでしょうね。でも、ごく僅かの人達、透明な目を持つ人達は知っています。より大切なのは、社会の基準ではなく、自分の基準なのだとね。この自分の基準はイデオロギーなどを超越して、誰にも共通のものでもあり得そうです。だって、みんな人間なんですからね。

ただ、社会の価値基準を軽視してよい、と言うわけでは決してありませんね。社会主義国で生まれたその中で、イスラム教国に生まれたらその中で生きていくことになるわけですから、自分が所属する社会の価値観や構造をしっかりと理解し認識しておくことは大切でしょう。会社を経営するのも、どの社会に属して経営するかで方法論は全く違うものになりますものね。経営する限りは、状態の健全を維持し、成長していかなければ意味がありませんね。そして、他の社会をも理解しておかないと、グローバルな展開はできないということでしょうね。

ここに、自分の基準と社会の基準とが相容れず葛藤が生まれるという構図が可能性として現れますね。これがたぶん社会人としての人の宿命的な苦悩なのだと思います。これは、その都度、どのように折り合いをつけるかという問いに答えていくしかないのでしょうね。

こんな人の世に生きて、”疲れる”のは当たり前のことですね。そんな時、例えば心に響く音楽に包まれて、全てが癒されていくのでしょう。そして、また未来に歩みだしていける。無垢な子供の笑顔にも、同じような力がありますね。(^^)

ホロン
コメント
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