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喫茶 輪

コーヒーカップの耳

女三人

2024-06-06 22:14:31 | 懐かしい話
今日の「書斎・輪」の客人は古くからの知人。
長男が幼稚園の時PTA会長をしたのだが、その時の役員さんです。
四十数年来のお付き合いになるお二人で、T中さんとK田さん。
お昼前から夕方までたっぷりと。
なんの遠慮もなくおしゃべりできる人たち。
何れも女性なのでわたしは途中から席を外して。
妻も交えて女3人、日頃のストレス発散でした。
 
『コーヒーカップの耳』 「喫茶・輪」を舞台にしたドラマ。
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A本さんのコーヒー

2024-01-05 17:03:07 | 懐かしい話
A本さんがコーヒー豆を届けてくださいました。 
A本さんは昔、わたしの長男が子どものころに少林寺拳法の道場でお世話になった人です。
そのころはまだ学生さんだったと思いますが、子どもの部の面倒を見ておられました。
今また縁が繋がってこのように親切にしてくださいます。
コーヒー豆ですが、ブレンドや焙煎を研究しておられて、今回納得がいくものができたので、と試供品を贈呈してくださいました。



いただくのが楽しみです。
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フロッピー

2023-10-17 09:40:08 | 懐かしい話
古いものを整理していたらこんなものが出てきました。


フロッピーディスクです。
パソコンの前に使っていたワープロに対応するもの。
いろいろやってたんですね。
「火曜日」「風媒花」などの同人誌や「宮っ子」「神戸っ子」「輪」「米屋新聞」などに載せる原稿はみなワープロで書いてたのでした。
懐かしいけど、もう二度と使いませんので廃棄処分。
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夜のマンション

2023-10-13 21:55:53 | 懐かしい話
夜のウォーキング。
いつものコース。
昼も少し歩いたので、合計5100歩。

このマンションは酒蔵通りのマンション。

元、専売公社の跡地に建ちました。
宮水地帯だったので地下水脈に悪影響を与えないかと物議をかもしましたが建っています。
専売公社の時は広い空き地がありました。
そこに電動ポンプでくみ上げる井戸があって、あの阪神大震災の時、水を戴けるということで、たくさんの人がポリタンクを持って並んだのでした。
わたしもその一人で助かったのです。

この住宅はマンションではありません。

県営住宅です。
わたしが子どもの頃、ここには木造平屋建ての県住が立ち並んでいたのでした。
台風の度に床上浸水騒ぎを起こしていました。
その後5階建てが8棟の鉄筋住宅になり、その時米屋だったわたしは、新しく入居する家の得意先獲得に通いました。
近在の米屋さんとの獲得競争に励んだものです。
夜行って、電気のメーターを見て、動いていたら入居されたのだと判断し「ピンポーン」を鳴らして。
その後毎日のようにこの住宅に配達や御用聞きに通ったものです。
そして何年かして、あの5階建ては増築されて一戸当たりの部屋数を増やしたりしたのですが、
今はこのように建て替えられて10階建てになっています。
このようになった時にはわたしは米屋をやめていたので行ったことはありません。
あの頃のお得意さん、今はどうしておられるだろうか?
お亡くなりになった人も多いだろうな。
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カメの思い出

2023-10-13 09:05:02 | 懐かしい話
朝ドラ「ブギウギ』を見ていたら、子供が劇場にカメを連れて行ってる場面で妻が大笑いしていた。



そこで思い出した。
遠い昔、中学時代のことだ。
学校行事で映画観賞があり、敷島劇場へみんなで行った。
そのとき、わたしはなぜか、カメをポケットに入れて行った。
戎さんの池で捕まえた小さな亀。
夢中で映画を見てる間に、逃げてしまっていた。
その話を妻にすると、さっきより大きな声で笑われた。
そんなに面白いか?

それにしても、劇場のどのあたりに座っていたかまでが思い出せる不思議。
ずっと忘れていたこんなに小さなどうでもいい記憶。
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「お米屋さん」

2023-10-03 11:27:49 | 懐かしい話
コイン精米に行ってきました。



30キロのお米が重くて情けなくなりました。
お米屋をしていた時はヒョイヒョイだったのに。

上に「米屋さん」と書きました。
もしかしたら奇異に思われたかもしれません。
「お」を付けずに「米屋」でいいではないかと。
わたしは元々お米屋だったのでお米に敬意を表して「米」と呼ぶのが普通でした。
わたしだけではなく、昔はみんな「お米」と呼んでましたね。
なので普通に「お米屋さん」と呼ばれてましたし。
だけど魚屋は「お魚屋さん」とは呼ばれなかったのでは?
八百屋さんも「お八百屋さん」とは呼ばれない。
薬屋さんはもしかしたら「お薬屋さん」と呼ばれることがあったかも。
今、ふっと思うと、昔は「○○屋さん」というのがたくさんあった。
今はみんな、なんとかストアーとかショップとかカタカナ名になってしまっている。
「お風呂屋さん」など、「○○屋」さんはみな無くなってしまった。

そこで「お米屋さん」だが、昔は人々から大事にされていたのです。
敬意をもって「お」と「さん」をつけて下さっていたのですね。
「コラッ!米屋!」と言われたことはなかったです。
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記憶の彼方から

2023-10-01 09:25:23 | 懐かしい話
ふと思いついて、わたしの最も古い記憶の我が家の略画を描いてみました。
居住空間は6畳一間でした。その頃の近所の家はみんなそんなものでした。
日本全体が貧しい時代です。
父親は蒙古(シベリヤ抑留の一環のモンゴル抑留)から復員してきて間のない頃。



わたしは4歳位でしょうか。
昭和22、3年ぐらい。

父母と私の3人暮らし。この後、弟が昭和23年12月にここで生まれます。
配給所では主任さんの白井さん以下、小路さん、桜井さん、事務員のお姉さんの名川さん、その他何人かが働いておられました。

小路のおじさんは面白い人で、子どもが洟を垂らしていると、手にメリケン粉を握って追いかけてきて、その子の鼻の下に塗り付けるのでした。
すると鼻の下に二本の白い線が現れて笑っていました。いつも餌食になるのはU谷さんのM重ちゃんでした。
彼は後に神戸大学を出てオムロンKKの重役さんになります。
桜井さんのお兄さんは、隣のお地蔵さんで事件を起こされたことがありました。
近所の田淵さんの正さんが空気銃を持っていて、雀を撃ち落として日本盛の塀を乗り越えて落ちた雀を拾いに行っている間でした。
桜井さんは置いてあった空気銃を手に取り、蓑田さんのたけしさんの顔を目がけて撃ったのです。
弾が入ってないと思い込んでいて。
ところが弾は残っていて発射され、たけしさんの左目の下に当たりました。
そばにいたわたしは、とろりと血が流れるのを見ました。
その後のことは忘れましたが、近所では大きな事件でした。たけしさんの顔にはいつまでも手術の傷痕が残っていました。

父はこの配給所ではなく、国鉄西宮駅のそばの食糧公団(後阪神米穀KK)に行っていて、オート三輪で配給のパンを市内の各配給所に配達していました。
何度かその助手席に乗せてもらったことがあります。オート三輪にはドアはなく、バー(棒)をはめるだけのものでした。

これは配給所の隣の畑の前での写真。

女の子は隣の朝日さんのみちこちゃんです。大人は桜井さん。
後ろにはサトウキビ。
履物が時代を表しています。


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納屋

2023-09-30 18:56:25 | 懐かしい話
納屋。「なや」と読む。
遠い記憶から。

小学4年生ぐらいだったか。70年ほど昔のことだ。
近所の子どもと遊んでいて、親に言わずにそのまま山へドングリを取りに行った。
そのころはそんなものだ。
4,5人だっただろうか。
甲山のふもとまで。
そのころ自転車を持っている子はなかった(わたしは中古を買ってもらっていたかもしれない)。
歩いて行くのだ。子どもの足では1時間以上かかるだろう。
夢中で遊んでいて、気づくと夕方になっていた。
それから帰路についても陽はとっぷりと暮れる。
秋の日は釣瓶落としと言う。
家に着くと、近所の大人たちが騒いでいた。
「警察に頼むところだった」と叱られた。
わたしが最も年上だったので、父にこっぴどく叱られた。
家の横にあった納屋に放り込まれて鍵をかけられた。
記憶はそこまで。
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懐かしい紙もの3点

2023-09-25 18:39:24 | 懐かしい話
ちょっと片付けものをすると、次々と懐かしいものが見つかる。
古いんですね、うちの家は。
先ずこんなの。


2003年の阪神タイガース優勝記念写真集。
星野監督、片岡、赤星、伊良部、アリアス、金本、浜中、桧山、井川、ムーア、ウィリアムス、八木、今岡、藤本、藪、久慈、久保田、矢野、関本、廣澤、下柳、安藤ほか。
忘れてた名前もあった。
もう20年も昔なのか。この2年後にも優勝するが今回はそれ以来。

これは2006年のチラシ。

幼児教育講座の案内。
わたしが「ことばのアルバム・口頭詩のすすめ」と題しておしゃべりしたもの。
この時のこと覚えてますが、時間を間違えて、遅れて行ったのでした。その分、一生懸命お話しして喜ばれました。

これは2002年の祝賀会パンフレット。


小林久盛先生の「出版記念会」です。
甲子園のホテル「ノボテル」で開かれたもの。盛大な会でした。

これがプログラム。


そしてテーブル表。

知ったお名前もいっぱいありますが、今では多くがお亡くなりになりました。
わたしはL席です。

小林久盛先生は言わずと知れた、がん光免疫療法で今や超有名な小林久隆博士のご尊父です。
久盛先生がご存命ならどれほど喜ばれたか。
でもご母堂の孝子先生がご健在なのが幸いです。
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懐かしい写真色々

2023-09-06 10:57:06 | 懐かしい話
あるものを捜していたら、
そのものは見つからず、懐かしい写真が、「あら、こんなところにあったのか?」とたくさん出てきました。



小林久隆さんの御両親。
安西さんたち、当時の地蔵さんの世話人。生き残っているのはわたしだけ。
万博の歌の作者、島田陽子さんとのツーショット。
杉山平一、安水稔和、伊勢田史郎さんなど。
ああ懐かしい。
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竹田賢治さんとその姉。

2023-08-18 11:41:22 | 懐かしい話
竹田賢治さんという人の労作『ドイツ俳句と季節の詩』(武田賢治著・明石書店刊・2023年)を入手。



立派な本です。400ページ近くあります。
正直わたしには難しいですが、日本語の所だけを読もうと思ってます。
「はじめに」の中にも《日本の読者の皆様はドイツ語の部分は読みとばして下さい。》とあります。

竹田さんは神戸学院大学の名誉教授さんです。
そして、我が宮崎修二朗翁のフアンだったのです。
宮崎翁の書斎に出向いて、翁の著書に署名を求めた人なのです。
『触媒のうた』を大いに喜んでくださったのでした。
それだけではありません。
後から分かったのですが、竹田教授のお姉さんが、わたしの小学校時代の同級生だったのです。
拙著『完本・コーヒーカップの耳』が出た3年前、彼女は電話をしてきてくれ、六十数年ぶりに声を聞いたのでした。
小学校の卒業記念写真です。

この中に彼女もわたしも写ってます。
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F本さんが

2023-08-16 10:59:37 | 懐かしい話
少し前のことになるが、少なからぬショックを受けた。
F本操さんが亡くなったというのだ。
長く会ってはいなかったが、御主人とはちょこちょこ会っていて、その度に「奥さん元気?」と尋ねていたのだった。
その都度「元気です」と言っておられたが。
主人が外出から帰宅したら倒れていたとのこと。
あまりにもあっけない。

F本さんは、わたしが小学校のPTA会長していた時の副会長さんで、すこぶる元気のいい人だった。
細身の体で生き生きと務めを果たしてくださっていた。
わたしにはPTA活動の中での敵も多かったが、彼女はいつもわたしの味方だった。
「会長…、会長」といつもわたしを立てて下さっていた。
彼女がいなければわたしは大いに苦労させられたに違いない。
お陰で苦労しながらも楽しいPTA活動をさせてもらえたのだった。

PTAが終ってからの彼女は自分の信じる宗教に力を注いでいた。
わたしとは道が分かれたのだが、よく頑張ってる様子は知っていた。
あんなに元気だったのに、思いがけないことだった。
この歳になると、自分の身の回りから、わたしの人生に強い影響を与えた人が次々に遠い所へ行ってしまう。
淋しいことだ。
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「うさんごろとかっぱ」

2023-08-01 10:58:09 | 懐かしい話
「半どん」180号が届きました。



交流のある人のページを読ませていただきました。
六車明峰さん、田岡弘子さん、鈴木漠さん、梅村光明さん、涸沢純平さん、福永祥子さん、渡辺信雄さん、そして中野文擴さん。
そのうちの中野さんの児童文学「カッパに会った少年」に心惹かれました。
←クリック。
というのも遠い昔のことを思い出したからです。
この本です。

『うさんごろとおばけ』
(瀬名恵子作・絵)。
1979年発行のものですが、まだきれいです。
これ、どれほど読まされたでしょうか。ついこの前のような気がします。
長男が大好きな絵本でした。
この中に「うさんごろとかっぱ」という話があって、読むわたしも楽しかったのを覚えています。
うさぎのうさんごろは強いうさぎです。
ある時、となりのちび助をつれて沼で魚釣りをしていたのですが、ちび助が沼にオシッコをしたことで沼に住むカッパが怒って、うさんごろとケンカになりました。
出てきたかっぱをやっつけたのですが、次から次と仲間のかっぱが応援に出てきて1000匹も相手にしたのです。
でもみんなやっつけて、沼の中にかっぱは逃げ込んだのです。ところが、
「あっ、ぬまがちいさくなっていく」
「ふしぎだ」
「ふろしきぐらいのおおきさになっても、そのなかに、やっぱり くらげのように すきとおった ちいさな かっぱが、千びき うごいている」
「うまのあしあとぐらいの ちいさな みずたまりに なっても、ぼうふらより ちいさな かっぱが、千びき うようよ」
「とうとう すっかり きえて しまったとさ」 というような話。
子どもの想像力をかきたてるような話でしたが、読むわたしも楽しかったのでした。
因みに作者の瀬名恵子さん、ググって見ると、現在91歳でご健在だとか。
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屋根裏部屋の生き物

2023-07-28 06:47:43 | 懐かしい話
昨日、屋根裏部屋の話を書いた。

まだ思い出すことがある。
私の勉強部屋と書いたが、弟との相部屋だった。
二段式のベッドがあって、上の段は寝転んでもすぐ目の前に天井、というより屋根の裏面がある。
また大きな柱が横向きに二本通っていて邪魔だった。
階段は昨日書いたように無くて垂直に設えられた梯子だった。
階段を作るスペースがなかったのだ。
だから下の部屋の隅の天井に半畳ほどの穴が空けてあり、そこから出入りするのだった。
親父は面白い事を考えたものです。
相部屋の弟の和夫は小動物が好きな子で、トンボなどの昆虫を捕まえるのが得意だった。
その弟が虫かごに大きな蜘蛛を飼っていたことがあった。
灰色のでっかい蜘蛛だった。
またそのころ、米屋だったので、家の中にはネズミがいっぱいいた。
それはいいのだが、それのためにダニが発生し、体が痒くて困った。
屋根裏部屋は特にひどかったと思う。
あの「方違え」で泊りに来ておられたK添のおじさんも痒かったのではなかっただろうか。
でも、何も言われなかったように思う。
多分辛抱しておられたのだ。不平を言ったら、「それじゃ、やめてもらっていい」と父に言われるだろうから。
そのK添さん、その後、仕事が順調で大きな店にして行かれた。
「方違え」が功を奏したのかもしれない。
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屋根裏部屋があった家

2023-07-27 09:33:25 | 懐かしい話
昨日書いた日記「方違え」ですが、
わたしが中学生のころの思い出を書きました。屋根裏部屋の事を。
その家がこの写真に写っています。地蔵さんの境内から写したもの。



ただしこの写真はわたしが多分小学一年生(セーターの胸に名札が縫い付けてあるので)昭和24年のもので、まだ屋根裏部屋は作られておりません。
この三角屋根の下の部分に窓を作ってもらったのでした。
中学三年の夏休みには担任教師(椿本金之助先生)が家庭訪問に来られて、この部屋に案内しました。
しかしこの部屋に入るには垂直につけられた梯子を登らねばならないのでした。
本当に懐かしい思い出です。
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