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「理由なき反抗」 (1955年 アメリカ映画)

2024年10月09日 | 映画の感想・批評
 17歳の少年ジム(ジェームス・ディーン)は泥酔して路上で倒れているところを警察に連行された。警察署には家出した少女ジュデイ(ナタリー・ウッド)や子犬を拳銃で撃った少年プレイトウ(サル・ミネオ)がいた。三人は中流階級の家庭に属しているが、それぞれ家庭内に不和を抱えており、親子関係のコミュニケーションが機能していなかった。ジムは両親、ジュデイは母親が迎えに来て帰宅を許されたが、プレイトウだけは同居するメイドが迎えに来た。
 翌朝、転校した高校に初登校したジムはジュデイやプレイトウと再会する。登校するや否や不良グループを率いるバズに目を付けられ、プラネタリウムの駐車場でナイフによる決闘を申し込まれる。流血の惨事となる前に守衛に阻止されたが、その夜、決着をつけるために崖の上で<チキンレース>(度胸試しのゲーム)を行うことになった。ジムは間一髪で車から脱出するが、バズは脱出できずに車ごと崖から転落して死ぬ。やがてバズの仲間に追われることになったジム、ジュデイ、プレイトウは隠れ家に逃げるが、プレイトウは眠っている間に二人がいなくなってパニック状態に陥る。拳銃を発砲し、取り囲んだ警官に射殺される。

 24歳で華々しく散ったジェームス・ディーンの、あまりにも有名な青春映画であり、すでに多くの人が見ていると思う。筆者も3度ぐらいは見ている。前半のナイフでの決闘シーンやチキンレースはスリリングで迫力があるが、後半は緊張感が薄れ、ラストでジムが両親と和解するところなどはご都合主義的な印象が拭えなかった。ジムは父親の不甲斐なさに失望しており、「パパのようになりたくない」と言うが、父親の愛は感じているように思える。ジムの父親は妻の言うことに服従するだけの不甲斐ない父親だが、息子を愛する気持ちに偽りはない。それに比べると事実上両親に捨てられたプレイトウはジムやジュデイ以上に深刻な心の問題を抱えている。もしジェームス・ディーンがプレイトウの役を演じたら、希望のない悲劇的な青春映画になったのではないかと思う。
 クライマックスの場面ではジムは常軌を逸したプレイトウを保護、救出する役割を演じており、主役であるジム自身に危機感があまり感じられない。ジムはキスしたばかりのジュデイそっちのけでプレイトウを心配していて、いつのまにか孤独な少年の物語から少年同士の友情を描く映画なっている。ジュデイとの恋愛も今ひとつ描けていない。物足らなく思いながら何げなくウィキペディアの解説を読むと、最初の脚本の段階ではプレイトウは同性愛者の設定で、ジムにキスを迫るシーンがあったとの記述がある。ヘイズコード(アメリカ映画の自主規制条項)が厳しかった時代なのでそのシーンはカットされたのだと思うが、完成した映画でもプレイトウがジムに同性愛的感情を抱いているのは感じられる。隠れ家にひとり取り残されたプレイトウが逆上したのは、ジムとジュデイが恋愛関係になったからだ。ジュデイにジムを盗られたと思って嫉妬したのだろう。ニコラス・レイ監督は本当は同性愛を含む男二人、女一人の三角関係を描きたかったのではないか。
 そう考えるとジムの不可解な行動の理由も見えてくる。プレイトウが左右ちぐはぐな靴下を履いているのをジムが愛情を込めて笑うシーンや、プレイトウの死後そのちぐはぐな靴下を見て激しく泣くシーンを見て、正直言って何故ジムがそれほどプレイトウにウェットな感情を抱いているのかピンとこなかった。これが同性愛的感情に基づくものだと考えると納得がいく。プレイトウを必死で守ろうとしたのも腑に落ちる。「ディア・ハンター」(78)で主人公のマイケルが親友のニックを命懸けで救出しようとする場面を同性愛的感情があるからだと評する意見があるが、「理由なき反抗」もそうかもしれない。テネシー・ウィリアムズ原作の「熱いトタン屋根の猫」(58)や「去年の夏、突然に」(59)のように、本作品も不道徳的だと言われてテーマが曖昧にされ、全貌を知ることが困難になってしまったのではないか。それとも永遠の二枚目、ジェームス・ディ―ンのイメージを壊したくなかったのだろうか。(KOICHI)

原題:Rebel Without a Cause
監督:ニコラス・レイ
脚本:スチュアート・スターン  アーヴィング・シュルマン
撮影:アーネスト・ホーラー
出演:ジェームス・ディ―ン  ナタリー・ウッド  サル‣ミネオ



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