シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「関心領域」(2023年 アメリカ=イギリス=ポーランド)

2024年07月31日 | 映画の感想・批評
第二次世界大戦中のポーランドのアウシュビッツ収容所のドイツ人所長ルドルフ・ヘス一家は隣接する敷地に暮らしている。よく手入れされた庭には美しい花々が咲き乱れ、プールでは子どもたちが遊ぶ。通いの使用人も大勢いる、豊かな暮らしぶりである。所長夫人のヘートヴィッヒは「人生最高の住まい」として、大いに満足している。夫が収容所の業績を認められて、ドイツ国内に栄転での転居であっても受け入れられず、夫を単身赴任させてしまうほどの気に入りよう。
役者さんに罪はないのだけれど、この主演女優のザンドラ・ヒュラー、「落下の解剖学」でも最後まで好きになれなかった。はあ、ますます苦手になってしまう。それくらい役者として素晴らしいということなのだけれど。よく引き受けたなあ。
隣から運ばれてくる荷物を物色し、高価な毛皮のコートを羽織り、口紅を塗ってご満悦な表情。子どもたちの遊びの道具のなかには歯と思しきもの。庭にまかれる肥料は・・・・・鮮やかな花々が時に毒々しさを感じさせる。
隣の施設で何が起こっているか、知っているはずなのに、知らないふり。そもそも興味がなければ感覚もマヒするということを語っている。煙突から吐き出される黒煙、銃弾の音、悲鳴。最も原始的感覚である嗅覚さえも映像から想像させられてしまうというのに。関心がない!ということの恐ろしさである。
妻の母親が訪ねてくるが、音と匂いから隣の施設の実態を感じ取り、黙って去っていく。
長女と息子二人は平然と暮らしているのだが、三女の赤ちゃんは不穏な空気を感じているのか、泣き止まず、ベビーシッターは頭を抱えている。次女も眠れない夜は父親に絵本を読んでくれるようにせがむ。「ヘンゼルとグレーテル」だったか、魔女が焼き殺されるシーンがアニメで描かれるのだが、収容所とリンクして、思わずひ~っと声が出てしまった。
この映画のすごさは音だと思う。冒頭から何やら不穏な音がじわじわと締め付けるように迫ってくる。重低音に交じって、乾いた音、人の悲鳴のような声。
エンドロールも音楽なのか、効果音なのか、最後まで恐怖感をぐいぐいと押し付けてくる。誰も席を立つ人がいなかった。上映最終日、ようやく観に行けた。予想をはるかに超えて、お客さんがいた。
時折挟まれるリンゴを埋める少女の映像が理解しにくかったので、寝落ちしたのか?など気になるところは多々あれど、もう一度観に行く勇気は持てない。あの音の世界にはもう身を置けない。流れてこないはずの臭いを想像するだけでも恐ろしい。

ラストに描かれる現代のアウシュビッツ博物館。ガラス越しにおびただしい数の靴の山。黙々とガラスを磨く職員たち、ひょっとしたらこの映画の主人公と同じ感覚に陥ってないか。いや、それは私たち自身の姿ではないのか。
被害者であったユダヤ人、彼らの国が今、ガザを攻撃している。人間の愚かさを思う。
ひたすらしんどい映画だった。へたに想像力を働かせると、よけいにハードだわ。
それでも、関心領域を狭めてはいけない。同時に、想像する力も持ち得ていたい。
(アロママ)

監督:ジョナサン・グレイザー
脚本:ジョナサン・グレイザー
撮影:ウカシュ・ジャル
原作:マーティン・エイミス
出演:ザンドラ・ヒュラー、クリスティアン・フリーデル


「お母さんが一緒」(2024年 日本映画)

2024年07月24日 | 映画の感想・批評
 何とも初々しい「二十歳の微熱」(1993年)は橋口亮輔30歳のデビュー作でした。当時キネマ旬報に掲載された淀川長治さんとの対談において、あの普段はお優しい淀川さんがその演出の稚拙さを手厳しく批判されました。もはや対談というより橋口監督が一方的につるし上げられているような緊迫した雰囲気でしたが、ただ対談の最後に80代半ばだった淀川さんが「最後まで映画をやんなさい。あんたはやれるから」とひとこと励ましの言葉を添えたのはせめてもの親心に思えました。たぶん淀川さんは美青年然とした橋口監督のことを本心では憎からず思っていたのでしょう。
 そうして、あれから30年以上の歳月がたち、橋口監督の精進は著しく、今は亡き淀川さんの期待に応え得たのだと私は申し上げたい。いや、いまや堂々たる大家の風情さえ感じさせるではありませんか。
 もともと戯曲として書かれた物語を連続テレビドラマ化し、それを再編集して劇場版としたのがこの映画だということです。この戯曲の最大の趣向は、タイトルロールである「お母さん」の姿どころかその声さえ一切見せない(聞かせない)というところにあります。戯曲や小説だと「お母さん」と叙述しただけで表現されたことになりますが、視覚芸術であるドラマや映画においては映像に描かれてなんぼの世界です。つまり、視覚的に表現することなく本来の主人公である「お母さん」を表現してしまったところに最大の手柄があるということです。
 お母さんの誕生日を祝うために三姉妹が温泉旅行を企画します。ところが、鄙びた温泉郷の旅館に着いたあと、まず長女が部屋のかび臭さに文句をつけ、女性浴場の狭いことに難癖を着け始めます。もともと折り合いが悪い次女が幹事を務め旅館を決めたこともあって長女と次女の間で口論となるのですが、年の離れた三女は長女、次女とも等距離で、しかも愛されキャラという設定です。端からこの調子ですから、先が思いやられます。しかもそこへ招かれざる客として登場するのが三女の婚約者です。ほぼこの四人の登場人物だけで演じられるドラマの展開は優れた舞台劇の様相を呈してくる。とりわけ近年著しい成長ぶりを見せる江口のりこの、何かが乗り移ったとしか見えない常軌を逸した怪演には眼を瞠るものがあります。
 ストーリーや脚本の出来不出来は登場人物が実際にあり得なくとも観客に「あるある」と思わせる手腕だというのが私見です。その点、この台本がよくできていると思うのは、三姉妹と三女の婚約者のキャラが実に巧く書けていることでしょう。
 加えて、橋口監督も原作者も長崎県出身だという。長女と次女は東京に出ており、三女が地元(長崎でしょうか)で母親と一緒に暮らしているという設定になっていて、三女の婚約者は地元で酒屋を営んでいる。したがって、この四人が気を許したり興奮して激昂すると地元の方言が出るというのもひとつの趣向です。これがまたドラマをおもしろくしているのです。
 いわゆるシットコム(シチュエーション・コメディ)・・・わが国でいうホームドラマの秀作として映画史に名を刻まれるであろうこの映画は、橋口亮輔の新たな到達点となるでしょう。
 わが尊敬してやまない淀川さん、あなたが危なっかしく危ぶんだ新人監督がここまで大成した存在となったことをぜひ言祝いでください。そう思うと、私は胸がいっぱいにならざるを得ません。(健)



監督:橋口亮輔
原作:ペヤンヌマキ
脚本:ペヤンヌマキ、橋口亮輔
撮影:上野彰吾
出演:江口のりこ、内田慈、古川琴音、青山フォール勝ち

「愛怨峡」(1937年 日本映画)

2024年07月17日 | 映画の感想・批評
 戦前の信州の雪深い温泉町。旅館の跡取り息子、謙吉は女中のおふみと恋仲にあったが、支配的な父親に許してもらえず東京へ駆け落ちする。友人宅へ転がり込んだものの謙吉は働かず、おふみは身重ながらミルクホールの仕事を見つけてくる。ところがおふみの留守中に父親が謙吉を連れ戻しに来て、謙吉はわずかなお金を置いて実家へ帰ってしまう。おふみは生まれた子供を里子に出し、養育費を得るためにカフェの女給として働き始めた。アコーディオン弾きの芳太郎はそんなおふみを陰ながら見守っていた。二人は互いに恋心を抱いていたが、芳太郎は敢えておふみと男女の関係になろうとはしなかった。
 やがて二人はおふみの伯父の旅回りの一座で漫才のコンビを組むことになり、子供を引き取って地方巡業に出た。信州で興行を打った際、二人の舞台を見た謙吉はおふみの姿に心動かされ、かつての非情を詫び、もう一度やり直したいともちかけるのだが・・・

 他の多くの溝口映画と同じように、この映画でも主人公のおふみは男や社会に翻弄され、蔑まれ、絶望の底に突き落とされる。苛酷な運命をさまようのだが、興味深いのは必ずしも落ちぶれていくわけではないところだ。田舎の温泉町の女中、ミルクホールの店員、カフェの女給、旅回りの漫才師と転変を繰り返すたびに、おふみは逞しく成長していく。弱々しかった女性が自立した強い女性に変わっていくのだ。ここが他の溝口映画と少し異なるところで、献身愛を捧げて男の犠牲になったり、男社会に立ち向かっていくというドラマにはならず、おふみは子供と自分のためにしゃにむに働き、さっさと独り立ちする。謙吉の前で、
「私は芸人なの、遊びましょう・・・こんな面白い女になってしまった・・」
と開き直る場面が印象的だ。おふみを演じた山路ふみ子が吹っ切れた女を好演している。
 芳太郎は子供の教育のためにおふみは謙吉と復縁するのが良いと考え、故意に粗暴な男を演じて、おふみの自分(芳太郎)への未練を断とうとする。このあたりはオペラの『椿姫』や成瀬巳喜男の『鶴八鶴次郎』を彷彿とさせる、新派的な展開だが、おふみは芳太郎の心を見抜いていた。芳太郎が芝居をしているのを知っていて、息子のために謙吉と縒りを戻すことを決める。しかし謙吉の父親が結婚に反対し、謙吉が今なお父親にまったく無力であることを知って、息子を連れて家を出ていく。伯父の一座と合流し、再び芳太郎と漫才コンビを組んで巡業の旅に出る。二人の愛が成就したことを示唆する場面で映画は終わる。溝口にしては珍しいハッピーエンド。逆境に生きる女性の強さ、気高さを高らかに描いた秀作である。(KOICHI)

監督:溝口健二
脚本:依田義賢  溝口健二
撮影:三木稔
出演:山路ふみ子  河津清三郎  清水将夫

「フェラーリ」(2023年 米・英・伊・沙合作)

2024年07月10日 | 映画の感想・批評
 イタリアのフェラーリ社創設者、エンツォ・フェラーリ氏の実話。そのエンツォ・フェラーリをアダム・ドライバーが演じる。会社の業績が振るわず、経営は危機に直面していた。このままだとレースが続けられない。共同経営者の妻ラウラ(ペネロペ・クルス)との間に生まれた息子ディーノの病死が原因で、夫婦関係は破綻している。その一方で、かなり以前から関係がある愛人(シャイリーン・ウッドリー)との間に生まれた息子ピエロを認知せずにいた。公私共々問題を抱えている。そんな折、フェラーリ躍進の大勝負に打って出ることにした。イタリア全土1,000マイルを走るロードレース“ミッレミリア”(イタリア語で「1,000」という意味らしい)への出場を決めたのである。
 決して、レース映画ではない。エンツォ・フェラーリ氏は元レーサーだったそうだが、一人の経営者としての生きざま・覚悟・気合・情熱を描いている。「ジャガーは、売るために走るが、フェラーリは、走るために売る」というセリフ、ドライバーの恋人がフェラーリのエンブレムの上に腰掛けていたら、強引に移動させるシーン、エンジンの構造の話をピエロに語る際の嬉しそうな表情・声など、常に、会社のこと、レースのことを考えていたのだろう。それが、経営者なのだろう。終始、緊張感のある映像だった。後半の公道での事故シーンは酷かった。「ドライバーは死を覚悟しているが、観客は違う」という言葉は重かったが、「事故=死」に直結していた時代かもしれないが、「死」に対する考えが希薄なのは気になった。観客や友人ドライバーが亡くなったのも、さらりと語られるだけ。事故のシーンもグロテスクなシーンだが、あっけなく幕切れ。昔は事故が当たり前だったのか。文明開化は人々の生活を一変させるが、その一方で悲劇を生む側面があるはず。現在の華やかなレースやショーとは全く違う一面が観られた。
 恐妻を演じたペネロペ・クルスは上手かった。特に、銀行でのやりとりや愛人宅を発見したシーン。苛立ち、怒りが身体から伝わってくる。常に、影をまとい、「暗さ」を背負っている。また、アダム・ドライバーも『ハウス・オブ・グッチ』の時もそう思ったが、一見、彼だと分からないぐらい、その人物に成り切っている。二人の共演も見物であった。
 最後に、製作国が英語圏で、舞台がヨーロッパの映画にありがちな話。イタリアで生まれ、ずっとイタリアで生活する人は、イタリア語を話すと思う。でも、本作品はイタリア語訛りの「英語」。気になるのは自分だけだろうか。アダム・ドライバー出演なので、観る前から分かってはいたが、やはり気になる。映画でよく取り上げられる“ナポレオン”や“ヒットラー”が英語をしゃべっているのと同じ。では、「観なければ良い」という意見も頂きましたが、赤字のタイトル「Ferrari」には勝てませんでした。
*余談。フェラーリのエンブレム背景色は赤ではなく黄色です。そこに国旗の3色と跳ね馬が描かれておりますね。所説あるようですが、赤は「イタリアイメージカラー」ということのようです。
(kenya)

原題:Ferrari
監督:マイケル・マン
脚本:トロイ・ケネディ・マーティン
撮影:ピエトロ・スカリア
出演:アダム・ドライバー、ペネロペ・クルス、シャイリーン・ウッドリー、サラ・カドン、ガブリエル・レオーネ、ジャック・オコンネル、パトリック・デンプシー

「わたくしどもは。」(2023年 日本映画)

2024年07月03日 | 映画の感想・批評
 第36回東京国際映画祭コンペティション部門に正式出品された作品である。富名哲也監督はこの作品が長編第二作目。佐渡島に眠る無宿人の墓からインスピレーションを得て、オリジナル脚本を書いたと言う。
 舞台となった佐渡島は日本海の中で最大の島である。724年以来流刑の地と定められ、1221年の承久の乱にさいしては順徳上皇の、1271年には日蓮の、1434年には世阿弥の配所としても知られている。劇中に能の場面があるが、伝統芸能の盛んな地でもある。もっとも能を広めたのは世阿弥ではなく、江戸時代に入ってからの話である。金山は今、世界文化遺産登録を目指している。鉱山の坑道を一本の線につなぐと約400km。佐渡島から東京くらいまでの道程になると言う。独自の歴史を持つこの島を舞台にしたことが、作品の魅力となっている。
 冒頭、白いワンピースを着た女性が横たわっている。記憶がなく自分の名前すらわからない。鉱山で清掃の仕事をするキイ(大竹しのぶ)が彼女を発見し、自宅に連れ帰る。女性はキイと暮らす少女達にミドリ(小松菜奈)と名付けられ、キイと一緒に清掃の仕事をすることになる。ある日、ミドリは猫に導かれ構内で暮らす男性と出会う。彼もまた記憶も名前も失っていた。ミドリにアオ(松田龍平)と名付けられ、二人は何かに導かれるように一緒に過ごすようになる。そんなミドリの前にアオとの親密さを漂わせるムラサキ(石橋静河)が現れ、ミドリは心を乱される。
 ミドリが発する「わたくし」という日本語の響きが耳に心地よい。アオのアンニュイな表情が謎を深めていく。時代も状況設定もわからないまま強度のある映像を観続けていくと、次第にこの世ならぬ所へ導かれていくような感覚に陥る。館長(田中泯)の「四十九日」の言葉や、自死しようとしている少年(片岡千之助)に「こっちの世界に来てはいけない」とアオが叫ぶ様子から、徐々に状況が明らかになっていく。現世で一緒になれなかったミドリとアオの、この世とあの世のはざまでのつかの間の逢瀬だったと考えると、ラストシーンの互いを探し求めるような手のアップが、切なく迫ってくる。
 俳優陣が各々に佐渡の風景の中に嵌っている。ミドリ、アオ、ムラサキ……と色の名前がついているが役柄と色のイメージがうまく重なり合っている。
 アート作品と言えるだろう。名前も記憶も無くした時、人間を人間たらしめるものは何だろうという気持ちが湧いてくる。そして改めて、自分を自分たらしめているものは何かという思いが静かに沸き上がってくる。(春雷)

監督・脚本:富名哲也
撮影:宮津将
出演:小松菜奈、松田龍平、片岡千之助、石橋静河、内田也哉子、森山開次、辰巳満次郎、田中泯、大竹しのぶ