シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「愛怨峡」(1937年 日本映画)

2024年07月17日 | 映画の感想・批評
 戦前の信州の雪深い温泉町。旅館の跡取り息子、謙吉は女中のおふみと恋仲にあったが、支配的な父親に許してもらえず東京へ駆け落ちする。友人宅へ転がり込んだものの謙吉は働かず、おふみは身重ながらミルクホールの仕事を見つけてくる。ところがおふみの留守中に父親が謙吉を連れ戻しに来て、謙吉はわずかなお金を置いて実家へ帰ってしまう。おふみは生まれた子供を里子に出し、養育費を得るためにカフェの女給として働き始めた。アコーディオン弾きの芳太郎はそんなおふみを陰ながら見守っていた。二人は互いに恋心を抱いていたが、芳太郎は敢えておふみと男女の関係になろうとはしなかった。
 やがて二人はおふみの伯父の旅回りの一座で漫才のコンビを組むことになり、子供を引き取って地方巡業に出た。信州で興行を打った際、二人の舞台を見た謙吉はおふみの姿に心動かされ、かつての非情を詫び、もう一度やり直したいともちかけるのだが・・・

 他の多くの溝口映画と同じように、この映画でも主人公のおふみは男や社会に翻弄され、蔑まれ、絶望の底に突き落とされる。苛酷な運命をさまようのだが、興味深いのは必ずしも落ちぶれていくわけではないところだ。田舎の温泉町の女中、ミルクホールの店員、カフェの女給、旅回りの漫才師と転変を繰り返すたびに、おふみは逞しく成長していく。弱々しかった女性が自立した強い女性に変わっていくのだ。ここが他の溝口映画と少し異なるところで、献身愛を捧げて男の犠牲になったり、男社会に立ち向かっていくというドラマにはならず、おふみは子供と自分のためにしゃにむに働き、さっさと独り立ちする。謙吉の前で、
「私は芸人なの、遊びましょう・・・こんな面白い女になってしまった・・」
と開き直る場面が印象的だ。おふみを演じた山路ふみ子が吹っ切れた女を好演している。
 芳太郎は子供の教育のためにおふみは謙吉と復縁するのが良いと考え、故意に粗暴な男を演じて、おふみの自分(芳太郎)への未練を断とうとする。このあたりはオペラの『椿姫』や成瀬巳喜男の『鶴八鶴次郎』を彷彿とさせる、新派的な展開だが、おふみは芳太郎の心を見抜いていた。芳太郎が芝居をしているのを知っていて、息子のために謙吉と縒りを戻すことを決める。しかし謙吉の父親が結婚に反対し、謙吉が今なお父親にまったく無力であることを知って、息子を連れて家を出ていく。伯父の一座と合流し、再び芳太郎と漫才コンビを組んで巡業の旅に出る。二人の愛が成就したことを示唆する場面で映画は終わる。溝口にしては珍しいハッピーエンド。逆境に生きる女性の強さ、気高さを高らかに描いた秀作である。(KOICHI)

監督:溝口健二
脚本:依田義賢  溝口健二
撮影:三木稔
出演:山路ふみ子  河津清三郎  清水将夫

「フェラーリ」(2023年 米・英・伊・沙合作)

2024年07月10日 | 映画の感想・批評
 イタリアのフェラーリ社創設者、エンツォ・フェラーリ氏の実話。そのエンツォ・フェラーリをアダム・ドライバーが演じる。会社の業績が振るわず、経営は危機に直面していた。このままだとレースが続けられない。共同経営者の妻ラウラ(ペネロペ・クルス)との間に生まれた息子ディーノの病死が原因で、夫婦関係は破綻している。その一方で、かなり以前から関係がある愛人(シャイリーン・ウッドリー)との間に生まれた息子ピエロを認知せずにいた。公私共々問題を抱えている。そんな折、フェラーリ躍進の大勝負に打って出ることにした。イタリア全土1,000マイルを走るロードレース“ミッレミリア”(イタリア語で「1,000」という意味らしい)への出場を決めたのである。
 決して、レース映画ではない。エンツォ・フェラーリ氏は元レーサーだったそうだが、一人の経営者としての生きざま・覚悟・気合・情熱を描いている。「ジャガーは、売るために走るが、フェラーリは、走るために売る」というセリフ、ドライバーの恋人がフェラーリのエンブレムの上に腰掛けていたら、強引に移動させるシーン、エンジンの構造の話をピエロに語る際の嬉しそうな表情・声など、常に、会社のこと、レースのことを考えていたのだろう。それが、経営者なのだろう。終始、緊張感のある映像だった。後半の公道での事故シーンは酷かった。「ドライバーは死を覚悟しているが、観客は違う」という言葉は重かったが、「事故=死」に直結していた時代かもしれないが、「死」に対する考えが希薄なのは気になった。観客や友人ドライバーが亡くなったのも、さらりと語られるだけ。事故のシーンもグロテスクなシーンだが、あっけなく幕切れ。昔は事故が当たり前だったのか。文明開化は人々の生活を一変させるが、その一方で悲劇を生む側面があるはず。現在の華やかなレースやショーとは全く違う一面が観られた。
 恐妻を演じたペネロペ・クルスは上手かった。特に、銀行でのやりとりや愛人宅を発見したシーン。苛立ち、怒りが身体から伝わってくる。常に、影をまとい、「暗さ」を背負っている。また、アダム・ドライバーも『ハウス・オブ・グッチ』の時もそう思ったが、一見、彼だと分からないぐらい、その人物に成り切っている。二人の共演も見物であった。
 最後に、製作国が英語圏で、舞台がヨーロッパの映画にありがちな話。イタリアで生まれ、ずっとイタリアで生活する人は、イタリア語を話すと思う。でも、本作品はイタリア語訛りの「英語」。気になるのは自分だけだろうか。アダム・ドライバー出演なので、観る前から分かってはいたが、やはり気になる。映画でよく取り上げられる“ナポレオン”や“ヒットラー”が英語をしゃべっているのと同じ。では、「観なければ良い」という意見も頂きましたが、赤字のタイトル「Ferrari」には勝てませんでした。
*余談。フェラーリのエンブレム背景色は赤ではなく黄色です。そこに国旗の3色と跳ね馬が描かれておりますね。所説あるようですが、赤は「イタリアイメージカラー」ということのようです。
(kenya)

原題:Ferrari
監督:マイケル・マン
脚本:トロイ・ケネディ・マーティン
撮影:ピエトロ・スカリア
出演:アダム・ドライバー、ペネロペ・クルス、シャイリーン・ウッドリー、サラ・カドン、ガブリエル・レオーネ、ジャック・オコンネル、パトリック・デンプシー

「わたくしどもは。」(2023年 日本映画)

2024年07月03日 | 映画の感想・批評
 第36回東京国際映画祭コンペティション部門に正式出品された作品である。富名哲也監督はこの作品が長編第二作目。佐渡島に眠る無宿人の墓からインスピレーションを得て、オリジナル脚本を書いたと言う。
 舞台となった佐渡島は日本海の中で最大の島である。724年以来流刑の地と定められ、1221年の承久の乱にさいしては順徳上皇の、1271年には日蓮の、1434年には世阿弥の配所としても知られている。劇中に能の場面があるが、伝統芸能の盛んな地でもある。もっとも能を広めたのは世阿弥ではなく、江戸時代に入ってからの話である。金山は今、世界文化遺産登録を目指している。鉱山の坑道を一本の線につなぐと約400km。佐渡島から東京くらいまでの道程になると言う。独自の歴史を持つこの島を舞台にしたことが、作品の魅力となっている。
 冒頭、白いワンピースを着た女性が横たわっている。記憶がなく自分の名前すらわからない。鉱山で清掃の仕事をするキイ(大竹しのぶ)が彼女を発見し、自宅に連れ帰る。女性はキイと暮らす少女達にミドリ(小松菜奈)と名付けられ、キイと一緒に清掃の仕事をすることになる。ある日、ミドリは猫に導かれ構内で暮らす男性と出会う。彼もまた記憶も名前も失っていた。ミドリにアオ(松田龍平)と名付けられ、二人は何かに導かれるように一緒に過ごすようになる。そんなミドリの前にアオとの親密さを漂わせるムラサキ(石橋静河)が現れ、ミドリは心を乱される。
 ミドリが発する「わたくし」という日本語の響きが耳に心地よい。アオのアンニュイな表情が謎を深めていく。時代も状況設定もわからないまま強度のある映像を観続けていくと、次第にこの世ならぬ所へ導かれていくような感覚に陥る。館長(田中泯)の「四十九日」の言葉や、自死しようとしている少年(片岡千之助)に「こっちの世界に来てはいけない」とアオが叫ぶ様子から、徐々に状況が明らかになっていく。現世で一緒になれなかったミドリとアオの、この世とあの世のはざまでのつかの間の逢瀬だったと考えると、ラストシーンの互いを探し求めるような手のアップが、切なく迫ってくる。
 俳優陣が各々に佐渡の風景の中に嵌っている。ミドリ、アオ、ムラサキ……と色の名前がついているが役柄と色のイメージがうまく重なり合っている。
 アート作品と言えるだろう。名前も記憶も無くした時、人間を人間たらしめるものは何だろうという気持ちが湧いてくる。そして改めて、自分を自分たらしめているものは何かという思いが静かに沸き上がってくる。(春雷)

監督・脚本:富名哲也
撮影:宮津将
出演:小松菜奈、松田龍平、片岡千之助、石橋静河、内田也哉子、森山開次、辰巳満次郎、田中泯、大竹しのぶ

「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ」(2023年 アメリカ映画)

2024年06月26日 | 映画の感想・批評


 やっと梅雨に入り、しっとりと落ち着いた空気も悪くないなと思うこの頃、あと1ヶ月もすれば夏休みだ。近年は少なくなったが、全寮制の学校に通う生徒達にとって、夏休みやクリスマス休暇前は、家族が待つ家にやっと帰れる、待ち遠しい、嬉しい時期だったに違いない。しかし、中には事情があって学校に残らざるを得ない者たちもいた。
 時は1970年の12月。舞台はボストン近郊にある名門私立男子校のバートン校。生徒も教職員も家族のもとに帰る準備に忙しい中、古代史の教師ハナムは校長から今年の居残り役を命じられる。帰省できずに学校に留まる生徒の子守りをせよというわけだ。これにはハナムが有力者の息子を落第させたことへの学校側の制裁という意味もあったのだが・・・(なるほど、いかにも名門私立校ならではの処遇)。彼は休暇中だというのに、残った生徒達に当然のように勉強を続けさせている。生真面目で融通が利かないからか、生徒達の支持も全く得られず。ところが生徒の中に航空関連の会社社長の親がいて、保護者の承諾があればヘリでスキー旅行に行けることになり、唯一母親と連絡が取れなかったアンガスを残して他の生徒達はここぞと出発!かくしてバートン校にはハナムとアンガス、そして一人息子をベトナム戦争で亡くしたばかりの料理長、メアリー・ラムの3人のみが“居残り者たち(ホールドオーバーズ)”となって留まることとなる。
 この3人がそれぞれ違った孤独感を持ちながら、お互いに関わり合うことで変わっていく姿を見ていくのが心地よい。監督は「サイドウェイ」や「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」など、ロードムービーならお任せのアレクサンダー・ペイン。今回もその温かで繊細なる語り口に、観る者は自然と寄り添ってしまうのだ。
 ハナムを演じるのは「サイドウェイ」から20年ぶりにペイン監督とタッグを組んだポール・ジアマッティ。ちょっぴり斜視な所も上手く役柄に活かし、個性溢れる教師役を好演。見事ゴールデングローブ賞の主演男優賞に輝いた。メアリーを演じたダヴァイン・ジョイ・ランドルフは1986年生まれの38歳なのだが、設定はそれより10歳以上は上だろう。まさに貫禄という言葉がふさわしいその演技は高く評価され、アカデミー賞とゴールデングローブ賞の助演女優賞を獲得。そして特筆すべきなのはアンガスを演じた新人ドミニク・セッサだ。21歳にして高校生を演じるにはかなり大人びた雰囲気なのだが、名門校の優等生という役柄にはピッタリ。それでいて大人達の前で見せる妙に子どもっぽい姿も実に微笑ましく映る。何とこの作品が長編映画のデビュー作というから、今後の活躍が楽しみだ。
 1970年という時代背景もこの作品の魅力の一つ。全編を通じて流れるのは、自分も高校生だった頃流行ったシンガーソングライター達が作った名曲の数々。映画はアメリカン・ニューシネマの全盛期で、ダスティン・ホフマン主演の「小さな巨人」を映画館で観るところでは思わずニヤリ。そういえば、上映開始直後のプチプチ音も、クロージングの「THE END」の文字も、今では観ることが難しくなったフイルム上映を意識してのことなのだろう。デジタルでアナログを表現する、そういう細かい演出がいかにもペイン監督らしい。
 休暇が終わって再開された授業。あんなにカチンときたハナムの厳しい言葉も、この2週間で彼のいいところをいっぱい知ったからか、今となっては快い響きに感じられる。しかし彼には次なる試練が待ち受けていた。この歳で、一人の生徒のためにすべてを投げ捨てる決心をしたハナム。 新しいスタートを切るハナムたちを心から応援したくなる、何とも後味のいい作品に久しぶりに巡り会えた。大丈夫、きっといいことあるよ!!
(HIRO)

原題:The Holdovers
監督:アレクサンダー・ペイン
脚本:デヴィッド・ヘミングソン
撮影:アイジル・ブリルド
出演:ポール・ジアマッティ、ダヴァイン・ジョイ・ランドルフ、ドミニク・セッサ、キャリー・プレストン

「罪深き少年たち」(2023年 韓国)

2024年06月12日 | 映画の感想・批評
 1999年に全羅北道完州郡参礼村で実際に起きた強盗殺人事件を題材とする社会派サスペンスです。実録ものにおいては、いかにサスペンスを醸成するかが監督の腕の見せどころでしょう。すでに知られている事実なので意外性は期待できません。そうなると、真相解明に至ったプロセスをどのようにうまくハラハラドキドキさせて観客に見せるかが要諦です。テクニック的には短いショットを積み重ねる、迫真性を出す、目まぐるしく展開させる、といった手法が思いつきます。それがある程度成功しているのがこの映画です。
 私が記憶している限りでは、日本映画で冤罪を映画化したものとして「首」(森谷司郎)、「証人の椅子」「日本の黒い夏」などが代表作でしょう。「帝銀事件 死刑囚」「真昼の暗黒」「BOX 袴田事件 命とは」などの名作・力作はちょっと違う。いずれも冤罪が確定していない、あるいは確定する前に撮られた作品なので、事実が確定したのちに撮られた実録ものとは明らかに事情が違います。今後、「袴田事件」の再審無罪が確定すればぜひ映画化を望みたいものです。
 参礼村の小さなスーパーに深更、三人組の強盗が押し入り、店主の女性とその幼い娘、店主の老母が寝ているところを踏み込んで粘着テープで縛り上げて金品を強奪するという事件が発生します。母娘は助かりますが、老母だけがテープで口をふさがれたことが原因なのか、死んでしまうのです。
 そこで、警察は不良少年たちに目をつけ、三人組を捕らえて拷問に近い取調の果てに自白調書をとり起訴します。捜査を陣頭指揮した班長(ユ・ジュンサン)はその後、エリートコースを約束され、順調に出世して行きます。その班長が2000年に栄転したあとを狂犬と異名をとる暴れ犬の新班長(ソル・ギョング)が引き継ぎ、「真犯人を知っている」というタレコミに関心をもって調べて行くうちに冤罪の匂いを嗅ぎとるのです。さあさ、お立ち会い。これからがこの映画の面白いところだけれど、これ以上申し上げると興をそぐのでちょっと横道に逸れます。
 これはあくまで私見だと断ったうえで、冤罪が作られる形態には大きく分けてふたつあると私は考えています。一番多いのは凶悪事件の早期解決のプレッシャーを受けた検察・警察が焦りのあまり明白な証拠もないまま自白や状況証拠に依存して結果的に捜査をミスリードしてしまうケース。もうひとつは、この映画のように野心をもった人物が真実の追究より手柄・実績を上げたいという不純な動機で冤罪をつくるケースです。確信犯的に冤罪を作るのですからきわめて悪質です。全体からみれば少ないとはいえ、日本でもいくつかそういうケースがあったようです。
 次に、再審がなかなか進まないのにも理由があります。前記ふたつの形態で作られた冤罪を冤罪と認めたくない心理が官憲側に働くからです。組織のメンツに関わるから、いったん有罪と決めたからには容易にその非を認めたがらない。つまり、個人の人権は国益や公益に準じるという考え方、これを権威主義とかパターナリズムというのですが、そうしないと官憲などの国家的組織のメンツが失われ、犯罪を取り締まるうえで支障が出るというのが、国家の論理なのです。
 さらに、警察組織は仲間意識が強くて相互にかばい合う互恵の精神がどの組織より鞏固だという反面、いったん組織に刃向かう者は徹底的に潰しにかかるという側面を持ち合わせています。いま九州南端の某県警でトラブっている事例をみればわかります。
 司法における真実の追究や正義の実現がどこまで可能なのか。映画を見終わったあと、はなはだ心許なく思ってしまったのですが、さわやかな幕切れが救いでした。(健)

原題:소년들
監督:チョン・ジヨン
脚本:チョン・サンヒョプ
撮影:キム・ヒョンソク
出演:ソル・ギョング、ユ・ジュンサン、チョ・ジヌン、チン・ギョン、ホ・ソンテ

「近松物語」(1954年 日本映画)

2024年06月05日 | 映画の感想・批評
 五代将軍、徳川綱吉の時代。京都烏丸四条の大経師以春は朝廷御用の表装工の頭で、毎年の暦を刊行する権利を与えられていた。以春の妻・おさんは兄から金を無心されるが、夫には頼まず、手代の茂兵衛に相談する。茂兵衛は店の金を無断で流用しようとするが、以春にばれて激しく詰問される。茂兵衛に好意を抱く女中のお玉がとっさに嘘をついて、急場をしのぐが、お玉に気がある以春は気に入らない。茂兵衛を屋根裏に閉じ込めてしまう。
 一方、以春がお玉の寝床に忍び込んでくるという話を聞いたおさんは、夫を懲らしめるためにお玉の布団で待っていると、忍んできたのは屋根裏から逃げ出してきた茂兵衛であった。運悪くその現場を番頭格の助右衛門に見られたおさんと茂兵衛は不義密通をしていると騒がれ、いたたまれなくなって店を飛び出してしまう。二人の死出の旅路が始まった。

 1683年に実際に起こった不義密通事件を基に、「好色五人女」(井原西鶴)と「大経師昔暦」(近松門左衛門)が書かれ、溝口健二の『近松物語』はその二つを合体して部分的な変更を加えたものである。前二作と溝口の映画の最も大きな相違点は前二作が、それぞれ状況は異なるが、おさんと茂兵衛が錯誤によって性関係を結んでしまうのに対して、溝口の映画は錯誤による性関係を認めていないことだ。
 「好色五人女」では暗闇の中で眠り込んでしまったおさんを、茂兵衛がお玉だと勘違いして契りを結んでしまう。「大経師昔暦」では茂兵衛はおさんをお玉だと誤り、おさんは茂兵衛を夫の以春だと勘違いして枕を交わしてしまう。「源氏物語」の<空蝉>の帖で、光源氏が空蝉と間違えて軒端荻の寝所に忍び込むという場面があるが、源氏は途中で間違いに気付いている(結局、行為は続けるのだが)。いくら暗闇の中とはいえ本当に相手がわからなかったのかという疑問が残る。
 『近松物語』では助右衛門に見つかった時、二人は性関係を結んでおらず、周囲の誤解によって不義密通者にされてしまう。リアリストである溝口は偶発的で現実離れした展開を好まず、映画では二人が契りを結ぶのは互いの愛を確認してからだ(実際に性的な場面が描かれているわけではないが)。逃げ切れないと悟った二人は死を覚悟して琵琶湖に舟を出すが、入水する直前に茂兵衛が「お慕い申しておりました」と愛を告白し、おさんは「今の一言で死ねんようになった」と言って茂兵衛に抱きつく。この場面は「好色五人女」にも「大経師昔暦」にもない溝口のオリジナルで、この映画のクライマックスになっている。従来の心中物なら、愛し合っている二人はあの世で結ばれることを信じて入水するところだが、おさんは<愛されているからこそ生きたい>と思う。これが溝口のリアリズムであり、現代の恋愛劇なのだ。(KOICHI)

「パスト ライブス/再会」(2023年 アメリカ・韓国合作)

2024年05月29日 | 映画の感想・批評
 ソウルに暮らす12歳の少女ナヨン(移住後は「ノラ」と名乗る)と少年ヘソンは、ナヨン一家がカナダに移住することになり、お互いに恋心を抱いていたが、離れ離れになり、連絡が取れなくなってしまう。ただ、ヘソンはノラのことが忘れられず、フェイスブックでノラを探していた。偶然、それをノラが見つけ、二人は12年振りに、ビデオ通話で再会を果たす。二人は実際に遭いたいと思うのだが、お互いに仕事が忙しく逢う事が出来ない。ノラは恋しくてソウル行の便ばかり気になってしまうことから、このままでは良くないと思って、暫く話すのは止めようと提案し、ヘソンは渋々受け入れる。
 それから更に12年経ち、ノラは作家と結婚し、ニューヨークに住んでいた。ヘソンは最近、付き合っていた彼女と別れた。そこで、ヘソンは、ノラが結婚しているのは承知の上で、ニューヨークに行くことにするのである。どういった再会になるのだろうか。ノラの夫はどう思うか。。。
 じわっと心に染み渡る映画。筋書きはよくあるケースに思うが、12歳の時の気持ちから、24歳、36歳と、12年おきに、それぞれの状況において、気持ちが変化した部分、変化していない部分が絡みながら、今、この瞬間を肯定する気持ちが、映し出されていく。特に、24年振りに実際に再会するニューヨークでのシーンは、ロングショットで多く撮られていて、24年間の二人の今までの気持ちの整理する時間を表現しているようにも思えたし、観客に考える間合いを与えているようにも想像出来るショットの連続で素晴らしかった。
 「パストライブス」は直訳すると「前世」。もし、移住していなければ・・・、もし、24歳の時に遭っていたら・・・、違う人生を送っていたかもしれない。今と同じ人生だったかもしれない。それは誰にも分からない。イニョン“縁”である。今は、お互いに、違う場所で違う人生を送っている。一緒には過ごせない。が、お互いに深く想っている。これからも想い続ける。でも、結ばれることはない。更に本作は、国柄(良い悪いではない)による人の気質の違いにも触れている。韓国人とアメリカ人の違いを、ノラとヘソンに重ね合わせている。それは、ノラが夫に24年振りに遭ったヘソンの印象を話すシーンに出てくる。生まれ故郷とは違う気質になった(なっていた:元々そうだった)と自ら気付いたシーンには驚きつつも納得した。前述のニューヨークの公園で会う二人の態度にも表現されていた。語らないことで語る映画ならではのシーンだった。この公園のシーンだけでも映画1本分の価値がある。それを可能にした自然な演技とショットが素晴らしかった。
 ラストに、ノラの涙、受け入れる夫、韓国への帰国途中に遠くを見つめるヘソン。次元が違えども、通じるものがある深い愛。惚れた腫れたではない恋愛映画であった。
 本作は、アカデミー賞作品賞と脚本賞の候補になった。両方共納得である。デビュー作だが、監督賞候補もありだったと思う。編集も撮影も良かった。予告編のみみたいだが、ショーン・マーシャルによるソロ・ユニット“キャット・パワー”によるリナーナのカバー曲「STAY」は秀悦。映画にピッタリ!YouTubeでご覧ください。
(kenya)

原題:Past Lives
監督・脚本:セリーヌ・ソン
撮影:シャビアー・カークナー
出演:グレタ・リー、ユ・テオ、ジョン・マガロ

「青春18×2 君へと続く道」(2024年 日本・台湾映画)

2024年05月22日 | 映画の感想・批評
 藤井道人監督の作品は第43回日本アカデミー賞で最優秀作品賞を含む6部門を受賞した「新聞記者」(2019年)以来、注目し心待ちにしている。今作は台湾との共同プロジェクト作品である。公開初日に日本と台湾の映画館で舞台挨拶の中継があった。藤井道人監督と主演二人を含む五人が登壇し和やかな空気に包まれて進行し、撮影現場の様子が伝わってきた。そこで「青春のイメージは何色?」との質問に、日本では青、台湾ではオレンジとの回答があり、台湾パートでオレンジ色が散見したことに納得。
 物語の始まりは18年前の台湾。大学進学を前に怪我でバスケットボール選手になる夢を断たれ、カラオケ店でアルバイトをするジミー(シュー・グァンハン)は、日本から来たバックパッカーのアミ(清原果耶)と出会う。財布を失くしカラオケ店に住み込みで働くことになった年上のアミにいつしか惹かれるジミー。一緒に映画館で「ラブレター」を観て夜市をバイクで走り抜け、ランタンを飛ばし展望台からの夜景に見蕩れる。二人の距離は近づいていくが、ある日突然アミが帰国することに。ジミーは気持ちを伝えられないまま、アミの「お互いに夢を叶えたらまた会おう」との言葉に頷くしかなかった。
 ダブル主演をつとめるシュー・グァンハンという台湾の俳優をこの作品で初めて知る。最近台湾で公開されたスタジオジブリ「君たちはどう生きるか」(2023年)のアオサギ役の吹き替え声優をつとめていると聞く。第一印象は地味だが、観ているうちに徐々に目が離せなくなってくる不思議な魅力がある。何より18歳から36歳までを演じるのは俳優にとっては挑戦だと言えるだろう。実年齢は30代前半だが、青年の初々しさと痛々しさがストレートに伝わってきた。一方の清原果耶は魅力的な俳優だ。可愛らしさも凛とした佇まいも併せ持っている。ジミーのバイクに乗って街中を走るシーンでは、ジミーの両肩に手を添えて乗っている姿がいい。恋人未満の二人の距離感を絶妙に表している。
 物語の後半、舞台は日本に移る。36歳のジミーが初恋の記憶を胸に、出会った人々の善意に包まれながらアミの実家を目指す。それは自分の生き方を見つめ直す旅でもあった。東京を起点に鎌倉→長野→新潟→福島と旅を続けるが、改めて日本の美しさに目を見張る。漆黒の松本城は圧巻だ。トンネルを抜けると一面雪景色という光景にも目を奪われる。車中で出会う18歳のバックパッカーの幸次(道枝駿佑)との雪合戦の場面では、幸次のダウンジャケットがまるで菜の花が咲いたように映える。やがて辿り着いたアミの実家でジミーは思いがけない運命を知る。
 藤井道人監督の「余命10年」(2022年)との共通点がこの作品にはある。共に女性が難病を患い長期間の闘病を余儀なくされる。一方、男性は自分の道を見つけて歩み出すという、男性の成長物語。いつか、女性の成長物語も観てみたい。
 エンドロールで流れるMr.Childrenの「記憶の旅人」の歌詞に心をつかまれ、いつまでも座席に留まっていたくなる。(春雷)

監督:藤井道人
脚本:藤井道人、林田浩川
原作:ジミー・ライ「青春18×2 日本慢車流浪記」
撮影:今村圭佑
出演:シュー・グァンハン、清原果耶、ジョセフ・チャン、道枝駿佑、黒木華、松重豊、黒木瞳

「悪は存在しない」(2024年 日本映画)

2024年05月15日 | 映画の感想・批評


 世の中キャンプブームだという。そういえばお隣の岐阜県にある揖斐高原スキー場がこの春県下最大のキャンプ場に変身したというし、GW連休中の琵琶湖岸も大勢のアウトドア派で賑わっていた。自分が住んでいる地域でも、かつて『サイクリングターミナル』という市の施設だった跡地に“グランピング”と称する民間施設ができ、他府県ナンバーの車でいっぱいだ。伊吹山が間近に見え、自然を満喫できる場所とはいえ、派手な装飾用のライトがケバケバしくて、周囲に溶け込んでいるかどうかは疑問なのだが・・・。
 「ドライブ・マイ・カー」で世界中の映画ファンを唸らせた濱口竜介監督の新作、信州の山中にグランピング場を作ることで起きる様々な人間模様を描いているという情報を得て、おそらくリニア新幹線建設でも話題となった環境問題について、掘り下げた内容になっているのではないかと予測して観たのだが・・・。
 オープニングは穏やかな林の中。下方から生い茂る木々を見上げるように撮っていて、そこに荘厳でゆったりとした音楽が流れる。もともと今回の企画は音楽家・石橋英子氏がライブパフォーマンス用の映像を濱口監督に依頼したところから始まったようで、その結果ライブ用サイレント映像「GIFT」と長編映画「悪は存在しない」の二本の作品が誕生することとなる。だからなのか、このオープニングシーンがやたらと長い。長いといろいろなことを考えるようになる。この林の中で、これからいったい何が起きようとしているのだろう、なんとなく不吉な予感もしてきて・・・。ともかくこの壮大なるオープニングで、観る者をどっぷりと深い山中に引き入れてくれるのは確かだ。
 続けて現れるのは主人公の巧が谷から湧き出る水を汲むシーンだ。これも長い。もう一人相方がいて、ひしゃくでいくつもの容器に水を入れて運ぶところを丁寧に撮っている。水道が通っていないところに運ぶのだろうか。いったい何に使うのだろう。一緒にいる男との関係は??ここでもいろいろな考えが次々と頭をよぎる。
 次は巧が暮らす家の前での薪割りシーンだ。この薪割りは自分も自然教室などで経験したことがあるのだが、結構難しい。一本の木をチェーンソーで4つに切り、さらに斧で4つに割る。この一連の作業をすべて見せてくれる。最初は俳優さんにしては腰が入っていて上手い方だとか、薪ストーブがあるのだろうかと思い巡らすうちに、この斧を使って何か事件が起きるのでは?この男の正体はいったい?!等、不安な要素も感じたりして・・・。
 グランピング場建設の説明会では、地域住民と計画した芸能事務所とのやりとりが何とももどかしい。森の環境や住民達の水源を汚しかねない補助金目当てのずさんな計画。説明する2人の社員も十分内容を把握できていないようで、とても支持する気持ちにはなれない。しかしこの2人にもそれなりの自分の考えと生き方があった。東京にある事務所と現地とを行き来する車中での、2人の素直な気持ちから出るやりとりを聞いているうちに、2人に共感できる気持ちも少なからず出てきて、現地の人たちともこれから先上手くやっていけるのではという明るい未来が垣間見えたのだが・・・。
 衝撃のラストをどう捉えたらいいのだろう。巧には娘・花がいて、学童からの帰り道に行方がわからなくなってしまう。果たして花は生きているのか?巧がとった奇怪な行動と、最後の荒い息づかいは何を意味しているのか??この作品の『悪』とはいったい???  
 様々な謎を抱えつつ、観る者はこの林の中を後にする。さすがヴェネチア国際映画祭審査員大賞(銀獅子賞)を獲得しただけある、想像力を豊かにしてくれる、映画好きにはたまらない作品だ。
 (HIRO)

監督:濱口竜介
脚本:濱口竜介
撮影:北川喜雄
音楽:石橋英子
出演:大美賀均、西川玲、小坂竜士、渋谷采郁、菊池葉月、三浦博之、田村泰二郎、鳥井雄人

「落下の解剖学」(2023年 フランス映画)

2024年05月08日 | 映画の感想・批評


フランスのグルノーブルの山深い山荘の一軒家に、人気小説家の妻サンドラと家事を担当する元教師の夫サミュエル、幼いころの事故で視覚障害を負っている息子ダニエルと介助犬のスヌープの一家が住んでいる。夫はフランス人、妻はドイツ人、日常会話は英語。
ある日、妻が学生の論文取材を受けていると、階上の夫が不協和音の音楽を大音量で流し、妨害してくる。妻は学生を帰し、息子には散歩に行くように促す。
息子が愛犬と散歩から帰ってくると、家の外で倒れている父親を「発見!」犬が異常に気付き、吠えた事で息子のダニエルはことを理解する。その時、家の中には母サンドラだけ。
サンドラは古い友人の弁護士に連絡して、状況を説明する。「私は学生を見送った後、耳栓をして昼寝をしていたから、夫が転落する物音も聞いていないのよ」
夫はベランダから誤って転落した事故なのか、自殺なのか、それとも妻が突き落として殺したのか。

一瞬寝落ちしたからか、いきなり裁判が始まっていたのだが・・・・・。
フランスの裁判なので当然フランス語を強要される。それだけでも強い圧迫感を強いられる被告席のサンドラ。
物証がほとんどない、状況証拠ばかり。夫が残した夫婦げんかの音声などによって、仲良く見えていた夫婦の実像が次々と暴かれていく。小説家として成功した妻と比べて、事故で視覚障害を息子に与えてしまった夫の無念さや挫折が浮き出てくる。
「推定有罪」か「推定無罪」か。検事の強引さがきわだつ。
対する弁護士ヴィンセントの冷静沈着さと、美しさ!(彼はしんどいお話の中での眼福シーン。)
裁判所の様子が面白い。法服を着用している。検事は赤、弁護士は白。判事は忘れた。ちょうど今、朝ドラの「虎に翼」で戦前日本の法廷シーンが描かれていて、そこでも検事と弁護士の法服の色が同じなのが面白く思えた。日本の法服には色は少々入るだけだが、フランスの検事の法廷服はまるでサンタクロース!
戦前の日本では検事の席が判事と同列の高い位置にあったことが驚きだった。現代フランスでは、現代の日本と同様に弁護士と向かい合わせなのだが、その席がはるかに高い位置にある。被告人や証人、傍聴者を見下ろす形になっている。記憶違いかもしれないが、判事や裁判員たちよりもひときわ高く見えた。

裁判は結局、息子の証言により無罪となるのだが、その過程で息子の気持ちの揺れ動くさまは痛々しい。愛犬を使って実証実験までやってみる。
判決が出ても、「なんの報奨もないわ」とつぶやくサンドラ。ずっと寄り添ってきた弁護士ヴィンセントの表情がうすく変わる。
やっと無罪になったのに、母は息子のもとに跳んで帰る気はないのか!息子の証言のおかげで解放されたというのに!
息子をハグしていても、母の手はだらり。ぎゅっと抱きしめるのは息子の方。サンドラは自分の事しか愛していないのか。
真相は一体何だったのだろう。かつて見た「レボリューショナルロード」や「ゴーンガール」を思い起こしながら、夫婦の本当は結局は本人たちにしかわからない。いや、そうだろうか。我が夫婦はどうなんだろう。
恐ろしい・・・・ヒリヒリしながら観ました。

「名脇役賞をワンちゃんにあげたい!」
と思ったら、カンヌ国際映画祭のパルムドッグ賞をもらっているらしい。
アスピリンを大量に飲まされて瀕死の目、よく演技したものです。ラストシーンでは息子のダニエルでなく、サンドラに寄り添っているのが印象的。脇役でなく、主演かもしれない。
ちなみに、作品はもちろん、パルムドール受賞!そしてアメリカのアカデミー賞で脚本賞。

ところで一言、言いたい。あれほどアルコールを飲んでアルプスの山道をドライブしても大丈夫なの?飲酒運転は許されるの?突っ込むのはそこかいな(笑)
(アロママ)

原題:ANATOMIE D'UNE CHUTE  ANATOMY OF A FALL
監督:ジュスティーヌ・トリエ
脚本:ジュスティーヌ・トリエ、アルチュール・アラリ
撮影:シモン・ボフィス
出演:ザンドラ・ヒュラー、スワン・アルロー、ミロ・マシャド・グラネール、サミュエル・タイス