1964年の長崎。任侠の世界の子として生まれた喜久雄は暴力団の抗争で父親を亡くす。父の仇を討つために背中に刺青を入れ、対立する組の親分を殺そうとするが失敗。1年後、15歳の時に上方歌舞伎の名門の当主・二代目花井半二郎に引き取られて部屋子となる。喜久雄を慕う春江は自らも背中に刺青を入れて喜久雄の後を追った。半二郎は喜久雄と同い年の息子・俊介を一対の女形として売り出そうと考え、「二人藤娘」を演じさせて大当たりさせた。二人は当代一の女形の万菊の薫陶を受けながら、歌舞伎役者としての人生を順調に歩み出したかに思えた。
ある日、事故で入院して舞台に出られなくなった半二郎は、妻・幸子の反対にもかかわらず喜久雄を代役にした。俊介は無力感に襲われるが、緊張して手が震える喜久雄のために化粧をしてやった。喜久雄は見事に代役を果たすが、その陰で俊介は逃げるようにして姿をくらます。失踪する俊介に付き添ったのは意外にも喜久雄の恋人・春江であった・・・
3時間に及ぶ上映時間を感じさせない程、次から次へと事件が起こり、変化と意外性に富んだドラマに仕上がっている。時間軸に沿って年代史的にエピソードをまとめ、大河ドラマのように主人公の半生を描いているので観客はストーリーをつかみやすい。化粧する役者の表情やせり上がり舞台で出番を待つ緊張の瞬間等をカメラがとらえていて、絢爛たる歌舞伎界のバックヤード(舞台裏)を見せくれる。実際の歌舞伎の舞台を使って見せ場となる場面(「二人道成寺」「曾根崎心中」「鷺娘」・・・)を撮影しているので、映画全体にリアルで華やかな印象がある。また梨園の名跡の継承問題というデリケートなテーマを扱っているのも興味深い。
ただ本作品のテーマである血統問題については掘り下げきれなかった感がある。梨園の生まれではない喜久雄は歌舞伎界では主役になれないという悩みを抱いていたが、実際には二代目花井半二郎は自身の代役や後継者(三代目)を喜久雄に決めている。血統よりも才能や実力を優先していることは明らかだ。死ぬ間際に俊介の名を呼んだのは実子だから当然で、二代目は親子の情と役者の実力をはっきりと分けて考えている。
マスコミが喜久雄の出自をスク―プしたからと言って、三代目半二郎の名跡を奪われるわけではなく、二代目は喜久雄がヤクザの息子であると知っていて後継者にしたのだから、出自によって差別されてはいない。最終的に人間国宝になるのだから、歌舞伎界は血統より才能や実力を重視しているという結論になる。むしろ実力では劣るらしい息子の俊介が三代目になった方が血統と才能の問題をよりクローズアップすることができたのではないか。おそらくその方が現在の歌舞伎界の現状をよりリアルに反映しているのではないかと思う。
喜久雄は三人の女性と交際しているが、どの女性との関係も深掘りされておらず、消化不良の感が否めない。それに対して深く濃密に描かれているのが俊介との関係だ。本来ライバルであるはずの二人だが、限りなく愛情に近い友情を抱いていて、それが本作品の主要テーマになっている。肉体的な関係はないので同性愛やBLではないが、愛に似た友情によって結ばれているので、フランス映画によく出てくるホモソーシャルな関係と言ってもいいかもしれない。女性関係を掘り下げて描かなかったのは、二人の関係の描写に重点を置きたかったからではないか。
芸道映画というジャンルがある。溝口健二の「残菊物語」や成瀬巳喜男の「鶴八鶴次郎」、また谷崎潤一郎原作の「春琴抄」のようになんらかの形で芸の精進を主題にしている作品だ。男女の恋愛や師弟愛を背景としながらも、主人公が芸に悩みつつ芸を極めていくところが話の核となっている。「国宝」は芸能の世界を描きながらも、不思議に芸道映画の匂いがしない。喜久雄にしろ俊介にしろ芸の精進でもがき苦しむところがなく、技芸について語る場面もない。あくまでも「国宝」は血統の問題に焦点を当てた友情物語として描かれている。
三島由紀夫に「女方」という歌舞伎の女形を描いた短編小説がある。主人公の名は万菊といい、モデルは三島が傾倒していた六代目中村歌右衛門だと言われている。おそらく「国宝」の万菊はここからイメージをとっているのではないかと思うが、興味深いのは小説「女方」の中で元禄時代に書かれた「あやめぐさ」という芸談集が取り上げられていることだ。この本の中で女形は舞台だけではなく日常生活でも女性になりきらなければならないと説かれていて、楽屋での弁当の食べ方まで指南している。後世の女形に多大な影響を与えた書だが、要するに女形とは日常が大事ということらしい。
「国宝」の喜久雄は舞台上では華やかな女形を演じているが、日常生活はやはり「男性」であるように感じる。女性が乱闘しないというわけではないが、少なくとも優れた女形は普段の生活では取っ組み合いの喧嘩はしないと思うのだが、どうだろう・・・しかし最近は名門の女形の嫡流でもDV事件を起こすようだから、女形というものはむずかしい。(KOICHI)
監督: 李相日
脚本: 奥寺佐渡子
撮影: ソフィアン・エル・ファニ
出演: 吉沢亮 横浜流星 高畑充希 渡部謙 寺島しのぶ 田中泯
ある日、事故で入院して舞台に出られなくなった半二郎は、妻・幸子の反対にもかかわらず喜久雄を代役にした。俊介は無力感に襲われるが、緊張して手が震える喜久雄のために化粧をしてやった。喜久雄は見事に代役を果たすが、その陰で俊介は逃げるようにして姿をくらます。失踪する俊介に付き添ったのは意外にも喜久雄の恋人・春江であった・・・
3時間に及ぶ上映時間を感じさせない程、次から次へと事件が起こり、変化と意外性に富んだドラマに仕上がっている。時間軸に沿って年代史的にエピソードをまとめ、大河ドラマのように主人公の半生を描いているので観客はストーリーをつかみやすい。化粧する役者の表情やせり上がり舞台で出番を待つ緊張の瞬間等をカメラがとらえていて、絢爛たる歌舞伎界のバックヤード(舞台裏)を見せくれる。実際の歌舞伎の舞台を使って見せ場となる場面(「二人道成寺」「曾根崎心中」「鷺娘」・・・)を撮影しているので、映画全体にリアルで華やかな印象がある。また梨園の名跡の継承問題というデリケートなテーマを扱っているのも興味深い。
ただ本作品のテーマである血統問題については掘り下げきれなかった感がある。梨園の生まれではない喜久雄は歌舞伎界では主役になれないという悩みを抱いていたが、実際には二代目花井半二郎は自身の代役や後継者(三代目)を喜久雄に決めている。血統よりも才能や実力を優先していることは明らかだ。死ぬ間際に俊介の名を呼んだのは実子だから当然で、二代目は親子の情と役者の実力をはっきりと分けて考えている。
マスコミが喜久雄の出自をスク―プしたからと言って、三代目半二郎の名跡を奪われるわけではなく、二代目は喜久雄がヤクザの息子であると知っていて後継者にしたのだから、出自によって差別されてはいない。最終的に人間国宝になるのだから、歌舞伎界は血統より才能や実力を重視しているという結論になる。むしろ実力では劣るらしい息子の俊介が三代目になった方が血統と才能の問題をよりクローズアップすることができたのではないか。おそらくその方が現在の歌舞伎界の現状をよりリアルに反映しているのではないかと思う。
喜久雄は三人の女性と交際しているが、どの女性との関係も深掘りされておらず、消化不良の感が否めない。それに対して深く濃密に描かれているのが俊介との関係だ。本来ライバルであるはずの二人だが、限りなく愛情に近い友情を抱いていて、それが本作品の主要テーマになっている。肉体的な関係はないので同性愛やBLではないが、愛に似た友情によって結ばれているので、フランス映画によく出てくるホモソーシャルな関係と言ってもいいかもしれない。女性関係を掘り下げて描かなかったのは、二人の関係の描写に重点を置きたかったからではないか。
芸道映画というジャンルがある。溝口健二の「残菊物語」や成瀬巳喜男の「鶴八鶴次郎」、また谷崎潤一郎原作の「春琴抄」のようになんらかの形で芸の精進を主題にしている作品だ。男女の恋愛や師弟愛を背景としながらも、主人公が芸に悩みつつ芸を極めていくところが話の核となっている。「国宝」は芸能の世界を描きながらも、不思議に芸道映画の匂いがしない。喜久雄にしろ俊介にしろ芸の精進でもがき苦しむところがなく、技芸について語る場面もない。あくまでも「国宝」は血統の問題に焦点を当てた友情物語として描かれている。
三島由紀夫に「女方」という歌舞伎の女形を描いた短編小説がある。主人公の名は万菊といい、モデルは三島が傾倒していた六代目中村歌右衛門だと言われている。おそらく「国宝」の万菊はここからイメージをとっているのではないかと思うが、興味深いのは小説「女方」の中で元禄時代に書かれた「あやめぐさ」という芸談集が取り上げられていることだ。この本の中で女形は舞台だけではなく日常生活でも女性になりきらなければならないと説かれていて、楽屋での弁当の食べ方まで指南している。後世の女形に多大な影響を与えた書だが、要するに女形とは日常が大事ということらしい。
「国宝」の喜久雄は舞台上では華やかな女形を演じているが、日常生活はやはり「男性」であるように感じる。女性が乱闘しないというわけではないが、少なくとも優れた女形は普段の生活では取っ組み合いの喧嘩はしないと思うのだが、どうだろう・・・しかし最近は名門の女形の嫡流でもDV事件を起こすようだから、女形というものはむずかしい。(KOICHI)
監督: 李相日
脚本: 奥寺佐渡子
撮影: ソフィアン・エル・ファニ
出演: 吉沢亮 横浜流星 高畑充希 渡部謙 寺島しのぶ 田中泯