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シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「ノスフェラトゥ」(2024年 アメリカ)

2025年05月21日 | 映画の感想・批評
 ブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」を東京創元新社(当時)文庫版で読んだのは学生時代ですから、もう半世紀以上むかしのことになります。19世紀当時の小説形態のひとつであった書簡形式の文体でつづられた古典ですが、じわじわと恐怖が盛り上がるおもしろさだったと記憶します。
  「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1922年)はいわずと知れたドイツ無声映画の傑作であり、巨匠F・W・ムルナウの代表作でもあります。そもそもムルナウが映画化しようとしたのは「吸血鬼ドラキュラ」だったといわれていて、著作権の関係で遺族の許可がもらえず、やむなくオリジナル脚本(ヘンリック・ガレーン)で撮ったという伝説があります。しかし、無断借用だという遺族の訴えによってネガから廃棄を求められ、いったんは幻の映画となりました(後年ネガが発見され復元)。著作権のきれた頃合いを見計らって異能派ヴェルナー・ヘルツォークがリメイクした1979年版が有名ですが、そのほかにも何度もリメイクされているようです。そうして、今回取り上げるのは最新版のリメイクです。
 ときは1838年。ところはドイツ。冒頭、美少女が悪霊に取り憑かれる場面が描かれます。かの女エレンは数年後に不動産会社に勤める若者トーマスと結ばれるのですが、かれは新婚早々社長の特命を受けて遙かカルパチア山脈の山深い古城に住むというオルロック伯爵のもとへ向かいます。任務は街中にある古い屋敷を買いたいという伯爵との契約締結です。古城への道すがら出会う人びとはオルロックと聞いて二度と口にするなと耳を塞ぎ、そこへは行かないほうがよいと忠告する。
 トーマスを乗せた馬車が山奥の街道を走るうしろを数匹の狼が追う場面は吸血鬼ものの定石ですが、何ともおどろおどろしい。ようやく古城に着くと、かれを待ち受けていた運命は如何に・・・というわけで、ここからがお化け屋敷さながらの展開となります。トーマスは伯爵によってとらわれの身となり、トーマスが留守の間を友人夫妻に預けた妻エレンにも異変が起きる。友人はいっこうに帰還しないトーマスとエレンの精神不安を心配します。
 余談ですが、この映画で吸血鬼退治のオカルト学者に扮するウィレム・デフォーはかつてムルナウ版の撮影秘話を題材とした「シャドウ・オブ・ヴァンパイア」(2000年)において吸血鬼を演じた実在の俳優マックス・シュレックに扮しています。あまりにも鬼気迫る演技が絶賛されたシュレックが実は吸血鬼だったという怪奇譚でした。
 さて、オルロック伯がルーマニアの奥地から狼ならぬネズミの大群を引き連れてドイツの市街地に凱旋するごとく現れると同時にペストの大流行がもたらされる。実際、この時代にペストの第三次パンデミックが欧州を席巻した史実があり、これを背景として吸血鬼伝説と疫病を結びつけたのです。ムルナウ版では「吸血鬼と疫病がともにやってきた」と明確にこの点に言及しています。コロナ禍とかぶさる設定がいまの世相を反映しているのです。
  一般に広く流布されたハマー・プロ版(テレンス・フィッシャー監督)をご覧になった方は貴族の家柄出身だというクリストファ・リー扮する端正な顔立ちをしたドラキュラのイメージが強いと思います。戦前の吸血鬼役者ベラ・ルゴシもコミカルなロマン・ポランスキー版もいずれも紳士然としていました。これに反して、ムルナウ版は一度見たら目に焼き付いて離れない気味悪さであり、未見のヘルツォーク版もあの怪優クラウス・キンスキーが演じただけあってやはり群を抜くおぞましさであったはずです。そうして、新作におけるノスフェラトゥことオルロック伯のぞっとするような異形は何に例えられようかというぐらい想像を絶する禍々しさです。扮するのはトーマス役の俳優よりひとつ年下のスウェーデンの人気スターだそうで、ほとんど原型をとどめないご面相となっています。
 ムルナウ版はドイツ表現主義を代表する幻想的でシュールな映像が特徴ですが、新作は通常場面のカラー撮影に対して、恐怖や不安を増幅させる場面では退色させたモノクロームに近い色合いに統一したキャメラ・ワークがみごとです。ゴシックロマンの表紙か挿絵に出て来るような古色蒼然とした絵柄が美しい。
 最後に指摘したいことがあります。従来の吸血鬼は喉もとに噛みついて血を吸う。ところが、この映画では犠牲者の胸元をはだけて裸の胸に食らいつくという設定がおもしろい。怪人が美青年のトーマスやその美しい妻エレンを押し倒して心臓部分に食らいつく場面が妙に官能的なのはロバート・エガース監督のただならぬ感性の賜物です。(健)

原題:Nosferatu
監督:ロバート・エガース
原案:ヘンリック・ガレーン
脚本:ロバート・エガース
撮影:ジェアリン・ブラシュケ
出演:ビル・スカルスガルド、ニコラス・ホルト、リリー・ローズ・デップ、ウィレム・デフォー、アーロン・テイラー・ジョンソン

「シンシン/SING SING」(2023年 アメリカ映画)

2025年05月14日 | 映画の感想・批評
 ニューヨークのシンシン刑務所内の芸術活動による更生プログラム(RTA)に参加した収監者を描いた、実話に基づく作品。主要登場人物の85%が元収監者で実名で本人を演じている。ディヴァインGはRTAの「舞台演劇」のグループに所属し、仲間と共に作り上げていく演劇に生きがいを感じていた。ある日、刑務所で札付きの問題児として恐れられている男、ディヴァイン・アイことクラレンス・マクリン(本人)が演劇グループに参加することになった。最初はプログラムに反発していたアイだったが、Gの熱心な働きかけにより徐々に心を開いていき、演劇の世界に目覚めていく。
 『ショーシャンクの空に』 (94)では受刑者の過激な暴力が描かれていたが、この作品の受刑者達はみんなやさしい。一体どちらが本当なのかと思ってしまう。アイはプログラムを通じて尊厳を取り戻し、協調性を身につけ、仲間との友情を深めていく。
 Gは無実の罪で長い間収監されていた。すでに亡くなった人の証言を録音したテープを証拠として採用してもらえるように頼んだが受け入れられず、再審請求を却下されたようだ。結局、アイの方が先に出所することになり、Gは絶望して自暴自棄になるが、アイが寄り添い励まし勇気づける。演劇の当日を迎え、収監者たちは観客から盛大な拍手を浴びる。やがてアイは出所し、時は流れて、ついにGが出所する時が来た。
 この映画は元受刑者が実名で登場しているために、プライバシーの問題があるのだろうか。個々の受刑者の犯した罪の詳細は描かれていない。Gは無実の罪で収監されているとのことなので、観客は当然冤罪の追求を期待する。だが詳しい事情はわからず、無実の証明もなされていない。本作品はRTAによる更生がテーマではあるが、冤罪とか再審とかいうことになれば、どうしても観客の関心は冤罪の解決に向いてしまう。どうやら出所後の現在もGは無罪の判決を勝ち取っていないようなので、感動の無罪判決というストーリーにはできなかったのかもしれないが、裁判の経過や刑罰等に関してもう少し言及があってもよかったかなと思う。
 ディヴァインGを演じたコールマン・ドミンゴや、収監者たちに演技指導を行う劇作家ブレント・ビュエルを演じたポール・レイシーはそれぞれプロの俳優で、どちらの演技も素晴らしかったが、アイを自ら演じたクラレンス・マクリンの存在感は際立っていた。クラレンス・マクリンはすでに舞台には出ていたが、映画は今回が初めてだったようだ。自分自身を演じる時に「自分の内面を深めることを考えた」と言っているのが興味深い。「自分自身を掘り下げて、内面から感情と行動を表現する」というスタニスラフスキーの演劇論と通じるものがある。「役になりきる」というメソッドは自分で自分の役を演じる時により有効なのだろう。
 アイがG に語った「刑務所を出ても、またギャングになるしかない」という言葉が印象的だった。元受刑者であるアイ本人が語っているだけにリアリティがある。アイは自分の息子も刑務所に入っていると言う。貧困や犯罪の連鎖を断ち切るのはむずかしい。アメリカでは刑務所出所後の3年以内の再犯率は60%を超えるらしいが、RTAに参加した受刑者の再犯率は3%以下だという。アイの嘆きを救うのがRTAのプログラムなのだ。
 再犯を繰り返すのは本人の意志が弱いからだけではなく、元受刑者に対する社会的偏見があるからだろう。偏見や差別が受刑者の社会復帰を妨げていることは否めない。そうはいっても忘れてはならないのは被害者家族のことだ。シンシン刑務所には重罪を犯して収監されている人たちもたくさんおり、被害者及び被害者家族はこの映画を単なる感動の物語としては受け取れないだろう。被害者家族が受刑者に求めているのは反省と償いだが、自己肯定感がなく、尊厳を失った人は反省する気持ちすら起きてこないのではないだろうか。人間性を回復してこそ、自分の過ちを後悔し反省して、償いの人生を送ることができると思う。その意味でも更生プログラムの意義は大きい。(KOICHI)

原題:Sing Sing
監督:グレッグ・クウェダ―
脚本:グレッグ・クウェダ―  クリント・ベントレー
撮影:パット・スコーラ
出演:コールマン・ドミンゴ  クラレンス・マクリン  ポール・レイシー  ショーン・サン・ホセ

「花まんま」(2025年日本映画)

2025年05月07日 | 映画の感想・批評
 大阪の下町で暮らす加藤俊樹(鈴木亮平)とフミ子(有村架純)の兄弟。両親は既に亡くなっている。兄の俊樹は、死んだ父と幼い時に交わした「お前は兄やんやから、どんなことがあっても妹を守るんやで」という約束を胸に、工場で働きながら兄として妹を育ててきた。なので、口癖が、「兄貴はほんま損や役回りやで」
 そんな中、妹の結婚が決まる。相手は自分とは真逆の若き学者。結婚式が近づき、嬉しい気持ちと寂しい気持ちが入り混じっているある日、妹の様子がおかしい。俊樹には、思い当たる節があった。もしかして、フミ子はあの人に会いに行ったのか。追いかけるようにその人の家に押し掛けると、自分の知らなかった事実が突きつけられる。。。
 ファンタジー要素が強く、想像とは違う展開だった。自分の記憶と他人の記憶が同一人物で同居する不思議な話。ネット情報だが、科学的な事象に基づくものではないようだ。フミ子が生まれる直前の母親(安藤玉惠)と、救急車で運ばれてきた他人=繁田喜代美(南琴奈)がギリギリですれ違うシーンがある。その時に、神様が間違ったとのこと。これぞ”ファンタジー”である。前半は、それを理解するのに何とか付いていっている感じだった。後半は、結婚式のシーンが多くあるが、突っ込み所がちょくちょくある。個人的に結婚式関連の業務をしたことがあったので、余計に気になる。予定外の事態が起こった場合に、裏方さんはこんな動きをしたというシーンがあれば、もう少し落ち着いて観られたかもしれない。気になった人もいらっしゃるのではないか。
 ただ、映画はエンターテイメントなので、2時間十分楽しんだ。それをカバーしているのは、俳優陣の演技ではないかと思う。鈴木亮平は、人格者も悪役も、一途で真っ直ぐなキャラだとピカイチ。有村架純も、フワッとした掴みどころの無いように見えて、芯がある人物を演じるとピカイチ。兄と言い合いになる際のセリフの「わたしはわたしや」に、心の奥底の本当の気持ちが端的に表れていて、自分にピッタリ合う役柄だったのではないか。また、関東の方が、関西弁を話すと違和感があるが、二人共、兵庫県出身からなのか、自然な感じだった。バラエティ以外では初見のファーストサマーウイカ、オール阪神・オール巨人も、元々と同じキャラだが、良かった。俊樹とフミ子の子供時代の子役二人も、大人顔負けの演技で本作を支えていたと思う。今後、出演作が増えていくかもしれない。更に、酒向芳のハリウッド俳優もビックリ(?)の肉体改造演技も気合が感じられ、見応えがあった。
 ラスト、冒頭の口癖だった兄が、「支えていた」つもりが、実は「支えられていた」ということに気付くシーンが、涙無くして観られない。感涙したい時は、お薦め。
(kenya)

監督:前田哲
原作:朱川湊人『花まんま』
脚本:北敬太
撮影:山本英夫
出演:鈴木亮平、有村架純、鈴木央士、ファーストサマーウイカ、安藤玉惠、オール阪神、オール巨人、板橋駿谷、田村塁希、小野美音、南琴奈、馬場園梓、六角精児、キムラ緑子、酒向芳

「終わりの鳥」(2024年 イギリス・アメリカ映画)

2025年04月30日 | 映画の感想・批評
 A24制作の作品である。A24とは2012年設立のアメリカの独立系エンターテイメント企業で、映画の制作・配給を専門としている。ニューヨークを拠点として革新的で芸術性に富んだ作品を次々と世に送り出している。アカデミー賞では作品賞ほか数々の受賞歴を誇り、次世代型映画企業として多くのファンを獲得している。本作で長編監督デビューを飾ったのはクロアチア出身のダイナ・O・プスィッチ、40歳の女性監督である。
 難病におかされた15歳の少女・チューズデーは自分の身体はそう長くは持たない事に気付いていた。母のゾラとの二人暮らし。ゾラは看護師のビリーがやって来ると仕事に行くふりをしてカフェや公園で時間をやり過ごし、自宅の置物を売っては治療費を捻出していた。ある日、チューズデーの元に一羽の鳥がやって来る。人間と同じ大きさになったり手の中に収まるほど小さくなったり、変幻自在で言葉を操る奇妙な鳥。地球を周回して死期が間近に迫っている生き物に終わりを告げる『デス』だった。留守の母を案じたチューズデーは彼をジョークで笑わせ、時間稼ぎをすることに。帰宅したゾラはデスの存在に驚き、娘からデスを遠ざけようと、まさに体当たりで死闘を繰り広げ小さくなったデスを飲み込んでしまう。
 デスの居なくなった世界では混乱が続き、世界はパニックに陥っていく。突然巨人化したゾラはチューズデーを背負って、死を待つ人々を解放するための旅に出る。それはゾラが娘と別れるための旅、娘の死を受け入れる旅でもあった。
 チューズデー役のローラ・ペティクルー、ゾラ役のジュリア・ルイス=ドレイファスは共に作品の世界に入り込み惹きつけられる。母娘の関係が逆転する場面のチューズデーの冷めた眼、デスと戦うゾラの凶暴な暗い眼が印象に残る。デスはポップな赤い鳥。色々な種類のコンゴウインコをモデルにデザインされたと聞くが、死の化身にしては感情豊かだ。嫌われ者としての自己を省みて愚痴やジョークも飛ばす、皮肉屋のキャラクターは極めて人間的だ。デスの眼も鳥でありながらも視線で物語っているところがより人間的だ。
 ゾラが喪失感に向き合おうとしている時、ゾラの前に現われたデスは彼女に静かに語りかける。この最後のデスの言葉は、是非劇場で直接聴き体験してほしい。本作品のすべてがこの言葉に集約されている。悲しみに浸りながらも、結末は寧ろ希望に満ちている。(春雷)

原題:TUESDAY
監督・脚本:ダイナ・O・ブスィッチ
撮影:アレクシス・サベ
出演:ジュリア・ルイス=ドレイファス、ローラ・ペティクルー、リア・ハーヴィ、アリンゼ・ケニ

「HERE 時を越えて」(2024年 アメリカ映画)

2025年04月23日 | 映画の感想・批評


 わあ、こんな映画の撮り方があるんだ!カメラが一点に固定され、全く動かない。そして恐竜が闊歩する大昔から、火山の噴火、氷河期などを経て、人類が誕生。さらに時間は経過し、土地がならされて一軒の家が建つ。此処こそこの物語の舞台となるところ。それも映し出されるのはリビング一室だけという限られた空間。こんな作品、今までにあった??しかし、此処はこの家に何組かの家族が移り住み、それぞれの家族が集まる大切な場所となって引き継がれていく。
 最初、それぞれの家族のエピソードが、時を交差して慌ただしく映し出されるため、頭の中での整理が大変だが、徐々にその時代と共に生きた家族の関係が明らかになってくる。中心となるのがリチャードとマーガレットの夫婦。演じるのは何と「フォレストガンプ/一期一会」で共演したトム・ハンクスとロビン・ライト。そして監督を務めるのが同作のロバート・ゼメキスと来れば、これはもう何かやってくれるに違いない。
 次に驚いたのはなんとこの2人が10代から70代までを1人で演じきったということ。いつまでも若々しいお二人だが、いくら何でも10代を演じるには無理があろうというもの。しかし、高校時代の姿も違和感は全く感じさせず、まさにデビューの頃のトムとロビンの姿なのだ。これには仕掛けがあって、ゼメキス監督お得意のVFX処理のたまもの。つまり、若い頃の容姿などを自然に見せるために大量のアーカイブ画像を使用したということだ。なるほど納得なのだが、その年齢にふさわしい演技や動きは俳優たちに細かく要求されるわけで、それを難なくこなしたお二人には、お見事と言うしかない。
 高校で出会って、恋に落ち、マーガレットが妊娠したため10代で結婚した2人。お互い画家になる夢、弁護士になる夢を諦めて、両親と同居しながらこの家で生活を共にしてきたのだが、マーガレットが50歳を迎えたとき、新たな転機がおとずれる。
 長年生きてくると、楽しかったこと、悲しかったこと、様々に起きた出来事がいっぱいあるのだが、この作品を観ていると忘れかけていたことが次々と脳裏に浮かんできて正直困った。リビングの一室で起きたことしか映っていないのに、ここまで想像力をかき立ててくれてるとは・・・。年老いたマーガレットが発した言葉に涙して、ラスト、ついにカメラが動き、画面は一気に大空間へ!!この言いようのない開放感に救われて、新たな希望を感じられたのも確か。人生って、素敵なものですね。
(HIRO)

原題:HERE
監督:ロバート・ゼメキス
脚本:エリック・ロス&ロバート・ゼメキス
撮影:ドン・バージェス
出演:トム・ハンクス、ロビン・ライト、ポール・ベタニー、ケリー・ライリー、ミシェル・ドッカリー

「ベテラン」(2015年 韓国)

2025年04月09日 | 映画の感想・批評
 近頃の邦画の社会派は貧困やLGBT、特殊詐欺とか、そうした社会現象ばかり取り上げ、真正面から権力(政財界)の悪を暴かなくなったのはどうしたことでしょうか。マスメディアの役割とは権力の監視だと習った世代からすると、権力批判は偏向だという意見が少なからず見受けられることに違和感を覚えます。
 そこへゆくと、韓国映画が「この世の中を多大な権力をもった連中の好き放題にさせてたまるか」という反抗精神を露わにして反権力映画を世に問う姿は実に頼もしい。
 枕が長くなりましたが、「ベテラン」は韓国の財閥の横暴さを暴き出し、天誅を加えようという明朗痛快活劇です。
 4月11日(金)から封切られる韓国映画「ベテラン 凶悪犯罪捜査」に先立って10年ぶりに再公開された第一作がこの映画です。
 ソウル地方警察庁の中に設けられた広域捜査隊はもっぱら麻薬や密輸などを管轄するのですが、その一員である無鉄砲で一本気な刑事ドチョルは自分をモデルにした刑事ドラマのプロデューサーに招待されてパーティに出席すると、同じテーブルにいたのが財閥の御曹司テオという若者です。わがまま放題に育ったのか、隣りにいた女性に乱暴狼藉を働くサディスティックな無法ぶりにドチョルも開いた口がふさがらない。同席したプロデューサーまで不快感を隠しません。ドチョルは内心この若者がいつかとんでもない犯罪を犯す予感に襲われます。
 テオが副会長を務める会社が下請け会社のリストラのために組合員を馘首させるのですが、ドチョルの知り合いがクビになって幼い子どもを連れて本社に抗議に行き、テオの指示で殴られた末に自殺体として発見されます。
 父親が殴られるところを無理やり見せつけられた男の子はショックで口もきけませんが、ドチョルはその子から真相の一端を聞き出します。正義感に燃えるドチョルは金で総てを牛耳り解決しようとする財閥の体質に持ち前の反抗心が湧き上がり、テオの犯罪を立件するために立ち上がると、もう誰も止められません。テオを可愛がる会長はあらゆる手を尽くして警察上層部に圧力をかけ、地元暑はドチョルらの捜査を妨害します。
 韓国の刑事ものでよくあるパターンがここでも繰り返されます。普段はドチョルのやることなすことに文句たらたらのチーム長がチームをまとめてドチョルを陰で支えるかと思えば、上からの圧力に一旦従うように見せかけた広域捜査隊長の狸親父がチームの強引な捜査を見て見ぬ振りをして自由にやらせるところもいい。
 冒頭はややドタバタ喜劇調ではじまって、このままどう進むのか心配させるのですが、本筋が始まると社会派を加味したスリリングな展開となります。ラストのカーチェイスはお見事で、本場ハリウッドもかくやと思わせる荒技を見せる。これはちょっと日本映画もかなわないのではないかと思いました。
 演技陣も贅沢です。目下絶好調のファン・ジョンミンがまだ細身でコミカルにはみ出し刑事を演じれば、そのコントロールに手を焼くチーム長をオ・ダルス(口元の大きな黒子が特徴)が好演。悪の財界三世に扮する甘い二枚目ユ・アインのサイコぶりもいいけれど、その従兄で参謀役を演じる名脇役ユ・ヘジンが一度見たら忘れられないあのご面相で怪演します。強欲な会長を演じるソン・ヨンチャン(こういう役をやらせたら右に出る者なし)、下請けいじめの元ヤクザに扮するチョン・マンソクら、いずれも適役揃いです。
 終盤に街角での大格闘シーンがあって、テオが見物人らに「何を見ている」とばかりにすごむと、後方から出てきた強面の大柄な男が「お前こそ迷惑だ!」と一喝してテオをひるませる。この大男に扮するのが今や国際スターのマ・ドンソク(友情出演)であるのに笑ってしまいました。(健)

原題:베테랑
監督・脚本:リュ・スンワン
撮影:チェ・ヨンファン
出演:ファン・ジョンミン、ユ・アイン、ユ・ヘジン、オ・ダルス

「ゆきてかへらぬ」 (2025年 日本映画)

2025年04月02日 | 映画の感想・批評
 大正時代の京都。立命館中学に在籍していた中原中也(木戸大聖)はフランスのダダイズムに傾倒して詩を書いていた。17歳の時、3歳年上の女優・長谷川泰子(広瀬すず)と同棲生活を始める。中原は「女郎を買いに行ってくるよ」と言って外出するような男であったが、酒に酔って通行人と喧嘩すると泰子は体を張って中原をかばった。二人はたびたび子供のように取っ組合いの喧嘩をしたが、いつも腕力で勝るのは泰子の方だった。それは喧嘩というよりも、姉弟がじゃれあっているような、形を変えた愛情表現に見えた。
 中原は中学を中退して泰子と共に上京し、友人の紹介で小林秀雄(岡田将生)を知るようになる。小林は中原の詩のよき理解者であったが、中原の家に出入りしているうちに泰子に魅せられ、泰子と一緒に暮らすようになった。中原は嫉妬と怒りに駆られるが、自分の才能を認めてくれる小林との関係を切るには忍びなく、また小林も中原の詩に心酔していた。泰子は中原も小林もどちらも愛しているように見えた。かくして三人は奇妙な三角関係を続けていくことになる。

 女一人男二人の三角関係は恋愛映画によく出てくる類型で、フランス映画ではトリュフォーの『突然炎のごとく』(62)のように、男同士の友情を描くホモソーシャル(ホモセクシュアルではない)な物語が多い。中原と小林は友人の関係というよりも詩人と批評家の関係で、中原の詩を媒介とした芸術上の同志のように見える。
 泰子は中原とはつかみ合いの喧嘩はするが、小林に対しては自分の弱さをさらけ出した。小林は料理のできない泰子を献身的に支えたが、強迫神経症的な症状がひどくなって、泰子はたびたびパニック状態になった。遂には小林が大事にしていた壺を割ってしまう。小林は途方に暮れた。
 三人でダンスホールに行くと、中原と泰子は軽快にチャールストンを踊ったが、ステージ上でまたつかみ合いの喧嘩を始めた。二人は今なお仲の良い喧嘩友達だった。そんな二人を見て小林は泰子を中原に返そうと思ったのではないか。本作でははっきりとは描かれていないが、泰子の精神の混乱に手を焼いた小林は中原に救いを求めたように思われる。もし救いを求められたら、中原も小林の頼みを聞き入れただろう。そもそも小林が泰子を好きになったのも、中原の恋人であったからと言えなくもない。このあたりの心理を掘り下げたら、単なる詩人と批評家という関係だけではない、中原と小林の不可思議な友情を描けたのではないか。三角関係にもっと厚みが出たのではないかと思う。女一人男二人の三角関係は男同士の友情が前提となっているからだ。
 やがて小林は泰子に別れを告げ、一人で奈良に旅立った。中原は泰子に「おまえとやっていけるのは俺ぐらいだ」と嘯いたが、泰子は「一人でやってゆく」と答えた。中原と泰子はその後は再び同居することはなく、中原はまもなく遠縁にあたる女性と結婚した。産まれた男の子が2歳で亡くなり、ひどい精神的ショックを受けた中原はその悲しみが癒えぬまま病に倒れ、30歳の短い生涯を閉じた。
 泰子は中原との関係を「神経と神経のつながり」と言っている。中原とは似た者同士で姉弟のような一体感を感じさせるが、年上の小林に対しては依存的な態度を取り、愛を引き留めようとしているように見える。映画の最後で泰子は小林に「さようなら」と言って去って行くが、小林に追いかけてきて欲しいのではないかと思わせるような別れ方だ。しかし小林は追いかけて行かない。なぜなら泰子と小林の関係が成立するためには中原の存在が必要であるからだ。 (KOICHI)

監督: 根岸吉太郎
脚本: 田中陽造
撮影: 儀間眞悟
出演: 広瀬すず 木戸大聖 岡田将生

「教皇選挙」(2024年 アメリカ・イギリス映画)

2025年03月26日 | 映画の感想・批評
 キリスト教最大の教派・カトリック教会。その最高指導者で、バチカン元首である教皇が亡くなるシーンから始まる。悲しみに暮れることもなく、亡くなった教皇からの指名で、ローレンス枢機卿(レイフ・ファインズ)が、次の教皇を決める選挙”コンクラーベ”を取り仕切ることなる。世界中から、100人を超える様々な人種の候補者が集まり、閉ざされた極秘の投票が始まることになる。ただ、その過程で、陰謀、スキャンダル、裏切りが連続して起こることになる。果たして、ローレンス枢機卿はうまく仕切れるのか。次の教皇は誰もが納得するなかで選ばれるのか。そして、ラストは誰もが想像さえしなかった結果になるのである。。。
 舞台は、性被害が取り沙汰されているバチカンという閉鎖された特殊な状況だが、内容は、現在社会に置き換えて観られる内容。特に、選挙結果は、世の中の流れを反映している。驚きつつも、納得感はあった。なので、歴史的な背景が心細い私でも、”コンクラーベ”を“現在社会”と捉えれば、前知識なくとも鑑賞出来た。選挙の駆け引きは、先日、行われた某政党の総裁選挙と通じる。誰が誰を支持し、それを誰が後押しする、それに従えない場合は云々という構図は同じ。そこに自身の利権も絡む。企業社会でも同じだろう。全く歴史は変化していないのか。人間のエゴとは如何なるものか。今後どうなるのか。自分もその渦に中に存在しているのか。。。本作では、更に、そこに抑揚を煽る演出が加えられ、サスペンスの要素が増し、一流の娯楽作品に仕上がった。
 本作は、2025年第97回アカデミー賞で脚色賞を受賞した。接写が多く、映像から不安も煽る。クレジットの見せ方も上手い。音楽も唐突な旋律が多く、不気味。その分、効果絶大。映画的技法が存分に発揮されている。編集賞と作曲賞の候補になったのも納得出来る。是非、映画館で観てもらいたい。エンドロール後、劇場全体が、映画の勢いに圧倒されていたように感じる。それくらい、強烈なインパクトがあった。エンドロールで退席する人も少なかったように思った。
 主演男優賞候補のレイフ・ファインズは苦悩する姿が似合っている。『007』のM役でもそのような印象がある。また、こちらも、受賞には至らなかったが、助演女優賞候補のイザベラ・ロッセリーニもとても良かった。出番は少ないが、色々な経験を経たであろう深く憂いある表情がとても印象的だった。部下をかばうシーンや、自分の信念を控えめであるが確実に伝えるシーンには信念が宿り、誰しもが納得されてしまう凄みがあった。後で知ったが、『無防備都市』のロベルト・ロッセリーニ監督の娘さんとのこと。そういった繋がりで映画を観ることも楽しい。
(kenya)

原題:Conclave
監督:エドワード・ベルガー
脚本:ピーター・ストローハン
撮影:ステファーヌ・ファンテーヌ
出演:レイフ・ファインズ、スタンリー・トゥッチ、ジョン・リスゴー、カルロス・ディエス、ルシアン・ムサマティ、ブライアン・F・オバーン、メラーブ・ニニッゼ、セルジオ・カステリット、イザベラ・ロッセリーニ

「ファーストキス 1ST KISS」(2025年 日本映画)

2025年03月19日 | 映画の感想・批評


 3月は別れの季節だが、新しい出会いの予感にかすかな胸のときめきを覚える季節でもある。ロングランヒットを記録した「花束みたいな恋をした」(土井裕泰監督、2021年)でオリジナルの映画脚本を書き下ろした坂本裕二が、昨年の「ラストマイル」が記憶に新しい塚原あゆ子監督とタッグを組んだ作品である。
 結婚15年目のカンナ(松たか子)と駈(かける・松村北斗)は長く倦怠期で、家庭内別居状態であった。離婚届を出す直前、駈は駅のホームから線路に落ちたベビーカーの赤ちゃんを助けて亡くなる。舞台美術の仕事に携わっていたカンナは、突然の出来事に深く傷つき、3年前に注文していてやっと届いた餃子を焼きながら、茫然と日々をやり過ごしていた。餃子はなかなかうまく焼けない。そんなある日、ただただ偶然にカンナは車ごとタイムスリップしてしまう。真冬の東京から一気に真夏の高原へ。富士山が見えるリゾートホテルのそばへ。
 カンナが戻った過去には、彼女と出会う直前の駈の姿があった。教授(リリー・フランキー)の下で恐竜の研究をしていた。駈が他の人と結婚すれば事故死は免れると考えたカンナは、教授の娘(吉岡里帆)と結婚させようとするがうまくいかない。何度もタイムスリップを繰り返しながら、事故死しないよう駈の過去を変えようと奮闘するが……。「私はやっぱりこの人が好きだった」と気付き、駈もまた15歳も年上のカンナに惹かれていく。
 松たか子の魅力を再認識できる作品だ。どこか遊び気分の演技が秀逸。駈の靴下を履き走り回る姿は滑稽だが、可愛いくもある。夫の靴下を履くという行為は一般的には理解しがたいが、この靴下がある場面で駈に重要な事を告げる。松村北斗とは初共演である。彼は第98回キネマ旬報ベストテンで第1位に輝いた「夜明けのすべて」に主演し、かつ主演男優賞に選ばれている。ここ数年の急成長が素晴らしい。日常の生活圏に暮らしている人物を演じて、役に実在感を持たせられるところが魅力だ。
 人生は後悔の連続だ。運命とは何だろうと考える。運命を変える事と受け入れる事、この一見相反する事が、この作品には同時に描かれている。29歳の駈は軽やかだ。恐竜の研究に熱中する姿には、好きな事を一生追い求めていきたいとの思いが溢れている。現実にはカンナと結婚し研究を諦めている。離婚に至る経緯には駈のくすぶった思いも結婚生活を覆っていたのではと想像する。
 タイムスリップによって改変出来るところと、出来ないところの違いが分かり辛く、もやっとした感覚は残る。それでも松たか子に笑い、松村北斗に泣かされる、心に染み入るラブストーリー。
 何度もタイムスリップするカンナの姿を、繰り返し訪れる朝にたとえた優河の歌声が、余韻としていつまでも耳に残る。(春雷)

監督:塚原あゆ子
脚本:坂元裕二
撮影:四宮秀俊
出演:松たか子、松村北斗、吉岡里帆、森七菜、YOU、竹原ピストル、松田大輔、和田雅成、鈴木慶一、神野三鈴、リリー・フランキー 

「ANORA アノーラ」(2024年 アメリカ映画)

2025年03月12日 | 映画の感想・批評


 本年度のアカデミー賞で、並みいる強敵をものともせず、5部門(作品、監督、主演女優、脚本、編集)を制した「ANORA アノーラ」。昨年のカンヌ国際映画祭でも最高賞となる〈パルムドール〉受賞とあらば、どんな感動作なのかと期待して観に行けば、のっけからその衝撃度に打ちのめされてしまうであろう。主人公のアニーことアノーラはニューヨークの風俗店で働くストリッパーダンサー。いきなり画面はその仕事場の風景から始まるのだから、観る者はその有様にドッキリ!!そう、この作品はR18+指定がかかっている成人映画なのだ。このシーンを観れば、まだ大人になっていない者に観ることを遠慮してもらうことは納得だろうし、ええーっ、ついに成人映画が堂々とアカデミー賞を受賞する時代になったのかと、(自分を含め)戸惑う日本人も多いかもしれない。とにもかくにも、まずは突破口を開いてくれたカンヌの審査員の方々、あっぱれだ!!
 アニーは祖母の影響で、少しロシア語が話せる。生まれ育ったブルックリンのブライトンビーチは70年代から80年代にかけて、旧ソ連の迫害から逃れてきたユダヤ人やウクライナ人が大量に流入してきたそうだが、今でもロシア語を母国語として話す住民も多いという。それが功を奏してか、アニーは1人で店にやってきたロシア人青年イヴァンに気に入られ、彼が帰国するまでの1週間、15000ドルの報酬で『契約彼女』として雇われる。実はイヴァンはロシアの新興財閥の御曹司。2人は両親が不在の大豪邸で贅沢三昧の日々を過ごし、ついには旅行先のラスベガスの即席結婚式場で式まで挙げてしまう。ここまではよかったのだが、激怒したイヴァンの両親が結婚を無効にするために見張り役の男3人を邸宅に送り込んだからさあ大変!!玉の輿気分に酔っていたアニーだったが、果たしてこの危機を乗り越えることができるのであろうか?!
 主人公のアニーを演じるのは新星マイキー・マディソン。強気でセクシーな役柄をまさに体当たりで演じ、見事初のノミネートでオスカーを受賞した。アニーに夢中になるイヴァンには、“ロシアのティモシー・シャラメ”と呼ばれ、本作が英語劇初挑戦となるマーク・エイデルシュテインが扮し、おバカぶりを好演。また、2人の結婚を阻止しようとイヴァンの両親から派遣された3人の男たちがそれぞれユニークで面白い。そのうちの2人はアルメニア系のアメリカ人ということで、旧ソ連のアルメニアとロシアの関係が役にも反映されているようで興味をそそる。ちなみにアルメニアはトルコの東側に接する西アジアの小国。さすが『人種のるつぼ』とも言われるニューヨーク、そこにはロシア系アメリカ人もたくさんいるわけで、ロシアがウクライナ侵攻を進めている最中にこの作品を撮りあげたショーン・ベイカー監督、現在のアメリカとロシアの政治的な立場を踏まえ、自らの幸せを求め階級意識や偏見からも力強く抗い続けるアノーラを通じて、観る者に何かを伝えたかったに違いない。
 全く音のないエンドロールを観ながら、とんでもない作品を観てしまった興奮と心地よい余韻の中で、様々な思いが頭の中をよぎった。
 (HIRO)

原題:ANORA
監督:ショーン・ベイカー
脚本:ショーン・ベイカー
撮影:ドリュー・ダニエルズ
出演:マイキー・マディソン、マーク・エイデルシュテイン、ユーリー・ボリソフ、カレン・カラグリアン、ヴァチェ・トヴマシアン