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シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「国宝」(2025年 日本映画)

2025年06月25日 | 映画の感想・批評
 1964年の長崎。任侠の世界の子として生まれた喜久雄は暴力団の抗争で父親を亡くす。父の仇を討つために背中に刺青を入れ、対立する組の親分を殺そうとするが失敗。1年後、15歳の時に上方歌舞伎の名門の当主・二代目花井半二郎に引き取られて部屋子となる。喜久雄を慕う春江は自らも背中に刺青を入れて喜久雄の後を追った。半二郎は喜久雄と同い年の息子・俊介を一対の女形として売り出そうと考え、「二人藤娘」を演じさせて大当たりさせた。二人は当代一の女形の万菊の薫陶を受けながら、歌舞伎役者としての人生を順調に歩み出したかに思えた。
 ある日、事故で入院して舞台に出られなくなった半二郎は、妻・幸子の反対にもかかわらず喜久雄を代役にした。俊介は無力感に襲われるが、緊張して手が震える喜久雄のために化粧をしてやった。喜久雄は見事に代役を果たすが、その陰で俊介は逃げるようにして姿をくらます。失踪する俊介に付き添ったのは意外にも喜久雄の恋人・春江であった・・・

 3時間に及ぶ上映時間を感じさせない程、次から次へと事件が起こり、変化と意外性に富んだドラマに仕上がっている。時間軸に沿って年代史的にエピソードをまとめ、大河ドラマのように主人公の半生を描いているので観客はストーリーをつかみやすい。化粧する役者の表情やせり上がり舞台で出番を待つ緊張の瞬間等をカメラがとらえていて、絢爛たる歌舞伎界のバックヤード(舞台裏)を見せくれる。実際の歌舞伎の舞台を使って見せ場となる場面(「二人道成寺」「曾根崎心中」「鷺娘」・・・)を撮影しているので、映画全体にリアルで華やかな印象がある。また梨園の名跡の継承問題というデリケートなテーマを扱っているのも興味深い。
 ただ本作品のテーマである血統問題については掘り下げきれなかった感がある。梨園の生まれではない喜久雄は歌舞伎界では主役になれないという悩みを抱いていたが、実際には二代目花井半二郎は自身の代役や後継者(三代目)を喜久雄に決めている。血統よりも才能や実力を優先していることは明らかだ。死ぬ間際に俊介の名を呼んだのは実子だから当然で、二代目は親子の情と役者の実力をはっきりと分けて考えている。
 マスコミが喜久雄の出自をスク―プしたからと言って、三代目半二郎の名跡を奪われるわけではなく、二代目は喜久雄がヤクザの息子であると知っていて後継者にしたのだから、出自によって差別されてはいない。最終的に人間国宝になるのだから、歌舞伎界は血統より才能や実力を重視しているという結論になる。むしろ実力では劣るらしい息子の俊介が三代目になった方が血統と才能の問題をよりクローズアップすることができたのではないか。おそらくその方が現在の歌舞伎界の現状をよりリアルに反映しているのではないかと思う。
 喜久雄は三人の女性と交際しているが、どの女性との関係も深掘りされておらず、消化不良の感が否めない。それに対して深く濃密に描かれているのが俊介との関係だ。本来ライバルであるはずの二人だが、限りなく愛情に近い友情を抱いていて、それが本作品の主要テーマになっている。肉体的な関係はないので同性愛やBLではないが、愛に似た友情によって結ばれているので、フランス映画によく出てくるホモソーシャルな関係と言ってもいいかもしれない。女性関係を掘り下げて描かなかったのは、二人の関係の描写に重点を置きたかったからではないか。
 芸道映画というジャンルがある。溝口健二の「残菊物語」や成瀬巳喜男の「鶴八鶴次郎」、また谷崎潤一郎原作の「春琴抄」のようになんらかの形で芸の精進を主題にしている作品だ。男女の恋愛や師弟愛を背景としながらも、主人公が芸に悩みつつ芸を極めていくところが話の核となっている。「国宝」は芸能の世界を描きながらも、不思議に芸道映画の匂いがしない。喜久雄にしろ俊介にしろ芸の精進でもがき苦しむところがなく、技芸について語る場面もない。あくまでも「国宝」は血統の問題に焦点を当てた友情物語として描かれている。
 三島由紀夫に「女方」という歌舞伎の女形を描いた短編小説がある。主人公の名は万菊といい、モデルは三島が傾倒していた六代目中村歌右衛門だと言われている。おそらく「国宝」の万菊はここからイメージをとっているのではないかと思うが、興味深いのは小説「女方」の中で元禄時代に書かれた「あやめぐさ」という芸談集が取り上げられていることだ。この本の中で女形は舞台だけではなく日常生活でも女性になりきらなければならないと説かれていて、楽屋での弁当の食べ方まで指南している。後世の女形に多大な影響を与えた書だが、要するに女形とは日常が大事ということらしい。
 「国宝」の喜久雄は舞台上では華やかな女形を演じているが、日常生活はやはり「男性」であるように感じる。女性が乱闘しないというわけではないが、少なくとも優れた女形は普段の生活では取っ組み合いの喧嘩はしないと思うのだが、どうだろう・・・しかし最近は名門の女形の嫡流でもDV事件を起こすようだから、女形というものはむずかしい。(KOICHI)

監督: 李相日
脚本: 奥寺佐渡子
撮影: ソフィアン・エル・ファニ
出演: 吉沢亮 横浜流星 高畑充希 渡部謙 寺島しのぶ 田中泯

「かくかくしかじか」(2025年 日本映画)

2025年06月18日 | 映画の感想・批評
 漫画家・東村アキコの自伝的漫画「かくかくしかじか」を実写映画化。漫画家を目指す少女と恩師である絵画教室の教師との9年間に渡る軌跡が描かれる。ネット情報によると、原作者の東村アキコは、映画化を断ってきたらしいが、永野芽郁と大泉洋が出演をOKしたとのことで、自ら脚本を手掛け、製作にも名を連ねて、映画化されたようだ。それだけ本作には思い入れが深いということだろう。
 舞台は、宮崎県の田舎町。幼い頃から漫画が大好きな高校生の林明子(永野芽郁)は、持ち前の明るく曲がった部分のない性格に加え、家族にも学校の先生にも、褒めちぎられてマイペースで生活していたが、さすがに受験があるということで、漫画家になる夢を叶えるべく、まずは、美大合格を目指して、地元の絵画教室に通うことにした。元々、それ程、通う気持ちもあまりなく、月謝が安かったから通う程度だった。ただ、そこで出会ったのは、竹刀を振り回す超スパルタ教師の日高(大泉洋)だった。教室内は、生徒達の意見は全く聞かない切り詰めた雰囲気。どんな状況でも、描くことを止めさせない。容赦なく出される課題。ダメ出しの連続。ただ、体調不良を理由にサボったりすると、逆に親身になってくれて、何となく通い続けることになる。
 何だかんだあった後、林は、無事に美大を卒業し、地元宮崎で就職するが、漫画や絵画とは全く関係ない仕事で、怒られてばかり。このままでは自分が中途半端になると思い、少女漫画に投稿し続けると、それが取り上げられ、「漫画」の世界で生きることを決心するが、日高の想い(絵画を描き続けること、いずれは二人で個展を開くこと)とのすれ違いに思い悩むようになる。そんな中、日高から思いもよらない電話が掛かってくる。。。
 今の時代はNG連発の超スパルタ教育だが、教室には不思議と生徒はいる。しかも、老若男女。厳しい指導だが、何か暖かさがあるのだろう。口下手だが、本心は相手のことを真剣に考えている先生。昭和の時代はたくさんあったように思う。日高が常々口にする『描け!』は、自分には、『生きろ!』と言っているように思えた。「生きていれば何か良いことがある」「生きていなければ、何も出来ない」強いメッセージだ。要所に出てくるこの言葉に泣かされた。先生は持っているものすべてを弟子達に伝えたい、受け取ってほしいと思うが、弟子達は、言われている時は違うと思ってしまう。気付くのは、先生が居なくなってからである。林は、日高から電話が掛かってきた時は、日高からとすぐに察していた。今の時代は死語かもしれないが、「以心伝心」なのか。弟子を心配する気持ちに応えきれていない自分へのもどかしさもあるかもしれない。
 金沢大学の講師も、日高とはタイプは違うが、課題採点の際のコメントは良かった。「描いている」=「生きている」を絵画から見抜いていてすごいと思った。
 海岸でのラストシーンも良かった。大きな存在だっただけに、実際に、その場にその人がいなくても、感じられるということはあるだろう。自信が持てる、安心出来るということだろうか。それが、師弟愛、夫婦愛、兄弟愛・・・といったことだろうか。
 ただ、1点気になったのは、絵画教室で、ある生徒にチンパンジーのあだ名を日高の思いつきで付けるシーンは、後味悪かった。続けて、生徒全員でランチする際に、その生徒が、りんごとバナナだけのランチだったので、チンパンジーに引っかけて、皆で大笑いしていたが、本人の気持ちはどうだったのか。本人も笑っていて、笑い飛ばしたいという意味もあったかもしれないが、行き過ぎた感は否めなかった。
 最後に、主演の二人も安定の上手さだったが、林の両親役のMEGUMIと大森南朋もとても良かった。天然キャラの吹っ切れている役で、観ていて気持ち良かった。劇場でも、笑いが起きて、ほのぼのした。公開から日が経っていたが、劇場はほぼ満席。お客さんも老若男女。絵画教室の生徒と同じように感じた。5月7日のブログ「花まんま」に続き、基本を大切にした王道を行く作品だが、泣きたい気分の時は、お薦め。
(kenya)

監督:関和亮
原作:東村アキコ『かくかくしかじか』
脚本:東村アキコ、伊達さん
撮影:矢部弘幸
出演:永野芽郁、大泉洋、見上愛、畑芽育、鈴木仁、神尾楓珠、森愁斗、青柳翔、長井短、津田健次郎、斉藤由貴、有田哲平、MEGUMI、大森南朋

「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」(2025年 日本映画)

2025年06月11日 | 映画の感想・批評
 京都の某女子大学が新入生の募集を停止するというニュースが古都を駆け抜けていった春、関西大学千里山キャンパスを舞台とした本作は公開された。お笑いコンビ・ジャルジャルの福徳秀介が2022年に小説家デビューを果たした恋愛小説が原作である。大学の全面協力のもと、桜の美しい季節に1ヵ月かけて撮影されている。女性の孤独感を描くのに定評のある大九明子監督が、初めて男性を主人公にした作品である。
 思い描いていた大学生活とはほど遠い冴えない毎日を送る小西(萩原利久)。唯一の友人・山根(黒崎煌代)や銭湯のバイト仲間さっちゃん(伊東蒼)とは他愛もないことでふざけあう日々。ある日、授業中に見かけたお団子頭の桜田花(河合優実)に惹かれる。思いきって話しかけてみると気が合い、好みも似ていると分かる。共有出来る感覚に嬉しくなり、町を歩いていると偶然会って離れがたくなり……と若者の恋模様が、そのまっしぐらな感じがうまく表現されている。「毎日楽しいって思いたい。今日の空が一番好きって思いたい」と桜田花が何気なく口にした言葉は、奇しくも半年前に亡くなった大好きな祖母の言葉と同じだった。
 小西は孤独なキャラクターである。しかも多分にナルシスト的なところもある。キャンパス内の人工芝で談笑する学生達を横目に、ひと気のない場所で段ボールをマット代わりに寝ころび、悠然としている。当初、原作者の脚本がボツになったと聞くが、大九明子監督の脚本が花とさっちゃん二人のキャラクターを、より膨らみのある魅力的なものに変えていったと推測する。その最たるものが中盤に見られるさっちゃんの独白シーン。バイト終わりの路上で不意に始まるさっちゃんの長台詞。小西への想いをぶつけるこのシーンは作品全体の要となっている。さっちゃんの本名すら知らない、知ろうともしない小西の無関心さが彼女を深く傷つけていた。
 登場人物各々の喪失感が、水や音の表現でスクリーンに映し出される。テレビのボリューム、銭湯の湯船の中、バイト終わりに鍵を入れるポストの音、水槽に浮かぶクラゲ、鴨川デルタの飛び石……etc.
 小西、花、さっちゃん各々が抱えている喪失感は、まだ乗り越える途中のもので、それを互いに覗き合うことで関係はより分かちがたくなっていくが、物語はそこから思いもかけない展開を見せていく。
 お団子頭の河合優実が魅力的。映画デビュー6年目にして既に風格すらある。スピッツの「初恋クレージー」のイントロが凄すぎると熱弁を奮っていたさっちゃん、伊東蒼の声に引き込まれる。(春雷)

監督・脚本:大九明子
原作:福徳秀介
撮影:中村夏葉
出演:萩原利久、河合優実、伊東蒼、黒崎煌代、安齋肇、浅香航大、松本穂香、古田新太

「ミッション:インポッシブル ファイナル・レコニング」(2025年 アメリカ映画)

2025年06月04日 | 映画の感想・批評


 全世界を代表するスーパースター、トム・クルーズが数ある企画の中から初のプロデュース作品として選んだのが「ミッション:インポッシブル」だった。この作品は日本でも放映されたテレビシリーズ「スパイ大作戦」を基にしたもので、世界中に潜伏している秘密諜報員達の機密漏れを防ぐために作られた、SWAT,FBI,CIAをも上回る頭脳と技術を誇る謎のスパイ組織I.M.F(インポッシブル・ミッション・フォース)の活躍を描くというもの。その監督には「キャリー」で注目を浴び、ヒッチコックの後継者とも呼ばれたサスペンス映画の巨匠ブライアン・デ・パルマが選ばれ、作品的にも、興行的にも大成功を収めた。
 あれから29年、「おはよう、フェルプス君」で始まる新たなミッションに体当たりで挑戦してきた腕利きエージェント、イーサン・ハントの冒険もついに8作目となり、「ファイナル・レコニング」を迎えることとなる。実はこの作品、前作の「ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE」の続編で、前作で描かれていたエンティティと呼ばれる自律型AIを利用して世界制覇を目論む敵との戦いが中心となっている。
 監督は5作目の「ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション」から連続4作を担当しているクリストファー・マッカリー。本作をシリーズの集大成としたかったのだろう、過去作の名シーンが次々と現れ、登場人物の中にも懐かしいメンバーが顔を出す。もちろん第1作から活躍している天才ハッカー、ルーサー(頼りになります)や、「M:I:Ⅲ」から出演している相棒のベンジー(とってもチャーミング)もファンにとっては欠かせない存在だ。
 主演のトム・クルーズはこれだけCGが発達した時代になっても自らの身体を張って命がけのスタントに挑戦しているのは有名だが、今作でもその年齢を感じさせない身体能力には驚くばかり。まず、前回はローマの街だったが、今回はロンドンの街を走る、走る!!息もつかせぬスピード感が売り物の作品だけに、トムも、あの曲に合わせて全力疾走だ!!ウェストミンスター橋の夜景が美しい!
 監督が撮りたかった潜水艦のシーンでは、難しい水中撮影に監督が潜りながら演出。そのためヨーロッパで最大規模となる水槽が作られたそうだが、観ている側としては息苦しくって早く水上へ上がってくれと祈るばかり。そしてトムの希望は飛行機の翼の上を歩くことだそうで、この空中シーンもどうやって撮ったのかと思うほどの緊迫感に溢れ、今にも空中に放り出されそうで、危ない、アブナイ。トムと宿敵ガブリエル役のイーサイ・モラレスは、飛行免許を取り、操縦とスカイダイビングのトレーニングを積んで撮影に挑んだというから、その本気度には頭が下がる。また、潜水艦のシーンは北極圏のベーリング海で、空中シーンは南アフリカの山岳地帯でと、今回はまさに世界を駆け巡る、グローバルな「ミッション:インポッシブル」が実現していると言えよう。
 さて、気になるのは次回作が実現するかどうかだが、此処は一息入れて、トムはプロデュース役に専念し、新しいスターの発掘に力を入れるかも。しかし、今回来日したときわかったように、サービス精神旺盛のトムのこと、ファンの期待に応えて、まだまだ主役の座は降りないことでしようね、きっと。
(HIRO)

監督:クリストファー・マッカリー
脚本:クリストファー・マッカリー、エリック・ジェンドレセン
撮影:フレイザー・タガート
出演:トム・クルーズ、サイモン・ペッグ、ヘイリー・アトウェル、ヴィング・レイムス、イーサイ・モラレス、グレッグ・ターザン・デイヴィス、ポム・クレメンティエフ

「金子差入店」(2025年 日本映画)

2025年05月28日 | 映画の感想・批評
あまり知られることのない職業として、刑務所や拘置所の収監者に家族などの代わりに衣類や食べ物だけでなく、手紙も届けるという「差入屋」というのがある。そこを舞台に監督自身が脚本も書いたデビュー作品。多様性が叫ばれる傍ら、きわめて不寛容な現代社会に対して一石を投じる思いが感じられる。

主人公(丸山隆平)自身がかつて収監された経歴をもち、その体験から差入代行業の必要性を感じて、伯父(寺尾聡)の店を継承し、妻と小学生の息子とともにつつましく暮らしている。
気丈な妻(真木よう子)は「あんたの仕事は必要なの!」と夫を励まし続ける。主人公の実母(名取裕子)には夫に内緒でお金を工面し、「余計なことをするな」と派手な夫婦げんかも絶えない。そのたびに伯父がそっと息子(三浦綺羅)を守ってくれる。
職業に貴賤はないはずだが、「世間一般」からは「犯罪者に肩入れするなんて」という感情で、しつこい嫌がらせもされる。極めつけは息子への強烈ないじめも起こる。

息子の幼馴染の女の子が無残な殺され方をし、犯人の母親(根岸季衣)に差入を頼まれる。この犯人の北村匠海が、「悪い夏」以上の圧巻の演技で、不気味さ全開。母も主人公に言われた「犯罪者といえど権利はある」を盾にして、だんだん熱を帯びてくる異様さが際立つ。
この拘置所の面会時に交わされる会話のすれ違い、「2割の働きバチ・・・」は考えさせられる。

拘置所で強盗殺人事件の犯人(岸谷五朗)との面会を受付で求め続ける被害者家族の少女(川口真奈)の存在も物語を動かす。
彼女の背景が複雑ですさまじい。「生き続けてほしい」という少女の叫びを受け止めながら崩れ落ちる犯人。死に場所を探していた犯人にとって、守りたいものができたのか。真実を明かすことだけがすべてではないということか。
この少女を演じた川口真奈、映画出演は初の様子。これからが楽しみ。

主人公の葛藤を乗り越えていく成長物語。肝っ玉母ちゃんと、「自分が弱いばかりにいじめられたんだ」と父を守ろうとする息子、主人公に仕事を与え一家を見守り続ける伯父。この家族愛も泣かせる。
若い男を追いかけまわす主人公の母のくずっぷり、名取裕子がお見事。
黙々と主人公一家を見守る伯父の寺尾聡が暖かい。久しぶりの主演作「父と僕の終わらない歌」も期待でいっぱい。

主人公を演じた丸山隆平の俳優としての大きな成長ぶりを見られたのがよかった。
8年前の「泥棒役者」は面白かったし、アイドルとして見かける人柄がそのままあふれていた。関ジャニ(現スーパー∞)の他メンバーがそれぞれ癖の強い役で活躍している中、特別ファンということでもないが、彼についてもちょっと楽しみができたかな。

エンドロール後に、後日談が描かれている。お見落としなく!!!
希望になるのか、はたまた「何も変わってない!」になるのか、解釈はそれぞれ。
(アロママ)

監督:古川豪
脚本:古川豪
撮影:江崎朋生
出演:丸山隆平、真木よう子、北村匠海、岸谷五朗、根岸季衣、名取裕子、寺尾聡



「ノスフェラトゥ」(2024年 アメリカ)

2025年05月21日 | 映画の感想・批評
 ブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」を東京創元新社(当時)文庫版で読んだのは学生時代ですから、もう半世紀以上むかしのことになります。19世紀当時の小説形態のひとつであった書簡形式の文体でつづられた古典ですが、じわじわと恐怖が盛り上がるおもしろさだったと記憶します。
  「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1922年)はいわずと知れたドイツ無声映画の傑作であり、巨匠F・W・ムルナウの代表作でもあります。そもそもムルナウが映画化しようとしたのは「吸血鬼ドラキュラ」だったといわれていて、著作権の関係で遺族の許可がもらえず、やむなくオリジナル脚本(ヘンリック・ガレーン)で撮ったという伝説があります。しかし、無断借用だという遺族の訴えによってネガから廃棄を求められ、いったんは幻の映画となりました(後年ネガが発見され復元)。著作権のきれた頃合いを見計らって異能派ヴェルナー・ヘルツォークがリメイクした1979年版が有名ですが、そのほかにも何度もリメイクされているようです。そうして、今回取り上げるのは最新版のリメイクです。
 ときは1838年。ところはドイツ。冒頭、美少女が悪霊に取り憑かれる場面が描かれます。かの女エレンは数年後に不動産会社に勤める若者トーマスと結ばれるのですが、かれは新婚早々社長の特命を受けて遙かカルパチア山脈の山深い古城に住むというオルロック伯爵のもとへ向かいます。任務は街中にある古い屋敷を買いたいという伯爵との契約締結です。古城への道すがら出会う人びとはオルロックと聞いて二度と口にするなと耳を塞ぎ、そこへは行かないほうがよいと忠告する。
 トーマスを乗せた馬車が山奥の街道を走るうしろを数匹の狼が追う場面は吸血鬼ものの定石ですが、何ともおどろおどろしい。ようやく古城に着くと、かれを待ち受けていた運命は如何に・・・というわけで、ここからがお化け屋敷さながらの展開となります。トーマスは伯爵によってとらわれの身となり、トーマスが留守の間を友人夫妻に預けた妻エレンにも異変が起きる。友人はいっこうに帰還しないトーマスとエレンの精神不安を心配します。
 余談ですが、この映画で吸血鬼退治のオカルト学者に扮するウィレム・デフォーはかつてムルナウ版の撮影秘話を題材とした「シャドウ・オブ・ヴァンパイア」(2000年)において吸血鬼を演じた実在の俳優マックス・シュレックに扮しています。あまりにも鬼気迫る演技が絶賛されたシュレックが実は吸血鬼だったという怪奇譚でした。
 さて、オルロック伯がルーマニアの奥地から狼ならぬネズミの大群を引き連れてドイツの市街地に凱旋するごとく現れると同時にペストの大流行がもたらされる。実際、この時代にペストの第三次パンデミックが欧州を席巻した史実があり、これを背景として吸血鬼伝説と疫病を結びつけたのです。ムルナウ版では「吸血鬼と疫病がともにやってきた」と明確にこの点に言及しています。コロナ禍とかぶさる設定がいまの世相を反映しているのです。
  一般に広く流布されたハマー・プロ版(テレンス・フィッシャー監督)をご覧になった方は貴族の家柄出身だというクリストファ・リー扮する端正な顔立ちをしたドラキュラのイメージが強いと思います。戦前の吸血鬼役者ベラ・ルゴシもコミカルなロマン・ポランスキー版もいずれも紳士然としていました。これに反して、ムルナウ版は一度見たら目に焼き付いて離れない気味悪さであり、未見のヘルツォーク版もあの怪優クラウス・キンスキーが演じただけあってやはり群を抜くおぞましさであったはずです。そうして、新作におけるノスフェラトゥことオルロック伯のぞっとするような異形は何に例えられようかというぐらい想像を絶する禍々しさです。扮するのはトーマス役の俳優よりひとつ年下のスウェーデンの人気スターだそうで、ほとんど原型をとどめないご面相となっています。
 ムルナウ版はドイツ表現主義を代表する幻想的でシュールな映像が特徴ですが、新作は通常場面のカラー撮影に対して、恐怖や不安を増幅させる場面では退色させたモノクロームに近い色合いに統一したキャメラ・ワークがみごとです。ゴシックロマンの表紙か挿絵に出て来るような古色蒼然とした絵柄が美しい。
 最後に指摘したいことがあります。従来の吸血鬼は喉もとに噛みついて血を吸う。ところが、この映画では犠牲者の胸元をはだけて裸の胸に食らいつくという設定がおもしろい。怪人が美青年のトーマスやその美しい妻エレンを押し倒して心臓部分に食らいつく場面が妙に官能的なのはロバート・エガース監督のただならぬ感性の賜物です。(健)

原題:Nosferatu
監督:ロバート・エガース
原案:ヘンリック・ガレーン
脚本:ロバート・エガース
撮影:ジェアリン・ブラシュケ
出演:ビル・スカルスガルド、ニコラス・ホルト、リリー・ローズ・デップ、ウィレム・デフォー、アーロン・テイラー・ジョンソン

「シンシン/SING SING」(2023年 アメリカ映画)

2025年05月14日 | 映画の感想・批評
 ニューヨークのシンシン刑務所内の芸術活動による更生プログラム(RTA)に参加した収監者を描いた、実話に基づく作品。主要登場人物の85%が元収監者で実名で本人を演じている。ディヴァインGはRTAの「舞台演劇」のグループに所属し、仲間と共に作り上げていく演劇に生きがいを感じていた。ある日、刑務所で札付きの問題児として恐れられている男、ディヴァイン・アイことクラレンス・マクリン(本人)が演劇グループに参加することになった。最初はプログラムに反発していたアイだったが、Gの熱心な働きかけにより徐々に心を開いていき、演劇の世界に目覚めていく。
 『ショーシャンクの空に』 (94)では受刑者の過激な暴力が描かれていたが、この作品の受刑者達はみんなやさしい。一体どちらが本当なのかと思ってしまう。アイはプログラムを通じて尊厳を取り戻し、協調性を身につけ、仲間との友情を深めていく。
 Gは無実の罪で長い間収監されていた。すでに亡くなった人の証言を録音したテープを証拠として採用してもらえるように頼んだが受け入れられず、再審請求を却下されたようだ。結局、アイの方が先に出所することになり、Gは絶望して自暴自棄になるが、アイが寄り添い励まし勇気づける。演劇の当日を迎え、収監者たちは観客から盛大な拍手を浴びる。やがてアイは出所し、時は流れて、ついにGが出所する時が来た。
 この映画は元受刑者が実名で登場しているために、プライバシーの問題があるのだろうか。個々の受刑者の犯した罪の詳細は描かれていない。Gは無実の罪で収監されているとのことなので、観客は当然冤罪の追求を期待する。だが詳しい事情はわからず、無実の証明もなされていない。本作品はRTAによる更生がテーマではあるが、冤罪とか再審とかいうことになれば、どうしても観客の関心は冤罪の解決に向いてしまう。どうやら出所後の現在もGは無罪の判決を勝ち取っていないようなので、感動の無罪判決というストーリーにはできなかったのかもしれないが、裁判の経過や刑罰等に関してもう少し言及があってもよかったかなと思う。
 ディヴァインGを演じたコールマン・ドミンゴや、収監者たちに演技指導を行う劇作家ブレント・ビュエルを演じたポール・レイシーはそれぞれプロの俳優で、どちらの演技も素晴らしかったが、アイを自ら演じたクラレンス・マクリンの存在感は際立っていた。クラレンス・マクリンはすでに舞台には出ていたが、映画は今回が初めてだったようだ。自分自身を演じる時に「自分の内面を深めることを考えた」と言っているのが興味深い。「自分自身を掘り下げて、内面から感情と行動を表現する」というスタニスラフスキーの演劇論と通じるものがある。「役になりきる」というメソッドは自分で自分の役を演じる時により有効なのだろう。
 アイがG に語った「刑務所を出ても、またギャングになるしかない」という言葉が印象的だった。元受刑者であるアイ本人が語っているだけにリアリティがある。アイは自分の息子も刑務所に入っていると言う。貧困や犯罪の連鎖を断ち切るのはむずかしい。アメリカでは刑務所出所後の3年以内の再犯率は60%を超えるらしいが、RTAに参加した受刑者の再犯率は3%以下だという。アイの嘆きを救うのがRTAのプログラムなのだ。
 再犯を繰り返すのは本人の意志が弱いからだけではなく、元受刑者に対する社会的偏見があるからだろう。偏見や差別が受刑者の社会復帰を妨げていることは否めない。そうはいっても忘れてはならないのは被害者家族のことだ。シンシン刑務所には重罪を犯して収監されている人たちもたくさんおり、被害者及び被害者家族はこの映画を単なる感動の物語としては受け取れないだろう。被害者家族が受刑者に求めているのは反省と償いだが、自己肯定感がなく、尊厳を失った人は反省する気持ちすら起きてこないのではないだろうか。人間性を回復してこそ、自分の過ちを後悔し反省して、償いの人生を送ることができると思う。その意味でも更生プログラムの意義は大きい。(KOICHI)

原題:Sing Sing
監督:グレッグ・クウェダ―
脚本:グレッグ・クウェダ―  クリント・ベントレー
撮影:パット・スコーラ
出演:コールマン・ドミンゴ  クラレンス・マクリン  ポール・レイシー  ショーン・サン・ホセ

「花まんま」(2025年日本映画)

2025年05月07日 | 映画の感想・批評
 大阪の下町で暮らす加藤俊樹(鈴木亮平)とフミ子(有村架純)の兄弟。両親は既に亡くなっている。兄の俊樹は、死んだ父と幼い時に交わした「お前は兄やんやから、どんなことがあっても妹を守るんやで」という約束を胸に、工場で働きながら兄として妹を育ててきた。なので、口癖が、「兄貴はほんま損や役回りやで」
 そんな中、妹の結婚が決まる。相手は自分とは真逆の若き学者。結婚式が近づき、嬉しい気持ちと寂しい気持ちが入り混じっているある日、妹の様子がおかしい。俊樹には、思い当たる節があった。もしかして、フミ子はあの人に会いに行ったのか。追いかけるようにその人の家に押し掛けると、自分の知らなかった事実が突きつけられる。。。
 ファンタジー要素が強く、想像とは違う展開だった。自分の記憶と他人の記憶が同一人物で同居する不思議な話。ネット情報だが、科学的な事象に基づくものではないようだ。フミ子が生まれる直前の母親(安藤玉惠)と、救急車で運ばれてきた他人=繁田喜代美(南琴奈)がギリギリですれ違うシーンがある。その時に、神様が間違ったとのこと。これぞ”ファンタジー”である。前半は、それを理解するのに何とか付いていっている感じだった。後半は、結婚式のシーンが多くあるが、突っ込み所がちょくちょくある。個人的に結婚式関連の業務をしたことがあったので、余計に気になる。予定外の事態が起こった場合に、裏方さんはこんな動きをしたというシーンがあれば、もう少し落ち着いて観られたかもしれない。気になった人もいらっしゃるのではないか。
 ただ、映画はエンターテイメントなので、2時間十分楽しんだ。それをカバーしているのは、俳優陣の演技ではないかと思う。鈴木亮平は、人格者も悪役も、一途で真っ直ぐなキャラだとピカイチ。有村架純も、フワッとした掴みどころの無いように見えて、芯がある人物を演じるとピカイチ。兄と言い合いになる際のセリフの「わたしはわたしや」に、心の奥底の本当の気持ちが端的に表れていて、自分にピッタリ合う役柄だったのではないか。また、関東の方が、関西弁を話すと違和感があるが、二人共、兵庫県出身からなのか、自然な感じだった。バラエティ以外では初見のファーストサマーウイカ、オール阪神・オール巨人も、元々と同じキャラだが、良かった。俊樹とフミ子の子供時代の子役二人も、大人顔負けの演技で本作を支えていたと思う。今後、出演作が増えていくかもしれない。更に、酒向芳のハリウッド俳優もビックリ(?)の肉体改造演技も気合が感じられ、見応えがあった。
 ラスト、冒頭の口癖だった兄が、「支えていた」つもりが、実は「支えられていた」ということに気付くシーンが、涙無くして観られない。感涙したい時は、お薦め。
(kenya)

監督:前田哲
原作:朱川湊人『花まんま』
脚本:北敬太
撮影:山本英夫
出演:鈴木亮平、有村架純、鈴木央士、ファーストサマーウイカ、安藤玉惠、オール阪神、オール巨人、板橋駿谷、田村塁希、小野美音、南琴奈、馬場園梓、六角精児、キムラ緑子、酒向芳

「終わりの鳥」(2024年 イギリス・アメリカ映画)

2025年04月30日 | 映画の感想・批評
 A24制作の作品である。A24とは2012年設立のアメリカの独立系エンターテイメント企業で、映画の制作・配給を専門としている。ニューヨークを拠点として革新的で芸術性に富んだ作品を次々と世に送り出している。アカデミー賞では作品賞ほか数々の受賞歴を誇り、次世代型映画企業として多くのファンを獲得している。本作で長編監督デビューを飾ったのはクロアチア出身のダイナ・O・プスィッチ、40歳の女性監督である。
 難病におかされた15歳の少女・チューズデーは自分の身体はそう長くは持たない事に気付いていた。母のゾラとの二人暮らし。ゾラは看護師のビリーがやって来ると仕事に行くふりをしてカフェや公園で時間をやり過ごし、自宅の置物を売っては治療費を捻出していた。ある日、チューズデーの元に一羽の鳥がやって来る。人間と同じ大きさになったり手の中に収まるほど小さくなったり、変幻自在で言葉を操る奇妙な鳥。地球を周回して死期が間近に迫っている生き物に終わりを告げる『デス』だった。留守の母を案じたチューズデーは彼をジョークで笑わせ、時間稼ぎをすることに。帰宅したゾラはデスの存在に驚き、娘からデスを遠ざけようと、まさに体当たりで死闘を繰り広げ小さくなったデスを飲み込んでしまう。
 デスの居なくなった世界では混乱が続き、世界はパニックに陥っていく。突然巨人化したゾラはチューズデーを背負って、死を待つ人々を解放するための旅に出る。それはゾラが娘と別れるための旅、娘の死を受け入れる旅でもあった。
 チューズデー役のローラ・ペティクルー、ゾラ役のジュリア・ルイス=ドレイファスは共に作品の世界に入り込み惹きつけられる。母娘の関係が逆転する場面のチューズデーの冷めた眼、デスと戦うゾラの凶暴な暗い眼が印象に残る。デスはポップな赤い鳥。色々な種類のコンゴウインコをモデルにデザインされたと聞くが、死の化身にしては感情豊かだ。嫌われ者としての自己を省みて愚痴やジョークも飛ばす、皮肉屋のキャラクターは極めて人間的だ。デスの眼も鳥でありながらも視線で物語っているところがより人間的だ。
 ゾラが喪失感に向き合おうとしている時、ゾラの前に現われたデスは彼女に静かに語りかける。この最後のデスの言葉は、是非劇場で直接聴き体験してほしい。本作品のすべてがこの言葉に集約されている。悲しみに浸りながらも、結末は寧ろ希望に満ちている。(春雷)

原題:TUESDAY
監督・脚本:ダイナ・O・ブスィッチ
撮影:アレクシス・サベ
出演:ジュリア・ルイス=ドレイファス、ローラ・ペティクルー、リア・ハーヴィ、アリンゼ・ケニ

「HERE 時を越えて」(2024年 アメリカ映画)

2025年04月23日 | 映画の感想・批評


 わあ、こんな映画の撮り方があるんだ!カメラが一点に固定され、全く動かない。そして恐竜が闊歩する大昔から、火山の噴火、氷河期などを経て、人類が誕生。さらに時間は経過し、土地がならされて一軒の家が建つ。此処こそこの物語の舞台となるところ。それも映し出されるのはリビング一室だけという限られた空間。こんな作品、今までにあった??しかし、此処はこの家に何組かの家族が移り住み、それぞれの家族が集まる大切な場所となって引き継がれていく。
 最初、それぞれの家族のエピソードが、時を交差して慌ただしく映し出されるため、頭の中での整理が大変だが、徐々にその時代と共に生きた家族の関係が明らかになってくる。中心となるのがリチャードとマーガレットの夫婦。演じるのは何と「フォレストガンプ/一期一会」で共演したトム・ハンクスとロビン・ライト。そして監督を務めるのが同作のロバート・ゼメキスと来れば、これはもう何かやってくれるに違いない。
 次に驚いたのはなんとこの2人が10代から70代までを1人で演じきったということ。いつまでも若々しいお二人だが、いくら何でも10代を演じるには無理があろうというもの。しかし、高校時代の姿も違和感は全く感じさせず、まさにデビューの頃のトムとロビンの姿なのだ。これには仕掛けがあって、ゼメキス監督お得意のVFX処理のたまもの。つまり、若い頃の容姿などを自然に見せるために大量のアーカイブ画像を使用したということだ。なるほど納得なのだが、その年齢にふさわしい演技や動きは俳優たちに細かく要求されるわけで、それを難なくこなしたお二人には、お見事と言うしかない。
 高校で出会って、恋に落ち、マーガレットが妊娠したため10代で結婚した2人。お互い画家になる夢、弁護士になる夢を諦めて、両親と同居しながらこの家で生活を共にしてきたのだが、マーガレットが50歳を迎えたとき、新たな転機がおとずれる。
 長年生きてくると、楽しかったこと、悲しかったこと、様々に起きた出来事がいっぱいあるのだが、この作品を観ていると忘れかけていたことが次々と脳裏に浮かんできて正直困った。リビングの一室で起きたことしか映っていないのに、ここまで想像力をかき立ててくれてるとは・・・。年老いたマーガレットが発した言葉に涙して、ラスト、ついにカメラが動き、画面は一気に大空間へ!!この言いようのない開放感に救われて、新たな希望を感じられたのも確か。人生って、素敵なものですね。
(HIRO)

原題:HERE
監督:ロバート・ゼメキス
脚本:エリック・ロス&ロバート・ゼメキス
撮影:ドン・バージェス
出演:トム・ハンクス、ロビン・ライト、ポール・ベタニー、ケリー・ライリー、ミシェル・ドッカリー