シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ」(2023年 アメリカ映画)

2024年06月26日 | 映画の感想・批評


 やっと梅雨に入り、しっとりと落ち着いた空気も悪くないなと思うこの頃、あと1ヶ月もすれば夏休みだ。近年は少なくなったが、全寮制の学校に通う生徒達にとって、夏休みやクリスマス休暇前は、家族が待つ家にやっと帰れる、待ち遠しい、嬉しい時期だったに違いない。しかし、中には事情があって学校に残らざるを得ない者たちもいた。
 時は1970年の12月。舞台はボストン近郊にある名門私立男子校のバートン校。生徒も教職員も家族のもとに帰る準備に忙しい中、古代史の教師ハナムは校長から今年の居残り役を命じられる。帰省できずに学校に留まる生徒の子守りをせよというわけだ。これにはハナムが有力者の息子を落第させたことへの学校側の制裁という意味もあったのだが・・・(なるほど、いかにも名門私立校ならではの処遇)。彼は休暇中だというのに、残った生徒達に当然のように勉強を続けさせている。生真面目で融通が利かないからか、生徒達の支持も全く得られず。ところが生徒の中に航空関連の会社社長の親がいて、保護者の承諾があればヘリでスキー旅行に行けることになり、唯一母親と連絡が取れなかったアンガスを残して他の生徒達はここぞと出発!かくしてバートン校にはハナムとアンガス、そして一人息子をベトナム戦争で亡くしたばかりの料理長、メアリー・ラムの3人のみが“居残り者たち(ホールドオーバーズ)”となって留まることとなる。
 この3人がそれぞれ違った孤独感を持ちながら、お互いに関わり合うことで変わっていく姿を見ていくのが心地よい。監督は「サイドウェイ」や「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」など、ロードムービーならお任せのアレクサンダー・ペイン。今回もその温かで繊細なる語り口に、観る者は自然と寄り添ってしまうのだ。
 ハナムを演じるのは「サイドウェイ」から20年ぶりにペイン監督とタッグを組んだポール・ジアマッティ。ちょっぴり斜視な所も上手く役柄に活かし、個性溢れる教師役を好演。見事ゴールデングローブ賞の主演男優賞に輝いた。メアリーを演じたダヴァイン・ジョイ・ランドルフは1986年生まれの38歳なのだが、設定はそれより10歳以上は上だろう。まさに貫禄という言葉がふさわしいその演技は高く評価され、アカデミー賞とゴールデングローブ賞の助演女優賞を獲得。そして特筆すべきなのはアンガスを演じた新人ドミニク・セッサだ。21歳にして高校生を演じるにはかなり大人びた雰囲気なのだが、名門校の優等生という役柄にはピッタリ。それでいて大人達の前で見せる妙に子どもっぽい姿も実に微笑ましく映る。何とこの作品が長編映画のデビュー作というから、今後の活躍が楽しみだ。
 1970年という時代背景もこの作品の魅力の一つ。全編を通じて流れるのは、自分も高校生だった頃流行ったシンガーソングライター達が作った名曲の数々。映画はアメリカン・ニューシネマの全盛期で、ダスティン・ホフマン主演の「小さな巨人」を映画館で観るところでは思わずニヤリ。そういえば、上映開始直後のプチプチ音も、クロージングの「THE END」の文字も、今では観ることが難しくなったフイルム上映を意識してのことなのだろう。デジタルでアナログを表現する、そういう細かい演出がいかにもペイン監督らしい。
 休暇が終わって再開された授業。あんなにカチンときたハナムの厳しい言葉も、この2週間で彼のいいところをいっぱい知ったからか、今となっては快い響きに感じられる。しかし彼には次なる試練が待ち受けていた。この歳で、一人の生徒のためにすべてを投げ捨てる決心をしたハナム。 新しいスタートを切るハナムたちを心から応援したくなる、何とも後味のいい作品に久しぶりに巡り会えた。大丈夫、きっといいことあるよ!!
(HIRO)

原題:The Holdovers
監督:アレクサンダー・ペイン
脚本:デヴィッド・ヘミングソン
撮影:アイジル・ブリルド
出演:ポール・ジアマッティ、ダヴァイン・ジョイ・ランドルフ、ドミニク・セッサ、キャリー・プレストン

「碁盤斬り」(2024年 日本映画)

2024年06月19日 | 映画の感想、批評
彦根藩の進物番をしていた柳田格之進(草彅剛)は掛け軸盗難の濡れ衣をきせられ、妻も職も失い、江戸で娘のお絹(清原果耶)と貧しい浪人暮らしをしているが、武士としての矜持と品性を失わず、それは囲碁の手筋にも表れている。
質両替商の萬屋源兵衛(國村隼)は「鬼のケチべえ」と揶揄されるような強引な商いをしていたが、格之進と出会い対局する中で、彼の人柄に感化され、まっとうな人間になっていく。
ある日、源兵衛の店で五十両が行方不明になり、番頭と手代の弥吉(中川大志)が、その日源兵衛と囲碁をしていた柳田を犯人ではないかと疑いをかけてしまう。
ちょうどその頃、部下だった梶木左門(奥野瑛汰)によって、藩を追われた事件の真相を伝えられた格之進親子は復讐を決意したばかりであった。
お絹は父の潔白と覚悟を信じ、自ら吉原に身売りして五十両を用立て、格之進に仇討ちを果たすよう促す。
格之進は弥吉に五十両を渡し、「金がでてきた時は弥吉だけでなく、源兵衛の首をもらい受ける」と宣言し、江戸から姿を消す。

草彅の侍姿はなかなか似合っている。静と動のめりはりがあってよかった。走る姿はちょっと武士らしくないかな。
國村の大店の旦那が柳田と碁を打つ中で商売の在り方も正していく姿にしずかに感動する。
中川大志、武家の生まれという役どころ。番頭に言われて格之進を疑わざるを得なくなるが、お絹に惹かれていくかわいさが微笑ましい。
斎藤工も狡猾さをにじませながらの敵役がはまっている。最後はやはり侍だった。
小泉今日子、カッコいい。ちょうどこの前後で観た前進座のお芝居「文七元結」も本作のベースになっているのか、吉原に生きる女性のキップの良さがでている。足ぬけに失敗した女郎への厳しさはゾクッとする。
それほど過酷な世界のはずなのに、ラストで絹が無事に解放されたとき、周囲の女郎たちが温かく見送るところは、「はて?」。
原作本では、足ぬけした女郎のその後を絹が親身に世話をすることで周囲の変化が描かれていたが、映画ではそこを出せていない。
清原果耶の武家の娘がりりしいし、所作も美しい。ますます楽しみ。先に春雷さんが取り上げた「青春18×2」をまだ見られていないので残念。

碁は全くわからないなりに、演者の表情で緊迫感が伝わってくる。
碁会所では身分も男女も関係なく、対等に参加しているらしいのが新鮮に思えた
時代劇らしい照明や美術もよかった。

白石監督にとっては初の時代劇とのこと。それは意外だった。「ひとよ」「死刑にいたる病」「凪待ち」などを観た。バイオレンスがきつくて、思わず目をむけてしまったし、鑑賞後が重々しかったが、今作はどこかすがすがしさがあったのが救い。
山田洋次監督が『たそがれ清兵衛』を機に時代劇を作り始めたように、白石監督の時代劇も楽しみになってくる。

柳田は掛け軸を受け取って、さあそれをどうしたのだろう。娘の祝言からそっと旅立ち、自分の清廉潔白さから藩を追われた部下たちの家族にお詫び行脚に行ったのだろうか。品格や礼節を何よりも大事にする本作の登場人物たち、今の時代に大事なことを問いかけているように思えた。
(アロママ)

監督:白石和彌
脚本:加藤正人
撮影:福本淳
原作:加藤正人「碁盤斬り柳田格之進異聞」
出演:草彅剛、清原果耶、中川大志、奥野瑛太、小泉今日子、斎藤工、國村隼


「罪深き少年たち」(2023年 韓国)

2024年06月12日 | 映画の感想・批評
 1999年に全羅北道完州郡参礼村で実際に起きた強盗殺人事件を題材とする社会派サスペンスです。実録ものにおいては、いかにサスペンスを醸成するかが監督の腕の見せどころでしょう。すでに知られている事実なので意外性は期待できません。そうなると、真相解明に至ったプロセスをどのようにうまくハラハラドキドキさせて観客に見せるかが要諦です。テクニック的には短いショットを積み重ねる、迫真性を出す、目まぐるしく展開させる、といった手法が思いつきます。それがある程度成功しているのがこの映画です。
 私が記憶している限りでは、日本映画で冤罪を映画化したものとして「首」(森谷司郎)、「証人の椅子」「日本の黒い夏」などが代表作でしょう。「帝銀事件 死刑囚」「真昼の暗黒」「BOX 袴田事件 命とは」などの名作・力作はちょっと違う。いずれも冤罪が確定していない、あるいは確定する前に撮られた作品なので、事実が確定したのちに撮られた実録ものとは明らかに事情が違います。今後、「袴田事件」の再審無罪が確定すればぜひ映画化を望みたいものです。
 参礼村の小さなスーパーに深更、三人組の強盗が押し入り、店主の女性とその幼い娘、店主の老母が寝ているところを踏み込んで粘着テープで縛り上げて金品を強奪するという事件が発生します。母娘は助かりますが、老母だけがテープで口をふさがれたことが原因なのか、死んでしまうのです。
 そこで、警察は不良少年たちに目をつけ、三人組を捕らえて拷問に近い取調の果てに自白調書をとり起訴します。捜査を陣頭指揮した班長(ユ・ジュンサン)はその後、エリートコースを約束され、順調に出世して行きます。その班長が2000年に栄転したあとを狂犬と異名をとる暴れ犬の新班長(ソル・ギョング)が引き継ぎ、「真犯人を知っている」というタレコミに関心をもって調べて行くうちに冤罪の匂いを嗅ぎとるのです。さあさ、お立ち会い。これからがこの映画の面白いところだけれど、これ以上申し上げると興をそぐのでちょっと横道に逸れます。
 これはあくまで私見だと断ったうえで、冤罪が作られる形態には大きく分けてふたつあると私は考えています。一番多いのは凶悪事件の早期解決のプレッシャーを受けた検察・警察が焦りのあまり明白な証拠もないまま自白や状況証拠に依存して結果的に捜査をミスリードしてしまうケース。もうひとつは、この映画のように野心をもった人物が真実の追究より手柄・実績を上げたいという不純な動機で冤罪をつくるケースです。確信犯的に冤罪を作るのですからきわめて悪質です。全体からみれば少ないとはいえ、日本でもいくつかそういうケースがあったようです。
 次に、再審がなかなか進まないのにも理由があります。前記ふたつの形態で作られた冤罪を冤罪と認めたくない心理が官憲側に働くからです。組織のメンツに関わるから、いったん有罪と決めたからには容易にその非を認めたがらない。つまり、個人の人権は国益や公益に準じるという考え方、これを権威主義とかパターナリズムというのですが、そうしないと官憲などの国家的組織のメンツが失われ、犯罪を取り締まるうえで支障が出るというのが、国家の論理なのです。
 さらに、警察組織は仲間意識が強くて相互にかばい合う互恵の精神がどの組織より鞏固だという反面、いったん組織に刃向かう者は徹底的に潰しにかかるという側面を持ち合わせています。いま九州南端の某県警でトラブっている事例をみればわかります。
 司法における真実の追究や正義の実現がどこまで可能なのか。映画を見終わったあと、はなはだ心許なく思ってしまったのですが、さわやかな幕切れが救いでした。(健)

原題:소년들
監督:チョン・ジヨン
脚本:チョン・サンヒョプ
撮影:キム・ヒョンソク
出演:ソル・ギョング、ユ・ジュンサン、チョ・ジヌン、チン・ギョン、ホ・ソンテ

「近松物語」(1954年 日本映画)

2024年06月05日 | 映画の感想・批評
 五代将軍、徳川綱吉の時代。京都烏丸四条の大経師以春は朝廷御用の表装工の頭で、毎年の暦を刊行する権利を与えられていた。以春の妻・おさんは兄から金を無心されるが、夫には頼まず、手代の茂兵衛に相談する。茂兵衛は店の金を無断で流用しようとするが、以春にばれて激しく詰問される。茂兵衛に好意を抱く女中のお玉がとっさに嘘をついて、急場をしのぐが、お玉に気がある以春は気に入らない。茂兵衛を屋根裏に閉じ込めてしまう。
 一方、以春がお玉の寝床に忍び込んでくるという話を聞いたおさんは、夫を懲らしめるためにお玉の布団で待っていると、忍んできたのは屋根裏から逃げ出してきた茂兵衛であった。運悪くその現場を番頭格の助右衛門に見られたおさんと茂兵衛は不義密通をしていると騒がれ、いたたまれなくなって店を飛び出してしまう。二人の死出の旅路が始まった。

 1683年に実際に起こった不義密通事件を基に、「好色五人女」(井原西鶴)と「大経師昔暦」(近松門左衛門)が書かれ、溝口健二の『近松物語』はその二つを合体して部分的な変更を加えたものである。前二作と溝口の映画の最も大きな相違点は前二作が、それぞれ状況は異なるが、おさんと茂兵衛が錯誤によって性関係を結んでしまうのに対して、溝口の映画は錯誤による性関係を認めていないことだ。
 「好色五人女」では暗闇の中で眠り込んでしまったおさんを、茂兵衛がお玉だと勘違いして契りを結んでしまう。「大経師昔暦」では茂兵衛はおさんをお玉だと誤り、おさんは茂兵衛を夫の以春だと勘違いして枕を交わしてしまう。「源氏物語」の<空蝉>の帖で、光源氏が空蝉と間違えて軒端荻の寝所に忍び込むという場面があるが、源氏は途中で間違いに気付いている(結局、行為は続けるのだが)。いくら暗闇の中とはいえ本当に相手がわからなかったのかという疑問が残る。
 『近松物語』では助右衛門に見つかった時、二人は性関係を結んでおらず、周囲の誤解によって不義密通者にされてしまう。リアリストである溝口は偶発的で現実離れした展開を好まず、映画では二人が契りを結ぶのは互いの愛を確認してからだ(実際に性的な場面が描かれているわけではないが)。逃げ切れないと悟った二人は死を覚悟して琵琶湖に舟を出すが、入水する直前に茂兵衛が「お慕い申しておりました」と愛を告白し、おさんは「今の一言で死ねんようになった」と言って茂兵衛に抱きつく。この場面は「好色五人女」にも「大経師昔暦」にもない溝口のオリジナルで、この映画のクライマックスになっている。従来の心中物なら、愛し合っている二人はあの世で結ばれることを信じて入水するところだが、おさんは<愛されているからこそ生きたい>と思う。これが溝口のリアリズムであり、現代の恋愛劇なのだ。(KOICHI)