シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「ハウ」(2022年 日本映画)

2022年08月31日 | 映画の感想・批評
 2003年公開「ジョゼと虎と魚たち」の犬童一心監督による作品。その年の私の日本映画ベストワンなので、観に行こうと思った。期待通りだった。またもや出会いと別れで人が成長する映画だった。
 本作は、主人公の気弱な青年赤西民夫(田中圭)と、民夫の上司とその奥様(渡辺真紀子が押しの強い奥様をうまく演じている)から、民夫が恋人に振られ寂しい想いを紛らわすには、丁度良いのではという上司の勝手な計らいで飼うことになった大型犬”ハウ”との物語。ハウは、動物虐待を受けて保護された犬で、声帯を手術されていて、「ワン」と鳴くことが出来ず、鳴き声がかすれたように「ハウ」になってしまうことから、民夫が”ハウ”と名付けたのである。
 一緒に生活を始めるとハウにのめり込んで、ルンルン気分の民夫だったが、ある時、ハウが行方不明になってしまう。周りにも手伝ってもらい、必死に探すが見つからず、ハウに良く似た犬が事故で亡くなったとの情報が耳に入り、諦めてしまう。だが、実はハウは生きていたのだ。民夫も知らない遠い場所を転々としながら、出会いと別れを繰り返し、横浜に住む民夫の元に帰ってくるのである。
 その道中でのエピソードが良かった。福島で原発の影響を受けた地域で生きる中学生(長澤樹)は、いじめに悩んでいる。主人(石橋蓮司)を亡くし、寂れた商店街で、一人で傘屋を営む女主人(宮本信子)は、ご主人の事が忘れられない。夫のDVから修道院に逃れてきた女性(モトーラ世理奈)は、ハウを知っていた???等々。それぞれが抱える悩みや傷を、ハウが癒していく。宮本信子が夫の言った言葉「雨が降らなくなることはない」を思い出し、元気を出すシーンは泣けた。それを引き出したのはハウなのだろう。
 ラストシーン、突然、ハウが目の前に現われた時の、民夫の反応は?ハウの反応は?ハウ目線で考えると、ちょっと切なくなった。ハウはどう思っていたのだろうか。が。前述の「ジョゼと虎と魚たち」と同じで、それも含めて、人間は強い(今回は犬)ということを描いたということなのか。
 ハウが民夫の元に帰るまでに世話になったその時その時の飼い主によって、ハウの名付け方が違うのも、とても印象的だった。犬の特徴を捉えて名前を付ける人もいれば、その人のその時に気になっていることを名前に付ける人もいて、見る角度によって、これ程、変わるのかと思った。色々な方向からの考えを巡らせることが出来る映画だった。
(kenya)

原作:斉藤ひろし『ハウ』
監督:犬童一心
脚本:犬童一心、斉藤ひろし
撮影:不明
出演:田中圭、池田エライザ、野間口徹、渡辺真紀子、長澤樹、モトーラ世理奈、石橋蓮司、宮本信子、利重剛、伊勢志摩、市川実和子、田畑智子、石田ゆり子(ナレーション)

「野火」(1959年 日本映画)

2022年08月24日 | 映画の感想・批評


 太平洋戦争末期、フィリピンのレイテ島。肺炎にかかった田村一等兵(船越英二)は所属している中隊から退去を命じられる。野戦病院へ赴くが、病院は食糧を携行する者しか受けつけてくれなかった。病院の近くには同じように所属部隊から弾き出された安田(滝沢修)や永松(ミッキー・カーチス)がいた。やがて米軍の砲撃を受けて病院は崩壊し、田村はひとり山野を彷徨する。
 略奪した芋や山蛭を食べながら生き続けていたが、自分を見て騒いだフィリピン人の女を射殺してしまい、罪悪感に苦しむようになる。山中で出会った兵士よりパロンポンに集合するよう軍司令が出ていることを知り、生還の希望を抱くが、行く手には米軍が立ち塞がっていた。降伏の望みもなくなり、食糧も尽き、田村は心身共に衰弱していった。精神に異常をきたした将校(浜村純)が、「俺が死んだら、ここを食べてもいいよ」と右腕を挙げた時、田村は食べたい誘惑にかられるが、ギリギリのところで踏み止まる。
 倒れている田村を野戦病院で知り合った永松が発見した。永松は田村に水を飲ませ、黒い肉を田村の口に押し込んだ。だが歯茎が弱っている田村は嚙み切れずに吐き出してしまう。永松は「猿の肉」だと言ったが・・・・

 大岡昇平の「野火」(52)を市川崑が映画化。脚本は妻である和田夏十が担当した。極限状態に陥った兵士たちを通して、戦争の悲劇を赤裸々に描いた名作である。主演の船越英二を始め、ミッキー・カーチスや浜村淳が心身共に壊れていく兵士をリアルに生々しく演じている。<極限状態に置かれた人間の狂気>というテーマは原作も映画も同じであるが、両者には決定的な違いがある。映画では田村の<神との遭遇体験>は取り上げられず、帰国後の様子も描かれず、田村は「自分の意志では人肉を食べなかった」と解釈していることだ。2015年の塚本晋也版の「野火」でも基本的なとらえ方は市川崑版と同じである。
 原作では田村は日本に生還するが、ほどなくして精神病院に入院し、医師に勧められるまま戦争中の体験を手記に書く。それが「野火」という小説のメインストーリーになっている。いわゆる枠小説という物語形式(物語の中に物語がある)なのだが、ここで問題となるのが、「ドグラ・マグラ」(夢野久作)や「日の名残り」(カズオ・イシグロ)のように、執筆者が「信頼できない語り手」であるということだ。
 原作では田村は人肉食への誘惑を繰り返し語っており、「猿の肉」と称して永松が提供した肉も人肉であると知って食べている。田村は「私の意志では食べなかった」と言っているが、その根拠は乏しく、発言は妄想に支配されている。最後に「野火を見れば、必ずそこに人間を探しに行った私の秘密の願望は、そこ(人間を食べたかった)にあったかも知れなかった」と告白している。「野火」というタイトルは「人肉を食べたいという欲望」を象徴しているかのようだ。
 主治医によると田村にはメシヤ・コンプレックスがあり、離人症、拒食症に罹患している。更に精神分裂症(統合失調症)の症状もあるようだ。「人肉を食べようとした時に、神がイエスを遣わされ、私を救ってくださった。私は神に愛されている。私は天使だ・・・」と<神との遭遇体験>を何度も語っているが、これはメシヤ・コンプレックスの現われだと思われる。主治医は「メシヤ・コンプレックスは罪悪感を補償するために現れる」と言っていて、おそらく人肉を食べたこととフィリピン人の女を殺した罪悪感に苛まれて、田村はこのような妄想を抱くようになったのではないか。「誰かに見られている」という離人症の症状や「草や木や動物を食べてはいけない」という拒食症状も罪悪感に起因するものと考えられる。
 大岡昇平は「野火」をフィクションであると公言していて、エドガー・アラン・ポーに倣い、怪奇幻想ミステリーとして提示しようとしたものと思われる(ポーには「アーサー・ゴードン・ピムの冒険」という人肉食を描いた作品がある)。終わり近くに逆行性健忘症によって記憶を失った田村が記憶を取り戻す場面があるが、まるでミステリーの謎解きのような構造になっている。「信頼できない語り手」という形式を使ったのも、ミステリアスな展開にして、田村が人肉を食べたのではないかという疑念を読者に抱かせるためではないか。
 映画では主人公は人肉を食べる誘惑にかられはするが、最終的にその行為には及ばない。もし市川崑が原作の観点で描いていたら、もっと残酷で非人間的な作品になったかもしれないが、極限状態において神に救いを求める人間の姿を鮮烈に描けたのではないか。罪悪感に苛まれる人間の実体に迫れたかもしれない。(KOICHI)

監督:市川崑
脚本:和田夏十
撮影:小林節雄
出演:船越英二  ミッキー・カーチス  滝沢修  浜村純

「冬薔薇」(2022年 日本映画)

2022年08月17日 | 映画の感想・批評
 冒頭、夜の海に浮かぶ巨大なガット船が映る。迫力はあるがくたびれているように見える。この時ある詩の一節が浮かんだ。「私はときどき、生きることがこの船に似ていると思うことがあります。私はときどき、この船のように見える人に出会います。私はときどき、船は沈んだほうが安らかなのではないかと疑うことがあります。けれどそれは違うのです。船は浮かぶために作られたもの。沈めるために作られた船はどこにもありません。」(またのあつこ作)
 阪本順治監督が伊藤健太郎のために書き下ろした作品。初対面の二人が2時間 近くにわたり自分達のことを語り合い、企画が動いたと聞く。これまで主に父性をテーマとした作品を撮ってきた監督が、これ以上ない物ができたと自負する、見応えのある作品となっている。
 横須賀が舞台。埋立て用の土砂を運ぶガット船で海運業を営む渡口義一(小林薫)と道子(余貴美子)夫婦は、幼い長男を事故で亡くしている。次男の淳(伊藤健太郎)は家業を手伝わず、服飾専門学校に通うと言いながら授業をさぼり、ふらふら暮らしている。親子の会話はなく、家業も時代とともに先細りで何とかやりくりしている状態である。そんなある日、淳の仲間が襲われ、犯人として思いもかけない人物が浮かびあがる。
 義一は長男の写真を船内の神棚に置き毎日手を合わせている。従業員達とは和気あいあいと、そして黙々と働いている。しかし、淳にはどう接していいのか分からずにいる。淳の専門学校の同級生(佐久本宝)に「言いたいことを言わないのは子どもに嫌われるのが怖いから」と面と向かって言われる場面は強烈だ。そしてここにもう一人、息子(坂東龍汰)の将来を案じる父親(眞木蔵人)が。道子の弟である。息子を更正させ守ろうとしていた矢先、息子は突然何者かに殺害される。「犯人に心当たりがあるなら教えて欲しい、俺が殺る」と淳に詰め寄るその目には、ぞっとするような凄みと深い哀しみの色が宿っていた。
 俳優が各々に適役だ。三人の船員達(石橋蓮司・伊武雅刀・笠松伴助)はガット船に似て、くたびれ加減がほどよく味がある。食事場面の何気ないやりとりには観ていてほっこりするが、せつなさも漂う。伊藤健太郎もベテラン俳優達と仕事をしたことで、今までとは違った現場の空気を感じ取ったにちがいない。淳の半グレ仲間も各々に役にはまっている。リーダー格の永山絢斗は虚勢を張る人物がうまい。デビュー作「ケンとカズ」で注目された毎熊克哉は反社役に定評がある。今回改めて彼の声には独特の甘さがあり、この声が果たしている役割は大きいと感じた。リーダーの妹の河合優実は出演作が続き、その役柄の幅の広さに驚く。
 冬薔薇は冬に咲く健気なバラの花。道子が水やりをする場面には祈りがこめられているようだ。この作品のタイトルにふさわしい。監督は安易な解決策は用意していない。淳と彼を取り巻く人々はこれからどう生きてゆくのか、その先に想像を巡らせたくなる。
 ラストシーン、振り向いた淳の顔にはリーダーが愛用していたサングラスが……。その瞳は何を見ているのか、今は誰にもわからない。(春雷)

監督・脚本:阪本順治
撮影:笠松則通
出演:伊藤健太郎、小林薫、余貴美子、眞木蔵人、永山絢斗、毎熊克哉、坂東龍汰、河合優実、佐久本宝、和田光沙、笠松伴助、伊武雅刀、石橋蓮司

「PLAN75」(2022年、日本)

2022年08月10日 | 映画の感想・批評
♪リンゴの木の下で、明日また会いましょう♪
この歌が耳から離れない。

舞台は近未来と称する日本の、たぶん神奈川県。
ホテルの清掃の仕事を高齢ゆえにと奪われ、住んでいる公団住宅らしきアパートも取り壊されるのか、住まいも奪われようとしている主人公ミチ。生活保護は受けたくない、深夜の道路工事の交通整理もしてみるが、やはり疲れ果て、国が勧める「PLAN75」のチラシを受け取り、その気になる。
「75歳以上の人はいつでも申請すれば支度金10万円をもらって、あとくされなく最期を迎えることができますよ。若い人に迷惑をかけたくないでしょ?」

倍賞千恵子の自然なたたずまいが演技には見えず、「ああ、こういう凛とした生き方をしてきた女性、いるよね。上品でつつましく、まじめに生きてきた、これぞ日本人女性の鑑。」

大いにネタバレになるが、ご容赦を。

たった10万円の支度金なの?
最期はあんな薄っぺらなカーテンしかないの?
寒ざむしすぎるやん。
主人公は家もお金もみな失って、どうやって生きていくのだろう。
東南アジアから出稼ぎ労働のマリア、遺品整理のカバンからそっと抜いた現金を手にしたのか、それだけでは娘の治療費も賄えないだろうに。
市役所職員の青年は叔父の遺体を車に乗せていて、スピード違反だけでは済まないだろう。PLAN75の勧誘を疑いなく進めてきた彼は、この後どうするのだろう。

「生きていていいですか?」
どうか、こんな問いかけをしないですむ社会であってほしい。
自分で生き方を選べるのはもちろん大事なのだけれど。
結局この制度の対象者となるのは、住む家も仕事も失って、先が見えなくなってしまった人たち、ホームレスになる寸前。
PLAN75のCMで裕福そうな女性がにこやかに、「じぶんで選べるって素敵」などと言っているが、およそ彼女は絶対にこの制度を利用しないだろうというのが見え見えで、嫌味にしかならない。

この映画が文化庁の支援も入って制作されているらしい。そこがまた皮肉というのか。。
鑑賞者に問題を投げかけてくる作品だった。
とても疲れた!
1回目は6月末、「ベイビーブローカー」のあと。春雷さんと同じ行動パターンだったのも面白い。
赤ちゃんと老人、生の始まりと終わりを1日で考える。
ちょうど初孫を迎えたばかりの我が家。「ベイビーブローカーって、とんでもないタイトルやわ。観る気がせんわ!」と吐き捨てるように言う娘。それを振り切って母は内緒で観に行った。
2回目を見たのは滋賀県で最後の上映日。結構な人の入りだったことも印象的。若い人の姿は少なかったかとおもう。

あと10年でこの制度の対象者かあ、私、どうするんやろ・・・・
それにしても、これほど疲れる映画も珍しいか?嫌いじゃないのだけど。
身につまされるから?
いや、ちょっと待てよ!
後期高齢者の医療保険がこの10月から負担割合が1割から2割、つまり2倍になる。おちおち病院にもかかれない。年金も減らされた。この酷暑の日々に節電ポイントなど考えつくような首相。とっとと高齢者は死んでくれと言わんばかりの政治。近未来の話でなく、ひょっとして水面下でひそかに進められているのじゃないかしら。
真夏の怪談、ホラーである。けっして「法螺話」とは言えないところが、また恐ろしい。
(アロママ)

脚本・監督 早川千絵
撮影 浦田秀穂
出演:倍賞千恵子、磯村勇斗、たかお鷹、河合優実、大方斐紗子


「偽りの花園」(1941年 アメリカ映画)

2022年08月03日 | 映画の感想・批評
 南部の裕福な農場主一族が工場進出を企図するシカゴの資本家に出資を申し出て、ただ同然の水と格安の黒人労働を提供する約束を交わし、ぬれ手に粟の富を得ようと画策する話である。一族の長である長男のベンは独身だが老獪、妹のレジーナは気丈の女傑、弟のオスカーは兄のいうがまま、オスカーの一人息子レオは地元の銀行に勤めるものの怠け者で倫理観に欠けたぐうたら。この4人が貧困層や黒人から搾取して懐を肥やしてきた「子ギツネ」というわけで、「葡萄畑を荒らす子ギツネたちを捕らえよ」という冒頭の聖書の引用につながるのである。
 レジーナには人格者で良心的な夫ホレスがおり、いまは心臓を病み、別居して療養生活を送っている。娘のアレクサンドラは母と折り合いの悪い父を慕っている。また、彼女は町で新聞を発行している青年デヴィッドを憎からず思っている。しかし、一族は彼女とレオをいとこ夫婦にする算段だが、良家の出で善良なレオの母バーディは出来の悪い息子は気立てのよいアレクサンドラにはふさわしくないと反対だ。ホレスも反対で、好漢デヴィッドと一緒にさせたいと考えている。こういう人間関係がまず丹念に描かれて、本筋の一族間の金銭をめぐる醜悪な内輪もめ、きょうだい・夫婦間の確執、悲劇へと発展してゆく。
 レジーナは蓄財しているホレスから出資の金を引き出そうと無理に帰宅させるが、かれは浮利を追うだけの利己的な事業計画を知って出資を拒んだため夫婦は敵対する。社会を蝕むような企みは許せないし、それをただ傍観していることも同罪だというのである。これがこの戯曲の主題だろう。
 原作者のリリアン・ヘルマンといえばフレッド・ジンネマンの「ジュリア」でジェーン・フォンダが演じたアメリカを代表する劇作家だ。ブロードウェイの名戯曲をウィリアム・ワイラーが映画化するにあたり、ヘルマン自ら脚色して、さらに3人の脚本家が台本用に加筆したという手の入れようである。
 ワイラー、ジョン・フォード、ヒッチコック、ハワード・ホークスといったハリウッド黄金期の巨匠に共通するのはその卓越したユーモアのセンスだろう。この映画でも随所に散りばめられたクスグリの名人芸には笑いを禁じ得なかったが、その合間に文字通り平手打ちを食らわせる緊張の一瞬が用意され、まさしく画面が凍りつく瞬間の演出は余人の追随を許さないのである。
 とくに、「市民ケーン」で名をあげたグレッグ・トーランドのキャメラは、ワイラーお得意の階段を2階から、あるいは1階から斜めに撮る構図においてその真価が発揮され、前方と後方で対峙する人物の緊張関係を描くのに成功している。それに、階段が何度も登場し、ドラマの重要なキーワードとなる。
 この映画の面白さを担保しているのは台本、演出に加えて配役の妙だと思う。
 まず主演のベティ・デイビス(レジーナ)が絶品だ。キャサリン・ヘップバーンと並ぶハリウッド名女優の鏡みたいな人だから圧倒される。撮影現場ではワイラーと役作りを巡って絶えず対立し、一時は交替も考えられたほどもめたらしい。ホレスを演じるハーバート・マーシャルは第一次大戦で片足を失い俳優になったという経歴で義足の人だが、この映画では車椅子を利用している役だから当たり役といってもいい。また、両親の対立の狭間に苦しむ心優しいアレクサンドラのテレサ・ライト(これでデビュー)が初々しくてよい。
 さらに、海千山千の狸親父ベンを演じるチャールズ・ディングルという役者を私は知らないけれどベティ・デイビスと互角に渡り合う好演ぶり(うまい!)。かれに加えて、冷酷なオスカー(カール・ベントン・リード)、馬鹿息子レオ(ダン・デュリエ)、一族から蔑ろにされているバーディ(パトリシア・コリンジ)の4人は舞台のオリジナルキャストだそうだ。
 因みにキネマ旬報映画データベースでは監督をワイラーとハーマン・シュムリンの共同としているが、ほかの資料をあたってもそういう記述は見当たらずワイラーの単独演出としている。シュムリンは舞台版の演出を担当した縁から映画化にあたっては製作に加わっているだけである。(健)


原題:The Little Foxes
監督:ウィリアム・ワイラー
原作・脚色:リリアン・ヘルマン
台本:アーサー・コーバー、ドロシー・パーカー、アラン・キャンベル
撮影:グレッグ・トーランド
出演:ベティ・デイヴィス、ハーバート・マーシャル、テレサ・ライト、リチャード・カールソン、ダン・デュリエ