シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「映画 窓ぎわのトットちゃん」(2023年 日本映画)

2023年12月27日 | 映画の感想・批評
昭和初期の東京。裕福な家庭に生まれたトットちゃんは最初に入学した小学校で、問題児として受け入れられず、トモエ学園に転校する。その一日目からがお話の始まり。
小林校長先生はトットちゃんの話をひたすら聴いてくれる。気が付けば数時間たっていた。
学校は電車の教室、時間割も決まっていなくて、自分の好きな科目から取り組む。お弁当は「海のものと山のもの」が入っていること、校長先生の奥さんが足りないものは分けてくれる。同級生の泰明くんは小児マヒで歩行がちょっと困難だけれど、トットちゃんは「そうなんだ」とそのままに受け止め、でも彼をお気に入りの木の上に「ご招待」して、高いところから見える世界を体験してもらいたくて、大人たちには内緒で大変な工夫と努力をやりきる。初めて木に登った泰明くんは「アメリカにはテレビジョンという箱があるらしい、それはきっと世界中の人を幸せにする道具になると思う」と話してくれる。まさしく、トットちゃんの将来を見通したかのように。
ある時は大事なお財布を汲み取り便所に落としてしまい、汲み取り口から汚物を浚えて探すが、校長先生は「汚いから、やめなさい」も言わず、「もとに戻しとくように」とだけ。
「新しい電車が学校に来るらしい。線路はどうするの?」興味津々の子どもたちに、「寝間着を持って、夜にまた学校に集まりなさい」と、貴重な体験を見過ごすことのないように配慮してくれる。
プール開きは皆、裸になって!足の不自由な泰明くんも水の中では魚のように泳げる。
いくつかの場面は幻想的な映像で、原作本をいろどった「いわさきちひろの絵の世界」が再現されたような美しさ。アニメならではの表現方法がみごと。
近隣の悪ガキたちが「トモエ学園はおんぼろ」と囃し立てるのを、トットちゃんは「トモエ学園はいい学校」と歌で応酬し、やがて学園の子どもたちが一体となって悪ガキたちを押し戻していく。校長先生の背中がうれし泣きでふるえている。
トモエ学園の生活も見ごたえがあったが、もう一つ注目したのは、トットちゃんの家。パパは交響楽団のコンサートマスター。朝食のシーンがとてもおしゃれ。こんなトースターがあったのね。縁日でヒヨコを欲しがるトットちゃんに両親は「すぐに死んじゃうから悲しませたくない」と反対するが、根負け。果たして、数日後には冷たくなってしまったヒヨコたち。
やがて、大事な大事な友達の泰明くんの命も。
同時に、世の中も戦争の真っただ中へ。「軍歌は弾かない」と断言するパパも召集され、おしゃれな洋館のおうちも建物疎開として壊されてしまう。とうとう、空襲でトモエ学園は焼失し、燃えさかる炎を目に焼き付けながら、小林校長先生は学校の再建を誓うのだが。

原作は1980年代に出版され、全世界でも翻訳出版され今なおベストセラーとして記録に残る。将来子どもが生まれたら「ほめて育てよう」と心に誓った記憶がある。「君は本当はいい子なんだよ」と小林先生がトットちゃんに言い続けてきたように。現実にはその通りにはできなかったけれど、おおむね見習ったつもり。
今年5月にたくさんの本を処分したが、たまたま見つかったこの一冊だけは残しておこうと思った。まさかアニメ映画が公開されようとは思いもよらず。

真っ赤なほっぺに真っ赤な唇、大きなお目め、少女漫画そのものを予告編で観た時はちょっと違和感をおぼえたが、今はこのデザインこそがトットちゃんの世界観をそのまま表現していると思える。長年、実写映画化をことごとく断ってきた徹子さんが、今日の世界情勢も鑑み、若い世代にあの時代にもすばらしい学校があった、豊かな心があったことを伝えたいという思いが映画化を受け入れたという。果たして、それは十分に伝わる作品になったと思える。
同じ日に、「あの花が咲く丘で、また君と会いたい」も観た。今年は姑、大学時代の恩師と身近な人を見送ったが、戦争体験を直に語ってくれた世代がどんどんいなくなる。
「徹子の部屋」で、タモリさんが「新しい戦前」と言ってちょうど一年。
また、徹子さんがNHK「あさイチ」の中で、今欲しいものは何かと問われ、「平和!戦争で亡くなる子どもがいない、平和な世界」と語られたことが特に印象に残っている。
この作品について考えることが多かった日、偶然にも地元の図書館で読書会もあり、参加してきた。ここでも近所の80代の女性が戦争体験を具体的に語ってくださった。
何かに導かれるように、今年はトットちゃんで締めくくることができた。心からおもう、子どもたちが健やかに育つ世界であってほしいと。
(アロママ)

監督:八鍬新之助
脚本:八鍬新之助、鈴木洋介
原作:黒柳徹子
撮影:峯岸健太郎
総作画監督:金子志津枝
出演(声):大野りりあな、役所広司、杏、小栗旬



「ティル」(2022年 アメリカ)

2023年12月20日 | 映画の感想・批評
 実話の映画化です。カー・ラジオから流れるポピュラー・ソングに合わせて運転席の黒人女性と助手席の息子が楽しそうにハミングする。この軽やかな出だしが、のちの深刻な事態を予兆させます。
 和やかで平穏なムードが少し険悪になるのは続くデパートのシーンです。商品を抱えた彼女に警備員の男が「特売場は地階です」と神経を逆なでるお節介をいう。「同じ台詞を白人客にもいえるの?」と痛烈な一撃を加えるところは、彼女がただ者ではない証拠です。
 ときは1955年8月。ところはイリノイ州シカゴ。米国北部でもこの調子だから、この時代の人種差別がいかほどであったか想像できるでしょう。メイミー・ティルというこの女性は夫を第二次世界大戦で亡くしており、14歳の息子エメットとそこそこ大きな家で暮らしています。陸軍の機関でタイピストとして働いているので収入もいいのでしょう。もとはミシシッピーの出で、今は離婚したらしい両親ともそれぞれシカゴに暮らしている。親戚の牧師やいとこが故郷からシカゴに遊びに来ていて、メイミーの母親がエメットを「夏休みに1週間ほど向こうへ行っておいで」と一緒に帰らせるのです。メイミーは母親の勧めだから仕方なく受け入れますが、実際はもやもやとした不安を拭えない。
 列車が南部の州境にさしかかったあたりでしょうか、黒人たちが全員うしろの車両に移動する場面があります。州によって人種隔離政策がまだ行われていた時代です。
 エメットは田舎の綿花畑でいとこたちと一緒に綿花摘みを手伝ったあと、近所の雑貨店の前でのんびりくつろいでいるうちに、ふらっと店の中に入り、店番をする若い白人女性にちょっかいを出します。飴玉を買って金を払い、映画の一場面をまねるように口笛を軽く吹いて見せる。黒人が白人に対して誘うような仕草をするのは、ここではご法度です。血相を変えた女は突然銃をとって来ます。驚いた少年たちは一目散に逃げだします。
 一両日たった深更、牧師の家に商店主ら数人が押し寄せてきてエメットを引き渡せと脅す。銃を突きつけられた牧師は少年が男たちに無理やり連れ去られるのをどうしようもなく見守るほかありません。息子が白人たちに拉致されたとの知らせを受けた母親は半狂乱となりますが、ほどなく遺体が発見されるのです。
 むかし小林多喜二の憲兵隊による凄絶な拷問後の遺体写真を目にしたことがあります。それを上回るような苛酷をきわめるリンチを受けた無惨な遺体をメイミーはあえてマスコミにさらし、会葬者にも見せるのです。
 商店主の兄弟が拉致と殺人の疑いで起訴されますが、陪審員を見れば無罪放免が目に見えるようなメンバーです。1957年のシドニー・ルメット監督の民主主義とは何かをわかりやすく説いた傑作「十二人の怒れる男」に登場する陪審員は全員白人で男性でした。いまでは考えられない選任ですが、当時はそういうものだったのです。
 ミシシッピーといえば、アラン・パーカー監督の「ミシシッピー・バーニング」(88)を思い出します。これも実話を元にした作品で、1964年に公民権運動家の黒人3人が行方不明になる事件が発生し、FBIの捜査官が現地に乗り込んでレイシストたちを前に果敢に闘う姿を描いて秀逸でした。つまり、「ティル」の私刑殺人事件で容疑者が証拠不十分による無罪となったあと10年近く経っても、まだ同様の事件が後を絶たなかったことにこそ、アメリカの根深い人種差別の暗部が潜んでいるのです。さらに、ロバート・マリガン監督の名作「アラバマ物語」(62年)では黒人青年が白人女性を強姦した罪(冤罪)で起訴されます。原作者のハーパー・リーはエメット・ティルの事件をヒントにしたといわれているそうです。
 この映画を見てショックを受けられたかたに最後に断っておくことがあります。それは、さすがに映画の中では事件の概要をかなり和らげて表現していますが、実際にはもっとむごいリンチで殺されたという事実です。人間がそこまで残酷になれるのかと身の毛のよだつような方法で殺されたという真実を知ってください。(健)

原題:Till
監督:シノニエ・チュクウ
脚本:シノニエ・チュクウ、マイケル・ライリー、キース・ボーチャンプ
撮影:ボビー・ブコウスキー
出演:ダニエル・デッドワイラー、ウーピー・ゴールドバーグ、ジェイリン・ホール

「愛のコリーダ」  (1976年 日本、フランス映画)

2023年12月13日 | 映画の感想・批評
 昭和11年(1936年)の冬、東京中野の料亭「吉田屋」。主人の吉蔵は新任の仲居・定に一目惚れし、店のあちこちで愛欲行為を繰り返した。吉田屋から失踪した定と吉蔵は待合を転々とし、資金がなくなると定が愛人のもとに行って金を工面した。食事もろくに取らず、外出もせず、昼夜を問わず互いの体を求めた。待合の女中に変態扱いされても意に介さなかった。
「俺はお前の好きなことなら何でもしてやるぜ」
 吉蔵はそう言った。定は果てしなく求め続けた。やがて定は性交中に吉蔵の首を締めると、強い性的快感が得られることを知った。吉蔵が体を投げ出すと、定は吉蔵の腕を縛り、腰紐で首を締めた。吉蔵は顔が充血するほど苦しくなっても、定が欲すると拒まなかった。
「俺の体はお前にやったんだ、どうでもしてくれ」
 行為は繰り返された。吉蔵は疲弊していた。
「定、そんなにしたいなら・・・できねえかもしれねえが、来な」
 定は嬉々として吉蔵にまたがった。吉蔵が眠りそうになると、頬を叩いた。
「締めるなら途中で手を離すなよ、後がとても苦しいから」
 吉蔵の言葉を聞くと、定は快感の極致を求めて、体全体で一気に締めた・・・

 日本初のハードコア・ポルノとしてセンセーショナルな話題を呼んだ映画である。1936年に起こった「阿倍定事件」を題材に、男女の究極の性愛を描いている。私はこの作品をこれまで劇場で3回、DVDで1回見ているが、劇場で観た3回はそれぞれバージョンが異なっている。最初に観たバージョンは1976年に日本公開された時のもので、ズタズタにカットされて大幅な修正(ぼかし)が加えられていた。1987年にロンドンでオリジナル版を観た時は、まったく別の映画ではないかと思うほど驚き、深く感動した。2000年に「完全ノーカット版」と銘打って日本公開されたバージョンはカットや修正をできるだけ少なくし、日本の法律上ギリギリまで譲歩した作品だと思うが、やはりオリジナル版とは違っていた。オリジナル版ほどの感動は得られなかった。現在、日本のDVDや動画配信で見られるものは、おそらくこの2000年版に基づいているのではないかと思う。
 オリジナル版と2000年版は何が違うのか。第一にオリジナル版にはぼかし修正が入っていない。ぼかしが入るとリアリティがなくなり、画面への集中力が途切れてしまう。シリアスな場面なのにコミカルに思えてしまうことすらある。第二に重要な場面がカットされている。豊満な待合のおかみと若い野卑な感じの男との肉欲と肉欲のぶつかり合いのような性交シーンがない。おそらくこのシーンはワイセツと判断され、ストーリー展開と直接関係がないのでカットされたのだろうが、私にはこのシーンがあるがゆえに定と吉蔵の交わりが性的快楽を探求する純粋な行為に思えてしまう。
 定と吉蔵の場面以外に、性的能力をなくした高齢の男性や吉蔵との性行為で失神した老女等、老人の性がたびたび描かれているのも特徴的だ。その他にも子供、若い芸者、中年のおかみ等の性にまつわるエピソードが随所にある。作品のほとんどが性行為の場面であるにもかかわらず、不思議に官能的な感じがしないのは、この映画が人間の性そのものをテーマにしているからだと思う。性の深遠さ、底知れなさ、暴力性、怪物性、狂気、脆弱性、不可能性・・・性は様々な顔をもつ、ひとつの神秘なのだ。
 それにしても不可解なのは、どうして吉蔵が自分の命を賭してまで定の性的快楽に尽くすのかである。これは愛なのか? 吉蔵は首を締められて快楽を得ているというよりも、定の快楽のために身を捧げているように見える。本来の窒息プレイなら痛みが快楽に変わるはずだが、吉蔵は苦行僧のように耐えるばかりで、楽しんでいるように見えない。定の果てしない性の要求に、ただただ体を張って応えようとしている。これは定への愛というよりも、定のもつ性に対する畏敬の念の表れであり、献身、服従、崇拝の態度ではないだろうか。吉蔵は性という巨大な神秘に自らを献じた、性愛の殉教者のように思えてくる。(KOICHI)

原題:L’Empire Des Sens
監督:大島渚
脚本:大島渚
撮影:伊東英男
出演:松田暎子  藤竜也  中島葵  松井康子  殿山泰司



「首」(2023年 日本映画)

2023年12月06日 | 映画の感想・批評
 

 天下統一を目論む織田信長(加瀬亮)は、戦の最中に、村重(遠藤憲一)に反乱を起こされ姿を消され、苛立っている。信長は、羽柴秀吉(ビートたけし)、明智光秀(西島秀俊)ら家臣を集め、自分の跡目相続をちらつかせて捜索を命ずる。秀吉の弟・秀長(大森南朋)と黒田官兵衛(浅野忠信)により捉えられた村重は、千利休(岸田一徳)を介して、光秀に引き渡されるが、光秀は村重を殺さず匿う。これはそうなることを推測した上での、仕組まれた罠だった・・・。
 北野武監督6年振りの新作である。『アウトレイジ』シリーズと似ていると思った。時代設定を変えれば当てはまる。強いものに仕え、その者の指示命令に従い、時期を見て、その者を葬り去り、自分がその地位に就く。新しく加わったのは、同性愛の部分だろうか。村重を匿ったのは光秀の性癖をベースにした上で、今の時代に合わせて、BLを付け足したのか・・・。ネットニュースでは、30年前の構想とのことだが、30年前にBLを描いてはいないかと思うので、ブラッシュアップしたと想像してしまった。
 所謂芸人の登場はテレビと同じように感じてしまう。木村祐一の登場した時には笑ってしまった。普段、テレビで見る姿と変わらない。劇場では、テレビでは見られない芸人の姿を観たいと思う。ただ、殺陣とまで言えるかどうかは微妙だが、一瞬の木村祐一の殺陣シーンは良かった。編集の力量が多いと思うが、圧倒された。
 北野武の映画への拘りは、原作から編集まで、すべて一人で行うスタイルだ。海外で評価されるのか一因かと思料する。作家性を重んじるということか。ただ、首がポンポンと切られ(しかも切られる瞬間も映される)、挙句の果てに、切られた首を並べてどれにします?で、最後はサッカーボールのようになる。駄目になったら、首をすり替える現状の皮肉と理解するが、それにしても、首を軽々と持ち上げ、「天下を取ったぞ!」と持ち上げるシーンは気持ち悪い。ファーストシーンからラストシーンまでそれらが映し出され、気分は良くなかった。
 内容とは関係無いが、本作品は「R15+」指定となっている。15歳以上は閲覧可能ということらしい。以前は、「15歳未満は閲覧禁止」で、「+」表記は無かった。「+」という表現は、何事も前向きにということで、「15歳以上は閲覧可能」というように解釈しようとことらしい。何事にも前向きは良いが、敏感になり過ぎているのではないか。「すべき」という思考の延長か。
 30年前の発想を今の時代に合わせながら、1本の作品に仕上げ、且つ、今の時代に合うように自分自身でリメイクを繰り返した苦労が伺える作品だった。ただ、グロテスクなシーンが嫌な人にはお薦めはしない。
(kenya)

監督・脚本・編集:北野武
原作:北野武『首』
撮影:浜田毅
出演:ビートたけし、西島秀俊、加瀬亮、中村獅童、木村祐一、遠藤憲一、勝村政信、寺島進、桐谷健太、浅野忠信、大森南朋、六平直政、大竹まこと、津田寛治、荒川良々、寛一郎、副島淳、小林薫、岸田一徳