シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「ひまわり 50周年HDレストア版」(1970年 イタリア映画)

2022年06月29日 | 映画の感想・批評


 ロシア軍がウクライナに侵攻して早4ヶ月、戦局は落ち着くどころか、今もウクライナのショッピングセンターにロシアのミサイルが投下されて、一般市民が多数被害を受けたというニュースが入ったばかり。かたやウクライナもNATO加盟国からの武器の支援を依頼したというから、解決までの道のりは遠くなるばかりだ。そんな中、ウクライナの広大なひまわり畑が登場する、戦争によって引き裂かれた男女の悲哀を描いたイタリア映画が話題となっている。初公開から50周年を記念し、HDレストア版として蘇った「ひまわり」だ。
 実はこの作品、映画ファンになるきっかけを作ってくれた、自分にとっても生涯忘れることができない作品で、高校2年生の時、担任の先生からいただいた「高校生入場料100円の割引券」を使って観たのが最初なのだが、今でもしっかり覚えている「感動の場面」は3カ所。一つ目は戦争が終わっても帰ってこなかった夫アントニオを探しにソ連へと向かった主人公のジョバンナが、生きていた夫を目撃するやいなや、そのいきさつを察して、夫が降りてきた列車に飛び乗ってしまうシーン。必死で探していた夫には、遠い異国の地で新しい妻と可愛い子どもがいたという事実を知ったショックは計り知れないものがあったのだろう。ソフィア・ローレンの迫真の演技が胸に刺さる。二つ目は雪と氷の戦場で倒れ、凍死状態だったアントニオを現地の娘マーシャが救い出そうとするシーン。息を確かめながら徐々に命の回復を知るマーシャの笑顔がキラキラと輝いてまぶしい。アントニオにとってこのマーシャの笑顔は、生命の源ともいえる太陽のように思えたに違いない。「戦争と平和」で注目されたリュドミラ・サベーリエワの起用は大正解だった。三つ目はやはりあのラストシーンだ。どうしてもジョバンナに逢いたくてイタリアに戻ってきたアントニオだが、もう昔のように戻れないことを知り、静かにモスクワ行きの列車に乗り込む。これはもう本当に永遠の別れなのだという、マルチェロ・マストロヤンニの哀愁を帯びた表情が一段と濃く目に焼き付いた。そこに被さるヘンリー・マンシーニの永遠の名曲が、否応なしに場を盛り上げる。
 今回、これらの感動の場面をもう一度確かめられたのは嬉しい限りだが(さすがに泣けはしなかったけれど・・・)新しい発見もあった。それは題名にもなっている「ひまわり」が決して鑑賞する美しい花としては描かれていないこと。冒頭いきなりひまわり畑のシーンから始まるのだが、激しく風に揺れて何とも落ち着かない。これから何かが起きるぞという予告のような気がした。“揺れる”という意味ではジョバンナがアントニオを探しにモスクワからウクライナへ向かう列車の中から見える広大なひまわり畑。しかし、ジョバンナには悠長にひまわりの花を見ている余裕などないのであろう。その心の中を表すようにひまわりも揺れる、揺れる!!なんとか落ち着いた姿が見られたのがエンドロールだ。これは新しい未来に向けて決意を固めたジョバンナの心の中と同じ。後戻りできない一つの理由として、ジョバンナにも新しい命の誕生があった。登場する赤ん坊の顔を見てあっ!と思い出した。当時、ソフィア・ローレンはイタリア映画界の大プロデューサー、カルロ・ポンティととってもいい仲だったのだ。彼そっくりの自分の愛息まで登場させるとは、この決意は強固だ。
 当時のソ連での現地ロケはなかなか許可が下りなかったそうだが、「ひまわり」では度重なる交渉の結果実現でき、立派な町並みや施設、親切な政府高官や住民など、精一杯のアピールかもしれないが、当時のモスクワやウクライナ地方の様子をいろいろ見学することができる。ウクライナ支援につながる上映でもあるこの機会が、一刻も早い解決に少しでも結びつくことを祈るばかりだ。
 (HIRO)

原題:I GIRASOLI
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
脚本:チェーザレ・サヴァッティーニ、アントニオ・グエッラ、ゲオルギ・ムディバニ
撮影:ジュゼッペ・ロトウンノ
出演:ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ、リュドミラ・サベーリエワ、ガリナ・アンドリーワ、アンナ・カレナ、ゲルマノ・ロンゴ、グラウコ・オノラト、グナール・ジリンスキー、カルロ・ポンティJr


劇場で飾られていた支援に向けての「こま」

50年前に初めて買ったパンフレットの表紙。


「ナイル殺人事件」(2020年、アメリカ)

2022年06月22日 | 映画の感想・批評


コロナ禍のあおりを受けて、2年も待たされ、もはやネット配信のみになるのかと心配していたが、無事に公開日を迎えられて、初日に勇んで出かけて行った。
コロナ禍でなくてもおそらく行くことはないだろうけれど、エジプト旅行を楽しめるかとの期待も大きく、その点は十分に満足。この記事を書くにあたってディスクの発売も間に合い、パソコンで視聴したが、まさに「映画は映画館で見るために制作されている」
ピラミッド、スフィンクス、そして圧巻はアブシンベル神殿、これらを大空からの俯瞰で観られるなんて!大スクリーンでこそ。たとえCGの活用であったにせよ。だって、世界遺産を破壊しかねないシーンは撮れんでしょ。ワニが水鳥を襲うシーンは恐ろしかったし、水中の画像もすばらしかった。あれはリアルな画像なのか?あら捜しをする気はないのだけれど。

2月26日の公開初日はロシアのウクライナ侵攻の始まった日。冒頭の第一次世界大戦の前線のシーンはモノクロで描かれ、その日のニュース報道と被り、いきなり胸が痛かった。けっして100年前の話でなく、現代に引き戻される思いがした。1か月後に公開された「ベルファスト」もモノクロ画像がいい仕事をしていた。

朝、アガサ・クリスティのファンである夫に、「オリエント急行殺人事件は結末を知ってたけど、ナイルはよう知らないのよ。ねえ、誰が犯人なん?」と尋ねたが、ニマッと笑って答えてくれない。字幕版だから、話についていけなかったら辛いしなあ、あらら、教えてくれんの?
うん、夫には感謝しとこ

謎解きメインで見るよりも、ヒューマンドラマとして十分に楽しめた。ポアロの過去、なぜ髭をトレードマークにしたのか。愛が人をどう突き動かすのか。これは様々な愛の物語でもある。
ラストのポアロの大きな変化を同行の友人はしっかり気づいていた。あらら、私、見逃してたやん(笑) 素知らぬ顔で会話に乗ったことが恥ずかしい。ここで白状しときます。

ケネス・ブラナーはシェイクスピア作品をたくさん舞台や映画で取り上げているだけに、誰もが知っているはずのストーリーであっても、ブラナーの手によって現代的解釈が盛り込まれ、「そう来たか!」と発見がある。
リメイクによって新たな解釈を吹き込んでいる。「シンデレラ」もしかり。古典を古典に留めていない。原作に忠実なことは重要だが、時代劇を当時のままに再現することだけが映像化の使命ではないのではないか。
ブラナーがアガサ・クリスティをどうシリーズ化するのか、それも楽しみである。もちろん、シェイクスピアで新作も撮ってほしいけれど。
1978年版の「ナイル殺人事件」にはオリビア・ハッセーが出ているというので、ぜひ観てみたい。
(アロママ)

原題:「DEATH ON THE NILE」
原作:アガサ・クリスティ
監督:ケネス・ブラナー
脚本:マイケル・グリーン
撮影:ハリス・ザンバーラウコス
出演:ケネス・ブラナー、ガル・ガドット、アーミー・ハマー、エマ・マッキー


「ストーリー・オブ・フィルム 111の映画旅行」(2021年 イギリス映画)

2022年06月15日 | 映画の感想・批評
 英国の映画批評家、映画史研究家でありドキュメンタリ作家であるマーク・カズンズが2011年に関わった「ストーリー・オブ・フィルム:アン・オデッセイ」は15話完結のテレビ・ドキュメンタリの秀作として知られ、わが国では有料の有線テレビで放映されたようだ。その後の10年間にわたる映画の進化の歴史を3時間に近い長尺で検証したのがこの作品である。
 原題は「新しい世代」と銘打っているが、カズンズ監督が引用した古今東西の映画作品を数えると111本が登場する。それが邦題の由来である。
 このドキュメンタリのキーワードは「大いなる眠り」と「追跡」である。
 「大いなる眠り」というと、私などはついレイモンド・チャンドラーのハードボイルド・ミステリの名作を思い出してしまう。ハワード・ホークスが監督し、ハンフリー・ボガートが名探偵を演じたクラシック名画「三つ数えろ」の原作である。それを意識してかしないかは別として、カズンズ(監督兼ナレーター)は、「映画館では観客は大いなる眠りに入眠するのだ」という。ハリウッドを夢の工場というけれど、われわれ観客は2時間前後の夢を見るということになる。
 いっぽう「追跡」とは、映画はカメラが被写体をひたすら追跡することで成立するという意味である。ただここで注意しなければならないのは、カズンズが指摘するように、アクション映画のような急迫の追跡もあれば、時間が退屈なほどゆっくり流れる中での静謐とした池の水面を観察するようなカメラの追跡もあるのだ。とくに最近の映画ではこれが顕著だというカズンズの指摘はおもしろい。私はすぐ「MEMORIA メモリア」を想起した。
 さらに、映画はフレームであり、ショットでありカットだとカズンズは喝破する。ショットとカットは微妙に違うのだが、この映画を見ていると、わかりやすくうまく表現・説明していた。監督の「ヨーイ、スタート!」でカメラがまわり、「カット!」でとまる。このひとつながりの撮影されたフィルムをショットというのだが、フィルムが編集機にかけられて切断される場面が映ると、すかさずカズンズが「カットである」という。なるほど、ショットを編集してカットになるというわけだ。
 ここ最近の映画の中から引用されるのは欧米で高く評価された作品群だ。冒頭は、「ジョーカー」のホアキン・フェニックスがジョーカーの扮装でコンクリートの階段を踊りながら降りる名場面。そのほか「マッドマックス 怒りのデス・ロード」とか「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」「光りの墓」「万引き家族」「パラサイト 半地下の家族」などが「麦秋」「詩人の血」「貝殻と僧侶」「キートンの大列車追跡」(「キートン将軍」)といった古典的名作とともに引用される。カズンズという人はなかなかよく勉強していると感心した。
 なかでも、「万引き家族」の疑似家族が食卓を囲んで夕食を食べる場面の次に、「麦秋」の一家が同じく食卓を囲んで楽しそうに食事をとる場面をつないでみせる。同じ家族でも片や社会の底辺に生きる血のつながりのない家族、片や幸せそうな中流家庭の団らんだが、貧しいながらも前者の団らんもまた心のなごむ場面だとカズンズが解説する。カンヌで上映された際に「国辱映画」だと騒いでいた一部の「文化人」に聞かせてやりたいコメントである。
 映画はフィルムからデジタルに進化し、デジタルによって特殊撮影のトリックを精密に効率的に手早くおこなうことができるようになった。次なる10年の歴史が映画をどのように発展させるか、目が離せないというところに、われわれ映画なしでは生きていけない映画狂の夢がある。
 ところで、このパンフレットを読んでいて気になることがあった。撮影をジョン・アーチャーとしているが、マーク・カズンズの間違いだろう。信頼できるデータで調べてみるとアーチャーはカメラと照明を担当している人らしい。つまりカメラを実際操作しているのがアーチャーで、カメラの構図やポジションを決める権限をもつのは撮影(シネマトグラフィ)とクレジットされているカズンズである。些末なことだが、重要なことでもある。(健)

原題:The Story of Film:A New Generation
監督・脚本・撮影:マーク・カズンズ
ナレーション:マーク・カズンズ

「灰とダイヤモンド」 (1958年 ポーランド)

2022年06月08日 | 映画の感想・批評
 ドイツ軍が連合国に無条件降伏した1945年5月8日、ポーランドの田舎町で、国内軍の残党であるマチェクは同志のアンジェイ、ドレブノフスキーと共に労働者党書記シチューカの暗殺を企てた。当時のポーランドはドイツ軍撤退後に侵攻したソ連軍に近い労働者党と、それに抵抗するゲリラ兵グループが激しく対立していた。間違って別人を殺してしまい、暗殺計画は失敗に終わるが、マチェクは翌朝までにシチューカを殺害することを上官であり友人でもあるアンジェイに約束する。
 ホテル・モノーポルでは今まさに対独戦の戦勝祝賀会が催されており、マチェクとアンジェイはポーランドの軍歌「モンテカシノの赤いケシ」を聞きながら、ウォッカに火を付け、戦死した同志たちを悼んでいた。暗殺を決行するまでのひととき、マチェクは軽い気持ちでバーのウエイトレス、クリスティ―ナを口説く。意外にもクリスティーナは誘いに応じ、マチェクの部屋で二人は裸で抱き合った。マチェクもクリスティーナも戦争で家族を失い、身寄りがなかった。クリスティーナは愛情を失うことを恐れて刹那的な生き方をしており、マチェクが去っていく人であることを予感し、夢や身の上話を聞こうとしない。思い出も作りたくないと言い、一夜限りの関係を望んだ。
 雨の夜、散歩に出かけた二人は、廃墟となった教会で墓標に書かれた碑文を見つける。クリスティーナが読み始めると、マチェクは続きを暗唱した。それは戦死した兵士を弔うノルヴィトの詩であった。

・・・・/永遠の勝利のあかつきに/灰の底ふかく/
さんぜんたるダイヤモンドの残らんことを

「灰とダイヤモンド」という題名はこの詩に由来する。クリスティーナは問いかける。
「私たちは何?」「君か、君こそダイヤモンドだ」
 マチェクは成り行きまかせに生きてきた人生に疑問を持ち、クリスティーナと生活を立て直したいと思うようになる。「状況を変えられるかもしれない」と語ると、刹那的だったクリスティーナに希望の灯がともった。激しくキスをしてクリスティーナと別れた後、マチェクは上官であるアンジェイに心の内を打ち明ける。人を殺して逃げ回る生活に耐えられなくなった、テロリストの仕事から足を洗いたいと懇願する・・・しかしアンジェイの答えは冷たかった・・・

 本作はアンジェイ・ワイダの「世代」(55)、「地下水道」(57)と並ぶ<抵抗三部作>の最終作にあたり、おそらく最も有名なポーランド映画のひとつであろう。青春映画にして恋愛映画、戦争の悲劇とテロリストの悲しみを描いた傑作である。ノルヴィトの弔詩、逆さキリスト、暗殺時の花火、ゴミ溜めの死・・・多くの印象的なエピソードが全編に散りばめられている。マリア像の前の殺人や廃墟となった教会と逆さキリスト像は、神の救済なき世界を糾弾しているかのようだ。ゴミ溜めの中の壮絶な死は後世の映画に多大な影響を与え、日本のヤクザ映画でも同じようなシーンが繰り返されている。銃撃されてゴミ溜めで悶死するマチェクと、涙を堪えながらポロネーズを踊るクリスティーナのカットバックは運命の苛酷さを表現して余りある。
 この作品の背景となっているのが1944年8月のワルシャワ蜂起で、ナチス・ドイツからの解放を求めて立ち上がった人々をドイツ軍が弾圧し、報復としてワルシャワを徹底的に破壊した。ワルシャワの人口の20%が殺されたと言われていて、破壊のすさまじさはロマン・ポランスキーの「戦場のピアニスト」(2002)に詳しい。蜂起を呼びかけたモスクワは援軍を送らず、国内軍と市民を見殺しにしたために、ドイツ軍撤退後に国内軍はソ連軍を攻撃目標とするようになった。やがて国内軍は解散し、地下組織となってソ連や労働者党に対して武力抵抗を続けていく。作中、登場人物たちがたびたびワルシャワ蜂起に言及しているのを見ると、ポーランド人の心の中に蜂起の傷跡が生々しく記憶されていることがわかる。
 複雑な国内情勢はワイダの<抵抗三部作>にも微妙に反映している。各作品の対立構造を見てみると、「世代」は共産党VSナチス、「地下水道」は国内軍VSナチス、「灰とダイヤモンド」は国内軍VS共産党となっていて、敵対関係が変化しているのがわかる。「灰とダイヤモンド」の対立関係は単純な勧善懲悪ではなく、暗殺される側のドラマも丹念に描かれている。シチューカはスペイン内戦でファシストと戦い、その後はソ連軍に参加してナチスと戦った共産主義者であり、けして単純な悪玉ではない。妻が亡くなった後に、息子が反共ゲリラ組織に加わってしまったことを知って苦悩する父親でもある。マチェクが発砲したとき、シチューカはマチェクに抱きつき彼の腕の中で息絶える。マチェクを同志だと思っているのだ。その時、対独戦の勝利を祝う花火が夜空に打ち上げられるのが象徴的だ。二人は国内軍とソ連軍に所属し、共にナチスと戦った兵士だった。ここにマチェクの苦悩がある。間違えて無実の人間を殺してしまったり、祖国のために戦ってきた男を暗殺したり、自分のしてきたことは何だったのか、自分は何者なのかというアイデンティティの危機が生じている。
 イェジ・アンジェイェフスキの原作ではマチェクはクリスティーナと逃げる約束をしており、シチューカ暗殺後にクリスティーナが待つ駅へ向かう。映画では一緒に逃げようとはせず、別れを告げて一人で旅立とうとする。今回の仕事が最後であることをアンジェイは了承しているし、マチェクはシチューカを殺した後に拳銃を捨てているので、テロリストを辞める決心はついているはずだ。それなのに何故クリスティーナと一緒に逃げようとしなかったのか。ワイダは何を表現したかったのか。
 キーワードとなるのが<大義>という概念である。アンジェイに「大義を信じるのか」と問いかけるシーンがあるが、マチェクは暗殺の正当性に疑問を抱き、<大義>を信じられなくなっているのではないか。もし自分の仕事に名誉と誇りを持ち、殺人を正当化できたら、クリスティーナを連れて逃げたに違いない。 <大義>がなければただの殺人者と同じで、マチェクのアイデンティティは崩壊する。愛する女を犯罪者の道連れにするわけにはいかない・・・
 思うに<大義>とは恐ろしいもので、<大義>があれば人も殺すし、原爆も落とす。<大義>のために切腹する人もいる。ただ<大義>がなければ侵略した国と戦うこともできない。諸刃の剣である。今なお世界では多くの人たちが<大義>のために命を落としている。家族を失い、恋人を失った、何千、何万のマチェクとクリスティーナが生まれているのだ。(KOICHI)

原題:Popiol i diament
監督:アンジェイ・ワイダ
脚本:アンジェイ・ワイダ   
イェジ・アンジェイェフスキ
撮影:イェジ・ヴォイチック
出演:ズビグニエフ・チブルフスキー  
エヴァ・クジジェフスカ


「ワン・セカンド 永遠の24フレーム」(2020年 中国映画)

2022年06月01日 | 映画の感想・批評
 文化大革命時に、強制労働所に送られた男(チャン・イー)が脱走し、砂漠の中を歩くシーンから始まる。脱走した目的は、離婚して会えなくなった娘が一秒だけ映っているというニュース映画を観る為(その理由は後々に分かる)だ。ただ、そのフィルムを別の理由(その理由も後々に分かる)で盗み出そうとする少女(リウ・ハオツン)と出会うことで、物語が二転三転と進んでいく。
 もう少し前半部分で経緯説明があると良かった。私の理解が足りなかったのか。何故、一人で砂漠を歩いているのか。何故、二人共、生きるか死ぬかの炎天下で、フィルムに固執するのか、最初は理解出来なかった。もちろん、そのフィルムに固執する理由が、観客にも、登場人物お互いに分かり、いがみ合いつつも、理解し合える関係になっていく。特に、チャン・イーが再収監されるシーンはお互いの気持ちが通じ合うのが分かって良かった。また、映画興行する田舎村の男(ファン・ウェイ)が、脱走犯がいることを警察に密告後、その事を謝りながらも、娘が映った部分のフィルムを渡すシーンも良かった。ちゃっかり、お役人にも媚を売ることも忘れていないが・・・。愚直に生きていく強さを3人の登場人物から感じることが出来た。これは、チャン・イーモウ監督の映画に共通する部分かと思う。上映時間は短いが、中身がギュッと詰まって、暖かみが感じられる監督である。
 ラストに登場した少し大人になった少女は、「初恋のきた道」のチャン・ツィイーにとても似ていた。ネット情報だが、コン・リーやチャン・ツィイーといった後々の大女優を、若手の時に起用することで、“ボンドガール“に合わせて”イーモウガール“と呼ばれているようだ。女優の力なのか、監督の力なのか、あるいは、二人合わせての力なのか。次のスターはどんな人だろうか。次作品はどんな作品だろうか。チャン・イーモウ監督には毎回、期待をしてしまう。ただ、本作品は、前半に乗り切れず、少し肩透かし感が残った。これから観る予定の方は、事前情報を入れておいた方が良いかもしれませんね。
 ただ、この邦題で観に行こうという人は少ないのではないかと心配する。“永遠の24フレーム”はとても良いと思うが、チャン・イーモウ監督と分かるものがあれば更に良いと思う。私は、監督作と偶然気付いた。見逃していたかもしれない。コロナもあり、ネットの台頭もあるが、映画は映画館で観られるのを想定して作られることが多いと考えると、やはり、映画館で観たいものだ。ご承知の通り、映画は“商売”なので、観客があって完成する。いくら素晴らしい映画を撮っても、利益が出なければ成り立たない。また、継続出来ない。公開2日目に観たが、館内はガラガラ。「是非、行きたい」と思える宣伝活動にも力を入れる必要性は高いと思う。
 本作品では、泥まみれで絡まってしまったフィルムを村民皆で洗って乾かすシーンや、焼けた部分のフィルムを繋ぎ合わせるシーンがある。その時に、懐かしいことを思い出していた。学生時代の最後の思い出と思って、メジャー系ではない映画館の映写室の突然ドアを叩き、「学生時代の思い出に、現物のフィルムを見せてほしい」とお願いしたところ、快く迎えてくれ、実際のフィルムの繋ぎ(本作品と同じだった)を実演して頂いたのだ。勝手な話で急にも関わらず、招き入れて頂き、親切にして頂いたことに感謝して映画館を出た。そんな暖かさを感じる映画だった。
(kenya)

原題:一秒钟
監督:チャン・イーモウ
脚本:チャン・イーモウ、ヅォウ・ジンジー
撮影:チャオ・シャオティン
出演:チャン・イー、リウ・ハオツン、ファン・ウェイ