シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「ベルファスト」(2021年 イギリス)

2022年03月30日 | 映画の感想・批評


祝!アカデミー賞の脚本賞受賞!
作品賞は2月に取り上げた「コーダ あいのうた」
これだけきな臭い世情の中、かえって戦争臭を避けるというバランス感覚が働いた結果かと、うがった見方をするが、作品賞受賞作は間違いなく、心を温かくする作品だったので、ブラナー推しの私も満足している。偉そうに(笑)

北アイルランドの町、ベルファスト。タイタニック号もここで建造されたらしく、モニュメントもある。
キリスト教プロテスタント信者の一部がカトリック信者を排斥しようと、騒動を起こしたのが1969年8月15日。監督のケネス・ブラナーはその時9歳の少年。
労働者の町、いわゆる下町で貧しいながらも家族の愛情に包まれて、健やかに育ってきたバディ少年9歳の目の高さで見る、日常生活が一変した日。ケネス・ブラナー自身の体験を通して、町の人たちの騒動の渦中でも存在する「日常生活」が描かれる。

ブラナー監督自身が、あの時期の町がモノクロに見えたという。グラニーと見る舞台「クリスマス・キャロル」や、私自身にも懐かしくて思わず身体も揺れ、口ずさんでしまう「チキチキ・バンバン」は、モノクロの世界の中に挟まれるカラフルな世界。色鮮やかな舞台や映画に惹きつけられた監督の経験が今につながっていることを知る。

暗くなるはずの話を気の利いたジョークで笑い飛ばしながら、その中にも深遠な真理をはめ込んでいくセリフ回しは、やはりシェイクスピア俳優のなせる技なのか、それがアイルランド人気質かはわからないけれど。ブラナー作品にはふふっとこぼれ笑したくなるセリフがちりばめられている。だから、脚本賞なのか。もちろん作品賞をとってほしくはあったけれど。
祖父母の出会った頃のエピソードや、「50年一緒にいてもおばあちゃんの言葉がわからない」と冗談を言うおじいちゃん。いえ、冗談ではなく、そういうものよね。相手に聞く気が無ければ言葉は通じない。おじいちゃん、聞く気なかったんか!笑
パパはママに「立派に二人の子を育て上げてくれた」
いえいえ、ママ一人で育てたわけではないけれども、ひとまずこう言ってもらうと、確かに嬉しい気はするのよね。
お姉さん格の少女はちょい悪で、バディは振り回されている。アブナイ世界に一歩を踏み入れた時の興奮と、それを知った母の𠮟りようはすさまじい。
クラスメイトの優等生の女の子と隣に座りたくて、がんばって勉強もする。ちょっとズルをおじいちゃんに教えてもらったりしながら。やっと前列に座れたのに、あれれ・・・・
でも、彼女とは仲良くなれた。将来はあの子と結婚したいけれど宗派が違うからダメなのかな。パパは「お前の愛する人なら宗派は関係ないよ」と希望を与えてくれる。
9歳の少年の日常は決して特別なモノでなく、どれも自分たちの子ども時代に重なってくる。

パンデミックに加え、ウクライナ情勢も絡んできての現在、前評判が高くなるのもうなづける。50数年前に起こったことが決して過去のものではなく、今現在も。
民族、宗教、なぜ人間は違いを認め合い、共存する事ができないのだろうか。
観る前はかなり肩に力が入ってしまったが、見終えると、混乱の中にあってもユーモアを忘れない家族の力強さに大いに励まされ、心地よい快感に包まれた。
「故郷を離れても、生きていく!」
エンドロールに、「残った人に捧げる、去った人に捧げる、亡くなった人に捧げる」とあった。
あの日のバディ一家の決断のおかげで、今私たちはケネス・ブラナーの多彩な映像作品を目にする事ができるのだと、改めて感慨深い。
「けっして振り返るな」とベルファストに1人残って、息子一家を見送るグラニーの、あの決意に溢れたまなざしに感謝しよう。ブラナー作品には欠かせない存在のジュディ・デンチ圧巻の締めの演技。
(アロママ)

原題 BELFAST
監督、脚本:ケネス・ブラナー
撮影:ハリス・サンバーラウコス
出演:カトリーナ・パルフ、ジュディ・デンチ、ジェイミー・ドーナン、キアラン・ハインズ、ジュード・ヒル

「無防備都市」(1945年 イタリア)

2022年03月23日 | 映画の感想・批評


 なぜいまこの映画を取り上げたかというと、21世紀になっても絶えない軍靴の音に辟易としているからだ。ウクライナの町で息を潜めて恐怖に耐え忍ぶ幼女の姿を見て何も感じない感性を憎む。戦争というものが絶対的な悪であることを如実に物語っているのである。映画が始まると、まるで現下のウクライナの瓦礫と化した町を見ているような錯覚に陥る。
 私などがいまさら解説するまでもない、世に名高きイタリアン・ネオ・レアリズモの傑作である。その申し子たるロベルト・ロッセリーニはヴィットリオ・デ・シーカとともにドイツ占領下の、あるいは戦争終結直後のイタリアの悲惨な日常を無機質なキャメラがただ偶然それを捉えていたかのようなリアリズムの手法で真実を描き出すことに成功した。
 ロッセリーニについていうと、わが国では「戦火のかなた」(1946年)が先に紹介され、キネマ旬報ベストテンの第1位に選出された。その後、1950年に公開された「無防備都市」は同第4位に甘んじた。しかし、いま見ると、こちらのほうが「戦火のかなた」などより、はるかに優れているように見えるのは、私だけであろうか。
 ムッソリーニ失脚後のイタリアにはドイツ軍が侵攻し、ローマを占領する。連合軍がローマを開放するまで反ファシズムのレジスタンス活動を根絶しようと、ゲシュタポが町なかに潜伏している反抗勢力の一掃に躍起となる。
 幼い男の子とアパートで暮らす未亡人のピーナはレジスタンスに加わる印刷工のフランチェスコと恋仲になり再婚を誓う。アパートの子どもたちもいつしか、いっぱしのレジスタンス気取りだ。ドン・ピエトロ神父は人格高潔で周囲の人びとに慕われ、絶えずみんなの生活を気遣っている。しかも、ひそかにレジスタンスを手助けしているのだ。映画はナチスの酸鼻をきわめる拷問にも屈せず抵抗運動に命を捧げる市井の人びとのイタリア人としての矜持を描く。
 この作品の圧巻となるのは、ピーナとフランチェスコが式を挙げるためアパートを出たところをゲシュタポの車に取り囲まれ、逮捕されたフランチェスコが警察車両に押し込められるエピソードだろう。走り出す車のあとをピーナが大声をあげて追いかける映画史上、屈指の名場面。キャメラは正面から片手を振り上げて車を追うピーナをとらえ、次に側面からのロングショットで、銃撃されたピーナが路上に倒れる瞬間を撮る。このように絶命して物体と化した人間の身体はすとんと地面に落ちるものかとおもわせる迫真のショットだった。そうして、その真後ろから男の子が「ママ!」と泣き叫んで遺体に跳び乗るようにすがる衝撃の場面は胸を深く抉られるところだ。「戦艦ポチョムキン」の歴史的名場面「オデッサの階段」に匹敵するショットである。
 今回、見ていて気がついたのだが、ピエトロ・ジェルミの「刑事」のラスト・シーン(カルディナーレが警察の車を追う場面)は、これにオマージュを捧げたのではないかとおもった。既に誰かが指摘しているかもしれない。
 終盤、当局に捕まったレジスタンスの男は正視に耐えない凄惨な拷問の果てに絶命する。しかし、いっぽうで、この映画は絶望的な現在を描きながらも、明るい未来への希望を捨て去ることなく懸命に生きようとする人びと、とりわけ新生イタリアを託された子どもたちの姿に光を当てることも忘れないのである。
 セルジオ・アミディの原案をアミディ自身と、若かりし頃のフェリーニが共同で優れた脚本に仕上げた。のみならず、マニャーニ(ピーナ)とともに、神父に扮したファブリッツィの圧倒的な名演がすばらしいとつけ加えたい。(健)

原題:Roma città aperta
監督:ロベルト・ロッセリーニ
脚本:セルジオ・アミディ、フェデリコ・フェリーニ
撮影:ウバルド・アラータ
出演:アルド・ファブリッツィ、アンナ・マニャーニ、マルチェロ・パリエーロ、マリア・ミーキ


「白い牛のバラッド」(2020年 イラン・フランス映画)

2022年03月16日 | 映画の感想・批評
 ミナはテヘランの牛乳工場に勤めながら、聴覚障害の娘ビタと二人で暮らしていた。ミナの夫は1年前に殺人罪で死刑になっていたが、ある日、裁判所から真犯人が見つかったと告げられる。泣き崩れるミナ。裁判所は賠償金を払うことを約束するが、謝罪には応じようとはしない。死刑判決を下した判事との面会を求めても、まったく取り合ってもらえなかった。失意のミナに亡夫の父と弟はビタの親権と賠償金を渡すように迫って来る。そんな折、窮迫したミナの前に夫の旧友と称するレザが現れた・・・
 冤罪を扱った映画だが、いわゆる冤罪ミステリーでない。無実を証明するために家族や弁護士が奔走するという類のサスペンスではなく、裁判所が自らの過ちを認めたところから物語は始まる。問題となるのは裁判所の職員が言った「判事が全員有罪と判断したのは神の意思」という考え方である。イスラム法のあるイランならではの解釈と言えばいいのだろうか。ミナが裁判所にいくら謝罪を求めても応じないのは、根底にこのような宗教的解釈があるからと思われる。
 作品の冒頭で引用されているコーランの<雌牛の章>の一節は、雌牛を生贄(神への供物)として神に差し出すように求めたモーゼの言葉を意味しているらしい。劇中に登場する「白い牛」は、本当の犯人の身代わりとして死刑に処せられた無実の人間=ミナの夫のメタファーであると考えられる。我々の常識では生贄の習慣は残酷で不合理なものに思えるが、本来は厳粛な宗教行為であり、裁判所は(宗教的には)間違ったことをしていない。それでも自らの判断ミスを神の論理で正当化することが認められるはずはなく、責任回避にのみ汲々となる司法の体質をこの映画は強く批判している。
 司法制度への不信感とイスラム社会での女性の生きづらさを描いた前半に対して、後半では愛と憎しみの葛藤が主要なテーマになっていく。女性差別が残る社会で、住居と仕事を失い、追い詰められていくミナとビタ。閉塞的な状況を変えたのはレザであった。レザは夫から借りた金を返すと言ってミナに大金を渡し、未亡人ゆえにアパートが借りられないミナに自分の家を提供する。理不尽な義父が起こした訴訟にも対応してくれ、ビタからも慕われ、ミナは徐々にレザに心を開いていく。薬物の過剰摂取で息子が急死し、失意のどん底に突き落とされた時には、ミナが必死でレザを支えた。やがて二人の間に愛が芽生えるが、一本の電話でミナは苛酷な現実を知ることになる。レザは夫に死刑宣告を下した判事だったのだ。
 正面から固定カメラで撮影し、シンメトリーな構図を多用している。過剰な演出を避け、抑制を効かし、全体的にシンプルな表現方法が用いられている。省略があり、説明的ではなく、寓意的な表現が多いのも特徴だ。検閲が厳しいためかラブシーンや性の直接的な描写はなく、口紅を引くシーンに見られるように象徴的な表現が多い。ミナがレザの正体を知るシーンでは、溝口健二の「雨月物語」を思わせるような左右のパンニングで、ミナを襲った衝撃を表現している。
 夫や恋人を死に至らしめた男を愛してしまうという恋愛劇は、エルンスト・ルビッチの「私の殺した男」(32)や成瀬巳喜男の「乱れ雲」(67)に見られる。どちらの作品でも愛憎の入り混じった感情を主人公は処理しきれずに苦しむが、本作のミナは上記2作よりも更に深く愛情にのめり込んでしまったように見える。 
 ラストでミナは毒入りミルクをレザに飲ませるのだが、ミルクを飲んだレザが苦しんで倒れるシーンを、現実と見るか、ミナの想像と見るか、解釈は観客に委ねられている。もし毒殺したとするなら、献身的にレザを支えたミナの心は何だったか。絶望したレザを必死で救おうとしたミナの姿は、愛情が後戻りのできないほど深くなったことを意味しているように思う。絶望している人間を殺すとは考えにくいし、ましてレザは自分が絶望から救おうとした人間だ。
 レザは過ちを謝罪していないという見方もあるが、ミナが受け入れるかどうかは別として、心の中では深く詫びているように思う。レザは過失でミナの夫を死に至らしめたのであって、殺意があったわけではない。息子の死という<制裁>も受けている。もしレザを殺せば今度はミナが死刑に処せられることになり、娘を育てる者はいなくなるだろう。第一、殺人の後にあんな平静にバスを待っていられるわけがない。毒殺は現実的ではない。想像の中で復讐を果たしたミナは、何も告げずに、ビタと共に姿を消したと解したい。(KOICHI)

原題:Ballad of a White Cow
監督:マリヤム・モガッダム ベタシュ・サナイハ 
脚本:マリヤム・モガッダム ベタシュ・サナイハ 
撮影:アミン・ジャファリ
出演:マリヤム・モガッダム 
アリレザ・サニファル プーリア・ラヒミサム

「ドリームプラン」(2021年 アメリカ映画)

2022年03月09日 | 映画の感想・批評
 テニス界の女王であるウィリアムズ姉妹を育てた父親のリチャード・ウィリアムズを取り上げた作品。原題は「KING RICHARD」。とにかく破天荒。娘達が生まれる前から、トップアスリートになる為の「ドリームプラン」を立て、それを着実に実行に移していく。しかも独学で。そんなこと可能なのだろうか?でも、実際にチャンピオンは誕生したので、間違っていなかったということか・・・。それにしても信じ難い。
 小さい頃は、勉学もきっちりさせる。成績はオールAでないと練習させない。試合に勝って浮かれていると、謙虚さを忘れてはいけないと、空気を読むことなく叱咤。あまりにもスパルタが過ぎるように見えてしまい、隣人から子供達を虐待しているとの通報を受けてしまう程。でも、姉妹はどんどん強くなっていく。もっと、テニスがしたいと言う。十代初めにして、自分が目指すべき姿がはっきりしている。何がしたいのかがはっきりしている。ありがちな嫉妬もなく、姉妹との関係はすごく個人が尊重され、姉だけが脚光を浴びる時期も関係性は良好。父親の教育と欧米ならでは個人の考えを優先するものだろうか。歳が近い姉妹なので、もっと喧嘩したりいがみ合ったりするのかと思いきや、内なる闘争心は秘めつつも、お互いを認め合う。自分に自信がある。中々出来ない。奥さんも個人の想いは秘めつつも、二人には献身的。「ドリームプラン」(=父親)にブレない芯が通っていることで、家族全員が“強い人間”になっていくのであろうか。
 本作が良かったと思えたのは、単なるアメリカンドリームの実現の映画ではなく、裕福な家庭の子供達をクラブハウスにお金目的で受け入れ、それを指摘されてもあっさり認める場面があることや、チャンピオンになった後を想定した父親の教育方針(ただ、その教え方もスパルタ)等の場面があること。何もかも順風満帆な夢物語だけではないのである。
また、黒人が抱える問題も取り上げる。姉妹が活躍すると間違いなく黒人問題がクローズアップされる。それにどう対応するのか?一昨年の「Black Lives Matter」を思い出させる。それを見越した発言も。先見の明はあったということか。
 本年アカデミー賞(作品賞・脚本賞・編集賞・主演男優賞・助演女優賞・歌曲賞)にノミネート。受賞する部門もあるのでは?コーチ役のジョン・バーンサルも、実際の人物は知らないが、こんな人いる!と思えて、上手いと思ったが、ノミネートには入っておらず残念。
 それにしても、日本語タイトルは、何故「ドリームプラン」???原題が良いと思うが・・・。パワハラやモラハラに配慮したのか・・・。何事もハラスメント縛りにする時代の象徴か・・・。
(kenya)

原題:KING RICHARD
監督:レイナルド・マーカス・グリーン
脚本:ザック・ベイリン
撮影:ロバート・エルスウィット
出演:ウィル・スミス、アーンジャニュー・エリス、サナイヤ・シドニー、デミ・シングルトン、トニー・ゴールドウィン、ジョン・バーンサル

「ちょっと思い出しただけ」(2022年 日本映画)

2022年03月02日 | 映画の感想・批評


 この作品のチラシを映画館で目にした時、横並びに6枚置かれていた。体裁は同じだが表の写真が主演二人の或いは一人の瞬間を切りとったもので、6枚すべて異なっていた。想像を巡らせ時系列に並べかえてみる。何度か繰り返すうちに、まだ観てもいない作品世界にひきこまれていると気づいた。
 1991年の「ナイト・オン・ザ・プラネット」(ジム・ジャームッシュ監督)に着想を得て書かれたクリープハイプの楽曲をもとに、松居監督がオリジナル脚本を書きあげ生まれた作品である。監督にとっては初めてのラブストーリー。楽曲と映像が非常にうまく溶けあっている。
 冒頭、夜の東京の街をタクシーが走り抜ける。前方に映る東京タワーが心なしか滲んで見えるのは、マスク姿の人々のせいだろうか。ここから物語は過去へ遡っていく。照明スタッフの照生(池松壮亮)とタクシードライバーの葉(伊藤沙莉)の出会いから別れまでの6年間を1年ずつ逆行するという構成が面白い。7月26日付のカレンダーがキーポイントで、よく見ると曜日だけが変化していく。1年の1日を共有しながら、やがて二人の出会いの日に辿りつく。
 葉がどんどん可愛らしくなっていく。好きな人と一緒にいれば大抵のことは乗り越えられるという万能感にみたされていく。一方、足の怪我によりダンサーへの道を諦めた照生は、アルバイト生活を送りながら夢を追いかけていた。状況が変化していく二人の会話の微妙なずれがせつない。照生が自室の植物に水やりをするシーンが繰り返し描かれる。どんな人間関係にも絶え間のない水やりが必要だとでもいうように。
 主演の二人をとりまく出演者の顔ぶれが魅力的だ。なかでも、ずっと同じベンチに座り続けている永瀬正敏の存在は異質だ。彼だけが時間を順行している。誰かを待っているようだが、その何ともいえない表情に緊張感が走る。過去には戻れない、以前のように会いたい人に会えない私達そのものなのかもしれない。
 「ちょっと思い出しただけ」という、このさりげないタイトルが作品の魅力となっている。私達の記憶の中には個人差はあれ数えきれないほどの思い出が詰まっている。時々引っ張りだしてみるのもひそかな楽しみの一つとなる。それは現実生活を脅かすことがない。溢れでてしまう思い出であれば、折り合いがつけられていない証拠だ。思い出との距離があるからこそ、ちょっと思い出しながら今を生きていくことができる。
 ラスト、現在の東京に場面が移り、マンションのベランダに佇む葉のかたわらに、寄り添う確かな『今』が在ることに安堵する。(春雷)

監督・脚本:松居大悟
撮影:塩谷大樹
出演:池松壮亮、伊藤沙莉、河合優実、屋敷裕政、尾崎世界観、成田凌、市川実和子、國村隼、永瀬正敏