シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「ザリガニの鳴くところ」(2022年 アメリカ)

2022年11月30日 | 映画の感想・批評
 わが国で2020年に出版されるや、本屋大賞翻訳部門1位、週刊文春ミステリベストテン海外部門2位、このミステリがすごい!海外編2位に輝いた話題作の映画化である。
 500ページに及ぶ原作を2時間でまとめてしまうのはかなりの力業が要る。したがって、映画化作品は本国アメリカの批評家の間でも賛否両論あるようだ。しかし、私はアメリカの映画評価サイトallmovieの評点4つ星(5つ星満点)を支持する。
 原作者は動物学を本職とする自然科学者で、この小説が70歳の処女作だという。当時、私もすぐ手にして深い感銘を受けた。ひとりぼっちで野生児として育った少女が幾多の偏見や艱難辛苦を乗り越えながら、やがて独学で博物学を学び成長する姿に感動した。これはミステリ小説の範疇を超えた秀作だと思った。
 1960年代のおわり、ノースカロライナの片田舎の湿地帯。沼のほとりの火の見櫓の真下で町の若者の死体が発見される。櫓の上から転落死したと見られるが、足跡がない。誰かが証拠隠滅のため消し去ったと推理され、事故死ではなく突き落とされたのだと見られた。
 町の口さがない人々は「湿地の少女」が犯人に違いないと噂し始める。耳ざとい保安官らは町の酒場でのひそひそ話をききつけ、すぐに行動を起こす。
 「湿地の少女」カイアは遺体が発見された近くでひとり暮らしている。1950年代なかば、いたいけな少女カイアは、やさしくてきれいで画才のある母親が大好きだった。母とは対照的な家庭内暴力をふるう粗暴な父親に嫌気がさして、母も長兄、ふたりの姉も次々と家を出て行く。すぐ上の次兄が家を去る間際にカイアにいう台詞「何かあったらザリガニの鳴くところまで逃げろ」がタイトルの由来だ。ザリガニが鳴くわけではない。生物が多く集まる湿地の奥深いところぐらいの意味だろう。
 最後に残された末娘のカイアは極貧の生活を強いられ学校にも行かず文盲のまま父親とふたりきりで暮らすことになる。その父もある日、ふらっといなくなって、カイアは天涯孤独の身となってしまう。そこへ現れた町の好青年(遺体の若者とは別人)と生き物が好きだという共通項で仲よくなり、読み書きを教えてもらい、図書館の本を片っ端から読みあさる。長じて湿地帯の生物の本をしるすまでになるのだ。
 町の人々はカイアのことを狼の血が混ざっているとか、猿と人間の間に生まれた子だとか噂して差別し見下してきた。それで、死亡した遊び人の若者と付き合っていたこともあるカイアが容疑者として逮捕されたのである。だが、かの女を幼少期から知る地元の老弁護士は人を殺せるような人間ではないと思い立ち弁護を買って出るのだ。また、白人でありながら差別されるかの女を徹頭徹尾守ろうとする雑貨屋の夫婦が黒人であることも、ノースカロライナが南北戦争の南軍についた人種差別州であることと深く関係していると思う。何しろ50年代から60年代のアメリカが舞台だからである。
 陪審員裁判の法廷とカイアのこれまでの回想が交互に語られ、果たして有罪か無罪か?事件の真相は?というドキドキ感が最後まで観客を引っ張る。
 たしかに、大方の否定論者がいうように、ちょっと強引なところがあって、むかしの本格探偵小説黄金期の無理なトリックに似て実際にそんな犯行が可能かといわれればそのとおりなのだが、この物語の主題とするところは差別や偏見、人を見下すことの愚かさを俎板に乗せている点で平野啓一郎の「ある男」にきわめて似ているように思った。双方ともミステリの体裁を借りた普通小説といったほうがいい。原作だと背景が克明に語られるのでミステリとしてのアラが気にならないのだが、2時間に短縮した映画ではそこが欠点として浮き上がってしまった。もっとも、トリックにいたる伏線が映画の前半にしっかり敷かれているあたりはミステリの表現方法として評価すべきだろう。
 ところで、原作、監督、脚本、撮影がすべて女性だということに気がついた。男性の読者・観客に反発する人が多いと見えるのはそういうこともあるのだろう。すなわち男性特有の暴力性や身勝手さなど、痛いところを突いているからだ。犯罪を扱っていながら、美しい自然の風景と若者たちのロマンスがさわやかに描かれるあたりにも女性特有の感性を感じた。間違いなく今年の収穫の1本である。(健)

原題:Where the Crawdads Sing
監督:オリヴィア・ニューマン
原作:ディーリア・オーエンズ
脚色:ルーシー・アリバー
撮影:ポリー・モーガン
出演:デイジー・エドガー・ジョーンズ、テイラー・ジョン・スミス、ハリス・ディキンソン、デヴィッド・ストラザーン

「ゲームの規則」  (1939年 フランス映画)

2022年11月23日 | 映画の感想・批評
 クリスティーヌがロベール・ラ・シェネイ侯爵と結婚して3年になる。大西洋横断飛行を成し遂げた英雄アンドレがどれほど彼女に愛を打ち明けても、彼女は夫のロベールだけしか眼中になかった。しかしクリスティーヌは夫に結婚前から交際している愛人・ジュヌヴィエーヴがいることを知らなかった。ロベールのジュヌヴィエーヴへの愛はすでに冷めていたが、彼女は別れに応じようとはしない。
 ロベールの領地で狩猟の集いが催された。ジュヌヴィエーヴはようやくロベールとの別れを決意するが、3年前に戻って最後のキスをしたいと言う。望遠鏡で狩りの獲物を探していたクリスティーヌは、偶然ジュヌヴィエーヴとロベールの抱擁を見てしまう。ここからすべての歯車が狂ってしまった。その夜、クリスティーヌはジュヌヴィエーヴに「二人の恋の邪魔はしたくない。夫との恋愛を認める」と言う。夫の恋愛を妨害することは貴族の妻として、上流階級の人間として、野暮で稚拙で社交界のルールを守らない行為だという思いがあるのであろう。それがやがて大きな混乱を招くことになる・・・

 ジャン・ルノワールの『ゲームの規則』(39)は第二次世界大戦勃発の直前に製作されたが、興行的に失敗し、映画の内容が不道徳かつ反フランス的であるという理由で公開から1ヵ月で上映禁止になった。戦後、アンドレ・バザンが主宰するカイエ・デュ・シネマが本作を高く評価して、ようやく1965年に再び一般公開されることになった。ルノワールの代表作であるばかりではなく、映画史に残る名作と言われているが、この作品を正当に評価することは意外とむずかしい。なぜなら一見すると色恋沙汰のドタバタ喜劇にしか見えないからだ。ルノワールがこの作品に込めた意味を探ってみたい。

 ロベールの別荘地で盛大なパーティが始まると、自暴自棄になったクリスティーヌは人が変わったように男性たちと恋愛遊戯をするようになる。彼女を慕うアンドレたちの間で殴り合いの喧嘩が始まった。森番のシュマシェールは妻が使用人と浮気しているのを見て激怒し、浮気相手に向けて銃を発砲。銃声を聞いたジュヌヴィエーヴは半狂乱になり、パーティは大混乱となって収拾がつかなくなる。
 クリスティーヌは自分を強く愛してくれるアンドレに、このまま自分を連れて逃げてくれと懇願する。その時、アンドレは「(社交界には)規則があるので、夫であるロベールの承諾を取りたい」と言う。ロベールは妻とアンドレの逢瀬を見て最初は感情的になるが、思い返して二人が一緒になることを認める。「妻を愛しているから、妻が幸せであるなら、アンドレと一緒になることを認める」と。
 クリスティーヌとロベールは互いに相手の自由恋愛を認めているが、実は本当に好きなのはお互い同士なのだ。相思相愛であるにもかかわらず、相思相愛であるがゆえに、夫婦別れをしてしまうという皮肉。表題の「ゲームの規則」が何を意味するのか、この映画の中では明確に述べられていないが、登場人物たちはみんな「暗黙のルール」に振り回されている感がある。なんとも人間の本性や自然な感情とは相容れない規則だ。
 それに対して森番は妻の浮気相手を追いかけ回し、挙句の果ては間違えてアンドレを射殺してしまう。粗野で自分の気持ちに正直な庶民が、社交界の欺瞞と虚栄をぶち壊してしまったかのようだ。ここに大いなるアイロニーと諷刺がある。結局、ロベールとクリスティーヌは元の鞘に収まるが、ハッピーエンドなのかバッドエンドなのか、どうにも判断がつきかねるシニカルな悲喜劇だ。

 この作品は撮影技術の面でも際立った特徴がある。「市民ケーン」(41)より2年も前にパンフォーカスを使って撮影されており、前景と後景の間で人物や動物を動かし、右往左往のドタバタ喜劇や狩猟のシーンを縦の構図で巧みに切り取っている。ジャン・ルノワールはセットで撮影することが当たり前であった時代に、屋外ロケを多用し、美しい川や森、パリの街並みを瑞々しい映像の中におさめた。汽車にカメラを据えて臨場感溢れる映像を撮ったり、海に入水するシーンを詩情豊かに撮影したり、映像の快感や面白さ、美しさを追い求めた監督である。
 アルフレッド・ヒッチコックやハワード・ホークスが娯楽映画に徹することにより映画表現を進化させたように、ルノワールの試みは映画表現の可能性を拡大した。彼らのユニークな作家性と探求心はやがてヌーベルヴァーグに受け継がれていくことになる。(KOICHI)

原題:La regle du jeu
監督:ジャン・ルノワール
脚本:ジャン・ルノワール  カール・コッホ
撮影:ジャン・バシュレ  ジャン・ポール・アルファン 
出演:ノラ・グレゴール  ポーレット・デュボスト  マルセル・ダリオ   ジャン・ルノワール  ミラ・パレリ  ジュリアン・カレット


チケット・トゥ・パラダイス(2022年 アメリカ映画)

2022年11月16日 | 映画の感想・批評
 20年前に離婚した元夫婦(今でも、必要に迫られて会ってもすぐに喧嘩)が、卒業旅行で行ったバリ島で出会った地元青年と結婚すると言い出した一人娘を、思い留まらせようと協力することになるストーリーである。
 元夫婦役には、ジュリア・ロバーツとジョージ・クルーニー。ネット情報だと、二人は、共演5回目とのこと。勝手知る相手で、しかも、二人とも本作品の製作にも携わる。強力なタッグで盤石の体制である。お約束のようなエンドロールでのNGシーンもあり、撮影・製作は楽しかったという感じがひしひしと伝わる。
 その楽しい想いが、全編に溢れ出ていて、銃は一切出てこないし、殺人事件も発生しない。オチも分かるし、それに向けての布石も分かるので、終始、安心して観られる定番ハリウッド映画である。舞台が南国なので、大らかな気持ちでゆったりと観られる点も、良かったかも。
 Wiki情報では、アメリカ公開は、10月21日。中間選挙の話題に尽きないはずのアメリカではどう捉えられるのだろうか。歪み合う相手が、理由はさておき、歩み寄る。1本のコメディ映画だが、今、この時期に製作された意味合いは何なのか。反面教師なのか、諦めなのか。勘ぐり過ぎだろうか。良い意味に捉えたい。
 ビジネスとしては、投資分は確実に回収しなければ成り立たないので、上映回数を増やして、観客数を少しでも高めなければならない。その為なのか、上映時間はコンパクトに104分。その分、人物像を描く点は薄い感が否めない。頑張って学校を卒業した娘が、弁護士になる夢を本当に諦めきれるのか?とか、元夫婦の日常生活等は、さらっと描くだけなので、現実感はない。
 でも、それも含めて、「定番」である。日常のストレスを忘れて、2時間を楽しみたい人は是非お勧め。「あれっ?」と思っても、振り返らない。映画の勢いにのって楽しむべし。
(kenya)

原題:Ticket to Paradise
監督:オル・パーカー
脚本:オル・パーカー、ダニエル・ピプスキ
撮影:オーレ・ブラッド・バークランド
出演:ジュリア・ロバーツ、ジョージ・クルーニー、ケイトリン・デバー、マキシム・ブティエ、ビリー・ロード、リュカ・ブラボー

「マイ・ブロークン・マリコ」(2022年 日本映画)

2022年11月09日 | 映画の感想・批評


 2020年に発売された原作本は、文化庁メディア芸術祭マンガ部門新人賞をはじめ各賞を受賞。発売日当日に原作を読んだタナダユキ監督が映画化を切望したと聞くが、監督の熱い思いが伝わってくる作品である。
 ブラック企業の営業職のシイノトモヨ(永野芽郁)は26歳。ある日昼食に入った店のテレビニュースで親友イカガワマリコ(奈緒)の死を知る。マンション5階からの転落死。彼女の死を受け入れられないシイノだったが、子どもの頃より父親(尾美としのり)に虐待を受け恋人に暴力を振るわれていた彼女が、葬儀も行わずにすぐに火葬されたと知り、ある行動に出る。鞄に包丁を隠しマリコの実家に乗りこんだシイノは、父親の背中を突きとばし遺骨を奪い取る。そして、その遺骨と共にマリコが行きたがっていた「まりがおか岬」へ。こうして最初で最後の二人旅が始まる。旅の途中で出会ったマキオ(窪田正孝)を巻きこみ、シイノとマリコの旅は前途多難である。
 何と言っても永野芽郁が魅力的だ。今までにない役どころで、代表作と言っても過言ではない。遺骨を奪取した後、ベランダから遺骨を抱えたまま飛び降りるシーンは圧巻だ。一人で宙に舞ったマリコを弔う追体験と捉えると、シイノが無傷で済んだ設定も頷ける。かなり練習したと思われる煙草の吸い方も様になっていて、向こう見ずな行動が爽快だと思わせるものがある。
 マキオは救世主として登場する。ひったくりに遭い無一文になったシイノを助け、ススキの茂る岬で二人の旅の最後を見届ける。彼もまた、この岬で自殺を図った一人である。顔に生気がなく、淡々としたマキオと情動過多なシイノの取り合わせが面白い。
 シイノとマリコは中学時代からの親友である。回想シーンとシイノ宛のマリコの手紙により二人の関係が綴られていく。「おばあちゃんになってもずっとシイちゃんと一緒にいる」と言うが、それは難しいとマリコ自身がわかっていたはずだ。「シイちゃんから生まれたかった。シイちゃんの子どもになりたかった」の言葉は痛切だが、シイノもマリコを親友だと思いながらも、マリコの存在を面倒だとも思っていた。シイノ自身も崖っぷちに立っていたのだ。二人の共依存関係はいずれは破綻する予感をはらんでいた。
 この作品は食事のシーンが印象に残る。まず冒頭がシイノの昼食の場面。岬に行く途中で牛丼を食べるが、遺骨にも牛丼を供え、結局二人前平らげる。帰りの駅で見送るマキオがシイノに弁当を持たせる。電車に乗りこみ席に着いたとたん、シイノはもう弁当に手をつけている。ホームでマキオが呆れているが、クスッと笑える場面だ。人はどんなに悲しく辛い時でも、食べることを止めない。食は人を生きていく方向に連れて行ってくれる。
 ラストシーンが冴えている。観終わったあとに、ちょっと元気が出る作品だ。(春雷)

監督:タナダユキ
脚本:向井康介、タナダユキ
原作:平庫ワカ
撮影:高木風太
出演:永野芽郁、奈緒、窪田正孝、尾美としのり、吉田羊

「天間荘の三姉妹」(2022年 日本映画)

2022年11月02日 | 映画の感想・批評


 近年相次いで叔母が亡くなったため、法事のお参りが続いている。普段はなかなか故人のことを頭に思い浮かべることはないのだが、このときばかりは生前の姿を思い出しながらお経を唱え、亡くなった人を偲ぶ大切な時間となる。今にも語りかけてきそうな写真を眺め、何か言い残したことはないのだろうか、今を生きている自分の姿をはたしてどう思っているのだろうかと自問自答しながら・・・。
 この作品の舞台となる三ツ瀬は天界と地上の狭間にある町、そして海を見下ろす高台に老舗旅館『天間荘』がある。そこを仕切る若女将は長女の天間のぞみ。妹のかなえは近くの水族館に勤めるイルカのトレーナー。二人の母親は大女将ともいえる存在で、なかなか手厳しい。そこに小川たまえという若い娘が謎の女性イズコに連れられやってくる。実はたまえはのぞみとかなえの異母姉妹で、現世では交通事故に遭い、臨死状態にあった。そう、ここ天間荘は生と死の間を彷徨う魂を癒やすための場所。ここで一休みしながら、死を受け入れるか、あるいはもう一度現世に戻って生き続けるか決断をする場所でもあるのだ。
 長女ののぞみを演じるのは、朝ドラ「スカーレット」の好演が記憶に残る大島優子。今回も長女らしい落ち着きと風格が感じられ、もうアイドルからは完全に卒業の感ありだ。次女のかなえにはその演技力には定評がある門脇麦。今回はイルカのトレーナーということで、実際に調教の訓練を受けて撮影に臨んだそうで、そういう努力の積み重ねが演技にも活かされているに違いない。そして主人公ともいえる三女のたまえにはのん。「あまちゃん」で一躍時の人となるものの、一時芸能界から遠ざかっていたのだが、アニメ「この世界の片隅に」のすずさんの声役で再び注目され、今回のたまえ役で完全復活を遂げたともいえそうな好演ぶりだ。あまちゃんを彷彿とさせる天真爛漫ぶりと、決して幸せとはいえない境遇に暗い影を抱えるといった複雑な役を見事に演じきった。この三姉妹に母親役の寺島しのぶ、父親役の永瀬正敏、イズコ役の柴崎コウ等、芸達者達が絡む。更に柳葉敏郎、中村雅俊と何か東北出身のキャストが目につくなと思っていると、中盤にさしかかる頃大きな揺れが・・・。
 原作は「スカイハイ」シリーズでおなじみの高橋ツトム。今作はそのスピンオフ作品なのだが、誕生のきっかけとなったのが2011年に起こった東日本大震災。当時すでに旧知の仲だった北村龍平監督は、震災後数日間、高橋と一緒に過ごしていたそうだが、高橋が「天間荘の三姉妹」を発表してすぐ、映画化を思いついたそうだ。紙とペンで生み出された世界から、映像と音楽と役者の演技という映画でしかできない表現で、更に色鮮やかに変身させてみたいと。
 突然命を奪われた人たちの想いの魂が、現世に残された人たちに伝える術はないのか?!天間荘にやってきた人々は走馬灯で自分の人生を顧みながら生前にやりきれなかった思いを遂げようとする。そして納得して死の世界へ旅立っていく者もいれば、新たな希望を得て、苦しくとも現世で生きる道を選ぶ者もいる。「のぞみ・かなえ・たまえ」連なった三姉妹の名が示すように、魂となった人たちのメッセージを、現世に戻ったたまえが遺族達に伝える場面が秀逸だ。フィクションだとわかっていながらも、こうあってほしいと願う想いが繋がり、ラストののんの最高の笑顔で昇華する!!これは残されて生きる者たちに贈る、人生の応援歌だ。
 (HIRO)

監督:北村龍平
脚本:嶋田うれ葉、北村龍平
撮影:柳島克巳
原作:高橋ツトム「天間荘の三姉妹ースカイハイー」
出演:のん、門脇麦、大島優子、寺島しのぶ、柴咲コウ、三田佳子、永瀬正敏、高良健吾、山谷花純、萩原利久、平山浩行、柳葉敏郎、中村雅俊